ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

哲学ノオトコミュの哲学って、どんなことするんですか?の正しい答えについて。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
親や友人その他から、ちょっと哲学って名前をだしただけで
哲学に突っ込んで聞く輩がいる。
そういうフリが来られた瞬間、がっかりする。
どう説明してやっても、その輩にはわかった試しがないからだ。


この手の質問にどう答えたらいいかをどうのこうのするトピック。

コメント(44)

「哲学ってなにやるの?」という普通人の普通の問いに対して、



「考えることだよ。」とか、「愛知だよ。」とか言ってみても、
普通の人は「はぁ。。。」と答えるだけで、
まったくわかってもらえないよ…
まして、そこでイデア論とか他者論とか因果関係とか出したら、
最後、変人扱い。
何言ってんの、こいつ?みたいな視線で迎えられる。
これがつらい。


ちなみに自分は「愛ってなにって考えたりしてます。」ってことでごまかしてます
> Kさん
> ちなみに自分は「愛ってなにって考えたりしてます。」ってことでごまかしてます

いい答えだと思う
人によっては「さぶー!」とかいうかもしれないけど
イデアとかいっても、不審に思われるのは無理もないと思う
自分自身、イデアを知ったのは4、5年前に「ソフィーの世界」を読んでからだから
それまでは哲学なんてぜんぜん興味なかったし
プラトンっていったらプラトニック・ラブ?ってぐらいだったからね
高校の倫理社会で習ったのだってすっかり忘れてた

観察や体験そのものではなく、それらをさらに言葉・概念を使って深く考えることだと思います

したがって表面的な日常レベルにとどまることではないし、かと言って究極の体験=悟りそのものでもない、と思います
つまり哲学をしない者に、哲学をしているからと言って
変人扱いして、隔離しないで欲しい
と言う事だろうか

変人と言われる者は、まず話し方が変人だ
思いやりに欠け、自らの話を押し通す

知識をひけらかしたいのは分かるが
相手の知識の範囲を正しく捉えてあげ
相手の理解の範囲内で会話をする事が、変人だと思われない方法だ

それが出来ないと言うならば
哲学云々の前に
まず自己中を直す事をお勧めする
知識って言うのは、外から受ける情報の事
見たり聞いたりする物の事を知識って言う

『考える』って言うのは
その知識を繋ぎ合わせる作業なんだよ

で、哲学って言うのは
その考える作業を、果てしなくする事なんだ



この文章の『』の部分の印象が残るように話せば
対外の人間には通じると思う

この後の会話は人それぞれだ
それで納得する人も居るだろうし
突っ込んで聞いてくる人も居るだろう

突っ込んで聞かれた時に切り返せないなら
人との会話が苦手なのでしょう
そんな人に、他人に何かを説明する事は出来ません
諦めて下さい。
面白いトピだと思って、読んでいます。

ぼくは、哲学とは何か、と考えるとき、
このエピソードを思い出すのですが、

バートランド・ラッセルが、一日中哲学して、五分間も哲学できたらいいほうだ、とか。
ウィトゲンシュタインが、「一日中哲学しようと試みたが、一秒もできなかった」とか。

ただひたすら考えるのだけでなく、ある特殊な、思考状態があるのだ、と僕は思います。

哲学で「観想」と呼ばれている状態です。

僕は、この状態を目指すことが哲学だと思っていますが、
まだ、哲学とは何か、の答えはよく分かっていません。

ソクラテスは、自分の考えを述べるのでなく、他人を誘導して、哲学を試みます。

誰かと哲学をするときは、ソクラテスのように、自分が哲学をしていることを隠し、
しゃべっている人の言葉を誘導し、「……じゃあ、その考えからすると、こうなの?」
とか産婆法みたいにやっていくのが、理想かな、と。
>>[14]

「観想」なんていう言葉初めて目にしたよ。
産婆法に限らずなにかを考えるときはいろいろな方法があると思うからいろいろ考えて試してみるのもいいかも
自分の場合、哲学が好きといってるけど本当は生物学とか科学が好きでそこからいろいろなアイディアを拾い出して考えてる。
対話も大事だと思う。自分一人だと考えが行き詰まる
リアルで語り合う哲学カフェも好きだね
毎回、決められたテーマで語り合うんだけど毎回、答えは出ない
でもそこがいい。語り合う中で何が問題なのかということが見えてくる。それだけでも進歩だと思う。何が問題なのかもわからずに闇雲に考えたって無意味。
「銀河ヒッチハイクガイド」というSF小説があって、そこには宇宙の究極の答えが明かされている。それは「42」だ!だがそもそもこの答えを導き出すことになった問題は何だったろう?
わからない?
さあ、哲学の始まりだ!
>>[15] 返信どうも。
意味の分からない言葉を使ってすみません。ジョルディさんが初めて目にしたのなら、存在しない言葉なのでしょう。
いろいろな方法を試して考えてみます。おそらく、文中の「何が問題なのかも分かっていない」ひとというのは、僕のことなのでしょう。
>>[16]
いや、私が哲学を知らないだけだから、それと何が問題なのかわかってないと思うのは自分のことだからうそつき畑5926さんのことじゃないよ。哲学カフェに参加するたびに思う私の率直な感想。あまり気にしないでいいよ
>>[17]
返信ありがとうございます。「哲学カフェ」というのは知りませんが、
なんかの、学会みたいなものなのでしょうか。

ぼくは、(自分は哲学が何かよく分からないが)、自分の親しい人とか他人に、
自分が哲学をしている、と積極的に伝える必要は全くないと考えています。
>>[18]
哲学カフェは学会ではないよ。サークル活動みたいなもの。
いろいろなテーマでそれぞれの考えを述べ合う交流会。
いろいろな団体がそれぞれ定期的にどこかのカフェに集まって話し合ってる。集まる人も多種多様、学生、サラリーマン、主婦など年齢もほとんど不問でやってるところが多いと思う。レジャー、スポーツ系のサークルって多いけどこういう知的なサークルって今までなかったんじゃないかな?日本人てだいたい同じような人同士が集まってその中だけですべて完結させてしまってるから対話がない。言わなくてもわかるだろ!が通用しちゃう。これじゃいけないと思うんだよね。いろいろな人と話し合っていろいろな知識を取り込む。お互いに成長しあえる。今の日本は思考停止に陥りつつある。誰かが右といったら何も考えずに右向け右。これじゃ危ない。ふだんから考える習慣を身に着けないととんでもないことになる。哲学というのは考えるということだと思う。日常的に考えているのであればわざわざそれをいう必要もない
>>[19] 丁寧な返信ありがとうございます。
 哲学者のウィトゲンシュタインは、自分を尊敬する優秀な弟子から、
 就職の相談を受けて、
 「工場で働けばいい」とか言ったとかいう話です。
 ぼくは、この話を、「哲学というものに対して、ほぼ知識や関心はないが、
実際に生きて生活をしている人間たちの中で、哲学(学問)するのが一番、
哲学の勉強になる」という意味だと今のところ解釈してます。

 ぼくが哲学カフェなるもののイメージをできているのかよく分かりませんが、
たぶん、「哲学に関心があり、哲学をしており、哲学について考えており、
哲学書も何冊か読んでおり、哲学についての文章や論文も書いたことがある」
という人たちが、集まって、哲学の話をしているのかな、と。

 このトピの最初で言えば、「哲学」という名詞を出しても、何の困惑もなく、
着いてくるひとたちです。

 で、やっぱり、それじゃ、閉鎖的だから……。という話題だと確認しておきます。

 たとえば、(学問と関係ない)職場、いろんな人たちが集まる飲み屋、
てつがく(どころか学問に対してすら)関心のない人たちの集まり、ここで、
どうやって哲学することができるのか、哲学を教化することができるのか、
する必要があるのか。

 シモーヌ・ヴェイユは、肉体労働をしながら、農夫たちに、ギリシア哲学の講義を、
し続けて、過労で死にました。

 僕はそういう領域での話がここで展開されたら、うれしいです。
>>[20]
> >>[19] ジョルディ・滝音さん 丁寧な返信ありがとうございます。
>  哲学者のウィトゲンシュタインは、自分を尊敬する優秀な弟子から、
>  就職の相談を受けて、
>  「工場で働けばいい」とか言ったとかいう話です。
>  ぼくは、この話を、「哲学というものに対して、ほぼ知識や関心はないが、
> 実際に生きて生活をしている人間たちの中で、哲学(学問)するのが一番、
> 哲学の勉強になる」という意味だと今のところ解釈してます。

まさにその通りだと思う。「人間は考える葦だ」というけど人間は日々の生活のなかでも常に考える生き物だ。人間にとって考えるということは呼吸するのと同じぐらい大切な事だと思う。
ただ頭だけで考えるんじゃなくて全身を使って考えることが大事だと思う。そうでないと形而上学というおよそ現実離れしたまるで無意味な言葉遊びに終わってしまうだろう。
自分は哲学者でも何でもない。正直、哲学に対してあれこれいえる立場でもない。無知であるが故に知を愛する、ただそれだけ。
君にぜひ一度、見てもらいたい映画がある
フランスのドキュメンタリー映画で「小さな哲学者たち」という映画だ。これから君が希望する対話をすすめるうえでとてもいい参考資料になるはず
参考までに哲学カフェについてまとめてあるサイト

http://matome.naver.jp/m/mymatome/warumono66
>>[21] 細かい返信ありがとうございます。
参考にします。

まあ、僕の感想はどうでもいいことで、トピに戻りますが、昔、哲学科に所属していたとき、
「論理学、そして、(基礎的な)物理学について知らない人は哲学することはできん」
「哲学は対話であり、一人でひたすら考えていても、オナニーにすぎん」
そんな風潮でした。

