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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  4

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 時おり彼は、母親が向うを向いてる隙《すき》に乗じて、家から外にぬけ出す。
 初めのうちは、後から追いかけられてつかまってしまう。
 後になると、あまり遠くへさえ行かなければ、一人で出かけるままに放っておかれる。

 彼の家は町はずれにある。
 すぐそばから野原がつづいている。
 彼は窓が見える間は、時々片足で飛びながら、ちょこちょこと足をふみしめて、ちっとも立止まらないで歩いてゆく。
 けれども、道の曲り角を通りすぎると、藪《やぶ》に隠されてだれからも見られなくなると、にわかに様子を変える。
 まず立止まっては指を口にくわえて、今日はどういう話をみずから語ろうかと考える。

 頭の中にいっぱい話をもってるのである。
 もとよりその話はどれも皆似寄ったもので、また三、四行で書き終えられるくらいのものである。

 彼はそのどれかを選ぶ。
 たいていはいつも同じ話をとり上げて、それを前日話し残したところからやりだすか、または違った趣向をたてて初めからやりだす。

 新しい話の筋道を考え出すには、ごく些細《ささい》なことで十分である、ふと耳にした一言で十分である。
 偶然の事柄からいつもたくさんの思い付が出てきた。
 垣根のほとりに落ちてるような(落ちていなければ折り取ってしまうのだが)、ちょっとした木片や折枝などから、どんなものが引き出されるかは、人の想像にも及ぶまい。

 それらのものは妖精《ようせい》の杖《つえ》であった。
 長いまっすぐなものは、鎗《やり》になったり剣になったりした。
 それを打振りさえすれば、多くの軍隊が湧き出した。
 クリストフはその大将で、先頭に立って進み、模範を垂れ、斜面を進撃して上っていった。

 枝がしなやかな時には、鞭《むち》になった。
 クリストフは馬に乗って、断崖《だんがい》を飛び越えた。
 時とすると馬が足を滑らした。
 すると馬上の騎士は、溝の底に落ち込んで、よごれた手や擦《す》りむいた膝頭をきまり悪げに眺めた。

 杖が小さい時には、クリストフは管弦楽団の長となった。
 彼は指揮者でありまた楽員であった。
 指揮し、また歌った。
 それから彼は、小さな緑の頭が風に動いてる藪に向かってお辞儀をした。

 彼はまた魔法使であった。
 よく空を眺めながら大手を振って、大股《おおまた》に野の中を歩いた。
 彼は雲に命令を下した。
 「右へ行け。」
 しかし雲は左へ動いていた。
 すると彼は雲をののしって、命令を繰返した。

 自分の命令に従う小さなのでもありはすまいかと思って、胸を躍《おど》らせながら横目で窺《うかが》った。
 しかし雲は平然と左の方へ飛びつづけた。
 彼は足をふみ鳴らし、杖を振り上げて雲をおどかし、左へ行けと怒って命令をかけた。
 するとこんどは、雲はまったくその命令に服した。
 彼は自分の力に喜んで得意になった。

 お伽噺《とぎばなし》で聞いたように、金色の馬車になれと命じながら花にさわった。
 そして実際にはそういうことは起こらなかったけれど、少し辛抱していればきっと起こるだろうと思い込んでいた。
 彼は一匹の蟋蟀《こおろぎ》を捜し出して、それを馬にしようとした。
 蟋蟀の背中にそっと杖をあてて、一定の呪文《じゅもん》を唱えた。

 虫は逃げ出した。
 彼はその行く手をさえぎった。
 しばらくすると、彼は虫のそばにはらばいに寝転んで、じっと眺めた。
 もう魔法使の役目を忘れてしまって、そのあわれな虫を仰向《あおむけ》にひっくり返しては、それがもがき苦しむのに笑い興じた。

 彼は自分の魔法杖に古糸を付けることを考えだした。
 彼は真面目《まじめ》くさってそれを河の中に投げ込み、魚が食いに来るのを待った。
 魚というものは普通、餌《えさ》も鈎《かぎ》もない糸を食うものではないということは、彼もよく知っていたけれど、しかし一度くらいは、自分のために、魚が例外なことをするかもしれないと思っていた。

 そしてすっかり自惚《うぬぼ》れのあまり、ついに溝板《みぞいた》の割目から杖を差入れて、往来の中で釣《つり》をするまでになった。
 心を躍らせて時々その杖を引上げながら、こんどは糸が前より重いと考えたり、祖父から聞いた話にあったように、何かの宝を引き上げるのではないかと想像したりした……。

 そういうことをして遊んでる最中に、不思議な夢心地とまったくの忘却とに陥る瞬間があった。
 周囲のすべてのものは消え失せてしまって、もう自分が何をしているかをも知らず、自分自身をも忘れはてた。
 よくそんなことが不意に彼を襲った。

 歩いてる時、階段を上りかけてる時、突然空虚が開けてきた。
 彼はもう何にも考えていないようだった。
 そして我に返ってみると、前と同じ場所に、薄暗い階段の中ほどに、自分を見出して呆然《ぼうぜん》としてしまった。
 それはあたかも、一つの生涯を過してしまったようなものだった。
 階段の二、三段ばかりの場所で。

 祖父はしばしば夕方の散歩に彼を連れていった。
 子供は祖父に手を引かれて、小股《こまた》に足を早めながら並んで歩いた。
 彼らはいつも、快い強い匂いのする耕作地を横ぎって、小道を通っていった。
 蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。

 道にはだかって横顔を見せてる大型の烏《からす》が、遠くから二人の来るのを眺めていたが、間近になると重々しく飛び去った。
 祖父はよく咳《せき》払いをした。
 クリストフはその意味をよく知っていた。
 老人は何か話を聞かせたくてたまらなかったが、まず子供の方からせがんでもらいたかったのである。
 するとクリストフはきっと話をせがんだ。

 二人の気持はたがいによく通じ合っていた。
 老人は孫にたいして深い愛情をいだいていた。
 そして孫のうちに熱心な聴衆を見出すことは、彼の喜びであった。
 自分の生涯中の出来事や、古今の偉人の話を、彼は好んで語ってきかした。
 そういう時彼の声は、調子づいてきて情に激していた。
 押えきれぬ子供らしい喜びに震えていた。

 彼は夢中になってみずから自分の言葉に聞きとれてるらしかった。
 語ろうとする時にあいにく言葉が見つからないこともあった。
 しかし彼はその失望に慣れていた。
 雄弁の発作と同じくらいに何度もくり返されたからである。
 そして話し始むればいつもその失望を忘れてしまったから、いつまでもそれを諦《あきら》めることができなかった。

 彼がよく話すのは、レギュリュスのことや、アルミニュスのことや、リューツォフの軽騎兵のことや、ケルネルのことや、皇帝ナポレオンを殺そうとしたフレデリック・スターブスのことであった。
 異常な武勇談を口にのぼせると、彼の顔は輝いてきた。
 荘重な言葉をやたらに厳《いかめ》しい調子でしゃべるので、まったく聞き分けられなくなるほどだった。

 そして彼は、聴手《ききて》が胸を躍らせる時分に少しじらしてやることを、上手《じょうず》なやり方と信じていた。
 彼は言葉を途切らし、息苦しそうなふうを装い、騒々しく鼻をかんだ。
 そして子供が、待遠しさのあまり息詰った声で、「それから、お祖父《じい》さん、」と尋ねると、彼の心は有頂天《うちょうてん》になった。

 その後、クリストフはだんだん大きくなって、ついに祖父の手段を見破るようになった。
 すると彼はもう意地悪くも、話の続きにたいして冷淡なふうを装うことを努めた。
 あわれな老人はそれに困らされた。

 しかしまだ今のところでは、彼はまったく話手の自由になっていた。
 そして彼の血は、劇的な部分を聞くととくに躍りたった。
 もうなんという人のことやら、またそれらの手柄がどこでいつなされたのやら、あるいは祖父が果してアルミニュスを知っていたかどうか、レギュリュスというのはこの前の日曜に教会堂で見かけた人、その訳は神のみぞ知る、ではないかどうか、そんなことは彼には分らなくなった。

 彼の心は、また老人の心は、勇ましい手柄話になると、あたかもそれをしたのは自分たちであるかのように、自慢の念にふくれ上がった。
 なぜなら、老人も子供もともに等しく赤ん坊だったから。
 祖父が勇壮な話の中途に、心に大切にしまってる議論の一つをはさむ時には、クリストフはあまり嬉《うれ》しくなかった。
 それはおもに道徳上の意見であって、正しくはあるがやや陳腐《ちんぷ》な一つの思想にたいていつづめられるようなものだった。

 たとえば、
 「温和は過激に優《まさ》る」
 「名誉は生命よりも貴し」
 「邪悪なるは善良なるに如《し》かず」などと。
 そしてただ、それよりもずっと錯雑してるだけだった。

 祖父は自分の幼い聴手の批評を恐れてはいなかった。
 そしていつも心ゆくかぎりおおげさな調子で口をきいた。
 少しもはばからずに、同じ文句をくり返したり、中途で言葉を途切らしたり、また議論の途中でまごつく時には、思想の破綻《はたん》をふさごうとして、なんでも頭に浮かぶことをでたらめに言ったりした。
 そして言葉をいっそう力強くなすためには、その意味と矛盾する身振りをさえ添えた。

 子供はごくかしこまって耳を傾けていた。
 そして、祖父は非常に雄弁だが多少退屈だと、彼は考えていた。
 二人とも好んで、ヨーロッパを征服したあのコルシカの偉人に関する伝説的な物語に、何度も立ちもどっていった。

 祖父は彼を知っていた。
 かつてはも少しで彼と矛《ほこ》を交ゆるところだった。
 しかし祖父は敵の偉さをも認めることができた。
 幾度となくそれを口にした。
 あれほどの人物がラインのこちらに生まれるなら、片腕くらいくれてやっても惜しまなかったろう。

 しかし運命はそうは許さなかった。
 祖父は彼を賛美していたが、彼と戦った。
 言い換えれば、まさに彼と戦おうとしたのだった。
 けれども、ナポレオンがすでに十里ばかりの距離に迫ってき、それと会戦を期して進軍していた時、その小軍勢は突然狼狽《ろうばい》し出して、森の中に潰走《かいそう》してしまった。

 「謀叛《むほん》だ!」と叫びながらだれも皆逃げ出してしまった。
 逃走者を引きとめようとしたが駄目《だめ》だった、と祖父は話してきかした。
 祖父は彼らの前に身を投げ出して、おどかしたり涙を流して説いたりした。
 けれども逃走者の人波に巻き込まれて、翌日になると、戦場と祖父は潰走の場所を呼んでいた、から驚くほど遠くに来てしまっていたのである。

 それでも、クリストフはいつも急《せ》き込んで、その英雄の勳功談に祖父を引きもどした。
 そして世界じゅうを馬蹄《ばてい》にふみにじった驚くべき話に魅せられてしまった。

 眼の前に浮かび出すその英雄は、無数の人民を後ろに従えていた。
 人民らは敬愛の叫びを発していて、彼の合図一つで群がりたって敵に飛びかかってゆき、敵はいつも敗走した。
 それはまったくお伽噺《とぎばなし》と同じだった。
 祖父は話を面白くするために、余計なものまで少しつけ加えた。

 その英雄はスペインを征服していた。
 許すことのできないイギリスをもほとんど征服していた。
 時とすると老クラフトは、その熱烈な物語の中で、この英雄にたいする憤慨の語を交えることもあった。
 愛国の精神が彼のうちに目覚めていた。
 そしておそらく、イエナの戦《いくさ》の話よりも、皇帝の敗北の条《くだり》においていっそうそうであったろう。

 彼は言葉を途切らして、ライン河に拳固《げんこ》をさしつけ、軽侮の様子で唾《つば》を吐き、上品な罵言《ばげん》、他の下等な罵言を吐くほど彼は自分を卑しくしなかった、を発した。
 悪人、猛獣、不徳漢、などとその英雄を呼んだ。

 そしてかかる言葉がもし、子供の精神の中に正義の観念をうち立てるのを目的としていたのなら、それは的はずれのものであったというべきである。
 なぜなら、子供の論理は次のように結論しやすかったから。
 「もしあんな偉い人が徳義をもっていなかったとするならば、徳義などということは大したものではない、最も大事なのは、偉い人になるということだ。」

 しかし老人は、自分のそばにようやく一人立ちをしかけてる幼い思想については、露ほどの察しもなかった。
 二人はそれらの素敵な話をめいめい自己流に考え耽《ふけ》りながら、いずれも黙っていた。

 ただ途中で祖父が、自分を贔屓《ひいき》にしてくれてる上流のだれかが散歩してるのに出会うと、そうはいかなかった。
 祖父はいつまでも立止って、低くお辞儀をし、やたらに追従《ついしょう》的なお世辞を並べたてた。
 子供はそれを見て、なぜともなく顔を赤くした。

 しかし祖父は、既成権力と「成上り者」とにたいしては、心の底に尊敬の念をいだいていた。
 話の主人公たる英雄らを彼があれほど好きだったのは、よく成上りえた人物を、他の者より高い地位に達しえた人物を、彼らのうちに見出していたせいかもしれなかった。

 ごく暑い時には、老クラフトはよく木蔭にすわった。
 そして間もなく仮睡することが多かった。
 するとクリストフは祖父のそばで、ぐらぐらする石積の横の方や、標石や、またどんなに不安定で変なものであろうと何か高いものがあれば、その上に腰を下した。
 そして小さな足をぶらぶら動かしながら、小声で歌ったりぼんやり考え耽ったりした。

 あるいはまた仰向《あおむけ》に寝転んで、雲の飛ぶのを眺めた。
 雲は、牛や、巨人や、帽子や、婆さんや、広々とした景色など、いろんな形に見えた。
 彼はそれらの雲とひそかに話をした。
 小さな雲が大きいのにのみ込まれようとするのを見ては、あわれみの念を起こした。

 またほとんど青いとさえ言えるほど真っ黒なのや、非常に速く走るのを見ては、恐ろしいように思った。
 それらの雲が人生にも大きな場所を占めてるように思われた。
 そして祖父や母がそれに少しも注意を払わないのが、不思議でたまらなかった。
 もし悪を働く意志をもってたら、恐ろしい者となるに違いなかった。
 が幸いにもそれらは、人のよい多少おどけたふりをして通りすぎて、少しも止まらなかった。

 子供はあまり見つめていたので、しまいには眩暈《めまい》がしてきた。
 そして空の深みへ落ち込みかかってるかのように、手足をわなわな震わした。
 眼瞼《まぶた》がまたたいて、眠気がさしてきた……。

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