ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目漱石  5

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
       三

 学年は九月十一日に始まった。

 三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義の時間割りがあるばかりで学生は一人《ひとり》もいない。
 自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。

 講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。
 すましたものである。
 でも、どの部屋《へや》を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。
 三四郎はなるほどと思って事務室を出た。

 裏へ回って、大きな欅《けやき》の下から高い空をのぞいたら、普通の空よりも明らかに見えた。
 熊笹《くまざさ》の中を水ぎわへおりて、例の椎《しい》の木の所まで来て、またしゃがんだ。
 あの女がもう一ぺん通ればいいくらいに考えて、たびたび丘の上をながめたが、丘の上には人影もしなかった。

 三四郎はそれが当然だと考えた。
 けれどもやはりしゃがんでいた。
 すると、午砲《どん》が鳴ったんで驚いて下宿へ帰った。

 翌日は正八時に学校へ行った。
 正門をはいると、とっつきの大通りの左右に植えてある銀杏《いちょう》の並木が目についた。
 銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。
 その屋根のうしろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。
 日は正面にある。
 三四郎はこの奥行のある景色《けしき》を愉快に感じた。

 銀杏の並木がこちら側で尽きる右手には法文科大学がある。
 左手には少しさがって博物の教室がある。
 建築は双方ともに同じで、細長い窓の上に、三角にとがった屋根が突き出している。
 その三角の縁に当る赤煉瓦《あかれんが》と黒い屋根のつぎめの所が細い石の直線でできている。
 そうしてその石の色が少し青味を帯びて、すぐ下にくるはでな赤煉瓦に一種の趣を添えている。
 そうしてこの長い窓と、高い三角が横にいくつも続いている。

 三四郎はこのあいだ野々宮君の説を聞いてから以来、急にこの建物をありがたく思っていたが、けさは、この意見が野々宮君の意見でなくって、初手《しょて》から自分の持説であるような気がしだした。
 ことに博物室が法文科と一直線に並んでいないで、少し奥へ引っ込んでいるところが不規則で妙だと思った。
 こんど野々宮君に会ったら自分の発明としてこの説を持ち出そうと考えた。

 法文科の右のはずれから半町ほど前へ突き出している図書館にも感服した。
 よくわからないがなんでも同じ建築だろうと考えられる。
 その赤い壁につけて、大きな棕櫚《しゅろ》の木を五、六本植えたところが大いにいい。
 左手のずっと奥にある工科大学は封建時代の西洋のお城から割り出したように見えた。

 まっ四角にできあがっている。
 窓も四角である。
 ただ四すみと入口が丸い。
 これは櫓《やぐら》を形取ったんだろう。
 お城だけにしっかりしている。
 法文科みたように倒れそうでない。
 なんだか背《せい》の低い相撲取《すもうと》りに似ている。

 三四郎は見渡すかぎり見渡して、このほかにもまだ目に入らない建物がたくさんあることを勘定に入れて、どことなく雄大な感じを起こした。
 「学問の府はこうなくってはならない。
  こういう構えがあればこそ研究もできる。
  えらいものだ」
 三四郎は大学者になったような心持ちがした。

 けれども教室へはいってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。
 その代り学生も出て来ない。
 次の時間もそのとおりであった。
 三四郎は癇癪《かんしゃく》を起こして教場を出た。
 そうして念のために池の周囲《まわり》を二へんばかり回って下宿へ帰った。

 それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。
 三四郎がはじめて教室へはいって、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の心持ちはじつに殊勝《しゅしょう》なものであった。
 神主《かんぬし》が装束《しょうぞく》を着けて、これから祭典でも行なおうとするまぎわには、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。
 じっさい学問の威厳に打たれたに違いない。
 それのみならず、先生がベルが鳴って十五分立っても出て来ないのでますます予期から生ずる敬畏《けいい》の念を増した。

 そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、流暢《りゅうちょう》な英語で講義を始めた。
 三四郎はその時 answer《アンサー》 という字はアングロ・サクソン語の and-swaru《アンド・スワル》 から出たんだということを覚えた。
 それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。
 いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。

 その次には文学論の講義に出た。
 この先生は教室にはいって、ちょっと黒板《ボールド》をながめていたが、黒板の上に書いてある Geschehen《ゲシェーヘン》 という字と Nachbild《ナハビルド》 という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。
 三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。
 先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。
 三四郎はこれも大事に手帳に筆記しておいた。

 午後は大教室に出た。
 その教室には約七、八十人ほどの聴講者がいた。
 したがって先生も演説口調《くちょう》であった。
 砲声一発浦賀《うらが》の夢を破ってという冒頭《ぼうとう》であったから、三四郎はおもしろがって聞いていると、しまいにはドイツの哲学者の名がたくさん出てきてはなはだ解《げ》しにくくなった。

 机の上を見ると、落第という字がみごとに彫ってある。
 よほど暇に任せて仕上げたものとみえて、堅い樫《かし》の板をきれいに切り込んだてぎわは素人《しろうと》とは思われない。
 深刻のできである。

 隣の男は感心に根気よく筆記をつづけている。
 のぞいて見ると筆記ではない。
 遠くから先生の似顔をポンチにかいていたのである。
 三四郎がのぞくやいなや隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。
 絵はうまくできているが、そばに久方《ひさかた》の雲井《くもい》の空の子規《ほととぎす》と書いてあるのは、なんのことだか判じかねた。
 
 講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖《ほおづえ》を突いて、正門内の庭を見おろしていた。
 ただ大きな松や桜を植えてそのあいだに砂利《じゃり》を敷いた広い道をつけたばかりであるが、手を入れすぎていないだけに、見ていて心持ちがいい。
 野々宮君の話によるとここは昔はこうきれいではなかった。

 野々宮君の先生のなんとかいう人が、学生の時分馬に乗って、ここを乗り回すうち、馬がいうことを聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。
 下駄の歯が鐙《あぶみ》にはさまる。
 先生はたいへん困っていると、正門前の喜多床《きたどこ》という髪結床《かみゆいどこ》の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。
 その時分には有志の者が醵金《きょきん》して構内に厩《うまや》をこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼っておいた。

 ところが先生がたいへんな酒飲みで、とうとう三頭のうちのいちばんいい白い馬を売って飲んでしまった。
 それはナポレオン三世時代の老馬であったそうだ。
 まさかナポレオン三世時代でもなかろう。

 しかしのん気な時代もあったものだと考えていると、さっきポンチ絵をかいた男が来て、
 「大学の講義はつまらんなあ」と言った。
 三四郎はいいかげんな返事をした。
 じつはつまるかつまらないか、三四郎にはちっとも判断ができないのである。
 しかしこの時からこの男と口をきくようになった。

 その日はなんとなく気が鬱《うっ》して、おもしろくなかったので、池の周囲《まわり》を回ることは見合わせて家《うち》へ帰った。
 晩食後筆記を繰り返して読んでみたが、べつに愉快にも不愉快にもならなかった。

 母に言文一致の手紙を書いた。
 学校は始まった。
 これから毎日出る。
 学校はたいへん広いいい場所で、建物もたいへん美しい。
 まん中に池がある。
 池の周囲を散歩するのが楽しみだ。
 電車には近ごろようやく乗り馴れた。
 何か買ってあげたいが、何がいいかわからないから、買ってあげない。
 ほしければそっちから言ってきてくれ。
 今年《ことし》の米はいまに価《ね》が出るから、売らずにおくほうが得だろう。
 三輪田のお光さんにはあまり愛想《あいそ》よくしないほうがよかろう。
 東京へ来てみると人はいくらでもいる。
 男も多いが女も多い。
 というような事をごたごた並べたものであった。

 手紙を書いて、英語の本を六、七ページ読んだらいやになった。
 こんな本を一冊ぐらい読んでもだめだと思いだした。
 床を取って寝ることにしたが、寝つかれない。
 不眠症になったらはやく病院に行って見てもらおうなどと考えているうちに寝てしまった。

 あくる日も例刻に学校へ行って講義を聞いた。
 講義のあいだに今年の卒業生がどこそこへいくらで売れたという話を耳にした。
 だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校の地位を競争している噂《うわさ》だなどと話している者があった。
 三四郎は漠然《ばくぜん》と、未来が遠くから眼前に押し寄せるようなにぶい圧迫を感じたが、それはすぐ忘れてしまった。

 むしろ昇之助《しょうのすけ》がなんとかしたというほうの話がおもしろかった。
 そこで廊下で熊本出の同級生をつかまえて、昇之助とはなんだと聞いたら、寄席《よせ》へ出る娘義太夫《ぎだゆう》だと教えてくれた。
 それから寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあるということまで言って聞かせたうえ、今度の土曜にいっしょに行こうと誘ってくれた。
 よく知ってると思ったら、この男はゆうべはじめて、寄席へ、はいったのだそうだ。
 三四郎はなんだか寄席へ行って昇之助が見たくなった。

 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒《よどみけん》という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。
 淀見軒という所は店で果物《くだもの》を売っている。
 新しい普請であった。
 ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。
 三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。
 帰り道に青木堂《あおきどう》も教わった。
 やはり大学生のよく行く所だそうである。

 赤門をはいって、二人《ふたり》で池の周囲を散歩した。
 その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉《こいずみ》八雲《やくも》先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。
 なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、
 「そりゃあたりまえださ。
  第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。
  話せるものは一人もいやしない」
 と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた。

 この男は佐々木《ささき》与次郎《よじろう》といって、専門学校を卒業して、今年また選科へはいったのだそうだ。
 東片町《ひがしかたまち》の五番地の広田《ひろた》という家《うち》にいるから、遊びに来いと言う。
 下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答えた。

 それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義《りちぎ》に講義を聞いた。
 必修課目以外のものへも時々出席してみた。
 それでも、まだもの足りない。
 そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。
 しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。
 一か月と続いたのは少しもなかった。

 それでも平均一週に約四十時間ほどになる。
 いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。
 三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。
 しかるにもの足りない。
 三四郎は楽しまなくなった。

 ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。
 三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。
 「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。
 三四郎は何か寓意《ぐうい》でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、
 「本当の電車か」と聞き直した。

 その時与次郎はげらげら笑って、
 「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
 「なぜ」
 「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。
  外へ出て風を入れるさ。
  その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」

 その日の夕方、与次郎は三四郎を拉《らっ》して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで降りて、
 「どうだ」と聞いた。
 次に大通りから細い横町へ曲がって、平《ひら》の家《や》という看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。
 そこの下女はみんな京都弁を使う。
 はなはだ纏綿《てんめん》している。
 表へ出た与次郎は赤い顔をして、また
 「どうだ」と聞いた。

 次に本場の寄席《よせ》へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店《きはらだな》という寄席を上がった。
 ここで小さんという落語家《はなしか》を聞いた。
 十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また
 「どうだ」と聞いた。

 三四郎は物足りたとは答えなかった。
 しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。
 すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
 小さんは天才である。
 あんな芸術家はめったに出るものじゃない。
 いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。
 じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。
 今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。
 少しおくれても同様だ。

 円遊もうまい。
 しかし小さんとは趣が違っている。
 円遊のふんした太鼓持《たいこもち》は、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。
 円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。
 小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発溌地《はっち》に躍動するばかりだ。
 そこがえらい。
 与次郎はこんなことを言って、また
 「どうだ」と聞いた。

 実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。
 そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。
 したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。
 しかしその比較のほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。