しかし、ぼくは、「科学哲学者は、たくさん批判的な対話しているのに、どうして、
有益な真理を発見したりしないんだろうか?」と根本的な疑問を抱いていまして、
で、「対話」の価値について、かなり疑問を抱いています。その考えについて述べると長くなるので、
省きますが、

一般人(哲学に興味のない人たち)と哲学をする方法論ですね。
たとえば、関連する話題が出た時に、「……あ、それはロックの第一性質だから」
とか、発言していたら、社会生活どころではありません。まじで、喧嘩して殴られます。

だから、14では、ソクラテスの産婆法について、言及しました。これは普通の会話で、
哲学をしているという意識もなく、利用できる、弁論術です。
(弁論術はそういう意味ではない、という批判には答えることはありません)
たとえば、家族と、友人と、彼女と、職場の同僚と、何かの話題を話すときに、
ソクラテスの産婆法は、「自分の意見を述べることなく、相手に考えさせる方法」
であるがゆえに、哲学の匂いがしないのです。これは、実践してみればわかることです。

・・・…で、これが、僕の経験であり、実践の一部ですが、他に同じような問題系を、抱えている人、
どのような対話法が、便利だと思いますか。また、こういう場面での産婆法の欠点、
そして、改善法はなんですか。ぜひ、いろいろ理論や経験や考えを聞きたいと希望しています。
はじめまして、呟き尾形と申します。
 本日参加させていただきました。

 さて、哲学に突っ込んで聞く人がいるとのことですが、私の場合は哲学にどんなイメージをもっているか聞いてからお話するとは思います。

 ただ、漠然と聞かれたら、哲学とは問う学問だとは応えますが、大抵の人は首をかしげます。そこからどのように問う学問かをその人に合わせてお話しします。
 説明しても、通じない場合もありますが、基本は、相手の興味のあることを確認しながらですかね。

 ただ、大抵の人は、哲学は答えを出す学問だと思われている様子で、質問や疑問に回答すると満足されるかたが多いようで、哲学の話をしていながらも、違う分野の話に移ることが多いですね。
呟き尾形さん早速のご参加ありがとうございます。まずは23のうそつき畑5926さんのコメントから対応させてもらいます。

物理学について知らない人は哲学することはできん
ということ、大賛成です。もっとも自分にとっては物理学は難しすぎるので生物学といいたいところ。何がいいたいかというと哲学も科学であるということ。余計、わからなくなっちゃったかな?
要するにそこに求められるのは客観性であり理性であるということ
「哲学」の元の意味は「知を愛する」。これはすべての学問の始まりだと思います。「哲学」は学問の中に単独で存在しているのではなくすべての学問を包括するようなものとしてあると思う。

一人でひたすら考えていてもオナニーにすぎん
というのも大賛成。ヴィトゲンシュタインが「論考」の中で「言葉には限界があるが思考には限界がない。限界を知るためにはその外側に出なくてはいけないがそれは不可能。よって思考に限界はない」と言ってたと思うのですが、その外側に当たるものが他者だと思う。
一人で考えていると自分では気づかなくても限界手前みたいなところをウロウロしているのでは?そのさらに外側を他者に与えられることによって今まで限界だと思っていたものが限界ではなくその先があることを知ることができるのでは?

ロックの第一性質だから
これはいけませんね。これを理解できる一般人はどれだけいるでしよう。これは相手と自分の立場の違いを見せつけて対等に話し合うという意志のないことが明確。これでは対話は不可能
たとえば私がよく参加する哲学カフェではいくつかルールがあります
「偉い人の言葉を引用しない」「専門用語は極力さける」「人の話を最後まで聞く」「相手の意見を頭ごなしに否定しない」
これらは対等に話し合ううえでとても大事なことだと思います
ソクラテスの産婆法にあるのは「自分は何も知らない」という前提があってこそのものだと思います。そうすれば相手からどんどん考えを引き出していけるのでは?
>>[24]
どの学問もそうだと思うのですがものごとは知れば知るほどわからないことがふえていくものなんですよね。
マニュアル化された学校教育の弊害でしょうか。何事も答えがきちんとあってそれを覚えることが勉強みたいになってる。おかげでものごとなんでも白黒つけようとする。でも世の中を動かしているのは白でもなく黒でもなく灰色の部分でその中で生きとし生けるものは成長し発展しつづけている。その中で学問も同様に成長し発展しつづける。人間が生きているように学問もまた生きている。だから人間は考えつづける。生命のダイナミズム。私が哲学を学ぶなら生物学もというのはそういうところから来ています。今、日本で起きている問題のほとんどは思考停止から来ているように思えてなりません
>>[26]
>どの学問もそうだと思うのですがものごとは知れば知るほど
>わからないことがふえていくものなんですよね。
 おっしゃる通りだと思います。
 新しいことを理解するということは、新しい視点が生まれると概ね同意です。
 すると、必然的に、視点が増えた分だけ、今まで無かった視点は分からないわけで、知れば知るほど分からないことがふえるわけですからね。

>マニュアル化された学校教育の弊害でしょうか。
 まぁ、過度な一般化を推進するマスメディアの弊害だとは思います。
 分かりやすい説明を受けると分かった気持ちになりますからね。
 本来は、物事はしっかり咀嚼するように自分なりに考え、その行為を反芻するように繰り返すように思考しなければ理解はできないはずなのです。
 それを分かった気になって分かりやすい説明をうのみにすれば、当然、本来の理解のステップは省略されるわけです。

>何事も答えがきちんとあってそれを覚えることが勉強みたいになってる。
 そうですね。
 もちろん、基礎部分はそうしたことは必要なのはたしかなんです。
 でも、それだけでは、その基礎からのステップアップ、つまり、知識の応用、利用ができなくなりますからね。

>おかげでものごとなんでも白黒つけようとする。
 白黒つけられるものならいいのですが、そうもいかないのが世の中です。
 灰色で済めばいいけど、実は赤や青すらありますから(笑)
 なかなか、単純化できないものです。
 強引に単純化しても、先に進むと矛盾が生じますからね。

>今、日本で起きている問題のほとんどは思考停止から
>来ているように思えてなりません
 はい。そういい得るとは思います。
 一般常識や哲学を含めた知識、および先入観をうのみという思考停止によって、生じる問題が殆どであるとは私も思います。
 たとえば哲学で語られていることの多くは、それが語られるにいたる背景があるので、それを知らずにいるとおもなぬ誤解が生じることはたくさんあるとは思います。
 こんなことをいうと、哲学は間違った語り方をしているのかといえば、そうではありません。
 物事を論理的に語る時、かならず、前提条件があります。
 この前提条件をしっかり理解しないと、間違った使い方をするということです。
 哲学となるとわかりづらいので、分かりやすい例をあげれば、水の沸点は何度か?
 という例が多くの人が理解しやすいかもしれません。
 水の沸点を質問すれば、100度と答える人が殆どですが、実際、水を沸騰させると、100度であることもあれば、99度の時もあります。
 だいたい100度ですが、むしろ、100度であることは少ないのです。
 これはなぜなというと、100度の前提条件は、1気圧です。
 で、地上でぴったり1気圧であることはむしろすくないのです。
 なぜなら、地上は日常的に高気圧と低気圧が常に行き来しているから1気圧ぴったりになること自体が少ないわけです。
 この前提条件をしっかり理解しているか、丸暗記かでは大分違うわけです。
 
 哲学の重要なところは、結論の丸暗記よりも、その結論に至るまでの背景や意味、論理をしっかり理解できているかどうかであるとは思います。
>>[25] ある意味、やけっぱちなコメントに丁寧な返信ありがとうございます。
このトピの趣旨からずれないように、答えてみようと思います。

 「偉い人の言葉を引用しない」「専門用語は極力さける」「人の話を最後まで聞く」「相手の意見を頭ごなしに否定しない」
 ……まだきちんと哲学カフェということについて理解していませんが、このルールはいいですね。

 また、ぼくは、論理学や科学は、かつて、プラトンがアカデメイアで、「幾何学を知らざる者、哲学するべからず」といった現代バージョンなのかな、という感じがしています。
 実際、論理学の基礎の一部を構築した、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を、すべては分からないなりに感動しながら読んだ記憶があります。

 しかし、これでは、「哲学を知るもの、学問を知る者同士」では、哲学的対話をすることができても、そうでないものを、哲学的な対話から、(受動的に)排除していると思います。

 ウィトゲンシュタインの言葉をより厳密に解釈すれば、ひとは、自分の思考から決して抜け出すことができないのであり、「その外側にある他者」というのは、詩的用法にすぎません。その外がわにある他者から流れているイメージも姿も言葉も、自分の思考なのですから。
 だから、「他者」から新しい考えを教えてもらったと思った時も、「自分の思考の中で作り上げた他者から自分の思考で作り上げた新しい思考」を学んでいるにすぎない、というのが、その論考のより正確な解釈だと僕は思います。

 こういう、ある意味独我論的な風景の中での、(哲学に興味がない)「他者との対話」とはどういうものになるでしょうか。
 
 ぼくは、観察と推論だと思います。「他者だと感じている人間と接している自分の中に湧き上がってくる様々な想念や考え」の観察と推論です。
 これなら、相手が、哲学に興味があろうがなかろうが、物理学を知っていようがいまいが、どんな人間であろうが、あるいは人間ですらなくても、対話が成り立ちうると思います。このとき、対話というのは、「自己との対話」にすぎず、それが、どうして、物理学や論理学や哲学を知っている他者との対話でなくてはいけないのか、という条件はなくなると思います。
>>[27]
>  哲学の重要なところは、結論の丸暗記よりも、その結論に至るまでの背景や意味、論理をしっかり理解できているかどうかであるとは思います。

これは学問全般にいえることでしょうね。
私は記憶力が悪いので中高生の頃は数学の公式がどうやってできたかを自分で確かめながら覚えました。どの学問も基礎的な部分が最も重要でしょう。これは学問に限ったことでもなくすべて基礎となる土台からしっかり固めてそこからいろいろな応用へ発展させることが大事な事だと思う。それができていれば世間に飛び交う様々な真偽も定かではない情報に惑わされることもなくなるでしょう
>>[28]
「論考」はおもしろいね。ただ字面を追うだけなら簡単だけどそれでは意味を理解することはできない。それぞれの文を切り出して自分で構成しないといけない。まるでプラモデルを組み立てるようでとても楽しい。受動的ではなく能動的読書ができるという画期的な本だと思う。自分でもまだ完成できてない。これはうそつき畑5926さんの「自分の思考の中で作り上げた他者から自分の思考で作り上げた新しい思考」といえるだろうね。そういう意味ではまさに思考に限界はないね。
>>[29]
>これは学問全般にいえることでしょうね。
 はい。
 そもそも、哲学は総合学問だったわけですから、哲学に通じることは他の学問に通じるのは必然です。
 そして、哲学は問う学問であるとは先にのべましたが、哲学はこの世のすべてのことを改めて問い直すことが求められる学問でもあります。
 それゆえ、すべての基礎としての哲学であるし、当たり前、分かりきったことを改めて問い直し、そして、当たり前、分かりきったことを答えとして正しい(妥当性がある)と結論付ける結果が殆どですから世の中の多くの人にとってはわかりきったことを問い直すことに馬鹿らしさを覚えることがあるともあるでしょうし、その意味と価値に気がつく人はなかなかいないことが、哲学への理解がすくない要因のようには思えます。

>中高生の頃は数学の公式がどうやってで
>きたかを自分で確かめながら覚えました。
 これは正しいことだと思います。
 私は頭が悪かったので、学生時代は丸暗記しかできませんでした(笑)

>世間に飛び交う様々な真偽も定かではな
>い情報に惑わされることもなくなるでしょう
 ご指摘の通りだと思います。
>>[30]
「論考」を僕もとてもじゃないが読みこなせていません。
その深さは、ジョルディさんが本当にうまいことをおっしゃる。確かにパズルみたいです。
ある時、あるフレーズとあるフレーズの関連に気付いて、「あれ、そういうことなんだ」とか。
ウィトゲンシュタインは、哲学の天才でかつ、哲学をさせる天才であるのかもしれません。
ここまで話が進んで来てこんなこというのも何だけど「哲学」っていう言葉が嫌いになってきた。なんていうか硬いんだよね。「鉄」と音が同じだからかもしれないけど自分、結構、感覚的な人間だから。
哲学の起源はソクラテスでその名付け親でもあるとされている。
哲学のもともとの意味は「知を愛する」で英語ではそのままの意味でphilosophy、フィロソフィー。自分としてはこちらの方がしっくり来る。思い切って哲学することを「フィロソフィる」とか「フィロる」なんてしてみたら一般ウケして世間に哲学を浸透させることができるんじゃないだろうか?

などとちょっと箸休め的にジョークの一発あげてみました
>>[33]
たしかに、哲学は堅い感じがしますが、哲学が渡来してきたころは、堅く考えることがクールな時代だったのはたしかですからね。
 哲学の哲の字は、道理に明るく、知恵がある。という意味なだけに哲の字そのものはフィロソフィとマッチしているんですよね。
 ともあれ、漢字はいいけど読みは堅くて敷居が高い感じはしますね。
 入門編的な哲学であり、なじみやすい意味でフィロるとかはいいかもしれませんね。
 あるいは、philosophyとlogicをくみあわせて(まぁ、組み合わせても意味合い的にトートロジーっぽいんですが)、フィロジーとかでひろめるられれば、もっと、哲学にとっつきやすいかもしれませんね。
よく考えたら「フィロ」は「愛する」という意味だから、「フィロる」だとちょっとずれますね。「ソフィる」かな。
極端な話、「哲学」なんて言葉なくてもいいんじゃないかなあ。
人間にとって考えるということはそれほど特別なことではない。食事したり呼吸したりするのと同じくらい、日常、普通に行われることで意識しなくても人間は考えてしまう生き物。
日常よっぽどのことがない限り「呼吸しよう」ということは言わないわけで。あえて「考えよう」などともいう必要がないくらい考えることは普通なことで特別なことではない。それが特別なことに思えてしまうのがむしろおかしい。でもそのおかしなことが今、日本では進行しているような気がします。
知識偏重による思考停止。実際に起きている出来事を直視せずたんなる形式的に並べられた言葉の数々を見聞きするだけで満足してわかったような気になっている人たち。「知っている」ということと「分かっている」ということは違うということを分かっているのかなということが心配になってしまうことが多い。そういう意味では「哲学」というか「考える」ということの重要性を訴えていかないといけないように思う。
ただ言葉だけが頼りの西洋哲学、主にイデア論を中心にすえた西洋哲学は最早、終わってしまっているといえるかもしれない。ウィトゲンシュタインの「論考」はそれを宣言している。
言葉には限界があるが思考には限界がない。言葉の限界の先には何があるのか?それは現実そのものだ。たとえば今、目の前にコップがあるとしてそのコップについて自分以外の誰かに過不足なく正確に語り伝えることができるかといったら、それは不可能。ではどうすればいいかといったらただ一目それを見せればいいだけのことだ。それを見たうえでそのコップのことについて考えをめぐらせる。それが本当に「考える」ということなのだと思うのですがどうでしょう?
>>[35]
>よく考えたら「フィロ」は「愛する」という意味だから、
>「フィロる」だとちょっとずれますね。「ソフィる」かな。
 いわれてみれば、そうですね。

>極端な話、「哲学」なんて言葉なくてもいいんじゃないかなあ。
 それは、あるていど哲学というものをある程度分かる方にとってはそうかもしれませんが、哲学にちょっと興味や関心がある方にとってはそうでもないと思います。
 たしかに、哲学というのは、当たり前のことを改めて問い直して正しいことは正しいと確認し、正しいと思い込んでいることは、単なる思い込みだったんだということを確認する学問でもあります。
 だからこそ、哲学はそれほど特殊な非日常ではありません

 むしろ、日常的に哲学的な思考をすることで、東日本大震災のような非日常を体験しても冷静で居続けようとする態度がとれるのだと、東日本大震災を被災して痛感しています。

 そして、思考するということ自体が、あまりにも当たり前のことであり、特殊ななことというわけではないのだというのが、ジョルディ・滝音さんのおっしゃる通りだと思います。
 そこをあえて、哲学的に思考していくというのが、いわゆる哲学をするということなのでしょう。

 で、真剣に哲学をするということは、案外大変なことで、その割には目に見える成果がありません。
 そうなると、新しい知識を得たという気持ちが必要になり、知識偏重による思考停止が生じるのでしょう。

 イデア論においては、むしろ、哲学を継続していく時のいつもたどり着くターニングポイントなので、終わっているというより、哲学的思考のレベルアップ的な目印にしています。

>言葉には限界があるが思考には限界がない。
 これは、まさに真実でしょう。
 言葉とは、例えるのなら、事物のデジタル化です。
 それに対して、思考を含めた現実はアナログです。
 アナログは絶えることな気連続であるわけで、そんな現実をデジタル化したとき、かならず、0と1に明確に分けなければいけないときに切り捨てられるアナログの部分があり、切り捨てられるがゆえに生じる限界があるということですね。
 
 哲学は、それでもなお、より細かく厳密にデジタル化していく行為であり、地味に哲学し続けるというわけですね。

 それが、
>それが本当に「考える」ということなのだ
 と言うことなんだとは思います。

>>[36]
物事を考えるには二通りの方法があると思います。一つは分析的手法、もう一つは集積的手法。
分析的手法は物事を細かく分けていく方法で必要な要素だけを突き詰めてあまり必要なさそうなものを省く、オッカムのカミソリとかもいわれてるやりかた。これは複雑な物事を単純化して効率よく考えることができるので便利なのですが、現実的には省かれた中にこそじつは重要なものがあったりするわけです。じつはあまり現実的でなかったりする。これなんかはまさにイデア的といっていいと思います。数学の分野ではこれはじつに有効でおかげで科学も大いに発展を遂げた。数字なんてイデアそのもの「1」といったらそれは「1」でしかない。
ところが現実的にはどれとして同じ「1」はない。みかん一個とったてまったく同じということはない。基本的に共通する部分はあってもこまかな成分は微妙に違ってたりする。
そんなわけでイデア論は非現実的なもの、形而上学に行き着くわけでその世界は私達、人間を含め動き生きている生物の世界ではなく完全に停止した物質のみの世界、いわば死物の世界でそんなところでは人間は生きていけない。これがイデア論を中心とした哲学の終わりを意味するものだと思います。
つづけさせてもらうとそのことに気づいたのが西洋哲学の流れでいうとニーチェやウィトゲンシュタインだったのではないかということです。ニーチェは野性的で挑発的にそれを訴え、ウィトゲンシュタインは理性的にそもそもの発端となった言葉というものを追求することでそれを訴えたのではないかと思います。
そんなわけでかなり傲慢なことを言ってしまえばイデア論を中心とした西洋哲学はもはや過去の遺物にすぎず、それでもなおそれを学ぶ価値があるとすればそれは論理的に考えるということではないでしょうか?
聖書のはじめに「はじめに言葉あり」とありますが、この「言葉」はもともとはlogosだそうでそれはlogic(論理)の語源でもある。つまり西洋文明にとって言葉はそれほど重要なものだったということになるでしょう。しかしそれですべてというわけにはいかない。
カントやハイデッガーなど難解な哲学書を読んでわかったようになって知識をひけらかそうという人たちを私は鼻で笑います。
カントもハイデッガーもいらないと思ってます。カントについては難しい本を書いた人としか知りませんが彼の「あなた方は私から哲学を学ぶことはできない。哲学することを学びうるのみである」という言葉は本当のことを言ってるなと心から思います。
>>[37]
物事を考えるには二通りの方法があると思います。

>一つは分析的手法、もう一つは集積的手法。
 分析的手法は演繹、集積的手法は帰納という感じでしょうか。

 分析的手法は、対象の抽象化ということなのだとはおもいます。
 抽象化ですから、ご指摘のとおり、現実ではありません。

 どうように、事物の抽象化の究極的なものがいわゆるイデア論ですから、イデアは現実(物質)とは異なることは、イデア論での前提のようなものです。
 それゆえ、本質的にイデア論は非現実的なものであることはご指摘のとおりだとは思います。

 ただ、それをもって死とするのは、同意はできません。
 もちろん、分析的手法に限界があり、得手不得手があることは同意しますが、不得手があるから終わりだとは言い得ないからです。
 分析的手法が事物の個別性を見極めることが不得手であるように、集積的方法にも、正しさ、確実さを確かめることが不得手だからです。

 個人的には、各自の目的、状況によって、手法を変えればいいだけの話だとおもっています。
 イデア論には、イデア論のメリットがあるし、デメリットもあるし、イデア論の限界を感じて別の論理を利用しても、再びイデア論に立ち戻る傾向があるように思えます。
 これは、私が現象学的手法を主に使っているからかもしれません。

 ニーチェとウィトゲンシュタインの関連性については正直、考えたことがなかったのですが、たしかに、ニーチェは哲学者としては、あまりにも異色で、野性的で挑発的にそれを訴える様は確かにご指摘の通りだと思います。
 ウィトゲンシュタインが理性的かといわれると、たしかに理性的だけど、一見理性的ではあるものの、言葉に対しての誠実さを感じています。

>イデア論を中心とした西洋哲学はもはや過去の遺物にすぎず、
>それでもなおそれを学ぶ価値があるとすればそれは論理的に
>考えるということではないでしょうか?
 これについては、各自が哲学どんな意味と意図をもち、どんな目的を持つかによって変わってくるとは思います。

>聖書のはじめに「はじめに言葉あり」とありますが、
>この「言葉」はもともとはlogosだそうでそれはlogic
>(論理)の語源でもある。
 ご指摘のように言葉とは論理そのものであり、同時に、私たちは言葉を利用してコミュニケーションをとる上に、言葉によって思考しています。
 それゆえ、私たちは、言葉の呪縛的とも言えるような限界を持っているとは思います。
 この限界を乗り越えるためには、西洋哲学というものは、かなり近道をしめしていると思います。

>カントやハイデッガーなど難解な哲学書を読んで
>わかったようになって知識をひけらかそうという
>人たちを私は鼻で笑います。
 たしかに、ひけらかすという行為は滑稽だと思います。

>カントもハイデッガーもいらないと思ってます。
 それは、哲学に対して求めるものによって変わるとは思います。
 哲学に対して求めるものによっては、カントやハイデッガーは、良いお手本を示してくれるかもしれないからです。
 逆に、必要ないかもしれません。
 これについては、状況次第だとはおもいますが、哲学の主体は、各自、自分自身であるのですから、そういった意味では、
>「あなた方は私から哲学を学ぶことはできない。哲学す
>ることを学びうるのみである」という言葉は本当のこと
>を言ってるなと心から思います。
 ご指摘の通りだとは思います。
手法に関してはおっしゃる通り目的、状況に応じて使い分ければいいだけのことですね。ただ現状、分析的手法に頼りすぎてるように思えるのです。分析的手法は効率性を考えるととても有効です。生産性も高く、こういった手法がなかったら産業革命もなく現在のような高度に発展した豊かな(?)文明社会を築くこともできなかったでしょう。その反面、分析的手法から切り捨てられた部分がたまりにたまって今、さまざまな弊害を社会全体に及ぼしているのだと思います。環境破壊しかり。生産性が高い反面、破壊力も高い。まさに「諸刃の剣」であることを忘れてはいけないでしょう。
やや挑発的にいうとイデア論の究極はすべてをデジタル化することになるでしょう。すべてを「0」か「1」かで表現してしまう。
しかし「0」も「1」もそのもの自体では無意味です。時の経過とともに変化していくこの世界では「0」と「1」の並びのあいだに発生する関係性、それは力となって物事を動かす原動力となる。それがこの世界の根本原理ではないかと思うのです。少し話がぶっ飛び過ぎたでしょうか?
実をいうと私のこういった考えのもとになっているのは木田元さんの「反哲学」という考え方です。木田元さんが言うには哲学というのは厳密にいったらプラトンのイデア論に始まる一連の思考体系、いわゆる西洋哲学のことを言うのであってそれに反する哲学として「反哲学」というものを提唱しています。
これだけだとイメージがつかみにくいかと思うので自分の理解している範囲内で簡単にいうと西洋哲学は人間主体の哲学で、それに相対するものとして自然を主体とした哲学があってもいいじゃないか?ということでの「反哲学」というわけです。自分としてはこれは東洋哲学ということになるのでは?と思っています。
>>[40]

>手法に関してはおっしゃる通り目的、
>状況に応じて使い分ければいいだけ
>のことですね。
 そうですね。
 バランス良く、状況に応じて適材適所で使い分けないと、手法のデメリットが色濃く出てしまいます。
 そう言った意味では、ご指摘の通り、分析的手法に頼りすぎてるというご指摘は妥当性があるとは思います。

 だからこそ、分析的手法から切り捨てられた部分により、生じた弊害が社会全体に及ぼしているというご意見に同意いたします。

 ご指摘の通り、イデア論の究極はすべてをイデアに還元することにあり、イデア論の多くは、神、ないし、それに値する究極的なものに帰依する結論になることになります。
 0か1どころか、すべてを一つにするわけです。
 イデア論のメリットは結論を見出すことにあるのではなく、新たな知識の質を改めて検証することに大きな価値があります。
 たとえるなら、新たな知識の中の本質か本質以外かに切り分けるのがイデア論の一つの方法であると言い得るわけです(もちろん、それだけではありませんが)。

>それがこの世界の根本原理ではないかと思うのです。
>少し話がぶっ飛び過ぎたでしょうか?
 いえいえ、哲学というものは、本来デジタル化される際に切り捨てられたものから再発見するという効果もありますから、唐突ではありますが、ふっとぶまではいかないと思います。

 反哲学という考え方は、なるほどなと思います。
 西洋哲学に対して、オリエンタル哲学や東洋思想は比較されますものね。

 ご指摘のとおり、西洋哲学は人間主体、個人を重視する哲学です。
 それに対して東洋思想は、個人よりも社会というか自然の法則を重視する思想ですものね。
 これについては、誰にでも手軽に学べるのが西洋哲学にたいして、東洋思想は、才能と言うか才覚が必要とされる思想だとは思います。
>>[41]
>  ご指摘のとおり、西洋哲学は人間主体、個人を重視する哲学です。
>  それに対して東洋思想は、個人よりも社会というか自然の法則を重視する思想ですものね。
>  これについては、誰にでも手軽に学べるのが西洋哲学にたいして、東洋思想は、才能と言うか才覚が必要とされる思想だとは思います。

東洋思想は言葉よりも現実に起きている事象に対する徹底的な観察による部分が多いとは思います。そこから何かを見つけだす。それには才能、才覚のようなものが必要なように思えますがそうとも限らないと思います。そこに必要なのは徹底された客観性といえると思います。それは「無我」といったようなもので、こういうと宗教っぽく思われるかもしれないが、これはむしろ極めて科学的であるといえると思います。観察を通じてあることを客観的に捉えようとするならそこには思い込みのようなものを極力、排除して現象をありのままに捉えなくてはいけません。そのためにたとえば薬の新薬開発などの実験では二重盲研という手法を用いて思い込みによる実験結果の過大評価などの誤差をなくすといった方法もとられます。
そういった意味では東洋思想で必要とされるのは頭脳だけでなく身体性、それに経験といったことになるかと思います。

面白い関連記事だと思いますので、ご紹介させていただきます。

「人間はどう生きれば良いのですか?」という問いに現代の哲学者は口ごもってしまう…… (大賀祐樹)- BEST T!MES 2014/09/29
http://best-times.jp/articles/-/353


大賀 祐樹おおが ゆうき
1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。
著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。

研究者 researchmap
https://researchmap.jp/read0155717/
Twitter
https://twitter.com/orga_yk
Facebook
https://www.facebook.com/ohga.yuki

ログインすると、残り8件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

哲学ノオト 更新情報

哲学ノオトのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング