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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  27

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     二 オットー

 ある日曜日に、クリストフは楽長から、小さな別荘で催される午餐《ごさん》へ招待を受けた。
 その別荘はトビアス・プァイフェルの所有で、町から一時間ばかりの距離にあった。

 クリストフはライン河の船に乗った。
 甲板で彼は、同じ年ごろの少年から慇懃《いんぎん》に席を譲られて、そのそばに腰をおろした。
 彼は別にそれを気にも止めなかった。
 しかし間もなく、隣席の少年からたえず観察されてるのを感じて、彼も向うの顔を見てやった。
 薔薇《ばら》色の豊頬《ほうきょう》をした金髪の少年で、頭髪を横の方できれいに分け、唇《くちびる》のあたりには産毛《うぶげ》の影が見えていた。
 一個の紳士らしく見せかけようとつとめていたが、大きな坊ちゃんらしい誠実な顔付をしていた。
 とくに念を入れた服装《みなり》をしていて、フランネルの服、派手な手袋、白の半靴《はんぐつ》、薄青の襟飾《えりかざり》を結《ゆわ》えていた。

 手には小さな鞭《むち》をもっていた。
 そして牝鶏《めんどり》のように首をつんとさして、ふり向きもせず横目で、クリストフをじろじろ眺めていた。
 やがてクリストフの方から眺められると、耳まで真赤になり、ポケットから新聞を引出し、もったいらしく読み耽《ふけ》ってるふりをした。
 しかし数分たつと、クリストフの帽子が落ちたのを、急いで拾い上げてやった。
 クリストフはあまり丁寧《ていねい》にされるのに驚いて、ふたたびその少年を眺めた。

 少年はまた真赤になった。
 クリストフは冷やかに礼を述べた。
 なぜなら彼は、そういうわざとらしい親切を好まなかったし、人からかまわれるのが嫌《きら》いだったから。
 けれども、内心嬉《うれ》しくないでもなかった。
 間もなく彼はそのことから心をそらした。
 注意は景色の方に奪われた。

 彼は長い間町から外へ出ることができないでいた。
 で彼は今、顔を吹く風や、船に当たる波の音や、広い水の面を、貪《むさぼ》るように眺めた。
 また両岸の移り変わる光景を眺めた。
 灰色の平たい渚《なぎさ》、半ば水に浸った柳の茂み、ゴチック式の塔や黒煙を吐く工場の煙筒などがそびえた都市、茶褐色《ちゃかっしょく》の葡萄《ぶどう》の蔓《つる》、伝説のある岩石。
 そして彼がだれはばからずうち喜んでいたので、隣席の少年は、声をつまらしながらおずおずと、うまく修復され蔦《つた》にからまれてる眼前の廃虚について、それぞれ歴史的の細かな事柄を説明しだした。
 その様子はあたかも自分自身に向かって述べてるかのようだった。

 クリストフは興味を覚えて、種々と尋ねた。
 少年は自分の知識を示すのが嬉《うれ》しくて、急いで答えた。
 そして口をきくたびごとに、「宮廷ヴァイオリニストさん」とクリストフを呼びながら話しかけた。
 「ではぼくをご存じですか。」とクリストフは尋ねた。
 「ええ知ってますとも。」と少年は無邪気な感嘆の調子で言った。
 クリストフの虚栄心はそれにそそられた。

 二人は話し合った。
 少年はしばしばクリストフを音楽会で見たことがあった。
 そして種々噂《うわさ》を聞いては心を動かしていた。
 彼はそれをクリストフには言わなかった。
 しかしクリストフはそれを感じて、快い驚きを覚えた。
 そういう感動した尊敬の調子で話しかけられるのに慣れていなかったのである。

 彼はなおつづけて、途中の土地の歴史について尋ねた。
 少年は覚えたてのあらゆる知識を述べたてた。
 クリストフはその知識に感心した。
 しかしそんなのはただ会話の口実にすぎなかった。
 二人がどちらも興味を覚えていたのは、たがいに知り合いになるということだった。
 彼らは率直にその問題に触れはしなかった。
 まず問いをかけては遠回しに探り合った。

