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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 24

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 ゴーリキイは、生きるために、そして人間であるためにたたかわなければならなかった。
 ロシアの人民みんながそのたたかいを経なければならなかったとおり。
 そしてゴーリキイの物語は、どれもみんなその人々の悲しみと善意ともがきの物語りである。

 これらの人々が自分たちの人生を変革し、人間らしく生きようと決心して、忍耐づよくつづけた闘争の過程で、ゴーリキイはペテロパウロフスクの要塞にいれられたし、イタリーへ亡命もしなければならなかった。
 ゴーリキイの人生はそっくり、正直で骨身惜しまず、人間のよりよい生活のために尽力したすべてのロシアの人々の歴史だった。
 伸子は、まだ冬だった頃、メトロポリタンのがらんとした室で中国の女博士のリンに会った帰り途、自分に向って感じた問いをゴーリキイ展からの帰り途ひときわ深く自分に向って感じた。
 伸子の主観ではいつも人生を大切に思って来たし、人々の運命について無関心でなかった。
 女として人として。

 だけれども、伸子は、誰とともに生き、誰のための作家なのだろう。
 伸子はどういう人達にとっていなくてはならない作家だと云えるだろう。
 伸子は、アストージェンカの角を横切りながら再び肩をちぢめるような思いで、写真について生意気に云った自分を思いかえした。
 伸子が、ひとなら、あのひとことで佐々伸子を憎悪したと思う。

 ああいう心持は、ソヴェトの人たちの現実にふれ合った心でもなければ、日本のおとなしく地味な人たちの素直な心に通じた心でもない。
 その刹那伸子は、また一つの写真を思い出した。ニキーチナ夫人ととった写真だった。
 その写真で伸子は真面目に自分の表情でレンズの方を見ながら、手ばかりは写真師に云われたとおり、一方の手を真珠の小さいネックレースに一寸かけ、一方の腕はニキーチナ夫人の肩のところから見える長椅子の背にかけて、両方の手がすっかりうつるようなポーズでとられているのを思い出した。
 その髯の濃い写真師は、伸子の手がふっくりしていて美しいと云い、ぜひそれを写したいと、伸子にそういうポーズをさせたのだった。
 ドイツ風というか、ソヴェト風というのか、濃く重い効果で仕上げられたその写真をみたとき、伸子は、ちらりときまりわるかった。
 幾分てれて、伸子はその写真をとどけて来てくれた内海厚に、
 「みんな気取ってしまったわねえ」
 と笑った。

 そこにうつっている秋山宇一も内海厚も素子も、みんなそれぞれに気取って、写真師に云われたとおりになっていることは事実だった。
 けれども、伸子のポーズでは、伸子の額のひろい顔だちの東洋風な重さや、内面から反映している圧力感とくらべて、平俗なおしゃれな手の置きかたの、不調和が目立った。
 手が美しいと写真師がほめたとき、伸子は、それが伸子の生活のどういうことを暗示するかまるで考えなかった。
 しかも、その手の美しさが、何かを創り何かを生んでいる手の節の高さや力づよさからではなく、ただふっくりとしていて滑らかだという標準から云われているとき。

 伸子には、ポリニャークが自分を掬い上げたことや、それに関連して自分が考えたあれこれのことが、写真のことをきっかけとしてちがった光で思いかえされた。
 これまで、伸子は自分が中流的な社会層の生れの女であることについて、決してそれをただ気のひけることと思わないで来た。
 気のひけるいわれはないことと考えて来た。
 そして、ポリニャークやケンペルが、プロレタリアートにこびることに反撥した。

 駒沢に暮していた時分「リャク」の若いアナーキストたちが来たときも、伸子は、そういう心の据えかたをかえなかった。
 それはそれとして間違っていなかったにしろ、いつとしらず自分の身についている上すべりした浅はかさのようなものは、伸子自身の趣味にさえもあわなかった。
 伸子は、そういうことを考えながら、並木道《ブリワール》の入口近くにある食料販売所へ入って行った。
 プロスト・クワシャの二つのコップとパンを買った。
 勘定場で金を支払い、計算機がガチャンと鳴って、つり銭の出されたのをうけとりながら、伸子は、自分が自分のそとに見えるすべての小市民的なこのみをきらいながら、同じそういうものが自分の内にあって、自分の知らないうち発露することについて、苦しむことを知らなかったことに心づくのであった。

 伸子は、住居のコンクリートの段々を、のぼりながら、しつこく自分をいためつけるように思いつづけた。
 こうしてソヴェトへ来るときにしろ、伸子は自分のまともに生きたいと思っている心持ばかりを自分に向って押し立てて来た。
 本当の本当のところはどうだったのだろう? 
 伸子が誰にとってもいなくてはならない人でなかったからこそ、来てしまえたのだと云えそうにも思えた。

 伸子は誰の妻でもなかった。
 どの子の母親でもなかった。
 女で文学の仕事をするという意味では、伸子の生れた階層の常識にとってさえ、伸子はいてもいなくてもいい存在だったかもしれない。
 そして、伸子の側からは絶えずある関心を惹かれているソヴェトの毎日にとっても、また故国で伸子とはちがった労働の生活をしているどっさりの人々にとっても。
 伸子は、その人々の苦闘ともがきの中にいなかったし、この社会に存在の場所を与えられずに生きつづけて来た者の一人ではない。
 その人たちの作家というには遠いものだったのだ。

 食事のために素子と会う約束の時間が来るまで、伸子はアストージェンカの室のディヴァンの上へよこになって考えこんでいた。
 作家生活の三十年を記念するマクシム・ゴーリキイ展は日がたつにつれ、全市的な催しになった。
 五月中旬には、五年ぶりでゴーリキイがソヴェトへ帰って来るという予告が出て、モスクワでは工場のクラブ図書室から本屋の店にまで、「マクシム・ゴーリキイの隅」がこしらえられた。
 伸子たちがもと住んでいたトゥウェルスカヤ通りの中央出版所のがらんとした飾窓にも、人体の内臓模型の上にゴーリキイの大きい肖像画がかかげられた。

        四

 そういう四月はじめの或る晩のことだった。
 伸子はアストージェンカの室の窓ぎわで、宵の街路を見おろしていた。
 そして街の騒音に耳を傾けていた。

 その日の昼ごろ、伸子が外出していた間に、伸子たちの室も窓の目貼りがとられた。
 帰って来てちっとも知らずにドアをあけた伸子は、室へふみこんだとき彼女に向ってなだれかかって来た騒音にびっくりした。
 雪のある間は静かすぎて寂寥さえ感じられた周囲だのに、窓の目ばりがとれたら、アストージェンカのその小さな室はまるでサウンド・ボックスの中にいるようになった。
 建物のすぐ前の小高いところにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの多角型の大伽藍《がらん》が大理石ずくめで建っているせいか、すべての音響が拡大されて伸子の室へとびこんで来た。
 電車は建物の表側のあっちを通って、そんなひどい音を出す交叉点らしいところもないのに、一台ごとにどこかでガッタン、ギーと軋む音を伸子たちの室へつたえた。
 その最中は話声さえ妨げられた。

 しかし伸子は春と一緒に騒々しくなった自分たちの室をきらう気にならなかった。
 見馴れた夜の広場の光景に、今夜から音が添って眺められる。
 それは、北の国の長い冬ごもりの季節のすぎた新鮮さだった。
 テーブルのところで、昼間買って来た「赤い処女地」を見ながら素子が、
 「きょう、ペレウェルゼフが、ゴーリキイについて一時間、特別講演をしたよ」
 と言い出した。
 「まあ、みんなよろこんだでしょう?」
 「ああ随分拍手だった、前ぶれなしだったから……」

 ペレウェルゼフ教授は、モスクワ大学でヨーロッパ文学史の講義をしていた。
 今学期は、ロマンティシズムの時代の部分で、素子はそれを聴講していた。
 伸子は素子の聴講第一日にくっついて行った。
 文科だのに段々教室で、一杯つまった男女学生がペレウェルゼフの講義している講壇の端にまであふれて腰かけていた。
 立って聴いている学生もあった。

 伸子にはききわけにくいその二時間ぶっとおしの講義が終って四十五分の質問になったとき、そこに風変りの光景がおこった。
 質問時間には、学生同士が自主的に討論することを許されているらしかった。
 教授のわきに立って、黒板にもたれるようにしてノートをとっていた数人の学生の中から、学生の質問にじかに解答したり「君の質問は先週の講義の中に話されている」と質問を整理したりした。
 段々教室の中頃の席に素子と並んでかけて居た伸子は、そのとき、講壇のわきにいる学生の一群の中でも特別よく発言する一人の学生に注意をひかれた。

 その学生は、ごく明るい金髪の、小柄な青年だった。
 そばかすのある顔を仰向けて段々教室につまった仲間たちを見まわしながらその学生は、ユーゴーについての質問に応答した。
 ロシア語ではHの音がGのように発音されるから、その色のさめた葡萄色のルバーシカを着た金髪で小柄な学生は、ギューゴー・ギューゴーとユーゴーを呼びながら、組合の会合で喋るときのとおり、手をふって話していた。
 その光景は親愛な気分が漲《みなぎ》りユーモラスでもあった。

 伸子はその情景を思いうかべながら、
 「それで何だって?」
 とペレウェルゼフ教授の話の内容を素子にきいた。
 「ゴーリキイの作品にあらわれているロマンティシズムについて話したんだけれどね」
 素子の声に不承知の響があった。
 「革命的なロマンティシズムと比較してね、ゴーリキイの多くの作品を貫くロマンティシズムは、概して小市民的な本質だというのさ。
 『母』だけが階級的なロマンティシズムをもっているっていうわけなんだそうだ」
 素子のタバコの煙が、スタンドの緑色のかげのなかを流れている。

 伸子は、
 「ふーん」
 と云った。
 そう云えば、伸子たちがモスクワ芸術座で見た「どん底」では、巡礼のルカの役をリアリスティックに解釈していた。
 「どん底」の人々に慰めや希望を与えるものとしてではなく、現実にはどん底生活にかがまってそこから出ようともしないのに、架空なあこがれ話をくりかえして、不平な人々をなお無力なものにしてゆくお喋りの主として、モスクヴィンのルカは演じられた。
 とくにそのことが、プログラムに解説されていた。

 演出の上でルカがそのように理解されたことは、「どん底」の悲惨に一層リアルな奥ゆきを加えて観衆に訴えた。
 少くとも伸子の印象はそうだった。
 「ゴーリキイのロマンティシズムが或るとき過剰だったということは、もちろんわかるさ。
  チェホフが云ったとおりに。
  しかしね、『母』だけが革命的ロマンティシズムで立派であとは小市民的なロマンティシズムだって、そんなに簡単にきめられるかい?」

 素子は、何かに反抗するような眼つきをして云った。
 「『母』のテーマは革命的であり、英雄的である。
  したがって、そこにあるのは革命的ロマンティシズムである。
   それだけのもんかね」
 京都風にうけ口な唇にむっとした表情をうかべて素子はおこったように、
 「メチターってどういうものなのさ。
  え? 人間の心に湧くメチターってどういうものなのさ」
 
 憧れ、待望をあらわすその言葉を、響そのものの調子が心に訴えて来るロシア語で、つよく、せまるように素子は云った。
 きょう目貼りのとれた窓からきこえるようになった早春の夜の物音が時々のぼって来て、月のない空にフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根がぼんやり浮んで見えている。
 しばらくだまっていた素子は、苦しそうな反感をふくんだ表情で、
 「わたしはここのものの考えかたの、こういうところは嫌いだ」
 と云った。
 
 「何でも、ああか、こうかにわける。
  分けて比べて、一方には価値があって、一方は価値がない。
  そうきめちまうようなところが気にくわない」
 素子は、抑えていた感情にあおられたようにつづけた。
 「ゴーリキイにしろ一人の人間じゃないか。
  一人の人間である作家が書いたものに、ぴょこんと、一つだけ革命的ロマンティシズムがあって、ほかはそうでないなんてあり得ないじゃないか。
  どっかで、きっとつながっているんだ。
  そのつながったどっかこそ人間と文学の問題じゃないか、ねえ。
  社会主義ってものにしろ、そういうところに急所があるんだろうとわたしは思いますがね」
 おしまいを素子は皮肉に結んだ。

 素子がこれだけ集注した感情で、話すのはめずらしいことだった。
 伸子は、素子のいおうとするところを理解した。
 けれども、語学のできない伸子は、素子とちがってすべてがそうであるとおり目で見て来たゴーリキイ展からあんまり自分に照らし合わせて考えさせられる点をどっさりうけとって来ていた。
 こういうことは、伸子と素子との間でよくあった。
 ソヴェトにおけるゴーリキイの芸術についての評価ということになると、伸子には伸子らしく目で見えることから疑問がなくはなかった。

 伸子たちがモスクワへ来て間もない頃リテラトゥールナヤ・ガゼータ(文学新聞)にゴーリキイの漫画がでたことがあった。
 乳母のかぶるようなふちのぴらぴらした白いカナキン帽をかぶった老年のゴーリキイが、揺籃に入れた「幼年時代」をゆすぶっているところだった。
 伸子はその漫画に好感がもてなかった。
 その意味で印象にのこった。

 今年になってからも何かの雑誌にゴーリキイの漫画があって、それではゴーリキイが女のスカートをはかせられていた。
 スカートをはいたゴーリキイが、炉ばたにかがみこんで「四十年」という大鍋をゆるゆるかきまわしている絵だった。
 「ラップ」と略称されているロシアのプロレタリア作家同盟の人たちのこころもちは、ゴーリキイに対してこういう表現をするところもあるのかと、伸子は少しこわいように思ってじっとその漫画を見た。
 この頃になってルナチャルスキーの評論をはじめ、マクシム・ゴーリキイの作家生活三十年を記念し、ロシアの人民の解放の歴史とその芸術に与えたゴーリキイの功績が再評価されるようになると、文学新聞をふくめてすべての出版物のゴーリキイに対しかたが同じ方向をとった。

 この間の日曜の晩、アルバート広場で買った「プロジェクトル」にも漫画に描かれたマクシム・ゴーリキイという一頁があった。
 それはどれも「小市民」や「どん底」の作者としてゴーリキイが人々の注目をあつめはじめた時代にペテルブルグ・ガゼータなどに出たものだった。
 一つの漫画には、例の黒いつば広帽をかぶってルバーシカを着たゴーリキイがバラライカを弾きながら歌っている記念像の台座のぐるりを、三人のロシアの浮浪人が輪おどりしていて、その台座の石には「マクシム・ゴーリキイに。
 感謝する浮浪人たちより」とかかれている。

 ゴーリキイの似顔へ、いきなり大きなはだしの足をくっつけた絵の下には「浮浪人の足を讚美する頭」とかかれている。
 ゴーリキイきのこという大きな似顔きのこのまわりから、小さくかたまって生えだしているいくつもの作家の顔。
 ゴーリキイが「小市民」のなかで苦々しい嫌悪を示した当時の小市民やインテリゲンツィアが、「やっぱり、これも読者大衆」としてゴーリキイを喝采しているのを見て、げんこをにぎっていらついているゴーリキイ。
 それらはみんな一九〇〇年頃の漫画であった。

 「プロジェクトル」のゴーリキイ特輯号のために新しく描かれた漫画では、大きな鼻の穴を見せ、大きな髭をたらした背広姿の年をとったゴーリキイが、彼にむかって手桶のよごれ水をぶっかけている女や竪琴《たてごと》を小脇にかかえながら片手でゴーリキイの足元に繩わなをしかけようとしている男、酒瓶とペンとを両手にふりまわしてわめいている男たちの群のなかに、吸いかけの巻煙草を指に、巨人のように立っているところが描かれている。
 わるさをしている小人どもは、革命後フランスへ亡命している象徴派の詩人や作家たちの似顔らしかった。
 「国外の白色亡命者と何のかかわりもないマクシム・ゴーリキイ」について数行の説明がついていた。
 イワン・ブーニンは、ゴーリキイが結核だということさえ捏造してゴシップを書きちらした。

 しかし、実際にはゴーリキイが結核を患ったことなんかはないのだという意味がかかれている。
 ゴーリキイが一九二三年にレーニンのすすめでソレントへ行ったとき、理由は彼の療養ということだったと伸子も思っていた。
 「プロジェクトル」はそれを否定している。
 ゴーリキイは、ソレントで、その乳母帽子をかぶって描かれていた自分の絵を見ただろうし、スカートをはいて「四十年」の鍋をかきまわしている婆さんとして描き出されている自分をも眺めたことだろう。
 そして、今は巨人として描かれている自分も。

 肺病だった、肺病でなかった、今更の議論も、ゴーリキイの心情に何と映ることだろう。
 伸子には、そういうことが、切実に思いやられた。
 ゴーリキイはソヴェトへ帰って来ようとしている。
 ソヴェトへ帰って来ようとしているゴーリキイの心の前には、どんな絵があるだろう。
 乳母帽子やスカートをはいた自分の絵でないことは明らかだった。
 ゴーリキイの心は、じかに、数千万のソヴェトの人々のところへ帰って行く自分を思っているにちがいなかった。
 伸子はそう思ってゴーリキイの年をとり、嘘のない彼の眼を写真の上に見るのだった。

 その晩、九時すぎてから伸子が廊下へ出たら、伸子たちの室と台所との間の廊下で、ニューラが妙に半端なかっこうでいるのが目についた。
 伸子は、自分の行こうとしているところへ、ニューラも行きたかったのかと思って、
 「行くの?」
 手洗所のドアをさした。どこからか帰ったばかりのように毛糸のショールを頭にかぶっているニューラは、あわてて、
 「いいえ。
  いいえ」
 と首をふり、台所へ消えた。

 伸子が出て来たとき、台所のところからまたニューラの頭がちょいとのぞいた。
 どうしたのかしらと思いながら、伸子がそのまま室へ入ろうとするとうしろから、
 「お嬢さん《バリシュニヤー》!」
 すがるようなニューラのよび声がした。
 伸子は少しおどろきながら台所の前まで戻って行った。
 「どうしたの? ニューラ」
 「邪魔して御免なさい」
 「かまわないわ。
  でも、どうかしたの? 
  気分がわるいの?」
 「いいえ。いいえ」

 ニューラはまたあわてたように首を左右にふりながら、浅黒い、鼻すじの高い半分ギリシア人の顔の中から、黒い瞳で当惑したように伸子を見つめた。
 「きいて下さい、お嬢さん《バリシュニヤー》、わたし洗濯ものを干さなけりゃならないんです。
  奥さん《ハジヤイカ》が帰るまでに干しておかなけりゃならないんです。
  そう云って出て行ったんです」
 洗濯ものを干すことで、どうしてニューラがそんなにまごつかなければならないのか伸子にわからなかった。
 「ニューラ、あなたいつも自分で干してるんでしょう? 
  それとも奥さんがほしているの?」
 「わたしが干しているんです。
  でも、わたし、こわいんです」

 わたし、こわいんですと云いながら、ニューラはショールの下で本当にそこにこわいものが見えているように見開いた眼をした。
 黒海沿岸のどこかの小さい町で生れた十七歳のニューラは、ほとんど教育をうけていなかった。
 ソヴェトの娘としての心持にもめざまされていなかった。
 伸子たちが、ヨシミとサッサという二人の名を教えても、ニューラはその方がよびいいように昔風に二人をお嬢さん《バリシュニヤー》とよんだ。
 ルイバコフを主人《ハジヤイン》、細君を奥さん《ハジヤイカ》とよんでいる。

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