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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 1

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私は、

「魅せられたる魂」  ロマン・ロラン
「道標」       宮本 百合子
「さきに愛ありて」  藤原 審爾

 これら3つの作品を、女性の必読書だと思っています。
 女性の(ひいては、人間の)生き方を、正面から真摯にとりあげた傑作だと思います。

 「魅せられたる魂」は、第一次世界大戦の時期、
 「道標」は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の中間の時期、
 「さきに愛ありて」は、1970年代の時期に生きた女性を、描いています。

 「さきに愛ありて」は、著作権の関係で、載せられませんし、「魅せられたる魂」は、「青空文庫」でも公開されていません。

 それで、きょうから「道標」を毎日載せていきますので、よかったらお読みください。



   道標 第一部

    第一章

        一

 からだの下で、列車がゴットンと鈍く大きくゆりかえしながら止った。
 その拍子に眼がさめた。
 伸子は、そんな気がして眼をあけた。

 だが、伸子の眼の前のすぐそばには緑と白のゴバン縞のテーブルかけをかけた四角いテーブルが立っている。

 そのテーブルの上に伸子のハンド・バッグだの素子の書類入鞄だのがごたごたのっていて、目をうつすと白く塗られた入口のドアの横に、大小数個のトランク、二つの行李、ハルビンで用意した食糧入れの柳製大籠などが、いかにもひとまずそこまで運びこんだという風に積みあげられている。

それらが、薄暗い光線のなかに見えた。

 素子は伸子の位置からすればTの型に、あっちの壁によせておかれているベッドで睡っている。

 それも、やっぱり薄暗い中に見える。

 ここはモスクだったのだ。
 伸子は急にはっきり目がさめた。
 自分たちはモスクワについている。

 モスクワ。

 きのう彼女たちが北停車場へ着いたのは午後五時すぎだった。

 北国の冬の都会は全く宵景色で、駅からホテルまで来るタクシーの窓からすっかり暮れている街と、街路に流れている灯の色と、その灯かげを掠めて降っている元気のいい雪がみえた。

 タクシーの窓へ顔をぴったりよせてそとを見ている伸子の前を、どこか田舎風な大きい夜につつまれはじめた都会の街々が、低いところに灯かげをみせ、時には歩道に面した半地下室の店の中から扇形の明りをぱっと雪の降る歩道へ照し出したりして通りすぎた。

 通行人たちは黒い影絵となって足早にその光と雪の錯綜をよこぎっていた。

 それらの景色には、ヨーロッパの大都市としては思いがけないような人懐こさがあった。
 きょうはモスクワの第一日。
 その第一瞥。

 伸子はこみ上げて来る感情を抑えきれなくなった。
 ベッドのきしみで素子をおこさないようにそっと半身おきあがって、窓のカーテンの裾を少しばかりもちあげた。
 そこへ頭をつっこむようにして外を見た。
 二重窓のそとに雪が降っていた。

 伸子たちがゆうべついたばかりのとき、軽く降っていた雪は、そのまま夜じゅう降りつづけていたものと見える。

 見えない空の高みから速くどっさりの雪が降っていて、ひろくない往来をへだてた向い側の大工事場の足場に積り、その工事場の入口に哨兵の休み場のために立っている小舎のきのこ屋根の上にも厚くつもっている。

 雪の降りしきるその横町には人通りもない。
 きこえて来る物音もない。

 そのしずかな雪降りの工事場の前のところを、一人の歩哨が銃をつり皮で肩にかけてゆっくり行ったり来たりしていた。

 さきのとんがった、赤い星のぬいつけられたフェルトの防寒帽をかぶって、雪の面とすれすれに長く大きい皮製裏毛の防寒外套の裾をひきずるようにして、歩哨は行ったり来たりしている。

 彼に気づかれることのない三階の窓のカーテンの隅からその様子を眺めおろしている伸子の口元に、ほほえみが浮んだ。

 ふる雪の中をゆっくり歩いている歩哨は、あとからあとからとおちて来る雪に向って、血色のいい若い顔をいくらか仰向かせ、わざと顔に雪をあてるような恰好で歩いている。若い歩哨は雪がすきらしかった。

 自分たちの国のゆたかで荘重な冬の季節を愛していて、体の暖い若い顔にかかる雪がうれしいのだろう。
 雪のすきな伸子には、歩哨の若者が顔を雪にあてる感情がわかるようだった。

 「ぶこちゃん?」
 うしろで、目をさましたばかりの素子の声がした。
 伸子は、カーテンをもち上げていたところから頭をひっこめた。
 「めがさめた?」
 「あーあよくねた、何時ごろなんだろう」
 そう云えば伸子もまだ時計をみていなかった。
 「八時半だわ」
 素子は一寸の間黙っていたが、ベッドに横になったまま、
 「カーテンあけてみないか」
 と云った。

 伸子は、重く大きい海老《えび》茶木綿の綾織カーテンを勢よくひいた。
 狭いその一室に外光がさしこんだ。

 雪のふりしきる窓の全景があらわれ、うす緑色の塗料でぬられている彼女たちの室の壁が明るくなった。

 しかし、その明るさは大きい窓ガラス越しにふる雪の白さがかえって際だって見えるという程の明るさでしかなかった。

 「これじゃ仕様がない、ぶこちゃん、電気つけようよ」
 スイッチを押し、灯をつけてから、伸子はドアをあけて首だけ出すようにホテルの廊下をのぞいた。

 暗い十二月の朝の気配や降る雪にすべての物音を消されている外界の様子が伸子にもの珍しかった。
 廊下のはずれにバケツを下げた掃除女の姿が見えるばかりだった。

 廊下をへだてた斜向《はすむか》いの室のドアもまだしまったままで、廊下のはじにニッケルのサモワールが出してあった。

 サモワールは、ゆうべ秋山宇一が彼の室へとりよせて瀬川雅夫などと一緒に、伸子たちをもてなしてくれたその名残りだった。

 ドアをしめて戻ると、伸子は腑《ふ》におちない風で、
 「まだみんな寝てるのかしら?」
 と小声を出した。
 「まるでひっそりよ」
 「ふうん」
 ゆっくりかまえていた素子は、
 「どれ」
 とおき上ると、わきの椅子の背にぬぎかけてあったものを一つ一つとって手早く身仕度をととのえはじめた。

 二人で廊下へ出てみても、やっぱり森閑として人気がない。
 伸子たちは、ドアの上に57という室番号が小さい楕円形の瀬戸ものに書いてある一室をノックした。

 「はい」
 几帳面なロシア語の返事がドアのすぐうしろでした。
 素子がハンドルに手をかけると同時にドアは内側へひらかれた。

 「や、お早うございます。さあ、どうぞ」
 ロシア革命十周年記念の文化国賓として、二ヵ月ばかり前からモスクに来ている秋山宇一は、日本からつれて来た内海厚という外語の露語科を出た若いひととずっと一緒だった。

 ドアをあけたのは、内海だった。
 「どうでした?
  第一夜の眠り心地は?」
 窓よりに置いたテーブルに向って長椅子にかけている秋山宇一が、ちょっとしゃれた工合に頭をうなずかせて挨拶しながら伸子たちにきいた。

 「すっかりよく寝ちまった……なかなか降ってるじゃありませんか」
 素子がそう云いながら近づいて外を眺めるこの室の窓は、二つとも大通りの側に面していて、まうように降る雪をとおして通りの屋根屋根が見はらせた。

 「今年は全体に雪がおくれたそうです。
  四日だったかな、初雪がふったのは」
 すこし秋田訛《なまり》のある言葉を、内海は、ロシア語を話すときと同じように几帳面に発音した。

 「もう、これで根雪ですね。
  一月に入って、この降りがやむと、毎日快晴でほんとのロシアの厳冬《マローズ》がはじまります」

 秋山も、はじめてみるモスクワの冬らしい景色に心を動かされているらしかったが、
 「じゃ、瀬川君に知らせましょうか」
 と、内海をかえりみた。

 「朝飯前だったんですか」
 「ええ。あなたがたが起きられたら一緒にしようと思って」
 「まあ、わるかったこと」
 きまりのわるい顔で伸子があやまった。
 「わたしたち、寝坊してしまって」

 「いや、いいんです。
  私どもだって、さっき起きたばっかりなんですから。
  しかしソヴェトの人たちには、とてもかないませんね、実に精力的ですからね。
  夜あけ頃まで談論風発で、笑ったり踊ったりしているかと思うと、きちんと九時に出勤しているんだから」

 そこへ、黒背広に縞ズボンのきちんとした服装で瀬川雅夫が入って来た。
 日本のロシア語の代表的な専門家として瀬川雅夫も国賓だった。

 演劇専門の佐内満は十日ばかり前にモスクワからベルリンへ立ったというところだった。

 「お早うございます。
  いかがです?
  よくおやすみでしたか」
 秋山宇一は無産派の芸術家らしく、半白の長めな髪を総髪のような工合にかき上げている。

 瀬川雅夫は教授らしく髪をわけ、髭をたくわえている。
 それはいかにもめいめいのもっているその人らしさであった。

 その人らしいと云えば内海厚は、柔かい髪をぴったりと横幅のひろい額の上に梳《す》きつけて、黒ぶちのロイド眼鏡をかけているのだが、その髪と眼鏡と上唇のうすい表情とが、伸子に十九世紀のおしまい頃のロシアの大学生を思いおこさせた。

 内海厚自身、その感じが気に入っていなくはないらしかった。

 やがて五人の日本人はテーブルを囲んで、茶道具類とパン、バタなどをとりよせ、殆ど衣類は入っていない秋山の衣裳箪笥《だんす》の棚にしまってあったゆうべののこりの、塩漬|胡瓜《きゅうり》やチーズ、赤いきれいなイクラなどで朝飯をはじめた。

 「ロシアの人は昔からよくお茶をのむことが小説にも出て来ますが、来てみると、実際にのみたくなるから妙ですよ」
 瀬川雅夫がそう云った。

 「日本でも信州あたりの人はよくお茶をのみますね。
  大体寒い地方は、そうじゃないですか」
 もち前の啓蒙的な口調で、秋山が答えている。

 うまい塩漬胡瓜をうす切れにしてバタをつけたパンに添えてたべながらも、伸子の眼は雪の降っている窓のそとへひかれがちだった。

 モスクワの雪。
 活々した感情が動いて、伸子のこころをしずかにさせないのであった。

 雪そのものについてだけ云うならば、ハルビンを出たシベリア鉄道が、バイカル湖にかかってから大ロシアへ出るまで数日の間、伸子たちは十二月中旬の果しないシベリアの雪を朝から夜まで車窓に見て来た。

 それは曠野の雪だった。
 雪と氷柱につつまれたステイションで、列車の発着をつげる鐘の音が、カン、カン、カンと凍りついたシベリアの大気の燦きのなかに響く。

 白い寂寞は美しかった。
 列車がノヴォシビリスクに着いたとき、いつものとおり外気を吸おうとして雪の上へおりた伸子は、凍りきってキラキラ明るく光る空気がまるでかたくて、鼻の穴に吸いこまれて来ないのにびっくりした。

 おどろいて笑いながら、つづけて咳《せ》きをした。
 そこは零下三十五度だった。
 雪が珍しいというのではなく、こんなに雪の降る、このモスクワの生活が、伸子の予感をかきたてるのであった。

 食事も終りかかったころ、瀬川雅夫が、
 「さて、あなたがたのきょうのスケジュールはどういう風です?」
 と、伸子たちにきいた。

 「別にこれってきめてはいないんですがね」
 きな粉《こ》色のスーツが黒い髪によく似合っている素子が答えた。

 「大使館へでも一寸顔だしして来ようかと思っているんだけど。
  手紙類を、大使館気づけで受けとるようにして来たから……」

 秋山宇一は、黙ったままそれをききながら小柄な体で、重ね合わせている脚をゆすった。
 「じゃ、こうなさい」

 席から立ちかけながら、瀬川が云った。
 「もう三十分もすると、どうせ私も出かけてВОКС《ヴオクス》へ行かなけりゃならない用がありますから、御案内しましょう。

  ВОКС《ヴオクス》は、いずれ行かなければならないところでしょうから」
 「それがいいですよ。ВОКС《ヴオクス》を訪ねることは重要ですよ」

 濃くて長い眉の下に、不釣合に小さい二つの眼をしばたたきながら、我からうなずくようにして秋山宇一が云った。

 「外国の文化人たちは、みんな世話になっているんですから」
 「じゃ、それでいいですね」
 瀬川が実務家らしく話をうちきった。

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