ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 13

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 伸子が五つ六つの頃、よく支那人のひとさらいの話でおどかされたことがあった。
 けれども、現実に幼い伸子の見馴れた支那人は、動坂のうちへ反物を売りに来る弁髪のながい太った支那の商人だった。
 その太った男は、いつも俥にのって来た。

 そして、日本のひとのように膝かけはかけないで、黒い布でこしらえた沓《くつ》をはいた両足をひろげた間に、大きい反物包みをはさんでいた。
 弁髪の頭の上に、赤い実のような円い飾りのついた黒い帽子をかぶっていて、俥にのったり降りたりするとき、ながい弁髪は、ちょいと、碧《あお》い緞子《どんす》の長上着の胸のところへたくしこまれた。
 この反物売の支那人は、
 「ジョーチャン、こんにちは」
 と、いつも伸子に笑って挨拶した。

 玄関の畳の上へあがって、いろいろの布地をひろげた。
 父が外国へ行っていて経済のつまっている若い母は、美しい支那の織物を手にとって眺めては、あきらめて下へおくのを根気づよく待って、
 「オクサン、これやすい、ね。上等のきれ」
 などと、たまには、母も羽織裏の緞子などを買ったらしかった。

 この支那人の躯と、反物包みと、伸子の手のひらにのせてくれた落花生の小さな支那菓子とからは、つよく支那くさいにおいがした。
 子供の伸子が、支那くささをはっきりかぎわけたのは、小さい伸子の生活の一方に、はっきりと西洋の匂いというものがあったからだった。
 たまに、イギリスの父から厚いボール箱や木箱が送られて来ることがあった。
 そういう小包をうけとり、それを開くことは、母の多計代や小さかった三人の子供たちばかりか一家中の大騒動だった。

 伸子は、そうして開かれる小包が、うっとりするように、西洋のいいにおいにみちていることを発見していた。
 包装紙の上からかいでも、かすかに匂うそのにおいは、いよいよ包が開かれ、なかみの箱が現れると一層はっきりして来て、さて、箱のふたがあいていっぱいのつめものが、はじけるように溢れ出したとき、西洋のにおいは最も強烈に伸子の鼻ににおった。
 西洋のにおいは、西洋菓子のにおいそっくりだった。
 めったにたべることのない、風月の木箱にはいった、きれいな、銀の粒々で飾られた西洋菓子のにおいと同じように、軽くて、甘くて、ツンとしたところのある匂いがした。

 こわいような懐しいような支那についての伸子の感じは、その後、さまざまの内容を加えた。
 昔の支那の詩や「絹の道」の物語、絵画・陶器などの豊富な立派さが伸子の生活にいくらかずつ入って来るにつれ、伸子は、昔の支那、そして現代の中国というものに不断の関心をひかれて来ていた。
 そこには、日本で想像されないような大規模な東洋の豊饒さと荒涼さ、人間生活の人為的なゆたかさと赤裸々の窮乏とがむき出されているように思えているのだった。
 日本にいたとき、わざわざ九段下の支那ものを扱っている店へ行って、支那やきの六角火鉢と碧色の毛氈《もうせん》を買ったのは素子だった。

 そんな趣味をもっている素子が、支那女と云われると、分別を失って逆上し、くやしがる。
 日本人のきもちには日清戦争以来、中国人に近づいて暮しながらそれをばかにしている気もちがある。
 日本に来ている留学生に対しても、商人にたいしても。そのばかにした心持からの中国人の呼びかたがいくとおりも、日本にある。

 素子が、キタヤンカと云われた瞬間、ホージャと呼ばれた瞬間、それは稲妻のような迅さで中国人に対する侮蔑のよびかたとなって、素子の顔にしぶきかかるのではないだろうか。
 「そう思わない?
心理的だと思わない?」
 素子は、睨みつける目で、そういう伸子を見すえていたが、ぷいとして、
 「君はコスモポリタンかもしれないさ。
  わたしは日本人だからね。
  日本人の感じかたしか出来ないよ」

 タバコの箱のふたの上で、一本とり出したタバコをぽんぽんとはずませていたが、
 「ふん」
 鼻息だけでそう云って、素子は棗形をした顔の顎を伸子に向って、しゃくうようにした。
 「コスモポリタンがなんだい! 
  コスモポリタンなら、えらいとでもいうのかい!」
 火をつけないタバコを指の間にはさんだまま室の真中につったって自分をにらんでいる素子から伸子は目をそらした。

 伸子は、あらためて自分を日本人だと意識するまでもないほど、ありのままの心に、ありのままに万事を感じとって生活しているだけだった。
 日本の女に生れた伸子に、日本の心のほかの心がありようはなかったけれども、伸子には、素子のように、傷けられやすい日本人意識というものがそれほどつよくなかった。
 或は気に入るものは何につけ、それを日本にあるものとひきつけて感情を動かされてゆく癖がないだけだった。
 モスクワへついた翌日、モスクワ芸術座を見物したとき、瀬川雅夫は、幾たびカチャーロフやモスクビンが歌舞伎の名優そっくりだ、と云って賞《ほ》めただろう。

 伸子にとってそれは全く不可解だった。
 カチャーロフと羽左衛門とがどこかで同じだとしたら、わざわざモスクワへ来て芸術座を観る何のねうちがあるだろう。
 秋山宇一が、コーカサスの美女は、日本美人そっくりだ、とほめたとき、伸子がその言葉から受けた感じは、暗く、苦しかった。
 エスペラントで講演するひとでさえも、女というものについては、ひっくるめて顔だちから云い出すような感覚をもっているという事実は、それにつれて、伸子に苦しく佃を思い浮ばせもすることだった。

 駒沢の奥の家で一時しげしげつき合いそうになった竹村の感情も思い出させた。
 竹村も佃も、それが男の云い分であるかのように、編みものをしているような女と生活するのは愉しい、と云った。
 編みものをしたりするより、もっと生きているらしく生きたがって、そのために心も身も休まらずにいる伸子にむかって。

 素子にしろ日本の習俗がそういう習俗でなかったら、もっと自然に、素子としての女らしさを生かせたのに――。
 「自分で、日本のしきたりに入りきれずにいるくせに、日本人病なんて。
  おかしい」
 と伸子は云った。
 「矛盾してる」
 「ともかく、さきへ手をあげたのは、わたしがよくなかった。
  それはみとめますよ」
 思いがけない素直さで素子が云い出した。

 「実は、幾重にも腹が立つのさ」
 「なにに?」
 「先ず自分に……」
 そう云って、素子は、うっすり顔を赧らめた。
 「それから、ぶこに…」
 「…………」
 「ぶこが、どんなに軽蔑を感じているかと思ってさ。

  腹んなかに軽蔑をかくしているくせに、なにを優等生面《づら》して!
  と思ったのさ」
 
 「軽蔑しやしないけれど……でも、あんなこと……」
 自分の前に来て立った素子を見あげて伸子はすこしほほえみながら涙をうかべた。
 「ここのひとたちの前から、まさか、かけて逃げ出さなけりゃならないような暮しかたをしようとしてやしないんだもの」

        六

 壁紙のないうす緑色の壁に、大きな世界地図がとめてある。
伸子はその下の、粗末な長椅子の上で横むきに足をのばし、くつしたをつくろっている。
女学生っぽい紺スカートの襞《ひだ》が長椅子のそとまでひろがって、水色ブルーズの胸もとに、虹のような色のとりあわせに組んだ絹紐がネクタイがわりにたれている。
 すぐ手の届くところまでテーブルがひきよせてあった。

 日本風の紅絹《もみ》の針さしだの鋏だのがちらばっていて、そのかたわらに一冊の本がきちんとおいてある。
 白地に赤で、旗を押したてて前進する群集の絵が表紙についていた。
 「世界を震撼させた十日間」ジョン・リード。
 ロシア語で黒く題と著者の名が印刷されている。

 その本はまだ真新しくて、きょうの午後から、伸子の語学の教科書につかわれはじめたばかりだった。
 薄黄色いニスで塗られた長椅子の腕木に背をもたせて針を動かしている伸子の、苅りあげられたさっぱりさが寂しいくらいの頸すじや肩に、白い天井からの電燈がまっすぐに明るく落ちた。

 伸子はその頸をねじるようにして、ちょいちょいテーブルの上へ眼をやった。
 向い側の建物の雪のつもった屋根の煙突から、白樺薪の濃い煙が真黒く渦巻いて晴れた冬空へのぼってゆくのが見えた部屋で、マリア・グレゴーリエヴナが熱心と不安のまじりあった表情で、新しい本の第一頁を開き、カデットとか、エスエルとかいうケレンスキー革命政府ごろの政党の関係を説明してくれた顔つきが思いだされた。
 そういういりくんだ問題になると、伸子の語学の力ではマリア・グレゴーリエヴナの説明そのものが半分もわからなかった。

