ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目漱石  4

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。
 女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖《がけ》の木立《こだち》で、その後がはでな赤煉瓦《あかれんが》のゴシック風の建築である。
 そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。
 女はこの夕日に向いて立っていた。

 三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。
 女の一人はまぼしいとみえて、団扇《うちわ》を額のところにかざしている。

 顔はよくわからない。
 けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。
 白い足袋《たび》の色も目についた。
 鼻緒《はなお》の色はとにかく草履《ぞうり》をはいていることもわかった。

 もう一人はまっしろである。
 これは団扇もなにも持っていない。
 ただ額に少し皺《しわ》を寄せて、向こう岸からおいかぶさりそうに、高く池の面に枝を伸ばした古木の奥をながめていた。

 団扇を持った女は少し前へ出ている。
 白いほうは一足土堤《どて》の縁からさがっている。
 三四郎が見ると、二人の姿が筋かいに見える。

 この時三四郎の受けた感じはただきれいな色彩だということであった。
 けれどもいなか者だから、この色彩がどういうふうにきれいなのだか、口にも言えず、筆にも書けない。
 ただ白いほうが看護婦だと思ったばかりである。

 三四郎はまたみとれていた。
 すると白いほうが動きだした。
 用事のあるような動き方ではなかった。
 自分の足がいつのまにか動いたというふうであった。
 見ると団扇を持った女もいつのまにかまた動いている。
 二人は申し合わせたように用のない歩き方をして、坂を降りて来る。
 三四郎はやっぱり見ていた。

 坂の下に石橋がある。
 渡らなければまっすぐに理科大学の方へ出る。
 渡れば水ぎわを伝ってこっちへ来る。
 二人は石橋を渡った。

 団扇はもうかざしていない。
 左の手に白い小さな花を持って、それをかぎながら来る。
 かぎながら、鼻の下にあてがった花を見ながら、歩くので、目は伏せている。

 それで三四郎から一間ばかりの所へ来てひょいととまった。
 「これはなんでしょう」と言って、仰向いた。
 頭の上には大きな椎《しい》の木が、日の目のもらないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水ぎわまで張り出していた。

 「これは椎」と看護婦が言った。
 まるで子供に物を教えるようであった。
 「そう。
  実はなっていないの」
 と言いながら、仰向いた顔をもとへもどす、

 その拍子《ひょうし》に三四郎を一目見た。
 三四郎はたしかに女の黒目の動く刹那《せつな》を意識した。
 その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。
 そのある物は汽車の女に「あなたは度胸のないかたですね」と言われた時の感じとどこか似通っている。
 三四郎は恐ろしくなった。

 二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。
 若いほうが今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。
 三四郎は二人の後姿をじっと見つめていた。
 看護婦は先へ行く。
 若いほうがあとから行く。
 はなやかな色のなかに、白い薄《すすき》を染め抜いた帯が見える。
 頭にもまっ白な薔薇《ばら》を一つさしている。
 その薔薇が椎の木陰《こかげ》の下の、黒い髪のなかできわだって光っていた。

 三四郎はぼんやりしていた。
 やがて、小さな声で「矛盾《むじゅん》だ」と言った。
 大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの目つきが矛盾なのだか、あの女を見て汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二道に矛盾しているのか、または非常にうれしいものに対して恐れをいだくところが矛盾しているのか、このいなか出の青年には、すべてわからなかった。
 ただなんだか矛盾であった。

 三四郎は女の落として行った花を拾った。
 そうしてかいでみた。
 けれどもべつだんのにおいもなかった。
 三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。
 花は浮いている。

 すると突然向こうで自分の名を呼んだ者がある。
 三四郎は花から目を放した。
 見ると野々宮君が石橋の向こうに長く立っている。
 「君まだいたんですか」と言う。
 三四郎は答をするまえに、立ってのそのそ歩いて行った。

 石橋の上まで来て、
 「ええ」と言った。
 なんとなくまが抜けている。
 けれども野々宮君は、少しも驚かない。
 「涼しいですか」と聞いた。
 三四郎はまた、
 「ええ」と言った。

 野々宮君はしばらく池の水をながめていたが、右の手をポケットへ入れて何か捜しだした。
 ポケットから半分封筒がはみ出している。
 その上に書いてある字が女の手跡《しゅせき》らしい。

 野々宮君は思う物を捜しあてなかったとみえて、もとのとおりの手を出してぶらりと下げた。
 そうして、こう言った。
 「きょうは少し装置が狂ったので晩の実験はやめだ。
  これから本郷《ほんごう》の方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」
 三四郎は快く応じた。

 二人で坂を上がって、丘の上へ出た。
 野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって、向こうの青い木立のあいだから見える赤い建物と、崖《がけ》の高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して、
 「ちょっといい景色《けしき》でしょう。
  あの建築《ビルジング》の角度《アングル》のところだけが少し出ている。
  木のあいだから。
  ね。
  いいでしょう。
  君気がついていますか。
  あの建物はなかなかうまくできていますよ。
  工科もよくできてるがこのほうがうまいですね」