 がついに彼らは心を決した。
 そしてクリストフは、この新しい友はオットー・ディーネルという名前で、町の豪商の息子であることを知った。
 もとより彼らは共通の知人をももっていた。
 そしてしだいに彼らの舌はほどけてきた。
 彼らは元気よく話しだした。
 そのうちに、船はクリストフが降りるべき町へ着いた。

 オットーもそこで降りた。
 その偶然の一致が彼らには不思議に思われた。
 午餐の時間が来るまでいっしょに少し歩こう、とクリストフは言い出した。
 彼らは野を横ぎって進んでいった。
 クリストフは幼い時からの知り合いででもあるかのように、親しくオットーの腕を取り、自分の将来の抱負を語った。
 彼は同じ年ごろの少年と交わることが非常に少なかったので、今、教育もあり育ちもりっぱで、自分に同情をもってる、その少年といっしょにいることに、言い知れぬ喜びを感じていた。

 時間は過ぎていった。
 クリストフはそれに気づかなかった。
 ディーネルは若い音楽家から信頼の念を示されてるのに得意になって、彼の午餐の時間がすでに来てるのを注意しかねていた。
 がついにそれを思い出させなければならないと考えた。
 しかしちょうど林の中の坂道にさしかかっていた時で、まず頂まで行かなければいけないとクリストフは答えた。
 そして二人が頂までやってゆくと、クリストフは草の上にねそべって、そこに一日を過ごそうとでも思ってるようだった。
 十五、六分もたってからディーネルは、クリストフが身を動かそうともしそうにないのを見て、またおずおずと言ってみた。

 「午餐は?」
 クリストフは頭の下に両手をやり長々と寝転んだまま、平然と言った。
 「いいさ!」
 それから彼はオットーの方を眺め、そのびっくりした顔付を見、そして笑いだした。
 「ここは実に気持がいい。」と彼は説明した。
 「僕は行かないよ。
  待ちぼうけさしてやるさ。」
 彼は半ば身を起こした。

 「君は急ぐのかい。
  そうじゃないだろう。
  どうだい、こうしようじゃないか。
  いっしょに食事をしよう。
  僕が料理屋を一軒知ってる。」
 ディーネルは定めし異議をもち出したかったろう。
 だれかに待たれてるからではないが、不意の決心がつきにくかったからである。
 彼はいったい几帳面《きちょうめん》なたちで、前からちゃんと予定を作っておく方だった。

 しかしクリストフは、ほとんど拒むことを許さないような調子で尋ねたのだった。
 で、ディーネルはそれに引きずり込まれてしまった。
 二人はまた話しだした。
 料理屋へはいると、彼らの熱情は消えた。
 どちらが昼食をおごるかという重大な問題に、二人とも気をもんだ。
 どちらも、自分が昼食をおごって体面を見せようと、ひそかに考えていた。
 ディーネルは金持ちだからという理由で、クリストフは貧乏だからという理由で。

 彼らはその考えを露《あら》わには示さなかった。
 しかしディーネルは献立を注文しながらわざと主人公らしい調子を使って、自分の権利を肯定しようとつとめた。
 クリストフはその心持を覚《さと》って、他のこった料理を注文しながら、上手に出た。
 彼はだれにも劣らず懐《ふところ》ぐあいのよいことを示そうとした。
 ディーネルはまた新たに策をめぐらして、葡萄《ぶどう》酒を選む役目を受持とうとした。
 クリストフはそれをじろりとにらみつけて、その料理屋にある最も高価な地産葡萄酒を一瓶《びん》、もって来さした。

 りっぱな食事に臨むと、彼らは気がひけた。
 もう話すこともなかった。
 窮屈そうなぎごちない様子で、こそこそ食べていた。
 するとにわかに、たがいに他人同士の間であることに気づいて、警戒し合った。
 会話を活気だたせようとつとめても、なんの甲斐《かい》もなく、じきに言葉が途絶えてしまった。
 初めの三十分ばかりは退屈でたまらなかった。
 が幸いにも、やがて食事の効果が現われてきた。
 二人の客はいくらか親しげに顔を見合わすようになった。

 とくにクリストフは、そういう御馳走《ごちそう》に慣れていなかったので、妙に饒舌《じょうぜつ》になった。
 彼は生活の困難を語った。
 オットーも心を開いて、自分もまた幸福ではないとうち明けた。
 彼は弱くて臆病《おくびょう》で、友人らに乗ぜられがちだった。
 彼らは彼を嘲《あざけ》り、皆の共通な態度を難ずることを彼に許さず、意地悪く彼をからかってばかりいた。
 クリストフは拳《こぶし》を握りしめて、自分の前で彼らがそんなことをしたら、思い知らしてやると言った。

 オットーもまた家の者から理解されていなかった。
 クリストフもそういう不幸を知りつくしていた。
 そして二人はたがいの不運を憐れみ合った。
 ディーネルの両親は、彼を商人にして父の後を継がせるつもりだった。
 しかし彼は詩人になることを望んでいた。
 たといシルレルのように町から逃げ出して、困苦と戦わなければならないとしても、詩人になるつもりだった。(それにもとより、父の財産はすっかり彼のものとなるはずだったし、その財産も僅少《きんしょう》なものではなかった。)
 彼は顔を赤らめながら、生の悲しみを歌った詩を書いたことがあると告白した。
 しかしクリストフがいかに願っても、それを誦《しょう》する気にはなりかねた。
 けれどもついに、感動のあまりむちゃくちゃな口調でその二、三句を聞かした。

 クリストフはそれを崇高なものだと思った。
 彼らはたがいの計画を言いかわした。
 将来は正劇《ドラマ》や歌曲集《リーデルクライス》などを書くことにした。
 彼らはたがいに賛嘆しあった。
 クリストフの音楽上の名声、その他彼の力、彼のやり方の豪胆さなどを、オットーは感嘆した。
 そしてクリストフは、オットーの優美さ、その態度の上品さ――すべてがこの世においては相対的である――またその博識などを、深く感じた。
 その知識こそ、彼に欠けてるもので、彼が渇望してるものであった。
 食事のためにぼんやりして、食卓に両肱《ひじ》をつき、しみじみとした眼をしながら、二人はたがいに語りまた聞いていた。

 午後は過ぎていった。
 出かけなければならなかった。
 オットーは最後にも一度勇気を出して、勘定書を取ろうとした。
 しかしクリストフから荒い一瞥《べつ》を受けると、そのまますくんでしまって、我《が》を通す望みも失った。
 クリストフはただ一つ心配なことがあった。
 持合せ以上の金額を請求されはすまいかということだった。
 もしそうなったら、オットーにうち明けるよりもむしろ、時計でも渡してしまうつもりだった。

 しかしそれまでにしないでもよかった。
 一月分の金を大方その食事に費やしてしまっただけで済んだ。
 二人はまた丘を降りていった。
 夕《ゆうべ》の影が樅《もみ》の林に広がり始めていた。
 林の梢《こずえ》はまだ薔薇《ばら》色の光の中に浮出していて、津波のような音をたてながら厳《おごそ》かに波動していた。
 一面に散り敷いた菫《すみれ》色の針葉が、足音を和らげた。

 二人とも黙っていた。
 クリストフは不思議なやさしい悶《もだ》えが心にしみ通るのを感じた。
 幸福であった。
 口をききたかった。
 悩みの情に胸苦しかった。
 彼はちょっと立止まった。
 オットーも同じく立止まった。
 すべてがひっそりしていた。
 蠅《はえ》の群がごく高く光の中に飛び回っていた。
 枯枝が一本落ちた。

 クリストフはオットーの手を握り、震える声で尋ねた。
 「僕の友だちになってくれない?」
 オットーはつぶやいた。
 「ああ。」
 彼らはたがいに手を握りしめた。
 胸は動悸《どうき》していた。
 顔を見合わすこともかろうじてであった。
 やがて彼らはまた歩き出した。
 二、三歩離れて歩いた。
 林の縁まで一言ももう言わなかった。

 彼らは自分自身と自分の不思議な感動とを恐れていた。
 足を早め、立止まりもせず、ついに木立の影から出てしまった。
 そこで彼らはほっと安心して、また手を取り合った。
 朗らかな夕暮に眺め入って、切れ切れの言葉で話した。
 船に乗ると、舳先《へさき》の方に、明るい影の中にすわって、なんでもない事柄を話そうとつとめた。
 しかし口にする言葉を耳には聞いていなかった。
 快い懶《ものう》さに浸されていた。
 話をする必要も、手を取り合う必要も、またたがいに見合わす必要さえも、感じなかった。
 たがいに接近していたのである。

 船がつく間ぎわに、彼らは次の日曜にまた会おうと約束した。
 クリストフはオットーを門口まで送って行った。
 ガスの光で、たがいにおずおずと微笑《ほほえ》んで、心をこめたさよならをつぶやき合った。
 別れるとほっとした。
 それほど彼らは、数時間の緊張した感情に、気疲れがしていたし、沈黙を破ろうとしてちょっとした言葉を発する骨折りに、気疲れがしていた。
 クリストフは夜の中を一人でもどって行った。
 「一人の友をもってる、一人の友をもってる!」と彼の心は歌っていた。

 何にも眼にはいらなかった。
 何にも耳に聞えなかった。
 他のことは何にも考えていなかった。
 家に帰るや否や、すぐに眠気がさしてきて、寝入ってしまった。
 しかしある固定観念に呼びさまされるかのように、夜中に二、三度眼をさました。
 そして「一人の友をもってる」とくり返しては、またすぐに眠りに入った。

 朝になると、すべてが夢のように彼には思われた。
 それが現実のことであるとみずから確かめるために、前日のことをごく些細《ささい》な点まで思い起こそうとした。
 音楽を教えてる間にも、なおその方にばかり気がひかれた。
 午後になってからも、管弦楽の試演の間非常にぼんやりしていたので、そこを出る時にはもう何をひいたのか覚えていなかった。

 家に帰ってみると、手紙が待ちうけていた。
 どこから来た手紙なのか考える要はなかった。
 自分の室にかけ込み、そこにとじこもって手紙を読んだ。
 水色の紙に、見分けにくい長めの丹念な手跡で書かれて、ごく几帳面《きちょうめん》な署名がついていた。

 親愛なるクリストフ君――わが畏敬《いけい》せる友、と呼んでよろしいでしょうか。
 ぼくは昨日の遊歩のことを非常に考えています。
 そしてぼくにたいする君の好意を、この上もなく感謝しています。
 君がされたすべてのことを、君の親切な言葉を、愉快な散歩を、りっぱな御馳走を、どんなにぼくはありがたく思っているでしょう!
 ただ、あの食事に君がたいへん金を費やされたことを、気にしているだけです。
 なんという素敵な一日だったでしょう!
 あの奇遇には何か天意がこもってはいなかったでしょうか。
 僕たちをいっしょに結びつけようと望んだのは、運命自身であるような気がします。
 日曜にまたお会いするのが、どんなにぼくは嬉しいでしょう!

 宮廷音楽長の午餐《ごさん》に欠けられたについて、君にあまり不愉快なことが起こらないようにと、僕は希望しています。
 僕のために困るようなことになられたら、僕はどんなにか心苦しいでしょう!
 親愛なるクリストフ君、僕は永遠に君の忠実なる僕《しもべ》にして友であります。

 オットー・ディーネル

 二伸――日曜には、どうぞ僕の家へ誘いには来ないでください。
     もしおさしつかえなかったら、御殿の園《シュロスガルテン》でお会いできれば仕合せです。

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