 針に糸をとおしながら、伸子はあっちの窓下の緑色がさのスタンドにてらされたデスクで勉強している素子に声をかけた。
 「あなた、ちかいうちに国際出版所《メジュナロードヌイ》へ行く用がありそう?」
 「さあ……わからない」
 「行くときさそってね」
 「ああ……」
 カデットとかエスエルとか、そのほかそういう政治方面の辞書のようなものが必要になって来た。
 伸子は、気がついて、保か河野ウメ子かにたのんで日本語のそういう辞典を送ってもらうのが一番いいと思いついた。

 日本でもそういう本はどんどん出版されていた。
 言海はモスクワへももって来ているが、社会科学辞典がこんなに毎日の生活にいるとは思いつかなかった伸子だった。
 あんなに用意周到だった素子も蕗子もそのことまでにはゆきとどかないで来てしまった。
 東京とモスクワと、遠いように思っていても、こうして、たった二週間ばかりで手紙も来るんだから……。

 伸子は、ひょいと体をうかすようにして手をのばし、テーブルの上から二通の手紙をとった。
 手紙のわきには、キリキリとかたく巻いて送られて来た日本の新聞や雑誌の小さいひと山が封を切っても、まだ巻きあがったくせのままあった。
 マリア・グレゴーリエヴナのところへ稽古に出かけたかえりに、伸子は例によって散歩がてら大使館へよって、素子と自分への郵便物をとって来たのだった。
 伸子は、針をさしたつくろいものをブルーズの膝の上にのせたまま、一遍よんだ手紙をまた封筒からぬき出した。

 乾いた小枝をふんでゆくようなぽきぽきしたなかに一種の面白さのある字で、河野ウメ子は、伸子にたのまれた小説の校正が終って近々本になることを知らせて来ていた。
 そして、春にでもなったら、京都か奈良へ行ってしばらく暮して見ようと思っているとあった。
 奈良に須田猶吉が数年来住んでいて、その家から遠くないところにウメ子の部屋が見つかるかもしれない、とかかれている。
 この手紙は、素子様伸子様と連名であった。

 伸子は、ウメ子の手紙にかかれている高畠という町のあたりは知らなかったが、雨の日の奈良公園とそこに白い花房をたれて咲いていた馬酔木《あしび》の茂みは、まざまざとして記憶にあった。
 春日神社の裏を歩いていたら古い杉林の梢にたかく絡んで、あざやかに大きい紫の花を咲かせていた藤の色も。
 その藤の花を見た日、伸子は弟の和一郎とつれだって石に苔のついたその小道をぶらぶら歩いていた。

 ウメ子の手紙を封筒にもどして、伸子はもう一通をとりあげた。
 ケント紙のしっかりした角封筒の上に、ゴシックの装飾文字のような書体で、伸子の宛名がかいてある。
 さきのプツンときれたGペンを横縦につかって、こんな図案のような字をかくことが和一郎のお得意の一つだった。

 その封筒のなかみは、泰造、多計代、和一郎、保、つや子と、佐々一家のよせがきだった。
 つや子が、友禅ちりめんの可愛い小布れをはってこしらえた栞《しおり》がはいっていた。
 「今日の日曜日は珍しく在宅。
  一同揃ったところで、先ず寄書きということになりました。」
 年齢よりも活気の溢れた泰造の万年筆の字が、やっぱり泰造らしいせわしなさで、簡単に数行かいている。
 「近日中に母はまた前沢へ参る予定」。

 つぎの一枚は、多計代の字で半ば以上埋められていた。
 伸子はその頁の上へぼんやり目をおとしたまま、むかし父かたの祖母が田舎に生きていたころ、多計代の手紙を眺めては歎息していたことを思い出した。
 「おっかさんは、はア、あんまり字がうまくて、おらにはよめないごんだ」と。
 その祖母は、かけ硯《すずり》のひき出しから横とじの帖面を出しては、かたまった筆のさきをかんで、しよゆ一升、とふ二丁と小づかい帖をつけているひとだった。

 こうやって、便箋の上から下まで一行をひと息に、草書のつながりでかかれている母の手紙をうけとると、伸子も、当惑がさきに立つ感じだった。
 簡単に云えば、伸子に母の手紙はよめないと云えた。
 それでも、それは母の手紙であったから、伸子は読めないと云うだけですまない心があったし、よめないまんまにしておいた行間に、何か大切なことでもあったりしたらという義務の感情で、骨を折るのだった。
 さっき一遍よんだとき、読めなかったところをあらためて拾うようにして、その流達といえば云える黒い肉太の線がぬるぬるぬるぬるとたぐまっては伸び、伸びてはたぐまるような多計代の字をたどって行った。

 伸子は、こまかくよむにつれてはりあいのないような、くいちがっているようなきもちになった。
 そのよせがきには動坂の人たちが、食堂の大テーブルを囲んでがやがやいいながらてんでに喋っているその場の感じがそのまま映っているようだった。
 その和一郎にしろ、先月、伸子がきいたオペラについてモスクワの劇場広場のエハガキを書いてやったことにはふれていないで、今年は美術学校も卒業で卒業制作だけを出せばいいから目下のところ大いに浩然の気を養ってます、と語っている。
 泰造はいそがしさにまぎれてだろう、伸子が特に父あてにおくったトレチャコフ美術館の三枚つづきのエハガキについて全く忘れている。

 多計代の文章の冒頭にだけ、この間は面白いエハガキを心にかけてどうもありがとう。
 一同大よろこびで拝見しました、とあった。
 けれども、それはいつ伸子が書いたどんなエハガキのことなのか、そして、どう面白かったのか、それはかいてなかった。
 膝の上にいまこの手紙をひろげている伸子が、もし、それはどのエハガキのことなの? 
 ときくことが出来たとしたら、多計代はきっとあのつややかな睫毛をしばたたいて、ちょっとばつのわるそうな顔になりながら、あれさ、ほら、この間おくってくれたじゃないか、といいまぎらすことだろう。

 みんなの手紙の調子は、伸子にまざまざと動坂の家の、食堂の情景を思い浮べさせた。
 そして伸子は、ふっと笑い出した。
 動坂の家の食堂のあっちこっちの隅には、いつもあらゆる形の箱だの罐だのがつみかさねられていた。
 中村屋の、「かりんとう」とかいた卵色のたてかん、濃い緑と朱の縞のビスケットの角罐、少しさびの来た古いブリキ罐、そんなものが傍若無人に、どっしりした英国風の深紅色に唐草模様のうき出た壁紙の下につまれている。

 それは一種の奇観であった。
 中央の大テーブルの多計代がいつも坐る場所の下には、二つ三つの風月堂のカステラ箱がおいてあって、その中には手あたり次第に紙きれだの何だの、ともかくそのとき多計代がなくしては困ると思ったものが入れてあった。
 だから、動坂の家で何か必要な書きつけが見つからないというようなことがおこると、まず多計代から率先してふっさりしたひさしの前髪をこごめて、大テーブルの下をのぞいた。

 この習慣は、伸子たち動坂の子供にとっては物心づいて以来というようなものだから、食堂にとおされるほど親しいつき合いの人なら、その客のいるところでも、必要に応じて伸子のいわゆる「家鴨《あひる》の水くぐり」が行われた。
 ときには多計代が、何かさがしていて、どうも見えないね、というやいなや、伸子が音頭をとって、テーブルについている四人の息子や娘たちが一斉にテーブルの下へ首をつっこんで、わざと尻をたかくもち上げ、家鴨のまねをした。
 その食堂の煖炉《だんろ》棚の上には、泰造の秘蔵しているギリシアの壺が飾られていた。

 モスクワへ立って来るについて伸子が駒沢の家をたたんで数日動坂で暮した間、その煖炉のギリシア壺のよこに大きなキルクが一つのっていた。
 毎朝掃除がされているのに、何かのはずみで一旦その場ちがいなところへのったキルクは、何日間も煖炉棚の上でギリシア壺のわきにあった。
 そして、もう今ごろそれはなくなっているだろう。
 いつの間にか見えなくなった、という片づきかたでキルクは煖炉棚の上からなくなり、その行方について知っているものはもう誰もいないのだ。
 こういうけたはずれのところは主婦である多計代の気質から来た。

 もし多計代が隅から隅までゆきとどいて自分の豪華趣味で統一したり、泰造の古美術ごのみで統一されたりしていたら、動坂の家というところはどんなに厭な、人間の自由に伸びるすきのない家になっただろう。
 伸子は、動坂の家に、せめてもそういう乱脈があることをよろこんだ。
 少女時代を思い出すと、そういうよそからは想像も出来ないようなすき間が動坂の家にあったからこそ伸子は、いつかその間にこぼれて伸びることもできた野生の芽として自分の少女時代を思い出すことができた。

 伸子が十四五になって、自分の部屋がほしくなったとき、伸子はひとりで、玄関わきの五畳の茶室風の室がものおき同然になっていたのを片づけた。
 そしてそこに押しこんであった古い机を、小松の根に蕗《ふき》の薹《とう》の生える小庭に向ってすえた。

 そして、物置戸棚につみあげてある古本の山のなかから、勝手にとじのきれかかった水沫集だのはんぱものの紅葉全集だの国民文庫だのを見つけて来て、自分の本箱をこしらえた。
 その中で、ほんとに伸子のものとして買ってもらった本と云えばたった二冊、ポケット型のポーの小説集があるばかりだった。
 すきだらけと乱脈とは、いまも動坂の家風の一つとしてのこっている。

 年月がたつうちに経済にゆとりが出来てきただけ、その乱脈やすきだらけが、むかしの無邪気さを失って、家族のめいめいのてんでんばらばらな感情や、物質の浪費としてあらわれて来ている。
 伸子は数千キロもはなれているモスクワの、雪のつもった冬の夜の長椅子から、確信をもって断言することが出来た。

 伸子がこのホテルのテーブルの上で、モスクワ人がみんなそれをつかっている紫インクで、エハガキや時には手紙でかいてやる音信は、先ず多計代に封をきられ、いあわせたものたちに一通りよまれ、それから、なくなるといけないからね、と例のテーブルの下の箱にしまわれていることを。
 カステラ箱にしまわれた伸子の手紙はなくならないかもしれないけれども、ほんのしばらくたてば動坂の人たちは、もうすっかりそれについて、何が書かれているかさえ忘れてしまっているのだ。
 動坂の人たちは伸子なしで充分自足しているのだから――。

 伸子がいろいろの感情をもって打ちかえして見ている動坂のよせ書きの三頁めのところで、保が数行かいていた。
 ほそく、ペンから力をぬいて綿密に粒をそろえたノートのような字は、保のぽってりした上瞼のふくらみに似たまるみをもっている。
 これが、高等学校の最上級になろうとしている二十歳の青年の手紙だろうか。
 来年は大学に入ろうという――。

 保は、そのよせ書きの中で保だけまるで一人だけ別なインクとペンを使ったのかと思えるほど細い万遍なく力をぬいた字で、こうかいていた。
 「僕が東京高校へ入学したとき、お祝に何か僕のほしいものを買って下さるということでした。
  僕には何がほしいか、そのときわからなかった。
  こんど、僕は入学祝として本式にボイラーをたく温室を拵《こしら》えて頂きました。
  これこそたしかに僕のほしいものです。」

 そして、保は、簡単な図をつけて温室の大きさやスティームパイプの配置を説明しているのだった。
 動坂の家風は、すきだらけであったが、親に子供たちが何かしてもらったときとか、見せてもらったりしたときには、改まってきちんと、ありがとうございました、と礼を云わせられる習慣だった。
 言葉づかいも、目上のものにはけじめをつけて育ったから、二十歳になった保が、こしらえて頂いたという云いかたをするのは、そういう育ちかたがわれしらず反映しているとも云えた。
 しかし、保は小学生の時分から花の種を買うために僅の金を母からもらっても、収支をかきつけて残りをかえす性質だった。
 お母さまから頂いたお金三円、僕の買った種これこれ、いくらと細目を並べて。

 伸子が、モスクワ暮しの明け暮れの中で見て感じているソヴェト青年の二十歳の人生の内容からみると、たかだか高等学校に入ったというような事にたいして、温室をこしらえて頂いた、と書いている保の生活気分はあんまりおさなかった。
 高等学校に入ったということ、大学に入るということそれだけが、ひろい世の中をどんな波瀾をしのぎながら生きなければならないか分らない保自身にとって、どれだけ重大なことだというのだろう。
 多計代にとってこそ、それは、佐々家の将来にもかかわる事件のように思われるにちがいなかった。
 長男の和一郎は、多計代にやかましく云われて一高をうけたが、失敗すると、さっさと美術学校へ入ってしまった。

 多計代は明治時代の、学士ということが自分の結婚条件ともなった時代の感情で、息子が帝大を出ることの出来る高校に入ったということに絶大の意味と期待をかけているのだった。
 その感情からお祝いをあげようという多計代の気もちが、それなり、お祝いを頂く、という保の気もちとなっているところが伸子に苦しかった。

 辛辣にならないまでも、保は保の年齢の青年らしく、家庭においての自分の立場、自分の受けている愛情について、つっこんで考えないのだろうか。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング