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考古学コミュの神戸・北青木銅鐸と亀山型

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1.神戸市・北青木銅鐸の出土
 2006年11月2日、神戸市教委は、神戸市東灘区北青木(きたおおぎ)1の北青木遺跡から、弥生時代中期に属する銅鐸を発見したと発表した。
 神戸市埋蔵文化財センターにおけるこの銅鐸の速報展(2006.11.3.〜12.10.)における資料によれば、その概要は次の通りである。
 この銅鐸は、2006年8月31日に現地表下約80cm(標高約1.5m)の所で発見された。
 銅鐸を納めていた埋納坑の西側は、弥生時代後期の溝によって削られていたが、直径約30cmで深さ15cmの不整楕円形の埋納坑の中に、鰭(ひれ)を上下にして鈕(ちゅう。=吊り手)を東に向けた状態で埋納されていた。
 出土した銅鐸は偏平鈕式(へんぺいちゅうしき)の新段階(弥生時代中期の終わり)に属する四区袈裟襷文(よんくけさだすきもん)銅鐸である。鈕が一部欠損しているが、残存する高さは19.2cm(推定高21.0cm)である。
 ここに掲げた地図は、本山銅鐸発見時の資料(神戸市教委1991)にあった地図に、今回の北青木銅鐸出土地点を書き加えたものである。
 これを見ると、1990年1月26日に出土した本山銅鐸よりもさらに海岸に近い地点から出土したことがわかる。
 本山銅鐸の出土地点がほぼ縄文時代の海岸線に近いところであるのに対して、今回の北青木遺跡地点は弥生時代の海岸線に近い場所と考えられている。
 本山銅鐸が出土したときには最初それが赤銅色に輝いて見え、その後時間の経過と共にくすんだ色へと変色していった。このような現象は今までにも何回か経験されていることであるが、これは水分のある土中に埋められた銅鐸の場合、一種の電池作用(電気化学的反応)をおこすために銅鐸表面に活性化されたイオンが発生して生じる現象と思われる。(野田2002)
 今回の北青木銅鐸の場合には、本山銅鐸よりさらに海岸に近くて地下水位の高い地点から出土したにもかかわらずこのような現象は見られなかったという。これは、本山銅鐸の周辺土壌が粘土質であったのに対して、北青木銅鐸の周辺土壌が砂質であったことが影響しているものと考えられる。
 今まで神戸市内においては市の中央部及び西部地域においては銅鐸は殆ど出土しておらず、今回の北青木銅鐸も含めて、銅鐸出土地点は主として市の東部に当たる灘区・東灘区に集中している。そうしてここからさらに東部の六甲山麓地帯からは分散した形で銅鐸の出土が見られている。
 六甲山麓地帯におけるこのような銅鐸出土分布の偏りについては、これをこの地帯に於ける落雷頻度分布との相関関係によって説明している論考がある。(野田2002)

【参考文献】
(神戸市教委1991):『本山遺跡第12次調査の概要』神戸市教委、平成3年3月
(野田2002):野田昌夫「銅鐸と雷神信仰」『藤澤一夫先生卒寿記念論文集』2002年

コメント(13)

2.北青木銅鐸の埋納方法
 ここに示した図は、神戸市埋蔵文化財センターにおける北青木銅鐸の速報展(2006.11.3.〜12.10.)における資料からとったもので、この銅鐸の埋納方法を示している。
 この図にあるように「銅鐸を横に臥せ、鰭を上下にして埋める」という埋納方法をとっている銅鐸は数多く見られる。(寺澤1992)
 このように各所に共通して銅鐸の埋め方に一種の「作法」があるということは、銅鐸を地中に埋めること自体が一つの儀式として定例的に繰り返されていたことを示唆しているものと言えよう。
 ここでもう一つ注目すべき点は、この銅鐸の斜め下の方向約40cmのところから銅鐸の鈕の破片が発見されていることである。この破片はこの銅鐸の欠損している鈕の部分に接合すると考えられている。
 2006年11月5日の朝日新聞には、京都国立博物館の難波洋三氏によるコメントとして「本体と破片が時間差をもって同じ場所に埋納された例は初めて。なぜ、どのようにして銅鐸は埋められたのか、という謎を解くための鍵になる」という言葉が載せられている。
 福岡県北九州市重留遺跡から出土した広形銅矛の場合には、埋めては取り出すことを繰り返した跡が見つかっている。(文化庁1997)
 しかし、銅鐸についてはそのような例は今まで見つかっていなかった。
 1996年に39個という大量の銅鐸が出土した島根県加茂岩倉遺跡では、銅鐸出土地点から北西約3メートル離れたとろから別の土坑が見出されている。(島根県教委2002)
 もしかするとこの加茂岩倉遺跡では銅鐸の埋納坑を2つ設け、埋納の儀式のたびごとに交互に埋納箇所を変えるということが行われていたのかも知れない。
 神戸市埋蔵文化財センターの中村大介氏によると、北青木遺跡では出土した銅鐸を周辺の土ごとゴッソリと掘り出してそのまま埋蔵文化財センターまで持ち帰り、この土の塊を上下逆さまにして調べ始めたところ、銅鐸の鈕の破片が見つかったとのことであった。
 神戸市埋蔵文化財センターの速報資料では、これに関して次のように書かれている。
 「今回の調査では、銅鐸と欠損した鈕がそれぞれ別の埋納坑から出土しています。このことは、当初埋納していた土坑から銅鐸を掘り出す際に鈕の部分が欠損し、鈕を埋納坑に残したまま銅鐸を取り出して、祭祀が終了したのちに元の場所のそばに再び埋納した可能性が高いものと考えられます。銅鐸は祭祀で使用するときに埋納坑から掘り出し、祭祀が終了した後に再び埋納されたのではないかと考えられており、その状況が今回の北青木銅鐸の発掘調査で確認することができました。」
 前述のように私の場合には銅鐸を埋納すること自体が一つの儀式であったろうと考えているので、その点では神戸市埋納文化財センターとやや意見が異なるが、同じ場所で繰り返し何らかの銅鐸祭祀が行われたであろうとする点では同じような考え方をしている。
 このように、銅鐸祭祀が同じ場所で繰り返し行われたことを示す実例として、北青木遺跡は重要な意味を持つといってよいだろう。
 ところで、2006年11月3日付けの神戸新聞では、この銅鐸は瀬戸内地方東部を中心に分布する「亀山型」で、亀山型の出土は全国で24例目であるとしている。
 亀山型銅鐸というのは、薄手・扁平で小型の四区袈裟襷文銅鐸の一つの銅鐸群につけられた名称であるが、その内容について一般的には余り知られていないと思われるので、この際これについて私なりに調べてみることとした。  
 亀山型銅鐸については、難波洋三氏が詳述された文献(難波2003)があるので、以下、主としてこれをもとにして記すこととしたい。

【参考文献】
(寺澤1992):「銅鐸埋納論(上)・(下)」『古代文化』Vol.44 No.5 & No.6 1992年
(文化庁1997):文化庁編『発掘された日本列島'97』1997年、朝日新聞社
(島根県教委2002):島根県教委・加茂町教委『加茂岩倉遺跡』(発掘調査報告書)本編 2002年
(難波2003):難波洋三「徳島市出土の特徴的な銅鐸について ―亀山型と名東型― 」『徳島市立考古資料館 開館5周年記念 シンポジウム 銅鐸の謎をさぐる』徳島市立考古資料館 平成15年11月1日
3.銅鐸の分類と亀山型銅鐸
 銅鐸の時代的な移り変わりは鈕(ちゅう。=吊り手)の変化によって分かるという佐原真氏の説に基づいて、銅鐸は次のように分類されている。
I 菱環鈕式
   I-1 式
   I-2 式
II 外縁付鈕式
   II-1 式
   II-2 式
III 偏平鈕式
   III-1 式(古段階)
   III-2 式(新段階)
IV 突線鈕式
   IV-1 式
   IV-2 式
   IV-3 式
   IV-4 式
   IV-5 式
 ここで「III 偏平鈕式」については、佐原真氏は当初これをさらに細かく分類することはしていなかった。その後、難波洋三氏によってこの偏平鈕式は「古段階」と「新段階」の2つに分類された。そうして「古段階」以前は石の鋳型で銅鐸は鋳造され、「新段階」以降は土の鋳型で鋳造されたとし、現在ではこれが一般的に認められている。
 「II 外縁付鈕式」以降の銅鐸には、大きさ・形態・装飾の細部にわたっての共通性によって、ひとつの工人集団あるいは同系統の工人集団の製品と考えられる群があり、これを銅鐸群と呼んでいる。
 亀山型というのは、III-2 式(偏平鈕式新段階)に属する薄手で小型の四区袈裟襷文銅鐸の一つの銅鐸群につけられた名称である。
4.亀山型銅鐸の研究史
 1937(昭和12)年に和歌山県日高郡湯川村亀山から出土した3個の銅鐸について、梅原末治氏が最初にその特長に注目し、徳島市星河内出土の7個と紀伊田辺町の田所氏旧蔵鐸(=辰馬427鐸)が類似の特長を持っていることを指摘した。(梅原1937)
 1955(昭和30)年、三木文雄氏は銅鐸を8類型に分ける分類案を発表し、梅原氏が抽出したこの一群の銅鐸を「六式 斜格子平帯縦横帯四区画文の二」と名付けた。(三木1955)
 1964(昭和37)年、佐原真氏は銅鐸群について総括的に記述する中でこの種の銅鐸にも触れ、これを「いちじるしく扁平な身と装飾の簡略化が目立つ亀山型群」と命名した。以後この「亀山型」の名称が定着することとなった。(佐原1964)
 その後この亀山型については、難波洋三、菅原康夫、春成秀爾等の諸氏等によって研究されてきている。

【参考文献】
(梅原1937):梅原末治「紀伊出土の銅鐸に就いて―森氏報告に対する附記―」『考古学』第8巻第9号,1937年
(三木1955):三木文雄「銅鐸」『日本考古学講座』第4巻 弥生時代 河出書房,1955年
(佐原1964):佐原 真「3 銅鐸」『日本原始美術』4 青銅器 講談社,1964年
5.亀山型の形態上の特徴
 亀山型銅鐸は形態上下記のような特徴を有する。
(1)偏平鈕式新段階の四区袈裟襷文銅鐸である。
(2)小型で、全高が約21cmあるいは約26cmである。
(3)鰭(ひれ)の飾耳が1対の例がほとんどだが、稀には3対の例もある。
(4)身が極めて扁平で舞(まい。=鐸身の上部の平らな部分)の(短径/長径)値は約40〜55%程度しかない。
(5)薄手で粗製である。
(6)菱環文様帯は基本的に無文で、退化して突線のようになっている。
 また、左右の縦帯を略したり、外縁第2文様帯や下辺横帯を無文にした例が多く、文様帯や文様の略化が目立つ。
(7)内面突帯が退化して細くなった例が多い。
(8)身の上半の型持が方形の例がほとんどである。
(9)鰭幅が広い。
(10)亀山型の中でも、左右縦帯を有する例には、構造欠陥の沈線が亀甲状に顕著に現れた例が多く(大和田2号鐸、亀山2号鐸、出土地不明京都国立博物館蔵鐸、出土地不明辰馬431鐸)、文様が不鮮明で線に伸びがない。
 これに対し、左右縦帯のない例には、表面が細かい凹凸のある粗面になっており、文様が鮮明で線に伸びがある例が目立つ(亀山1号鐸、出土地不明辰馬427鐸、出土地不明辰馬429鐸、大和田3号鐸など)。
6.亀山型銅鐸の分類
 亀山型銅鐸は、身の四区袈裟襷文の状態によって下記のように分類する。
A類:四区袈裟襷文の左右の縦帯があるもの。(全高が21cm前後)
 A1類:中縦帯と同様に左右の縦帯にも斜格子文がある。
 A2類:左右の縦帯が無文。
B類:四区袈裟襷文の左右の縦帯がないもの。(ほとんどは全高が26cm前後)
 B1類:全高が21cm前後のもの。(今のところ兵庫県野々間2号鐸の1例のみ)
 B2類:全高が26cm前後でB3類以外のもの。
 B3類:全高が26cm前後で下記の特徴を有するもの。
 (1)鋸歯文が細長い。
 (2)縦横帯の界線がすべて複線である。
 (3)鈕(ちゅう)と鰭(ひれ)の外周輪郭に明確な線を巡らす。
 (4)菱環文様帯を平行線で4区画に分割する。
この分類を模式的に表すとここに示した図のようになる。
 亀山型は、A1→A2→B1→B2→B3 というように時代と共に変遷したと考えられている。
7.亀山型銅鐸一覧表
 今までに出土した亀山型銅鐸は、今回出土した神戸市・北青木銅鐸を含めて24例とされている。
 これらの銅鐸の一覧表は、ここに掲げた通りである。
 この表で一つ問題になるのは神戸市・桜ケ丘14号鐸である。
 既述のように亀山型銅鐸は偏平鈕2式(新段階)に属するものとされている。一方、桜ケ丘14号鐸は現在まで偏平鈕1式(古段階)の銅鐸とされてきている。
(例えば、神戸市立博物館編『国宝桜ケ丘銅鐸・銅戈』2000年 p.46 を参照されたい。) これだけを見ると、亀山型銅鐸には石の鋳型によって造られた偏平鈕1式(古段階)の銅鐸と土の鋳型で造られた偏平鈕2式(新段階)の銅鐸の両方があるようにも受け取れよう。
 しかし、亀山型銅鐸が一つの工房で製造されたとして、この一つの銅鐸群の鋳造に石の鋳型と土の鋳型との両方が使われたとは考えにくい。
 この問題について京都国立博物館の難波洋三氏にお教えを請うたところ、難波氏からは次のような回答を得た。
 「亀山型は偏平鈕式新段階と考えている。桜ケ丘14号鐸は鋳上がり状態も悪く、もう一度実見して亀山型かどうか確認したいと考えている。ただ、今のところはこれも亀山型に含めて考えている。」
 亀山型銅鐸一覧表でもう一つの問題は、星河内の銅鐸である。ここから出土した銅鐸には完形品はなく、多くの破片からなっていて、しかもその所有者が全国あちこちに散らばっている。
 2002年に徳島県立博物館が行った課題調査で、全国に分散して保管されている星河内美田銅鐸の破片を一堂に集め、詳細な調査が行われた。その結果、少なくとも7個体分以上の破片が存在すること、すべての破片がきわめて薄手で扁平な小型の銅鐸であり、亀山型に属する偏平鈕式四区袈裟襷文銅鐸と考えられることなどがわかった。
(『徳島の自然と歴史ガイド No.5 徳島の銅鐸』2006年 徳島県立博物館 参照。)
 このようなことから、星河内銅鐸は7個の亀山型銅鐸としてこの一覧表には記載している。
 この亀山型銅鐸一覧表を作成するに当たっては、神戸市埋蔵文化財センター、神戸市博物館、辰馬考古資料館、徳島県立博物館、国立歴史民俗博物館、鎌田共済会郷土博物館などの関係者各位にご教示や資料の提供を戴いた。また、京都国立博物館学芸課の難波洋三情報管理室長には表中の不明箇所についてご教示を戴いた。この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。
 今回の一連の作業について、まだ不十分な点もあることと思われるが、諸賢のご叱正・ご教示を賜ることができれば幸いである。               以上
北青木銅鐸:補遺(1)

 神戸・北青木銅鐸と亀山型の問題については、さきに12月1日付けの文章に書き記したが、その後引き続き検討した結果、補足したい点がいくつか出てきたので、これらについて述べることにしたい。

1.銅鐸の埋納/取り出し作業の時間帯
 私は、銅鐸の埋納は一連の儀式の一環として行われたものであろうと考えているが、この銅鐸の埋納や取り出しの作業がどのような時間帯に行われたかということについては、我々は得てして無意識のうちに、そのような作業は昼間の明るい時間帯に行われたものと考えがちである。
 しかし、作業が昼間時間帯に行われたとする積極的な証拠はない。作業時間帯については昼間に限定することなく、夜間も含めて可能性を考えるべきであろう。
 神戸市の北青木銅鐸の場合、銅鐸の鈕の先端部分の破片が、銅鐸本体から少し離れた1次埋納坑から発見されている。
 どうしてこのようなことになったのかはよく分からないが、当初埋納してあった土坑から銅鐸を取り出した際に、鈕の先端が欠けたことに気がつかないままに作業を終え、その破片が土中に取り残されたままになってしまったと考えるのが最も妥当ではなかろうか。
 もしこのような銅鐸取り出し作業が昼間の明るい時間帯に行われていたのであれば、鈕の破片がポロリと落ちたことに誰でも簡単に気がつきそうなものである。もしかするとこのような作業が夜間の暗い時間帯に行われたために、鈕の破片が土中に取り残されたことに誰も気がつかなかったのかもしれない。
 実は、今までの銅鐸出土地点において、その近傍から炭粒や灰などが見つかっているケースが何例か報告されている。
 例えば、島根県加茂岩倉(炭粒)(島根県教委2002);島根県神庭荒神谷(炭粒),島根県上府(焼土),広島県福田(木炭),徳島県名東(灰),奈良県大福(炭粒)(以上寺沢1992);大阪府跡部(炭粒)(神戸市博1993);兵庫県閏賀(炭粒)(辰馬考資1931)などである。
 なぜこのような炭粒などが存在するのか、その理由は明らかでないが、一つの可能性としては、これらの銅鐸出土地点において松明や篝火など何らかの形で火が使われたということも考えられる。さらに推測を重ねれば、これらの火は夜間において灯されたのかもしれない。
 ところで、神戸市埋蔵文化財センターに問い合わせたところ、北青木銅鐸出土地点において、「径約5?程度の炭化材が、一次埋納坑の埋土中に数片程度混入していた。ただし量が僅少であるため、極近接して焚き火等が行われたか否かについては積極的に肯定できる要素にはなりえないかと思われる。」とのことであった。
 このような状況から見て、銅鐸の埋納/取り出しの作業が夜間に行われたとするには、まだ余りにも証拠不十分であるとせざるを得ないが、しかし、少なくとも作業が行われた時間帯を昼間のみに限定して考えるのではなく、夜間をも含めて考えておくべきであろうと思われる。
 そうして、今後新たに銅鐸が発見された場合には、このようなことも十分念頭においた上で、埋納地点の周辺の状況を注意深く観察・記録することが望まれる。

【参考文献】
(島根県教委2002):島根県教委・加茂町教委『加茂岩倉遺跡』(発掘調査報告書)本編
 2002年3月
(寺沢1992):寺沢薫「銅鐸埋納論(上)・(下)」『古代文化』Vol.44 No.5 & No.6 1992年
(神戸市博1993):神戸市立博物館『銅鐸の世界展』図録 1993年
(辰馬考資1931):『昭和6年1月25日 鵜野傳四郎ヨリ銅鐸ニ関シ聴キ取リタル要点』(辰馬考古資料館所蔵)

(続く)
北青木銅鐸:補遺(2)

2.星河内銅鐸破片
A.銅鐸破片の「発見」
 徳島市上八万町(かみはちまんちょう)星河内(ほしごうち)美田(みた)から1932年に銅鐸が出土したが、7個の銅鐸が出土した後、これらは細片に破壊されたとされており、現在これらの破片は全国あちこちに分割されて所蔵・保管されている。 
 徳島県立博物館は、この銅鐸出土地点と同じ徳島市上八万町に所在するが、同博物館では2002年にこれら各地に散在している星河内銅鐸の破片を一堂に集め、詳細な調査を行った。その結果は、(徳島県立博2006)に紹介されているが、この資料ではこれら破片の所蔵・保管箇所として、徳島県立博物館・東北大学・同志社大学・辰馬考古資料館の4箇所が挙げられている。
 ところが、他の資料[(島根県教委1996)及び(島根県埋文センターHP)]によれば、鎌田共済会郷土博物館にも星河内銅鐸の破片があるとされている。そこで今回私は同郷土博物館に問い合わせてみたところ、星河内銅鐸破片1片があることが判明した。
 実は、徳島県立博物館が2002年に前述の調査を行うに当たって、鎌田共済会郷土博物館にも問い合わせを行ったのだそうだが、その時点では銅鐸破片の存在が確認できなかったため、諦めたという経緯がある。
 今回改めて私が鎌田共済会郷土博物館から聞いたところによると、以前に徳島県立博物館から問い合わせがあった時には、丁度郷土博物館の改装工事中ですべての資料が梱包された状態になっていたために銅鐸破片の有無を調査確認することができなかったのだということであった。その後改装工事も終わり、館内の整理整頓が充分に行われた結果、今回の私の問い合わせに対しては回答していただくことができたのであろう。
 さて、ここに掲載した図3枚の内、最初の図は、鎌田共済会郷土資料館からFAXで送られてきた拓本のコピーに、私が寸法線をつけたものである。郷土資料館の記録によると、この銅鐸破片は浪花勇次郎氏から寄贈されたものとのことである。
 次の図は及び最後の図は、(徳島県立博2006)p.22 及び p.27 からからとったものである。
 ここでこれらを第1図、第2図、第3図と名付けることにしよう。
 第1図を徳島県立博物館に送付して検討して戴いた結果、第1図の破片は第2図の最下段の右にある縦に細長い破片の上半分であろうということになった。この細長い破片の下半分は辰馬考古資料館?の破片で、第3図に示してある。
 なお、第2図は出土後間もない頃に撮影された写真であるが、前述の浪花氏からこの写真を贈られた某氏が徳島県立博物館に寄贈したものである。

B.秋山氏所蔵破片の行方
 以前に三木文雄氏が検討された文献(三木1977)に、星河内銅鐸破片所蔵者の一人として秋山氏の名前があがっており、さらに比較的最近に同氏が刊行された文献(三木1995)でも「銅鐸出土国別地名表」の中で、所蔵者として秋山氏の名前があがっている。
 これについて徳島県立博物館に問い合わせたところ、「秋山氏蔵であった破片は、昭和37年9月11日付けで当館の前身である徳島県博物館に寄贈され、現在は徳島県立博物館蔵となっている。」との回答を得た。
 以上を総合すると、現在星河内銅鐸破片を所蔵しているのは、徳島県立博物館・東北大学・同志社大学・辰馬考古資料館・鎌田共済会郷土博物館の5箇所ということになる。

【参考文献】
(徳島県立博2006):『徳島の自然と歴史ガイド No.5 徳島の銅鐸』徳島県立博物館 2006年
(島根県教委1996):「銅鐸出土地名表」『出雲神庭荒神谷遺跡』第1册 発掘調査報告 本文編 島根県教委 1996年 
(島根県埋文センターHP):「銅鐸出土地名表」http://www.pref.shimane.jp/section/maibun/pdf/seido.pdf
(三木1977):三木文雄「終末期の扁平小型銅鐸に就いて」『國學院雑誌』Vol.78,No.9 昭和52年9月
(三木1995):『日本出土青銅器の研究』第一書房 平成7年7月

(終わり)
炭が見つかっている例が何箇所かある、というのは面白い事実だと思います。
しかも、そこで焚き火をしたというほどの量ではなさそうだ、ということから、夜間に作業を行ったのではないか、という指摘は重要ですね。
もし、夜間にそういう作業(儀式)を行ったとするとどのような意味があったのでしょうね。
非常に興味ある指摘だと思います。
   播磨國住人 韃靼人
    
韃靼人さん、早速にレスをつけて戴いて有難うございました。

> もし、夜間にそういう作業(儀式)を行ったとするとどのような意味があったのでしょうね。

その意味づけは簡単にはできそうにないですが、例えば京都・上賀茂神社のみあれ祭のように、現在でも夜中に行われる儀式というのはあるようですね。
そう言えば・・・・・。
山城の精華町に祝園神社があります。
祝園神社の居篭祭(いごもりまつり)
これは、松明(たいまつ)を付けて夜間にやるそうです。

大和の桜井の三輪神社
大晦日の夜中に繞道祭(にょうどうさい)があります。
これも大きな松明が登場します。
何年か前から危険だというので松明が少し小さくなったそうです。
これは何回か、見に行きました。

祝園神社の居篭祭は、「忌み篭り」から来ていると思います。
「忌み篭り」なら他の各地の神社でもしているみたいです。
私の地元の播磨の日岡神社にも特殊神事として現在でもやっています。
ただ、これは夜にやるのかどうか、ちょっと判りません。

松明とい言えば、東大寺の修二会でしたか、所謂、「お水取り」は松明が登場します。勿論、夜に儀式をやります。
若狭の遠敷(おにゅう)にある若狭彦神社、若狭姫神社が関係しています。
遠敷の神様が遅刻したお詫びに水(恐らく、折口信夫の謂う若水)を送ってくる行事です。
銅鐸は水の祭祀に関係があるという説もあるので、「お水取り」は興味ある儀式です。
恐らく「生命の再生」の儀式として捉えれば、銅鐸もそうだった可能性はあるのではないでしょうか。
三品さんの「天的宗儀と地的宗儀」でしたか、あの理論とも矛盾しないように思います。
韃靼人さん、たちどころにあちこちの神社のお祭りの事例をあげて戴いて、有難うございます。サスガ。。。。
水と火は、どちらも大事なものですから、お祭りにこれらが登場しても当然と言えば当然かもしれませんが。。。。(^_^)
ようするに何のために火や水を使うのか?
何故、夜にするのか?
銅鐸は何故、埋められ、掘り出されるのか?
ということでしょうね。
   播磨國住人 韃靼人

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