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名作を読みませんかコミュの「野菊の墓」  伊藤左千夫  5

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 僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり思われて仕方がない。
 学校に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分で自分を叱り励まして見ても何の甲斐もない。

 そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。

 多くの人中に居ればどうにか紛れるので、日の中はなるたけ一人で居ない様に心掛けて居た。
 夜になっても寝ると仕方がないから、なるたけ人中で騒いで居て疲れて寝る工夫をして居た。
 そういう始末でようやく年もくれ冬期休業になった。

 僕が十二月二十五日の午前に帰って見ると、庭一面に籾《もみ》を干してあって、母は前の縁側に蒲団《ふとん》を敷いて日向ぼっこをしていた。
 近頃はよほど体の工合もよい。

 今日は兄夫婦と男とお増とは山へ落葉《くず》をはきに行ったとの話である。
 僕は民さんはと口の先まで出たけれど遂《つい》に言い切らなかった。
 母も意地悪く何とも言わない。
 僕は帰り早々民子のことを問うのが如何にも極り悪く、そのまま例の書室を片づけてここに落着いた。

 しかし日暮までには民子も帰ってくることと思いながら、おろおろして待って居る。
 皆が帰っていよいよ夕飯ということになっても民子の姿は見えない、誰もまた民子のことを一言も言うものもない。

 僕はもう民子は市川へ帰ったものと察して、人に問うのもいまいましいから、外の話もせず、飯がすむとそれなり書室へ這入ってしまった。
 今日は必ず民子に逢われることと一方ならず楽しみにして帰って来たのに、この始末で何とも言えず力が落ちて淋しかった。

 さりとて誰にこの苦悶《くもん》を話しようもなく、民子の写真などを取出して見て居ったけれど、ちっとも気が晴れない。
 またあの奴民子が居ないから考え込んで居やがると思われるも口惜《くや》しく、ようやく心を取直し、母の枕元へいって夜遅くまで学校の話をして聞かせた。

 翌《あ》くる日は九時頃にようやく起きた。
 母は未だ寝ている。
 台所へ出て見ると外の者は皆また山へ往ったとかで、お増が一人台所片づけに残っている。
 僕は顔を洗ったなり飯も食わずに、背戸の畑へ出てしまった。

 この秋、民子と二人で茄子《なす》をとった畑が今は青々と菜がほきている。
 僕はしばらく立って何所《いずこ》を眺めるともなく、民子の俤を脳中にえがきつつ思いに沈んでいる。

 「政夫さん、何をそんなに考えているの」
 お増が出し抜けに後からそいって、近くへ寄ってきた。
 僕がよい加減なことを一言二言いうと、お増はいきなり僕の手をとって、も少しこっちへきてここへ腰を掛けなさいまアと言いつつ、藁《わら》を積んである所へ自分も腰をかけて僕にも掛けさせた。

 「政夫さん……。
  お民さんはほんとに可哀相でしたよ。
  うちの姉さんたらほんとに意地曲りですからネ。
  何という根性の悪い人だか、私もはアここのうちに居るのは厭になってしまった。
  昨日政夫さんが来るのは解りきって居るのに、姉さんがいろんなことを云って、一昨日お民さんを市川へ帰したんですよ。
  待つ人があるだっぺとか逢いたい人が待ちどおかっぺとか、当こすりを云ってお民さんを泣かせたりしてネ、お母さんにも何でもいろいろなこと言ったらしい、とうとう一昨日お昼前に帰してしまったのでさ。
  政夫さんが一昨日きたら逢われたんですよ。
  政夫さん、私はお民さんが可哀相で可哀相でならないだよ。
  何だってあなたが居なくなってからはまるで泣きの涙で日を暮らして居るんだもの、政夫さんに手紙をやりたいけれど、それがよく自分には出来ないから口惜しいと云ってネ。
  私の部屋へ三晩も硯《すずり》と紙を持ってきては泣いて居ました。
  お民さんも始まりは私にも隠していたけれど、後には隠して居られなくなったのさ。
  私もお民さんのためにいくら泣いたか知れない……」
 見ればお増はもうぽろぽろ涙をこぼしている。

 一体お増はごく人のよい親切な女で、僕と民子が目の前で仲好い風をすると、嫉妬心《しっとしん》を起すけれど、もとより執念深い性でないから、民子が一人になれば民子と仲が好く、僕が一人になれば僕を大騒ぎするのである。
 それからなおお増は、僕が居ない跡で民子が非常に母に叱られたことなどを話した。

 それは概略こうである。
 意地悪の嫂《あによめ》が何を言うても、母が民子を愛することは少しも変らないけれど、二つも年の多い民子を僕の嫁にすることはどうしてもいけぬと云うことになったらしく、それには嫂もいろいろ言うて、嫁にしないとすれば、二人の仲はなるたけ裂く様な工夫をせねばならぬ。

 母も嫂もそういう心持になって居るから、民子に対する仕向けは、政夫のことを思うて居ても到底駄目であると遠廻しに諷示《ふうじ》して居た。
 そこへきて民子が明けてもくれてもくよくよして、人の眼にもとまるほどであるから、時々は物忘れをしたり、呼んでも返辞が遅かったりして、母の疳癪《かんしゃく》にさわったことも度々あった。

 僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の月初めの頃、民子も外の者と野へ出ることとなって、母が民子にお前は一足跡になって、座敷のまわりを雑巾掛《ぞうきんがけ》してそれから庭に広げてある蓆《むしろ》を倉へ片づけてから野へゆけと言いつけた。

 民子は雑巾がけをしてからうっかり忘れてしまって、蓆を入れずに野へ出た処、間がわるくその日雨が降ったから、その蓆十枚ばかりを濡らしてしまった。
 民子は雨が降ってから気がついたけれど、もう間に合わない。

 うちへ帰って早速母に詫《わ》びたけれど母は平日の事が胸にあるから、
 「何も十枚ばかりの蓆が惜しいではないけれど、一体私の言いつけを疎《おろそ》かに聞いているから起ったことだ。
  もとの民子はそうでなかった。
  得手勝手な考えごとなどしているから、人の言うことも耳へ這入《はい》らないのだ……」
 という様な随分痛い小言を云った。

 民子は母の枕元近くへいって、どうか私が悪かったのですから堪忍《かんにん》して……と両手をついてあやまった。
 そうすると母はまたそう何も他人らしく改まってあやまらなくともだと叱ったそうで、民子はたまらなくなってワッと泣き伏した。
 そのまま民子が泣きやんでしまえば何のこともなく済んだであろうが、民子はとうとう一晩中泣きとおしたので翌朝は眼を赤くして居た。

 母も夜時々眼をさましてみると、民子はいつでも、すくすく泣いている声がしていたというので、今度は母が非常に立腹して、お増と民子と二人呼んで母が顫声《ふるえごえ》になって云うには、
 「相対《あいたい》では私がどんな我儘なことを云うかも知れないからお増は聞人《ききて》になってくれ。
  民子はゆうべ一晩中泣きとおした。
  定めし私に云われたことが無念でたまらなかったからでしょう」

 民子はここで私はそうでありませんと泣声でいうたけれど、母は耳にもかけずに、
 「なるほど私の小言も少し云い過ぎかも知れないが、民子だって何もそれほど口惜《くや》しがってくれなくてもよさそうなものじゃないか。
  私はほんとに考えると情なくなってしまった。
  かわいがったのを恩に着せるではないが、もとを云えば他人だけれど、乳呑児《ちのみご》の時から、民子はしょっちゅう家へきて居て今の政夫と二つの乳房を一つ宛《ずつ》含ませて居た位、お増がきてからもあの通りで、二つのものは一つ宛四つのものは二つ宛、着物を拵えてもあれに一枚これに一枚と少しも分け隔てをせないできた。民子も真の親の様に思ってくれ私も吾子と思って余所の人は誰だって二人を兄弟と思わないものはなかったほどであるのに、あとにも先にも一度の小言をあんなに悔しがって夜中泣いて呉れなくともよさそうなもの。
  市川の人達に聞かれたらば、斎藤の婆《ばあ》がどんな非度《ひど》いことを云ったかと思うだろう。
  十何年という間我子の様に思ってきたこともただ一度の小言で忘れられてしまったかと思うと私は口惜しい。
  人間というものはそうしたものかしら。
  お増、よく聞いてくれ、私が無理か民子が無理か。
  なアお増」
 母は眼に涙を一ぱいに溜めてそういった。

 民子は身も世もあらぬさまでいきなりにお増の膝へすがりついて泣き泣き、
 「お増や、お母さんに申訣をしておくれ。私はそんなだいそれた了簡《りょうけん》ではない。
  ゆんべあんなに泣いたは全く私が悪かったから、全く私がとどかなかったのだから、お増や、お前がよく申訣をそういっておくれ……」

 それからお増が、
 「お母さんの御立腹も御尤もですけれど、私が思うにャお母さんも少し勘違いをして御いでなさいます。
  お母さんは永年お民さんをかわいがって御いでですから、お民さんの気質《きだて》は解って居りましょう。
  私もこうして一年御厄介になって居てみれば、お民さんはほんと優しい温和《おとな》しい人です。
  お母さんに少し許り叱られたって、それを悔しがって泣いたりなんぞする様な人ではありますまい。
  私がこんなことを申してはおかしいですが、政夫さんとお民さんとは、あアして仲好くして居たのを、何かの御都合で急にお別れなさったもんですから、それからというもの、お民さんは可哀相なほど元気がないのです。
  木の葉のそよぐにも溜息《ためいき》をつき烏《からす》の鳴くにも涙ぐんで、さわれば泣きそうな風でいたところへ、お母さんから少しきつく叱られたから留度《とめど》なく泣いたのでしょう。
  お母さん、私は全くそう思いますわ。
  お民さんは決してあなたに叱られたとて悔しがるような人ではありません。
  お民さんの様な温和しい人を、お母さんの様にあアいって叱っては、あんまり可哀相ですわ」

 お増が共泣きをして言訣をいうたので、もとより民子は憎くない母だから、俄に顔色を直して、
 「なるほどお増がそういえば、私も少し勘違いをしていました。
  よくお増そういうてくれた。
  私はもうすっかり心持がなおった。
  民や、だまっておくれ、もう泣いてくれるな。
  民やも可哀相であった。
  なに政夫は学校へ行ったんじゃないか、暮には帰ってくるよ。
  なアお増、お前は今日は仕事を休んで、うまい物でも拵《こしら》えてくれ」

 その日は三人がいく度もよりあって、いろいろな物を拵えては茶ごとをやり、一日面白く話をした。
 民子はこの日はいつになく高笑いをし元気よく遊んだ。
 何と云っても母の方は直ぐ話が解るけれど、嫂が間《ま》がな隙《すき》がな種々《いろいろ》なことを言うので、とうとう僕の帰らない内に民子を市川へ帰したとの話であった。
 お増は長い話を終るや否やすぐ家へ帰った。

 なるほどそうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、か弱い望も絶えたも同様。心細さの遣瀬《やるせ》がなく、泣くより外に詮《せん》がなかったのだろう。
 そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なるほどなどと思うと、再び熱い涙が漲《みなぎ》り出してとめどがない。
 僕はしばらくの間、涙の出るがままにそこにぼんやりして居った。

 その日はとうとう朝飯もたべず、昼過ぎまで畑のあたりをうろついてしまった。
 そうなると俄《にわか》に家に居るのが厭でたまらない。
 出来るならば暮の内に学校へ帰ってしまいたかったけれど、そうもならないでようやくこらえて、年を越し元日一日置いて二日の日には朝早く学校へ立ってしまった。

 今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、民子の近所を通ったのであれど、僕は極りが悪くてどうしても民子の家へ寄れなかった。
 また僕に寄られたらば、民子が困るだろうとも思って、いくたび寄ろうと思ったけれどついに寄らなかった。

 思えば実に人の境遇は変化するものである。
 その一年前までは、民子が僕の所へ来て居なければ、僕は日曜のたびに民子の家へ行ったのである。
 僕は民子の家へ行っても外の人には用はない。
 いつでも、
 「お祖母さん、民さんは」
 そら「民さんは」が来たといわれる位で、或る時などは僕がゆくと、民子は庭に菊の花を摘んで居た。

 僕は民さん一寸《ちょっと》御出でと無理に背戸へ引張って行って、二間梯子《にけんばしご》を二人で荷《にな》い出し、柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、僕が登って柿を六個《むっつ》許りとる。
 民子に半分やれば民子は一つで沢山というから、僕はその五つを持ってそのまま裏から抜けて帰ってしまった。

 さすがにこの時は戸村の家でも家中で僕を悪く言ったそうだけれど、民子一人はただにこにこ笑って居て、決して政夫さん悪いとは言わなかったそうだ。
 これ位隔てなくした間柄だに、恋ということ覚えてからは、市川の町を通るすら恥《はず》かしくなったのである。

 この年の暑中休みには家に帰らなかった。
 暮にも帰るまいと思ったけれど、年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日《おおみそか》の夜帰ってきた。

 お増も今年きりで下《さが》ったとの話でいよいよ話相手もないから、また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民子は嫁に往《い》った、去年の霜月やはり市川の内で、大変裕福な家だそうだ、と簡単にいうのであった。
 僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。

 民子は嫁に往った。
 この一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思うほどの平気であった。
 僕が民子を思っている感情に何らの動揺を起さなかった。
 これには何か相当の理由があるかも知れねど、ともかくも事実はそうである。

 僕はただ理窟なしに民子は如何な境涯に入ろうとも、僕を思っている心は決して変らぬものと信じている。
 嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思われて、その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で毛の先ほどの危惧心《きぐしん》もない。
 それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。

 しかしその頃から今までにない考えも出て来た。
 民子はただただ少しも元気がなく、痩《やせ》衰えて鬱《ふさ》いで許り居るだろうとのみ思われてならない。
 可哀相な民さんという観念ばかり高まってきたのである。

 そういう訣であるから、学校へ往っても以前とは殆ど反対になって、以前は勉めて人中へ這入って、苦悶を紛らそうとしたけれど、今度はなるべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳《は》せて楽しんで居った。

 茄子畑の事や棉畑《わたばたけ》の事や、十三日の晩の淋しい風や、また矢切の渡で別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。

 民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる。
 勿論悲しい心持になることがしばしばあるけれど、さんざん涙を出せばやはり跡は気分がよくなる。

 民子の事を思って居ればかえって学課の成績も悪くないのである。
 これらも不思議の一つで、如何なる理由か知らねど、僕は実際そうであった。

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