 三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚いた。
 実をいうと自分にはどっちがいいかまるでわからないのである。
 そこで今度は三四郎のほうが、はあ、はあと言い出した。
 「それから、この木と水の感じ《エフフェクト》がね。
  たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから。
  静かでしょう。
  こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。
  近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。
  これが御殿《ごてん》」
 と歩きだしながら、左手《ゆんで》の建物をさしてみせる。

 「教授会をやる所です。
  うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。
  ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。
  近ごろの学問は非常な勢いで動いているので、少しゆだんすると、すぐ取り残されてしまう。
  人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだが、これでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。
  電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。
  だから夏でも旅行をするのが惜しくってね」
 と言いながら仰向いて大きな空を見た。

 空にはもう日の光が乏しい。
 青い空の静まり返った、上皮《うわかわ》に白い薄雲が刷毛先《はけさき》でかき払ったあとのように、筋《すじ》かいに長く浮いている。
 「あれを知ってますか」と言う。

 三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
 「あれは、みんな雪の粉《こ》ですよ。
  こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。
  しかしあれで地上に起こる颶風《ぐふう》以上の速力で動いているんですよ。
  君ラスキンを読みましたか」

 三四郎は憮然《ぶぜん》として読まないと答えた。
 野々宮君はただ
 「そうですか」と言ったばかりである。
 しばらくしてから、
 「この空を写生したらおもしろいですね。
  原口《はらぐち》にでも話してやろうかしら」
 と言った。
 三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。

 二人はベルツの銅像の前から枳殻寺《からたちでら》の横を電車の通りへ出た。
 銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。
 表はたいへんにぎやかである。
 電車がしきりなしに通る。
 「君電車はうるさくはないですか」とまた聞かれた。
 三四郎はうるさいよりすさまじいくらいである。
 しかしただ「ええ」と答えておいた。

 すると野々宮君は「ぼくもうるさい」と言った。
 しかしいっこううるさいようにもみえなかった。
 「ぼくは車掌に教わらないと、一人で乗換えが自由にできない。
  この二、三年むやみにふえたのでね。
  便利になってかえって困る。
  ぼくの学問と同じことだ」
 と言って笑った。

 学期の始まりぎわなので新しい高等学校の帽子をかぶった生徒がだいぶ通る。
 野々宮君は愉快そうに、この連中《れんじゅう》を見ている。
 「だいぶ新しいのが来ましたね」と言う。
 「若い人は活気があっていい。
  ときに君はいくつですか」と聞いた。

 三四郎は宿帳へ書いたとおりを答えた。
 すると、
 「それじゃぼくより七つばかり若い。
  七年もあると、人間はたいていの事ができる。
  しかし月日《つきひ》はたちやすいものでね。
  七年ぐらいじきですよ」
 と言う。
 どっちが本当なんだか、三四郎にはわからなかった。

 四角《よつかど》近くへ来ると左右に本屋と雑誌屋がたくさんある。
 そのうちの二、三軒には人が黒山のようにたかっている、そうして雑誌を読んでいる。
 そうして買わずに行ってしまう。
 野々宮君は、
 「みんなずるいなあ」と言って笑っている。
 もっとも当人もちょいと太陽をあけてみた。

 四角へ出ると、左手のこちら側に西洋小間物屋《こまものや》があって、向こう側に日本小間物屋がある。
 そのあいだを電車がぐるっと曲がって、非常な勢いで通る。
 ベルがちんちんちんちんいう。
 渡りにくいほど雑踏する。

 野々宮君は、向こうの小間物屋をさして、
 「あすこでちょいと買物をしますからね」
 と言って、ちりんちりんと鳴るあいだを駆け抜けた。
 三四郎もくっついて、向こうへ渡った。

 野々宮君はさっそく店へはいった。
 表に待っていた三四郎が、気がついて見ると、店先のガラス張りの棚《たな》に櫛《くし》だの花簪《はなかんざし》だのが並べてある。
 三四郎は妙に思った。
 野々宮君が何を買っているのかしらと、不審を起こして、店の中へはいってみると、蝉《せみ》の羽根のようなリボンをぶら下げて、
 「どうですか」と聞かれた。

 三四郎はこの時自分も何か買って、鮎《あゆ》のお礼に三輪田のお光さんに送ってやろうかと思った。
 けれどもお光さんが、それをもらって、鮎のお礼と思わずに、きっとなんだかんだと手前がっての理屈をつけるに違いないと考えたからやめにした。

 それから真砂町《まさごちょう》で野々宮君に西洋料理のごちそうになった。
 野々宮君の話では本郷でいちばんうまい家《うち》だそうだ。
 けれども三四郎にはただ西洋料理の味がするだけであった。
 しかし食べることはみんな食べた。

 西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分《おいわけ》に帰るところを丁寧にもとの四角まで出て、左へ折れた。
 下駄《げた》を買おうと思って、下駄屋をのぞきこんだら、白熱ガスの下に、まっ白に塗り立てた娘が、石膏《せっこう》の化物のようにすわっていたので、急にいやになってやめた。

 それから家《うち》へ帰るあいだ、大学の池の縁で会った女の、顔の色ばかり考えていた。
 その色は薄く餅《もち》をこがしたような狐色《きつねいろ》であった。
 そうして肌理《きめ》が非常に細かであった。

 三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくってはだめだと断定した。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング