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名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目漱石  7

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 行くときめたについては、三四郎に頼みがあると言いだした。
 万一病気のための電報とすると、今夜は帰れない。
 すると留守《るす》が下女一人になる。
 下女が非常に臆病《おくびょう》で、近所がことのほかぶっそうである。
 来合わせたのがちょうど幸いだから、あすの課業にさしつかえがなければ泊ってくれまいか、もっともただの電報ならばすぐ帰ってくる。

 まえからわかっていれば、例の佐々木でも頼むはずだったが、今からではとても間に合わない。
 たった一晩のことではあるし、病院へ泊るか、泊らないか、まだわからないさきから、関係もない人に、迷惑をかけるのはわがまますぎて、しいてとは言いかねるが。
 むろん野々宮はこう流暢《りゅうちょう》には頼まなかったが、相手の三四郎が、そう流暢に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知してしまった。

 下女が御飯はというのを、「食わない」と言ったまま、三四郎に「失敬だが、君一人で、あとで食ってください」と夕飯まで置き去りにして、出ていった。
 行ったと思ったら暗い萩《はぎ》の間から大きな声を出して、
 「ぼくの書斎にある本はなんでも読んでいいです。
  別におもしろいものもないが、何か御覧なさい。
  小説も少しはある」
 と言ったまま消えてなくなった。
 椽側まで見送って三四郎が礼を述べた時は、三坪《みつぼ》ほどな孟宗藪の竹が、まばらなだけに一本ずつまだ見えた。

 まもなく三四郎は八畳敷の書斎のまん中で小さい膳《ぜん》を控えて、晩飯を食った。
 膳の上を見ると、主人の言葉にたがわず、かのひめいちがついている。
 久しぶりで故郷《ふるさと》の香をかいだようでうれしかったが、飯はそのわりにうまくなかった。
 お給仕に出た下女の顔を見ると、これも主人の言ったとおり、臆病にできた目鼻であった。
 飯が済むと下女は台所へ下がる。

 三四郎は一人になる。
 一人になっておちつくと、野々宮君の妹の事が急に心配になってきた。
 危篤《きとく》なような気がする。
 野々宮君の駆けつけ方がおそいような気がする。
 そうして妹がこのあいだ見た女のような気がしてたまらない。
 三四郎はもう一ぺん、女の顔つきと目つきと、服装とを、あの時あのままに、繰り返して、それを病院の寝台《ねだい》の上に乗せて、そのそばに野々宮君を立たして、二、三の会話をさせたが、兄ではもの足らないので、いつのまにか、自分が代理になって、いろいろ親切に介抱していた。

 ところへ汽車がごうと鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。
 根太《ねだ》のぐあいか、土質のせいか座敷が少し震えるようである。
 三四郎は看病をやめて、座敷を見回した。
 いかさま古い建物と思われて、柱に寂《さび》がある。その代り唐紙《からかみ》の立てつけが悪い。
 天井はまっ黒だ。
 ランプばかりが当世に光っている。

 野々宮君のような新式の学者が、もの好きにこんな家《うち》を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。
 もの好きならば当人の随意だが、もし必要にせまられて、郊外にみずからを放逐したとすると、はなはだ気の毒である。
 聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか、大学からもらっていないそうだ。
 だからやむをえず私立学校へ教えにゆくのだろう。
 それで妹に入院されてはたまるまい。
 大久保へ越したのも、あるいはそんな経済上のつごうかもしれない。

 宵《よい》の口ではあるが、場所が場所だけにしんとしている。
 庭の先で虫の音《ね》がする。
 ひとりですわっていると、さみしい秋の初めである。
 その時遠い所でだれか、
 「ああああ、もう少しの間だ」
 と言う声がした。
 方角は家の裏手のようにも思えるが、遠いのでしっかりとはわからなかった。
 また方角を聞き分ける暇もないうちに済んでしまった。
 けれども三四郎の耳には明らかにこの一句が、すべてに捨てられた人の、すべてから返事を予期しない、真実の独白《ひとりごと》と聞こえた。

 三四郎は気味が悪くなった。
 ところへまた汽車が遠くから響いて来た。
 その音が次第に近づいて孟宗藪の下を通る時には、前の列車よりも倍も高い音を立てて過ぎ去った。
 座敷の微震がやむまでは茫然《ぼうぜん》としていた三四郎は、石火《せっか》のごとく、さっきの嘆声と今の列車の響きとを、一種の因果《いんが》で結びつけた。
 そうして、ぎくんと飛び上がった。
 その因果は恐るべきものである。
 三四郎はこの時じっと座に着いていることのきわめて困難なのを発見した。
 背筋から足の裏までが疑惧《ぎぐ》の刺激でむずむずする。
 立って便所に行った。

 窓から外をのぞくと、一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。
 それでも竹格子《たけごうし》のあいだから鼻を出すくらいにして、暗い所をながめていた。
 すると停車場《ステーション》の方から提灯《ちょうちん》をつけた男がレールの上を伝ってこっちへ来る。
 話し声で判じると三、四人らしい。
 提灯の影は踏切から土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声だけになった。
 けれども、その言葉は手に取るように聞こえた。
 「もう少し先だ」
 足音は向こうへ遠のいて行く。

 三四郎は庭先へ回って下駄を突っ掛けたまま孟宗藪の所から、一間余の土手を這《は》い降りて、提灯のあとを追っかけて行った。
 五、六間行くか行かないうちに、また一人土手から飛び降りた者がある。
 「轢死《れきし》じゃないですか」
 三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。
 そのうち黒い男は行き過ぎた。
 これは野々宮君の奥に住んでいる家の主人《あるじ》だろうと、後をつけながら考えた。

 半町ほどくると提灯が留まっている。
 人も留まっている。
 人は灯《ひ》をかざしたまま黙っている。
 三四郎は無言で灯の下を見た。
 下には死骸《しがい》が半分ある。
 汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛《はすか》けの胴を置き去りにして行ったのである。
 顔は無傷である。
 若い女だ。
 三四郎はその時の心持ちをいまだに覚えている。

 すぐ帰ろうとして、踵《きびす》をめぐらしかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。
 土手を這《は》い上がって、座敷へもどったら、動悸《どうき》が打ち出した。
 水をもらおうと思って、下女を呼ぶと、下女はさいわいになんにも知らないらしい。
 しばらくすると、奥の家で、なんだか騒ぎ出した。
 三四郎は主人が帰ったんだなと覚《さと》った。
 やがて土手の下ががやがやする。
 それが済むとまた静かになる。
 ほとんど堪え難いほどの静かさであった。

 三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の顔が見える。
 その顔と「ああああ……」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という丈夫《じょうぶ》そうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも暗闇《くらやみ》へ浮き出してゆきそうに思われる。
 三四郎は欲も得もいらないほどこわかった。
 ただごうという一瞬間である。
 そのまえまではたしかに生きていたに違いない。

 三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。
 あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。
 つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。
 世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味《おもしろみ》があるかもしれない。
 どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。

 批評家である。
 三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。
 使ってみて自分でうまいと感心した。
 のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。
 あのすごい死顔を見るとこんな気も起こる。
 三四郎は部屋のすみにあるテーブルと、テーブルの前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、その本箱の中に行儀よく並べてある洋書を見回して、この静かな書斎の主人は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思った。
 光線の圧力を研究するために、女を轢死《れきし》させることはあるまい。

 主人の妹は病気である。
 けれども兄の作った病気ではない。
 みずからかかった病気である。
 などとそれからそれへと頭が移ってゆくうちに、十一時になった。
 中野行の電車はもう来ない。
 あるいは病気が悪いので帰らないのかしらと、また心配になる。
 ところへ野々宮から電報が来た。
 妹無事、あす朝帰るとあった。

 安心して床にはいったが、三四郎の夢はすこぶる危険であった。
 轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。
 ただ三四郎を安心させるために電報だけ掛けた。
 妹無事とあるのは偽りで、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。
 そうしてその妹はすなわち三四郎が池の端《はた》で会った女である。

 三四郎はあくる日例になく早く起きた。
 寝つけない所に寝た床のあとをながめて、煙草を一本のんだが、ゆうべの事は、すべて夢のようである。
 椽側へ出て、低い廂《ひさし》の外にある空を仰ぐと、きょうはいい天気だ。
 世界が今朗らかになったばかりの色をしている。

 飯を済まして茶を飲んで、椽側に椅子を持ち出して新聞を読んでいると、約束どおり野々宮君が帰って来た。
 「昨夜、そこに轢死があったそうですね」と言う。
 停車場か何かで聞いたものらしい。
 三四郎は自分の経験を残らず話した。
 「それは珍しい。
  めったに会えないことだ。
  ぼくも家におればよかった。
  死骸はもう片づけたろうな。
  行っても見られないだろうな」
 「もうだめでしょう」と一口答えたが、野々宮君ののん気なのには驚いた。
 三四郎はこの無神経をまったく夜と昼の差別から起こるものと断定した。
 光線の圧力を試験する人の性癖が、こういう場合にも、同じ態度で表われてくるのだとはまるで気がつかなかった。
 年が若いからだろう。

 三四郎は話を転じて、病人のことを尋ねた。
 野々宮君の返事によると、はたして自分の推測どおり病人に異状はなかった。
 ただ五《ご》、六日《ろくんち》以来行ってやらなかったものだから、それを物足りなく思って、退屈紛れに兄を釣り寄せたのである。
 きょうは日曜だのに来てくれないのはひどいと言って怒っていたそうである。
 それで野々宮君は妹をばかだと言っている。
 本当にばかだと思っているらしい。
 この忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だというのである。

 けれども三四郎にはその意味がほとんどわからなかった。
 わざわざ電報を掛けてまで会いたがる妹なら、日曜の一晩や二晩をつぶしたって惜しくはないはずである。
 そういう人に会って過ごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮らす月日はむしろ人生に遠い閑生涯《かんしょうがい》というべきものである。
 自分が野々宮君であったならば、この妹のために勉強の妨害をされるのをかえってうれしく思うだろう。
 くらいに感じたが、その時は轢死の事を忘れていた。

 野々宮君は昨夜よく寝られなかったものだからぼんやりしていけないと言いだした。
 きょうはさいわい昼から早稲田《わせだ》の学校へ行く日で、大学のほうは休みだから、それまで寝ようと言っている。
 「だいぶおそくまで起きていたんですか」と三四郎が聞くと、じつは偶然、高等学校で教わったもとの先生の広田という人が妹の見舞いに来てくれて、みんなで話をしているうちに、電車の時間に遅れて、つい泊ることにした。
 広田の家《うち》へ泊るべきのを、また妹がだだをこねて、ぜひ病院に泊れと言って聞かないから、やむをえず狭い所へ寝たら、なんだか苦しくって寝つかれなかった。
 どうも妹は愚物《ぐぶつ》だ。
 とまた妹を攻撃する。

 三四郎はおかしくなった。
 少し妹のために弁護しようかと思ったが、なんだか言いにくいのでやめにした。
 その代り広田さんの事を聞いた。
 三四郎は広田さんの名前をこれで三、四へん耳にしている。
 そうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名をつけている。
 それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑われたのもやはり広田先生にしてある。
 ところが今承ってみると、馬の件ははたして広田先生であった。
 それで水蜜桃も必ず同先生に違いないと決めた。
 考えると、少し無理のようでもある。

 帰る時に、ついでだから、午前中に届けてもらいたいと言って、袷《あわせ》を一枚病院まで頼まれた。
 三四郎は大いにうれしかった。
 三四郎は新しい四角な帽子をかぶっている。
 この帽子をかぶって病院に行けるのがちょっと得意である。
 さえざえしい顔をして野々宮君の家を出た。
 御茶の水で電車を降りて、すぐ俥《くるま》に乗った。
 いつもの三四郎に似合わぬ所作《しょさ》である。

 威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科のベルが鳴り出した。
 いつもならノートとインキ壺《つぼ》を持って、八番の教室にはいる時分である。
 一、二時間の講義ぐらい聞きそくなってもかまわないという気で、まっすぐに青山内科の玄関まで乗りつけた。
 上がり口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当たりを左へ曲がると東側の部屋《へや》だと教わったとおり歩いて行くと、はたしてあった。
 黒塗りの札に野々宮よし子と仮名《かな》で書いて、戸口に掛けてある。

 三四郎はこの名前を読んだまま、しばらく戸口の所でたたずんでいた。
 いなか物だからノックするなぞという気の利《き》いた事はやらない。
 「この中にいる人が、野々宮君の妹で、よし子という女である」
 三四郎はこう思って立っていた。
 戸をあけて顔が見たくもあるし、見て失望するのがいやでもある。
 自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似ていないのだから困る。
 うしろから看護婦が草履《ぞうり》の音をたてて近づいて来た。
 三四郎は思い切って戸を半分ほどあけた。

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