ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 10

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 比田は、ポケットから煙草ケースをとり出して、ゆっくり一本くわえながら、
 「なるほどね」
 と云った。

 そして、すこしの間だまっていたが、やがて、
 「ところで、あなたはロシアの鋏ということがあるのを御存じですか」
 ときいた。
 伸子は、そういうことばを、きいたことさえなかった。

 「つまりあなたの云われる、ロシアの可能性の土台をなすもんなんですがね。
  ロシアは昔っから、ヨーロッパの穀倉と云われて来たんです。
  ロシアは、自分の方から主として麦を輸出して、その代りに外国から機械そのほかを輸入して来ていたんですがね、この交互関係――つまり鋏のひらきは、あらゆる時代に、ロシアの運命に影響しました。

  帝政時代のロシアは、その鋏の柄を大地主だった貴族たちに完全に握られていましてね。
  連中は、ロシア貴族と云えばヨーロッパでも大金持と相場がきまっていたような暮しをして、そのくせ、農業の方法だって実におくれた状態におきっぱなしでね。
  石油、石炭みたいなものだって、半分以上が外国人の経営だった、利権を売っちゃって。

  そんな状態だからロシアの民衆は、自分たちの無限の富の上で無限貧乏をさせられていたわけなんです。
  宝石ずくめのインドの王様と骸骨みたいなインドの民衆のようなものでね」
 儀礼の上から藤堂駿平を訪問したサヴォイ・ホテルのバラ色絹の張られた壁の下で、比田礼二に会ったことも思いがけなかったし、更にこういう話に展開して来たことも、伸子には予想されないことだった。

 「この頃のモスクワでは、どこへ行ったっていやでも見ずにいられないインダストリザァツィア(工業化)エレクトリザァツィア(電化)という問題にしたってね。
  云おうと思えばいくらでも悪口は云えますよ。
  たしかに、先進国では、そんなことはとっくにやっちまっているんですからね。

  しかし、ロシアでは意味がちがう。
  これが新しいロシアの可能を決定する条件なんです。
  ともかく、まずロシアは一応近代工業の世界的水準に追いついてその上でそれを追い越さなくちゃ、社会主義なんて成りたたないわけですからね。
  『追いつけ、追いこせ』っていうのだって、ある人たちがひやかすように、単なるごろあわせじゃないわけなんです」

 人間ぽい知的な興味でかがやいている比田礼二の眼を見ながら、伸子は、このひとは、何とモスクワにいる誰彼とちがっているだろうと思った。
 それは快く感じられた。

 モスクワにいる日本人の記者にしろ、役人にしろ、伸子が会うそれらの人々は、一定の限度以上にたちいっては、ロシアについて話すことを避けているような雰囲気があった。
 その限度はきわめて微妙で、またうち破りにくいものだった。

 伸子は、知識欲に燃えるような顔つきになって、
 「あなたのお話を伺えてうれしいわ」
 と云った。
 「それで?」
 「いや、別に、それで、どういうような卓見があるわけじゃありませんがね」
 比田礼二は、それももちまえの一つであるらしい一種の自分を韜晦《とうかい》した口調で云った。

 「革命で社会主義そのものが完成されたなんかと思ったらとんでもないことさ。
  ロシアでだって、やっと社会主義への可能、その条件が獲得されたというだけなんです。
  しかも、その条件たるや、どうして、お手飼いの狆《ちん》ころみたいに、一旦獲得されたからって、その階級の手の上にじっと抱かれているような殊勝な奴じゃありませんからね」

 それは、伸子にもおぼろげにわかることだった。
 ドン・バスの事件一つをとりあげても、比田礼二のはなしの意味が実証されている。
 「これだけのことを、日本語できかして下すったのは、ほんとに大したことだわ」
 伸子は、友情をあらわして、比田に礼を云った。
 「わたしはここへ来て、随分いろいろ感じているんです。
  つよく感じてもいるの」
 もっともっと、こういう話をきかせてほしい。
 口に出かかったその言葉を、伸子は、変な狎《な》れやすさとなることをおそれてこらえた。

 比田礼二の風采には、新聞記者という職業に珍しい内面的な味わいと、いくらかの憂鬱さが漂っていた。
 「気に入ろうと入るまいと、地球六分の一の地域で、もう実験がはじまっているのが事実なんですがね」

 彼はぽつりぽつりと続けた。
 「人間て奴は、よっぽどしぶとい動物と見えますね、理窟にあっているというぐらいのことじゃ一向におどろかない」
 彼は人間の愚劣さについて忍耐しているような、皮肉に見ているような複雑な微笑を目の中に閃かした。
 「見ようによっちゃ、まるで、狼ですよ。
  強い奴の四方八方からよってたかって噛みついちゃ、強さをためさずには置かないってわけでね」

 そのとき、人々の間をわけて、肩つきのいかつい一人の平服の男が、二人のいる壁ぎわへよって来た。
 「えらく、話がもてているじゃないか」
 その男は、断髪で紺の絹服をつけている伸子に、女を意識した長い一瞥を与えたまま、わざと伸子を無視して、比田に向って高飛車に云いかけた。

 比田はだまったまま、タバコをつけなおしたが、その煙で目を細めた顔をすこしわきへねじりながら、
 「まあ、おかけなさい」
 格別自分のかけている椅子をどこうともしないで云った。
 三人はだまっていた。

 すると、比田がその男に、
 「飯山に会われましたか」
 ときいた。
 「いいや」
 「あなたをさがしていましたよ」
 「ふうむ」
 なにか思いあたる節があるらしく、その男は比田から火をもらったパイプをくわえると、大股に広間の方へ去った。

 「何の商売かしら
  あのかた……」
 そのうしろ姿を目送しながら伸子がひとりごとのように云った。
 「軍人さん、ですよ」
 やっぱりその肩のいかつい男のうしろ姿を見守ったまま、伸子の視線は、スーと絞りを狭めたようになった。
 秋山宇一が、われわれは、こまかく見られている、と云った、そのこまかい目は、こういう一行のなかにもまぎれこんでいるのだろうか。

 伸子は、やがてかえり仕度をしながら、
 「ここよりベルリンの方がよくて?」
 と比田礼二にきいた。
 「さあ、ここより、と云えるかどうかしらないが、ベルリンも相当なところですよ、このごろは。
  ナチスの動きが微妙ですからね。
  いろいろ面白いですよ。
  ベルリンへはいつ頃来られます?」
 「まるで当なしです」
 「是非いらっしゃい。
  ここからはたった一晩だもの。
  案内しますよ。
  僕が忙しくても、家の奴がいますから……」
 「御一緒?」
 「ドイツで結婚したんです」
 その室の入口のドアまで送り出した比田礼二と、伸子は握手してわかれた。

 藤堂駿平の一行で占められているサヴォイ・ホテルの奥まった一画から、おもての方へ深紅色のカーペットの上を歩いて行きながら、伸子は、モスクワにいる同じ新聞の特派員の生活を思いうかべた。
 その夫婦は、モスクワの住宅難からある邸の温室を住宅がわりにして、そのガラス張りの天井の下へ、ありとあらゆるものをカーテン代りに吊って、うっすり醤油のにおいをさせながら暮しているのだった。

 棕梠の植込みで飾られたホテルの広間から玄関へ出ようとするところで、
 「おお、サッサさん、おめにかかれてうれしいです」
 モスクワには珍しい鼠色のソフトを、前の大きくはげた頭からぬぎながら伸子に向って近よって来るクラウデに出あった。

 一二年前、レーニングラードの日本語教授コンラード夫妻が東京へ来たとき、ひらかれた歓迎会の席へ、日本語の達者な外交官の一人としてクラウデも出席していた。
 黒い背広をどことなしタクシードのような感じに着こなして、ほんとに三重にたたまってたれている顎を七面鳥の肉髯のようにふるわしながら流暢《りゅうちょう》な日本語で話すクラウデの風貌《ふうぼう》は、そのみがきのかかり工合といい、いかにも花柳界に馴れた外国人の感じだった。
 その席でそういう印象を受けたぎり、人づき合いのせまい伸子は、いつクラウデがロシアへかえったのかもしらなかった。

 ところが、伸子がこっちへ来てから間もないある晩、芸術座の廊下で声をかけた男があった。
 それがクラウデであった。
 三重にたたまっておもく垂れた顎をふるわしてものをいうところは元のままであったが、そのときのクラウデには、東京で逢ったときの、あの居心地わるいほどつるつるした艷はなくなっていた。
 彼の着ている背広もあたりまえの背広に見えた。

 クラウデはまた日本文学の夕べにも来ていた。
 そして、いま、またこのサヴォイ・ホテルの廊下で出あったのだった。
 クラウデは、愛嬌のいい調子で、
 「モスクワの冬、いかがですか」
 と云った。
 「あなたのホテルは煖房設備よろしいですか」
 「ええ、ありがとう。
  わたしは、冬はすきですし、スティームも大体工合ようございます。
  あなたは、日本の冬を御存じだから……」

 伸子はすこし別の意味をふくめて、ほほ笑みながら云った。
 「日本の雪見の味をお思い出しになるでしょう?」
 「おお、そうです。ユキミ」
 クラウデは、瞬間、遠い記憶のなかに浮ぶ絵と目の前の生活の動きの間に板ばさみになったような眼つきをした。

 しかしすぐ、その立ち往生からぬけ出して、クラウデは、
 「サッサさん、是非あなたに御紹介したいひとがあります。
  いつ御都合いいでしょうか」
 と云った。
 伸子は語学の稽古や芝居へゆく予定のほかに先約らしいものもなかった。

 「そうですか、では、木曜日の十五時午後三時ですね、どうかわたしのうちへおいで下さい」
 クラウデは小さい手帖から紙をきりとって伸子のために自分の住所と地図をかいてわたした。

 ボリシャーヤ・モスコウスカヤと並んで、大きく古びたホテル・メトロポリタンの建物がクレムリンの外壁に面してたっていた。
 約束の木曜日に、伸子はその正面玄関の黒くよごれた鉄唐草の車よせの下から入って行った。

 もとはとなりのボリシャーヤ・モスコウスカヤのように派手な外国人向ホテルだったものが、革命後は、伸子の知らないソヴェトの機関に属す一定の人々のための住居になっている模様だった。
 受付に、クラウデの書いてよこした室番号を通じたら、そこへは、建物の横をまわって裏階段から入るようになっていた。
 伸子は、やっとその説明をききわけて、大きい建物の外廓についてまわった。

 積った雪の中にドラム罐がころがっているのがぼんやり見える内庭に向って、暗い階段が口を見せていた。
 あたりは荒れて、階段は陰気だった。
 冬の午後三時と云えば、モスクワの街々にもう灯がついているのに、ホテルの裏階段や内庭には、灯らしい灯もなかった。
 伸子は、用心ぶかくその暗い階段を三階まで辿りついた。

 そこで、踊り場に向ってしまっている重い防寒扉を押して入ると、そこは廊下で、はじめて普通の明るさと、人の住んでいる生気が感じられた。
 でも、どのドアもぴったりとしまっていて、あたりに人気はない。
 伸子は、ずっと奥まで歩いて行って、目ざす番号のドアのベルを押した。
 靴の音が近づいて来て、ドアについている戸じまりの鎖をはずす音がした。

 ドアをあけたのはクラウデであった。
 「こんにちは」
 「おお、サッサさん!
  さあ、どうぞおはいり下さい」
 そういうクラウデの言葉づかいはいんぎんだけれども、上着をぬいで、カラーをはだけたワイシャツの上へ喫煙服をひっかけたままであった。

 クラウデは日本の習慣を知っている。
 日本の習慣のなかで女がどう扱われているかということを知りぬいている外国人であるだけ、伸子はいやな気がして、
 「早く来すぎたでしょうか」
 ドアのところへ立ったまま少し意地わるに云った。
 「たいへんおいそがしそうですけれど……」
 「ああ、失礼いたしました。
  書きものをしていまして……」

 クラウデは、腕時計を見た。
 「お約束の時間です。
  どうぞ」
 伸子を、窓よりの椅子に案内して自分は、二つのベッドが並んでおかれている奥の方へゆき、そっちで、カラーをちゃんとし上衣を着て、戻って来た。
 「よくおいで下さいました。
  いまじき、もう一人のお客様も見えるでしょう」

 クラウデの住んでいるその室というのは奇妙な室だった。
 大きくて、薄暗くて、二つのベッドがおいてあるところと、伸子がかけている窓よりの場所との間に、何となし日本の敷居や鴨居でもあるように、区分のついた感じがあった。
 窓の下に暮れかかった雪の街路が見え、アーク燈の蒼白い光がうつっている。
 窓から見える外景が一層この室の内部の薄暗さや、雑然とした感じをつよめた。

 黙ってそこに腰かけ、窓のそとを眺めている伸子に、クラウデは、
 「わたしは、ここにブハーリンさんのお父さんと住んでいます」
 と云った。
 「ブハーリンさん、御存じでしょう? 
  あのひとのお父さんがこの室にいます」

 伸子はあきらかに好奇心を刺戟された。
 伸子がよんだたった一つの唯物史観の本はブハーリンが書いたものであったから。
 「ブハーリンの本は、日本語に翻訳されています」
 伸子は、ちょっと笑って云った。
 「お父さんのブハーリンも、やっぱり円い頭と円い眼をしていらっしゃいますか?」

 単純な伸子の質問を、クラウデは、何と思ったのかひどく真面目に、
 「ブハーリンさんのお父さんは立派な人ですよ」
 と、なにかを訂正するように云った。
 「わたしたちは、一緒に愉快に働いています」
 しかし、伸子はちっとも知らないのだった、三重顎のクラウデが、現在モスクワでどういう仕事に働いているのか。

 クラウデは、ちょいちょい手くびをあげて時計を見た。
 「サッサさん、もうじき、もう一人のお客様もおいでになります。
  わたくし、用事があって外出します。
  お二人で、ごゆっくり話して下さい。
  それでよろしいでしょう?」
 クラウデにとってそれでよいのならば、伸子は格別彼にいてもらわなくては困るわけもなかった。

 「いま来るお客さま、中国のひとです。
  女の法学博士です」
 そのひとが伸子に会おうという動機は何なのだろう。
 「でも、わたしたち、そのかたとわたし、どういう言葉で話せるのかしら。
  わたしのロシア語はあんまり下手です」
 「そのご心配いりません。
  英語、達者に話します」

 また時計をみて、クラウデは椅子から立ち上った。
 「御免下さい。
  もう時間がありませんから、わたくし、失礼して仕度いたします」
 薄暗い奥の方で書類らしいものをとりまとめてから、クラウデは低い衣裳箪笥の前へもどって来た。
 そこの鏡に向って、禿げている頭にのこっている茶色の髪にブラッシュをかけはじめた。

 はなれた窓ぎわに、クラウデの方へは斜めに背をむけて伸子がかけている。
 その目の端に思いがけないピノーのオー・ド・キニーヌの新しい瓶が映った。
 伸子は駭《おどろ》きににた感じをうけた。
 モスクワで、この雑然として薄暗い独身男の室で、子供のときから父親の匂いと云えば体温にとけたその濃く甘い匂いしか思い出せないオー・ド・キニーヌの真新しい瓶を見出したのは意外だった。

 この化粧料はあたりまえではモスクワで買うことの出来ないものでもある。
 柘榴《ざくろ》石のように美しく深紅色に輝いて鏡の前におかれているオー・ド・キニーヌの瓶は、父を思い出させるだけ、よけい伸子に、クラウデの生活をいぶかしく思う感情をもたせた。
 舶来もののオー・ド・キニーヌ。
 そして、ブハーリンさんのお父さん。
 それらはみんなクラウデと、どんなゆきがかりを持っているのだろうか。
 伸子のこころに、えたいのしれないところへ来たという感じが段々つよくなりかかった。

 そのとき、大きなひびきをたてて入口のベルが鳴った。
 「ああ、お客様でしょう」
 出て行ったクラウデは、やがて一人の茶色の大外套を着た女のひとを案内して戻って来た。
 襟に狼の毛のついた外套をぬぎ、頭をつつんでいた柔かい黒毛糸のショールをとると、カラーのつまった服をつけた四十近い婦人が現れた。

 男も女も頬っぺたが赧くて角ばった体つきのひとが多いこのモスクワで、その中国婦人の沈んだクリーム色の肌や、しっとりと撫でつけられた黒い髪は伸子の目に安らかさを与えた。

 時間を気にしているクラウデは、あわただしくその中国婦人と伸子とをひきあわせた。
 「リン博士です。
  このかたの旦那様、やっぱり法学博士で、いまはお国へかえっておられます」

 リンという婦人に、クラウデはロシア語で紹介した。
 「お話しした佐々伸子さん。
  日本の進歩的な婦人作家です」
 そして、リン博士と伸子とが握手している間に、
 「では、どうぞごゆっくり」
 と、クラウデは、外套を着て室から出て行った。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング