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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  11

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 ある日、彼は戸棚《とだな》の中をかき回しながら、見知らぬ物に手を触れた。
 子供の上着や縞《しま》の無縁帽があった。
 彼はそれらの物を得意になって母のところへもって行った。
 母は笑顔《えがお》を見せもしないで、不機嫌《ふきげん》な顔付をして、元のところへ置いて来るように言いつけた。
 彼がその訳を尋ねながらぐずぐずしていると、母はなんとも答えないで、彼の手から品物をもぎ取って、彼の届かない棚の上に押し込んでしまった。

 彼はたいへん気にかかって、しきりに尋ねだした。
 母はついに言った、それらのものは彼が生まれて来ない前に死んだ小さな兄のものであると。

 彼はびっくりした。
 かつてそんなことを聞いたことがなかったのである。
 彼はちょっと黙っていたが、それからもっと詳しく知りたがった。
 母の心は他に向いてるらしかった。
 けれども、その兄もやはりクリストフという名だったが彼よりもっとおとなしかった、とだけ言ってきかした。

 彼はなお種々のことを尋ねた。
 母は答えるのを好まなかった。
 兄は天にいて皆のために祈っていてくれるとだけ言った。
 クリストフはそれ以上聞き出すことができなかった。
 余計なことを言うと仕事の邪魔になる、と母は言った。
 実際彼女は縫物に専心してるらしかった。
 何か気がかりな様子をして、眼をあげなかった。

 しかししばらくすると、彼が片隅《かたすみ》に引込んでむっつりしてるのを眺め、笑顔を作りだして、外に遊びにおいでとやさしく言った。
 その会話の断片は、深くクリストフの心を動かした。
 してみると、一人の子供がいたのである、自分の母親の小さな男の子が、自分と同じようで、同じ名前で、ほとんど同じ顔付をして、しかも死んでしまった子が!

 死、彼はそれがどんなことだかはっきり知らなかった。
 しかし何か恐ろしいことらしかった。
 そしてだれも、そのも一人のクリストフのことをかつて話さなかった。
 もうすっかり忘られてしまっていた。
 もしこんどは自分が死んだら、やはり同じようになるのではあるまいか?

 そういう考えは、晩になって、皆といっしょに食卓につき、皆がつまらないことを談笑してるのを見た時、なお彼に働きかけてきた。
 彼が死んでしまった後も皆は快活にしてるかもしれない!
 おう、自分の小さな子供が死んだ後でも母親は身勝手に笑いうるものであろうとは、彼はかつて思ってもみなかった。

 彼は家じゅうの者が厭《いや》になった。
 死なない先から、自分自身を、自分の死を、嘆き悲しみたくなった。
 それとともに、種々なことを尋ねたかった。
 しかしそれもできかねた。
 母親がどんな調子で黙ってくれと言ったかを、彼は思い起こした。

 ついに彼はたえられなくなった。
 そして床についた時、接吻しに来たルイザに尋ねた。
 「お母さん、やはり私の寝床に寝ていたの?」
 彼女は身を震わした。
 そして平気を装った声で尋ねた。
 「だれが?」
 「あの子供、死んでしまったあの……。」とクリストフは声を低めて言った。

 母の両手はにわかに彼を抱きしめた。
 「そんなこと言うんじゃありません、言うんじゃありません。」と彼女は言った。
 彼女の声は震えていた。
 彼女の胸に頭をもたしていたクリストフには、その胸の動悸《どうき》が聞こえた。
 ちょっと沈黙が落ちてきた。
 それから彼女は言った。
 「もう決してそのことを言ってはいけませんよ……。
  落ちついてお眠んなさい……。
  いいえこの寝床ではありません。」
 彼女は彼を接吻した。

 彼女の頬《ほお》が濡れてると彼は思った。
 濡れてると信じたかった。
 彼はいくらか心が安らいだ。
 彼女は悲しんでたのだ!
 けれども、すぐその後で、彼女がいつものとおりの落付いた声で口をきくのが、隣りの室に聞えた時、彼はまた疑いだした。

 今と先刻と、どちらがほんとうだろうか?
 彼はその答えを見出さないで、長い間床の中で寝返りをうっていた。
 彼は母親に心を痛めていてもらいたかった。
 彼女が悲しんでると考えることはもちろん悲しかった。
 しかしやはり嬉《うれ》しくもあった。
 それだけ一人ぽっちの感じが薄らぐのだった。
 彼は眠っていった。
 そして翌日になると、もうそのことを考えなかった。

 数週間後のことだったが、往来でいっしょに遊ぶ悪戯《いたずら》仲間の一人が、いつもの時刻にやって来なかった。
 彼は病気だと仲間の一人が言った。
 それからはもう、彼の姿が遊びの中に見えなかった。
 理由はわかっていた。
 なんでもないことだった。

 ある晩、クリストフは寝ていた。
 時間はまだ早かった。
 彼の寝床のある小部屋から、両親の室の燈火が見えていた。
 だれかが扉《とびら》をたたいた。
 隣りの女が話に来たのだった。
 彼はいつものとおり勝手な物語をみずから自分に話しながら、ぼんやり耳を傾けていた。

 会話の言葉はすっかりは聞きとれなかった。
 ところがふいに、「あれは死にました」という女の言葉が聞えた。
 彼の血はすっかり止まった。
 だれのことだかわかったのである。
 彼は息をこらして耳を澄ました。

 両親は大声をたてた。
 メルキオルの銅羅《どら》声が叫んだ。
 「クリストフ、聞いたか。
  かわいそうにフリッツは死んだよ。」
 クリストフはじっとこらえて、落着いた調子で答えた。
 「ええ、お父《とう》さん。」
 彼は胸がしめつけられた。

 メルキオルはなお言った。
 「ええ、お父さん、だって。
  お前の言うことはそれだけなのか。
  お前はなんとも思わないのか。」
 子供の心を知っていたルイザは言った。
 「しッ、眠らしておきなさいよ!」
 そして人々は声を低めて話した。

 けれどもクリストフは耳をそばだてて、仔細《しさい》のことを偸《ぬす》み聞いていた、腸チフス、冷水浴、精神錯乱、両親の悲痛。
 彼はもう息もつけなかった。
 ある塊《かたま》りが呼吸をふさいで、首まで上ってきた。
 彼は慄《ふる》え上がった。
 それらの恐ろしいことが頭に刻み込まれた。
 とくに病気は伝染性のものであるということを耳に止めた、言い換えれば、自分もまた同じようにして死ぬかもしれないということを。
 そして恐怖の念に慄然《りつぜん》とした。
 最後に会った時フリッツと握手したことを、そして今日も彼の家の前を通ったことを、思い出したからである。
 けれども彼は、口をきかなければならないような羽目に陥らないために、少しの音もたてなかった。

 隣りの女が帰っていった後、「クリストフ、眠ってるのか、」と父に尋ねられた時、彼は返辞もしなかった。
 ルイザに言ってるメルキオルの声が聞えた。
 「あの子は心なしだ。」
 ルイザはなんとも答え返さなかった。
 けれどもすぐその後で、彼女はやって来て、静かに垂幕をあげ、子供の寝床を眺めた。

 クリストフはその隙《すき》に辛《かろ》うじて、眼をつぶることができ、弟どもが眠ってる時聞き知ったその規則的な呼吸を真似《まね》ることができた。
 ルイザは爪先《つまさき》で立去った。
 彼はどんなにか彼女を引留めたかった。
 いかに自分が恐《こわ》がってるかを話し、自分を救ってくれるように頼み、少なくとも自分を安心さしてくれるように頼むことを、どんなにか願っていたろう!

 けれども、笑われはしないかを、卑怯《ひきょう》者と言われはしないかを、恐れていた。
 それにまた、口先で言われる言葉はすべてなんの役にも立たないということを、もうあまりに知りすぎていた。
 そしていく時間もの間、一人でじっと悶《もだ》えながら、病気が自分のうちに忍び込んでくるのを感ずるような気がし、頭痛や胸苦しさにとらえられてるような心地がして、おびえたまま考えていた、「もう駄目《だめ》だ、私は病気だ、じきに死ぬんだ、じきに死ぬんだ!……」一度寝床の上に起き上がって、低い声で母を呼んでみた。

 しかし両親は眠っていた。
 それを呼び起こすだけの元気もなかった。
 その時以来、彼の幼年時代は死の観念で毒された。
 彼は神経のために、胸苦しさや、激しい痛みや、突然の息づまりなど、原因もないさまざまの軽微な症状に襲われた。
 彼の想像はそれらの苦悩のために狂乱して、そのたびごとに、自分の生命を奪おうとしてる猛獣を眼に見るように思った。

 母親の近く数歩のところにいても、すぐそのそばにすわっていても、幾度か彼は死ぬような苦しみを感じた。
 しかも彼女は何にも察していなかった。
 なぜなら、彼はそれほど臆病《おくびょう》なくせに、恐怖を自分の胸にしまっとくだけの勇気をももっていた。

 それは種々な感情の不思議な混合からであった、他人に頼るまいとする高慢、恐《こわ》がることの恥ずかしさ、心配をかけまいとする細やかな情愛など。
 しかし彼はたえず考えていた。
 「こんどはほんとうに病気だ、重い病気だ。
  ジフテリアの初めだ……。」
 彼はジフテリアという言葉を聞きかじっていた。

 「ああ神様、こんどだけは許してください!」
 彼は宗教上の観念をもっていた。
 彼は母が語ってきかせることを進んで信じていた。
 人の死後、魂は主《しゅ》のもとにのぼってゆくことだの、信心深い魂は楽園にはいることだのを、信じていた。

 しかしそういう魂の旅に、彼は心惹《ひ》かるるというよりもむしろ多く脅かされた。
 母の言葉によれば、いい子供たちはその褒美《ほうび》として、睡眠中に神様からさらわれてお側《そば》に呼び寄せられ、しかもなんの苦しみも受けないそうであったが、彼はそういう子供を少しもうらやましいとは思わなかった。

 眠る時になると、神様が自分にたいしてもそういう悪戯《いたずら》をしはすまいかと、うち震えていた。
 ふいに温かい寝床から引き出され、虚空《こくう》に引きずってゆかれ、神様の前に立たされるのは、思っても恐ろしいことに違いなかった。

 神というものを、雷のような声を出す非常に大きな太陽みたいに、彼は頭の中で想像していた。
 どんなにか大きな危害を受けるに違いなかった。
 眼をやき、耳をやき、魂をも焼きつくすに違いなかった!
 それから、神は罰を下すかもしれなかった。
 どうだかわかるものではない……。

 そのうえ、他の種々な恐ろしいこともそのためになくなりはしなかった。
 それらの恐ろしいことを彼はよく知ってはいなかったが、しかし人々の話でおおよそは察せられた。
 身体を箱の中につめられ、穴の底に一人ぽっちにされ、多くの厭《いや》な墓の中にほうり出され、そこで祈らせられること……。
 ああ、ああ、なんという悲しいことか!

 そうかといって、酔っ払いの父の姿を見、乱暴なことをされ、種々な苦しみを受け、他の子供たちからいじめられ、大人たちからは侮辱的な憐れみを受け、そしてだれからも理解されず、母親からも理解されずに、生をつづけてゆくということは、決して楽しいことではなかった。
 万人から辱《はずかし》められ、だれからも愛せられず、ただ一人で、一人ぽっちで、しかも非常に頼り少ないのだ!
 正にそのとおりだった。

 しかしそのことがまた、彼に生きる欲望をも与えていた。
 彼は自分のうちに、憤激して沸きたつ力を感じていた。
 その力こそ実に不思議なものだ!
 その力はまだ何をもなしえなかった。
 遠くにあって、猿轡《さるぐつわ》をはめられ、手足を縛られ、痲痺《まひ》してるようだった。

 その力が何を望んでいるのか、やがて何になろうとするのか、彼には想像もつかなかった。
 しかしその力は彼自身の中にあった。彼はそれを疑わなかった。
 それは振い動いて、怒号していた。
 明日《あした》は、明日は、その力が復讐《ふくしゅう》してくれるであろう!
 あらゆる害悪を復讐し、あらゆる不正を復讐し、悪人を罰し、大事をなさんがために、彼は生きたいという激しい願望をいだいていた。

 「おう、ただ生きてさえおれば……(彼はちょっと考え込んだ)……せめて十八歳まで!」
 またある時は、二十一歳までと引延した。
 それが極限であった。
 それだけで世界を支配するには十分だと彼は信じた。
 彼はなつかしい英雄らのことを考えていた、ナポレオンのことを、またそれより時代は遠いがいちばん好きであるアレキサンドル大王のことを。
 もう十二年……十年、生きてさえおれば、かならず彼らのようになるだろう。

 彼は三十歳で死ぬ者を気の毒だとは思わなかった。
 三十歳といえばもう老人だった。
 人生を十分に生きてしまったものだった。
 もし生きなかったとすれば、罪は当人にあるのだった。

 しかし自分が今死ぬのは、なんという絶望なことだろう!
 まだ子供のままで消えてしまうのは、そして、だれにでも叱《しか》ってかまわないと思われるような小さな子供のままで、人々の頭の中に永久に残ってることは、あまりに不幸すぎることである!
 彼はそれを憤激しながら嘆いた、あたかもすでに自分が死んでしまったかのように。

 そういう死の懊悩《おうのう》が彼の幼年時代の数年間を苦しめた。
 その懊悩はただ、生《せい》の嫌悪《けんお》によってのみ和げられるのだった。

 そういう重々しい闇《やみ》の真中において、一刻ごとに濃くなってゆくように思われる息苦しい闇夜の中において、陰暗な空間に埋もれた星のごとくに輝き出したのである、彼の生涯を照らすべき光明が、聖なる音楽が……。

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