４
それは選択肢のなかに必ずしも正解があるとは限らないことに気付いた頃の話
無理無茶無謀と言われれば言われるほど反抗心に燃えそれをやって退けてみせたくなる俺。
熱は朝、三十八度まで下がっていた。
普段の俺なら大学まではもたないだろうが仕事には出掛けていただろう。
誰が誉めてくれるわけでもなく、ただ負けよう逃げようとする自分に打ち克つ喜びの為に。
しかし、見舞いに来てくれて晩御飯までつくってくれた坂野さんが今日も欠勤と伝えてくれてるのに出勤するのは恩を仇で返すことになるのではないか・・・「無理はするな」と言うよりも坂野さんのとった方法が俺を上手く布団の中に釘付けにした。
蟹雑炊の残りを食べてからも『これがナイチンゲール効果なんだろうか・・・。』と考えていると哲馬が茶々を入れてくる。
「随分と大人しいな。会社へ！学校へ！って昨日はあれだけ騒いでたのに。病院行くか、一緒に。」
「多分、今日一日寝てれば治るよ。雑炊も食べたし、薬も飲んだし。」
「雑炊、美味かったな・・・あれ、つくれないもんかな。」
「俺らじゃ無理だよ。溶き卵、いつも固まってるじゃん。」
「そうだな。さて、通院費一日一万を稼ぎに行ってくるか・・・。」
「バスで行きなよ。」
「わかってるよっと！」
「パララララッ・・・」
おもてでTZRの排気音がする。全然わかってない。
まったく懲りてない。右腕折れてるに。
無茶ばっかり。一番下の肋骨も折れてるのに。
馬鹿。哲馬の兄貴もバイクで亡くなってるのに。
心配する身にもなってみろ。
運命が放った厄災の矢に射抜かれ落馬した兄すら顧みず疾走する鉄騎兵の夢をみた。
目が覚めると坂野さんがそこに座っていた。
「どこか痛い？」
そうゆう夢なのだと思った。
首を横に振ると少し涙が零れ落ちた。
「よかった・・・泣いてたからよほど痛いのかと思った。」
心配される有り難味が染みて奥歯を噛み締めなければ泣き出していた。
「無茶しぃがちょっと良くなったからって学校へ行かないように見張りに来ました。おねぇさんの言いつけはちゃんと守ってましたね。」
ふいにおでこへ乗せられた坂野さんの手の冷たさに無防備だった醜態への羞恥心が強烈に込み上げる。
哲馬がいなくてよかった。
こんな姿を見られたら一生言われ続けるだろうから。
「大学ってどんなとこ？」
「その前に顔洗ってきていいですか？」
「敬語はナシにしない？取調べしてるみたいだし。」
「髭剃りと歯磨きもしたいんですがよろしいでしょうか。」
「よろしい、許可する！」
ふたりでクスクスと笑った。少し溝が埋まった気がした。
「とにかくデカイの一言に尽きますね！大学自体が街みたいで何でもありますよ。食堂は五階建てで全部食べ物屋が入ってます。俺が着くのは始業ギリギリで授業終わる頃には閉店してるから食べたことないですけどね！」
洗顔と歯磨きと髭剃りを済ませ、また布団に押し込まれた俺は喋り続ける。
「すごいねぇ。私が行っても怒られないかな。」
「坂野さん、若く見えるから全然問題ないですよ。」
「女子大生ってみんな綺麗なんでしょ？」
「二部には女の子なんていませんから。」
喋り続けなければ間がもたなかったし、見つめられてる沈黙にも耐えられなかった。
「夜間で働きながらきてるのは俺ぐらいなもんで他は昼間予備校行って次の春にはまた大学受験する仮面浪人とか一部昇格試験狙いとかそんなのばかりで友達になろうって気にもなりません。勉強するのは嫌じゃないんですけど、その雰囲気がちょっと・・・」
喋るのにも体力が要る。
喋り続けられるほど体力は回復していなかった。
「哲馬くんみたいな友達が学校にもいたらいいのにね。私、中学卒業してからすぐ働き出したから学校とか友達とか憧れてたんだよね。円藤くんの履歴書見てそうゆう選択肢もあったのにって思って。憧れじゃなくてそれを選択しなかった自分に後悔しててね・・・密かに応援してたんだぁ、円藤くんのこと！だって凄いじゃない、ウチの仕事きついのにその後学校行って一人暮らしでしょ、哲馬くん居て驚いたけど。人間そう大差ないのに普段から二倍も三倍も動いてて無理してないわけないじゃない！体がもう限界ですって言ってても認めたくないんでしょ。負けたくないんでしょ。ふらふらになっても止まらないでそのまま進んでいっちゃうし・・・だから、ちょっとでもいいから力になれたらいいなって思ってたの。いつか倒れちゃったらそこで諦めない様に手を差し伸べるんだって決めてたの。倒れるから休みなさいって言っても人の言う事きかないでしょ、無理しぃだから。」
坂野さんは饒舌だった。
俺の口ぶりを真似て、息が切れた俺に喋らせないように、喋り続けた。
「そんなに大したもんじゃないですって・・・」
息が切れたのではない。
喉の奥まで込み上げた嗚咽が言葉を遮った。
哲馬の他にも味方になってくれるひとがいたことが泣き出したくなるほど嬉しかった。
「哲馬くんも言ってたよ。前しか見なくて壊れるまで延々走っていっちゃうって。前しか見てないから隙だらけでひとの好意とか心配とか目に入らなくて敵もつくっちゃうけど会社まで目が届かないからよろしくお願いしますって。いい子だよね、哲馬くん。」
「そういえば哲馬・・・腕折れてるのにバイクで病院行ってまだ帰ってきてない・・・」
「帰ってきてたよ。見てますからって言ったらよろしくお願いしますって。バイクはやめてねって言ったらハイって歩いていったし・・・いい友達だよね！私も高校行けばよかったなぁ。晩御飯は哲馬くん帰ってきてからね。あっ、哲馬くんは円藤くんのことを『まさみちゃん』って呼ぶよね！ 私もそう呼んじゃおうかな〜」
「弱ってる者ををいじめちゃいけないって学校で教わりませんでしたか？」
「はい。中卒だから知りません！まさみ先生〜」
「ごめんなさい。だから、その呼び方はやめてください。恥ずかしくてまた熱が出そうです・・・」
自分の名が女の子のような響きで好きじゃない。
その名を女性に呼ばれた経験もない。
二重の恥ずかしさで血が逆流しているようだった。
「おっ、賑やかだな！元気になったじゃん、まさみちゃん！」
左手に紙袋とファミコンの箱を下げた哲馬が帰ってきた。
「ほら、哲馬くんは言ってるのに私はなんでダメなんですか」
「もうちょっと他の呼び方を考えて・・・」
「歩いて行ったら途中に新装開店のパチンコ屋があってさ！メチャメチャ出たからファミコンとってきた！坂野さん様様！毎日来てもらったら！」
「哲馬くんもああ言ってくれてるし！」
「いや、哲馬おかえり・・・えぇっ！？」
『俺ら』は二点と繋ぐ線から三角になろうとしていた。
それは朝陽が昇る少し前の闇が生まれたての紫色に変わっていく頃の話。
５
三人で囲む食卓は温かな蟹チャーハンと賑やかな会話で満たされていた。
そんな温もりとは縁の無い軌道で俺は日々周回していて、その温もりを犠牲にした軌道は誰のせいでもなく選択した自分に全ての責任があることも知っていた。
自分で自分に課した任務を他人と比較することなく消化していく事に自分の価値を見出していた。
自分が強くなっていく度になにかが鈍くなっていくのもわかっていた。
坂野さんにも同じ匂いを感じていた。
暖かな食卓とはかけ離れた軌道。起伏を失ってゆく感情。守る為の自己犠牲。
今日の坂野さんはよく喋りよく笑っていたが稀に会社で見かけた坂野さんは眼鏡をかけ笑っていることも楽しそうに喋っていることもなかった。
その違和感が坂野さんが楽しそうにすればするほど長い影を伸ばしていく。
「暴走族だって免許取りに行く時は大人しくしてるのにまさみちゃんは教官相手に喧嘩してテーブルをバーンと叩いて『わかったよ！もうこねぇよ！！』って啖呵切って退校処分になってるから。 あの時いくらパーになったんだっけ？」
「六万。」
「あははははっ・・・あ〜、可笑しいっ！」
「教官だからって理不尽な態度は良くないだろ。ものを教えるひとは礼節も同時に教えてるんだからさぁ。」
「まさみちゃんには正義のスイッチがあって、それがカチッって入った瞬間沸騰どころか炸裂するから！高校の頃は壇上から全校生徒に向かって啖呵切ってるし・・・」
「あ〜、もう笑わせないで、お腹痛い！まさみちゃん、可笑し過ぎっ！」
「ふたりとも『まさみちゃん』って言い過ぎ。」
「会社で会ったら絶対思い出して笑っちゃう！」
「凄い奴だよ、ほんとに！」
「ちょっと横になるよ。」
「そう拗ねるなよ、ミスター・武勇伝。」
「哲馬こそ牛乳飲んで早く骨くっつけろよ。」
楽しければ楽しいほど別れる時に辛くなる。
明日からまた衛星軌道を飛ぶスプートニクのようにこの食卓を手のとどかない場所から想う暮らしが始まる。この食卓すら忘れるほどの忙しさが始まる。
楽しそうに笑う坂野さんの笑顔すら忘れねばならぬ道が待っている。
せっかく感情を封じ込めておいたパンドラの箱なのに優しさと温もりがゴリゴリと外から蓋をこじ開けようとしている。
坂野さん持参の切子硝子の器三つに缶詰の白桃が盛られている。
「こんなに笑ったの、久しぶり。また遊びに来ていいかな。」
「俺ら、すっかり餌付けされてるから。なぁ、まさみちゃん。」
「平日は時間ないけど日曜なら大丈夫ですよ。」
布団から起き上がろうとする俺を坂野さんはすっと手で制した。
「横になったままでいいよ。元気になったらもう動いてる円藤くんしか見れなくなっちゃうから、そのままでいいよ。いつも学校から帰ってくるのは何時？」
「十一時過ぎかな。授業は十時二十分まであるから。お店は閉まって晩御飯は缶詰主食ですから。」
俺らの作る料理はおそろしく不味かった。
材料の缶詰をそのまま食べたほうがマシなほど不味かった。
「・・・」 坂野さんは野戦陣地の兵隊のような暮らしぶりに絶句していた。
「いいんです、これで。これを覚悟した上で自分で決めたことですから。自分が決めた道なら茨の道でもそこを走っていきますよ。誰にも文句を言わない換わりに誰にも文句を言わせない。それだけがここのルールです。」
揺らいだ気持ちに釘打つように、自分に再度言い聞かせるように俺は強く言い切った。
「強いのね、あなたたち。」
真顔に戻った哲馬が口を開く。
「馬鹿なだけでしょう、俺達は。もっと利口な生き方もあるんでしょうがまさみちゃんは一直線だ。それでいてどれも捨てない。こいつはどこまで行くのか、どこまで行けるのか、見てみたいって思うんですよ。俺は後ろから付いていってるだけですけどね。」
哲馬の言葉が俺の背中を蹴り飛ばす。
『どれも捨てない』ことがどれだけ大変なことか骨身に染みている筈なのにもうひとつ拾おうとしてる自分に気付く。それでも伸ばす手は止まらない。
「俺らは坂野さんが笑えるんならいつでも歓迎します。こんな貧弱なベースキャンプですけど。」
選択肢の中で受けるダメージが最も少ない選択が正しいとは限らないと俺らは知っていた。
それがどれだけ僅かな残り時間を削ろうと、それがどれだけ骨身を削ろうと、その握った手は振りほどかれるまで離さない。そのルールを覚悟と共に刻み込む。
「ほんとに馬鹿ね・・・自分達の事で精一杯なのにご飯ぐらいで騙されちゃって・・・ほんとに馬鹿なんだから・・・今まで出会った中で一番の馬鹿・・・あ〜ぁ、馬鹿過ぎちゃって涙出てきちゃったじゃない・・・」
馬鹿にしか選べない選択肢の果てに咲く一輪の花の名を「勇気」と言うことも俺らは知っていた。
最適解すらない選択肢の前でも立ち止まらないのが生き残る術だと俺らは知っていた。
「一宿一飯の恩を忘れるようなら男をやめなきゃいけないんでね。」
哲馬は肋骨の折れてる胸を張った。
「馬鹿は承知で生きてます。どうせ馬鹿なら賑やかなほうがいい。なぁ、哲馬。」
「あぁ、馬鹿にしか見えない景色もあるからな。」
俺らはぽろぽろと涙を流す坂野さんにかける優しい言葉は持ち合わせていなかった。
閉じ込めていた感情がぽろぽろとこぼれてくる坂野さんを俺らは兵士のように見守っていた。
華奢な肩が小刻みな動きを止めるまで黙って見守っていた。
「お化粧、崩れちゃった・・・」
呼吸を整えた坂野さんは小さな声で言った。
「お化粧、崩れちゃったから今日はもう帰るね。」
「ご馳走様でした！元気になったので明日は会社に行きます！」
「俺、送っていくわ」
哲馬は煙草をくわえるとサンダルを引っ掛けてドアを開けた。
坂野さんは下を向いたままお辞儀をした。
「また明日！」
二人がドアの向こうの闇に溶けていくのをいつまでも見送っていた。
「電子レンジがないのが不便だって言ってたからそのうち持って来ちゃうんじゃないか、電子レンジ。」
駅から戻ってきた哲馬は陽気に振舞っているように見えた。
傷が痛むのだろうか。
「すっかり仲良しだな、哲馬！いっそ、付き合っちゃうのはどうだっ！」
朝ご飯にと残してあった蟹チャーハンを頬張りながらほんの少しの嫉妬を隠しながら突っ込んでみる。
「まさみちゃんが大学をサボらない為にそれも『有り』かと思ったけどな・・・」
「ふたりが仲良しだったら俺も安心して無茶出来るしな！」
「まさみちゃんの話を聞かせてくれってねだられて、それをずっとニコニコ聴いてる坂野さんにそんな事言えるか、この馬鹿！坂野さんの気持ちも少しは察しろ！」
「軽率だったわ。すまん。」
「反省しとけよ。親父のとこへ行って書類貰ってくるわ。帰りは明日だからひとりで頭冷やしとけ。」哲馬はＴＺＲの鍵を指に引っ掛けて出て行った。
２ストロークの甲高い排気音が遠ざかってゆく。
人声の絶えた四畳半が体育館のように広く感じた。
６
音の絶えた部屋のドアがノックされる。
TZRが戻ってきた気配はなかった。
そもそも哲馬はノックなどしない。
ドアを開けるとすっぴんの坂野さんが立っていた。
濡れた髪ですっぴんの坂野さんは部活が終わったばかりの女子中学生のように見えた。
「駅前の銭湯に入ってたら終電に間に合わず、坂野 戻ってきてしまいました〜」
すっぴんの坂野さんから石鹸とビールがした。
「終電、行っちゃいましたか・・・」
その姿で本気で最終電車に乗るつもりだったのだろうかと思考を巡らせる。
女性が何を行動原理に定め何に従って物事を考えているのか俺にはさっぱり解らなかった。
なにせ俺は女性と付き合ったことが一度もなかった。
ましてや終電が出てしまった後「戻ってきてしまいました〜」と女性に玄関口に立たれるケースなど夢想すらしたこともなかった。
部活帰りの中学生のようなメデューサの前で思考も体も石と化していた。
「まさみくんが元気になっておねぇさん、嬉しいぞ〜」
最終電車も哲馬のＴＺＲも送っていく手段がない以上『酔っ払いは眠かせてしまわないと・・・』と防衛本能が告げていた。
ひとは未知なるものに怖れを抱く。
遭遇したこともない状況と未知なる酔っ払った坂野さんの前に本能すら怖気づく。
「作ってくれた美味しい御飯のお陰で元気になりましたよ。水持ってきますから布団に横になってて！」
「せっかく仕事にも学校にも邪魔されずに話が出来ると思ってきたのに・・・」
「俺もちゃんと御礼を言いたかったから嬉しいんですけどね。」
「なら、ここに座ってて。」
俺は距離を取ることも寝かしつけることも諦めて布団の横に正座した。
「哲馬くんは出掛けるって言ってたしさぁ。哲馬くんからいろんな話を聞かせてもらったよぉ・・・」
坂野さんは俺にまつわる事柄や逸話を知っていた。
俺すら忘れているような些細な昔話まで知っていた。
「いいよね、友達って。思い出をいっぱい共有してて。話聞いてたら私自身もまさみくんの高校からの友達みたいに思えてきて嬉しかった。」
「・・・」
「哲馬くんが『まさみちゃん』って呼ぶじゃない。私、あさみって名前なのね。最初あさみちゃんって聞こえてびっくりしちゃった。」
坂野さんの名前があさみだという事すら俺は知らなかった。
「一文字違いなんだよ、名前。『あ』と『ま』は似てるしね〜。知らなかったでしょ？私ばっかりまさみくんの事知ってて不公平だからどんなに答え難い質問でもひとつだけ答えてあげる！年上のおねぇさんの過去が明らかになるチャンスですよ〜」
ずっと坂野さんの違和感が気になっていた。
意図的に成長を止めたような不自然な違和感。
ひとはそれを意図的に行えないはずなのにそこに生じている奇妙な歪み。
坂野さんが歪みを引き起こした原因が他のなにより知りたかった。
「坂野さんが中学の時、何があったか訊いてもいいですか・・・」
「えぇ〜、男性遍歴とか初体験とか訊かなくていいの？」
坂野さんから笑顔と酔いが退いていくのがわかった。
「やっぱり、通じ合ってるのね。それ、ジョーカーだから。」
「母が死んだの。自殺だった。学校から帰ったら梁からぶら下がってたわ。死ぬくらい嫌だったら逃げればいいのに・・・そんな姿を私に見せた母を絶対に許さないって思った。妹がいたから中学卒業してすぐに働き出したの。妹の面倒も私がみて高校の学費も私が出したわ。今は妹も働いてるから楽になったけどね。」
坂野さんは亡くなった母親にきっと似ているのだろう。
成長するごとに許せない母親に似てゆく自分が許せなかったのだろう。
幼いままの容姿は母親に似てゆく成長への拒絶。
そして俺の面倒をみてくれた理由も瞬時に理解し納得した。
妹を背負って茨の道を裸足で歩いてきた坂野さんは俺達よりもずっとずっと強かった。
魂の偉大さは苦悩の深さに比例する。
華奢な身体に収まっている魂は深い色彩と強い輝きを放っていた。
その魂と共に歩みたいと思った。
「同情や憐みは要らないの・・・だから誰にも話したことないし。」
同情や憐みではなくその魂をもっと知りたいと願った。
親から受ける影響力は思いのほか強く、暗示として無意識領域に刷り込まれる。
強過ぎる暗示は呪いのように手の届かない無意識の深海からその人を縛る。
呪いに抵抗し茨の道を歩んできた坂野さんの頭を抱いて髪をなでた。
坂野さんは口惜しそうに涙をこぼした。
「ここに来ると私泣いてばっかりでごめんね。いつもは感情が漏れないようにしてるんだけどここに来るとダメね・・・。」
その魂と重なりたいと思った。
暗く冷たい記憶の沼から伸ばされた手を摑むのに何の躊躇もなかった。
坂野さんの頬につたう涙の雫を舐めた。
瞼の縁の涙を舐めた。
閉じられた瞼の隙間からそっと舌先で眼球を舐めた。
「たった今から坂野さんの涙は俺のものです。坂野さんが涙を流していいのは俺の為だけだから。もう過去はあなたを泣かせないし、それを俺は許さない。」
俺の躊躇も言い訳も計算も推測も全て引き千切ってそこから彼女を引き出したかった。
彼女のそれまでの人生を真っ当な理屈や慰めの言葉ではなく強引な一撃で捻じ曲げてしまいたかった。
過去からの呪縛の干渉が届かぬように更に強い呪文で縛ってしまいたかった。
「絶対嘘！誰とも付き合ったことがないなんて絶〜〜〜〜〜〜〜対嘘！！」
予想外の行動と恥ずかしい台詞に坂野さんは俺を押しのけて下を向いて言った。
「自慢じゃないけどほんとに誰とも付き合ったことなんてないし、嘘もつかないですよ。」
「嘘つきだし・・・ロマンチストだし・・・サディストだし・・・眼球舐めるし・・・」
「そんな俺ですがよろしいでしょうか？」
「私だって六才も年上だし・・・スタイルだって子供みたいだし・・・中卒だし・・・そんな私でもいいんですか？」
「質問に質問で返さないように。」
坂野さんは布団の上に正座して頭を深く下げ「よろしくお願いします。」と言った。
俺も同じように頭を深く下げ「こちらこそよろしくお願いします。」と言った。
どれが恋で、なにが愛なのか、さっぱり分かりはしなかったが離してはいけない手だけは分かっていた。
おしまい
それは選択肢のなかに必ずしも正解があるとは限らないことに気付いた頃の話
無理無茶無謀と言われれば言われるほど反抗心に燃えそれをやって退けてみせたくなる俺。
熱は朝、三十八度まで下がっていた。
普段の俺なら大学まではもたないだろうが仕事には出掛けていただろう。
誰が誉めてくれるわけでもなく、ただ負けよう逃げようとする自分に打ち克つ喜びの為に。
しかし、見舞いに来てくれて晩御飯までつくってくれた坂野さんが今日も欠勤と伝えてくれてるのに出勤するのは恩を仇で返すことになるのではないか・・・「無理はするな」と言うよりも坂野さんのとった方法が俺を上手く布団の中に釘付けにした。
蟹雑炊の残りを食べてからも『これがナイチンゲール効果なんだろうか・・・。』と考えていると哲馬が茶々を入れてくる。
「随分と大人しいな。会社へ！学校へ！って昨日はあれだけ騒いでたのに。病院行くか、一緒に。」
「多分、今日一日寝てれば治るよ。雑炊も食べたし、薬も飲んだし。」
「雑炊、美味かったな・・・あれ、つくれないもんかな。」
「俺らじゃ無理だよ。溶き卵、いつも固まってるじゃん。」
「そうだな。さて、通院費一日一万を稼ぎに行ってくるか・・・。」
「バスで行きなよ。」
「わかってるよっと！」
「パララララッ・・・」
おもてでTZRの排気音がする。全然わかってない。
まったく懲りてない。右腕折れてるに。
無茶ばっかり。一番下の肋骨も折れてるのに。
馬鹿。哲馬の兄貴もバイクで亡くなってるのに。
心配する身にもなってみろ。
運命が放った厄災の矢に射抜かれ落馬した兄すら顧みず疾走する鉄騎兵の夢をみた。
目が覚めると坂野さんがそこに座っていた。
「どこか痛い？」
そうゆう夢なのだと思った。
首を横に振ると少し涙が零れ落ちた。
「よかった・・・泣いてたからよほど痛いのかと思った。」
心配される有り難味が染みて奥歯を噛み締めなければ泣き出していた。
「無茶しぃがちょっと良くなったからって学校へ行かないように見張りに来ました。おねぇさんの言いつけはちゃんと守ってましたね。」
ふいにおでこへ乗せられた坂野さんの手の冷たさに無防備だった醜態への羞恥心が強烈に込み上げる。
哲馬がいなくてよかった。
こんな姿を見られたら一生言われ続けるだろうから。
「大学ってどんなとこ？」
「その前に顔洗ってきていいですか？」
「敬語はナシにしない？取調べしてるみたいだし。」
「髭剃りと歯磨きもしたいんですがよろしいでしょうか。」
「よろしい、許可する！」
ふたりでクスクスと笑った。少し溝が埋まった気がした。
「とにかくデカイの一言に尽きますね！大学自体が街みたいで何でもありますよ。食堂は五階建てで全部食べ物屋が入ってます。俺が着くのは始業ギリギリで授業終わる頃には閉店してるから食べたことないですけどね！」
洗顔と歯磨きと髭剃りを済ませ、また布団に押し込まれた俺は喋り続ける。
「すごいねぇ。私が行っても怒られないかな。」
「坂野さん、若く見えるから全然問題ないですよ。」
「女子大生ってみんな綺麗なんでしょ？」
「二部には女の子なんていませんから。」
喋り続けなければ間がもたなかったし、見つめられてる沈黙にも耐えられなかった。
「夜間で働きながらきてるのは俺ぐらいなもんで他は昼間予備校行って次の春にはまた大学受験する仮面浪人とか一部昇格試験狙いとかそんなのばかりで友達になろうって気にもなりません。勉強するのは嫌じゃないんですけど、その雰囲気がちょっと・・・」
喋るのにも体力が要る。
喋り続けられるほど体力は回復していなかった。
「哲馬くんみたいな友達が学校にもいたらいいのにね。私、中学卒業してからすぐ働き出したから学校とか友達とか憧れてたんだよね。円藤くんの履歴書見てそうゆう選択肢もあったのにって思って。憧れじゃなくてそれを選択しなかった自分に後悔しててね・・・密かに応援してたんだぁ、円藤くんのこと！だって凄いじゃない、ウチの仕事きついのにその後学校行って一人暮らしでしょ、哲馬くん居て驚いたけど。人間そう大差ないのに普段から二倍も三倍も動いてて無理してないわけないじゃない！体がもう限界ですって言ってても認めたくないんでしょ。負けたくないんでしょ。ふらふらになっても止まらないでそのまま進んでいっちゃうし・・・だから、ちょっとでもいいから力になれたらいいなって思ってたの。いつか倒れちゃったらそこで諦めない様に手を差し伸べるんだって決めてたの。倒れるから休みなさいって言っても人の言う事きかないでしょ、無理しぃだから。」
坂野さんは饒舌だった。
俺の口ぶりを真似て、息が切れた俺に喋らせないように、喋り続けた。
「そんなに大したもんじゃないですって・・・」
息が切れたのではない。
喉の奥まで込み上げた嗚咽が言葉を遮った。
哲馬の他にも味方になってくれるひとがいたことが泣き出したくなるほど嬉しかった。
「哲馬くんも言ってたよ。前しか見なくて壊れるまで延々走っていっちゃうって。前しか見てないから隙だらけでひとの好意とか心配とか目に入らなくて敵もつくっちゃうけど会社まで目が届かないからよろしくお願いしますって。いい子だよね、哲馬くん。」
「そういえば哲馬・・・腕折れてるのにバイクで病院行ってまだ帰ってきてない・・・」
「帰ってきてたよ。見てますからって言ったらよろしくお願いしますって。バイクはやめてねって言ったらハイって歩いていったし・・・いい友達だよね！私も高校行けばよかったなぁ。晩御飯は哲馬くん帰ってきてからね。あっ、哲馬くんは円藤くんのことを『まさみちゃん』って呼ぶよね！ 私もそう呼んじゃおうかな〜」
「弱ってる者ををいじめちゃいけないって学校で教わりませんでしたか？」
「はい。中卒だから知りません！まさみ先生〜」
「ごめんなさい。だから、その呼び方はやめてください。恥ずかしくてまた熱が出そうです・・・」
自分の名が女の子のような響きで好きじゃない。
その名を女性に呼ばれた経験もない。
二重の恥ずかしさで血が逆流しているようだった。
「おっ、賑やかだな！元気になったじゃん、まさみちゃん！」
左手に紙袋とファミコンの箱を下げた哲馬が帰ってきた。
「ほら、哲馬くんは言ってるのに私はなんでダメなんですか」
「もうちょっと他の呼び方を考えて・・・」
「歩いて行ったら途中に新装開店のパチンコ屋があってさ！メチャメチャ出たからファミコンとってきた！坂野さん様様！毎日来てもらったら！」
「哲馬くんもああ言ってくれてるし！」
「いや、哲馬おかえり・・・えぇっ！？」
『俺ら』は二点と繋ぐ線から三角になろうとしていた。
それは朝陽が昇る少し前の闇が生まれたての紫色に変わっていく頃の話。
５
三人で囲む食卓は温かな蟹チャーハンと賑やかな会話で満たされていた。
そんな温もりとは縁の無い軌道で俺は日々周回していて、その温もりを犠牲にした軌道は誰のせいでもなく選択した自分に全ての責任があることも知っていた。
自分で自分に課した任務を他人と比較することなく消化していく事に自分の価値を見出していた。
自分が強くなっていく度になにかが鈍くなっていくのもわかっていた。
坂野さんにも同じ匂いを感じていた。
暖かな食卓とはかけ離れた軌道。起伏を失ってゆく感情。守る為の自己犠牲。
今日の坂野さんはよく喋りよく笑っていたが稀に会社で見かけた坂野さんは眼鏡をかけ笑っていることも楽しそうに喋っていることもなかった。
その違和感が坂野さんが楽しそうにすればするほど長い影を伸ばしていく。
「暴走族だって免許取りに行く時は大人しくしてるのにまさみちゃんは教官相手に喧嘩してテーブルをバーンと叩いて『わかったよ！もうこねぇよ！！』って啖呵切って退校処分になってるから。 あの時いくらパーになったんだっけ？」
「六万。」
「あははははっ・・・あ〜、可笑しいっ！」
「教官だからって理不尽な態度は良くないだろ。ものを教えるひとは礼節も同時に教えてるんだからさぁ。」
「まさみちゃんには正義のスイッチがあって、それがカチッって入った瞬間沸騰どころか炸裂するから！高校の頃は壇上から全校生徒に向かって啖呵切ってるし・・・」
「あ〜、もう笑わせないで、お腹痛い！まさみちゃん、可笑し過ぎっ！」
「ふたりとも『まさみちゃん』って言い過ぎ。」
「会社で会ったら絶対思い出して笑っちゃう！」
「凄い奴だよ、ほんとに！」
「ちょっと横になるよ。」
「そう拗ねるなよ、ミスター・武勇伝。」
「哲馬こそ牛乳飲んで早く骨くっつけろよ。」
楽しければ楽しいほど別れる時に辛くなる。
明日からまた衛星軌道を飛ぶスプートニクのようにこの食卓を手のとどかない場所から想う暮らしが始まる。この食卓すら忘れるほどの忙しさが始まる。
楽しそうに笑う坂野さんの笑顔すら忘れねばならぬ道が待っている。
せっかく感情を封じ込めておいたパンドラの箱なのに優しさと温もりがゴリゴリと外から蓋をこじ開けようとしている。
坂野さん持参の切子硝子の器三つに缶詰の白桃が盛られている。
「こんなに笑ったの、久しぶり。また遊びに来ていいかな。」
「俺ら、すっかり餌付けされてるから。なぁ、まさみちゃん。」
「平日は時間ないけど日曜なら大丈夫ですよ。」
布団から起き上がろうとする俺を坂野さんはすっと手で制した。
「横になったままでいいよ。元気になったらもう動いてる円藤くんしか見れなくなっちゃうから、そのままでいいよ。いつも学校から帰ってくるのは何時？」
「十一時過ぎかな。授業は十時二十分まであるから。お店は閉まって晩御飯は缶詰主食ですから。」
俺らの作る料理はおそろしく不味かった。
材料の缶詰をそのまま食べたほうがマシなほど不味かった。
「・・・」 坂野さんは野戦陣地の兵隊のような暮らしぶりに絶句していた。
「いいんです、これで。これを覚悟した上で自分で決めたことですから。自分が決めた道なら茨の道でもそこを走っていきますよ。誰にも文句を言わない換わりに誰にも文句を言わせない。それだけがここのルールです。」
揺らいだ気持ちに釘打つように、自分に再度言い聞かせるように俺は強く言い切った。
「強いのね、あなたたち。」
真顔に戻った哲馬が口を開く。
「馬鹿なだけでしょう、俺達は。もっと利口な生き方もあるんでしょうがまさみちゃんは一直線だ。それでいてどれも捨てない。こいつはどこまで行くのか、どこまで行けるのか、見てみたいって思うんですよ。俺は後ろから付いていってるだけですけどね。」
哲馬の言葉が俺の背中を蹴り飛ばす。
『どれも捨てない』ことがどれだけ大変なことか骨身に染みている筈なのにもうひとつ拾おうとしてる自分に気付く。それでも伸ばす手は止まらない。
「俺らは坂野さんが笑えるんならいつでも歓迎します。こんな貧弱なベースキャンプですけど。」
選択肢の中で受けるダメージが最も少ない選択が正しいとは限らないと俺らは知っていた。
それがどれだけ僅かな残り時間を削ろうと、それがどれだけ骨身を削ろうと、その握った手は振りほどかれるまで離さない。そのルールを覚悟と共に刻み込む。
「ほんとに馬鹿ね・・・自分達の事で精一杯なのにご飯ぐらいで騙されちゃって・・・ほんとに馬鹿なんだから・・・今まで出会った中で一番の馬鹿・・・あ〜ぁ、馬鹿過ぎちゃって涙出てきちゃったじゃない・・・」
馬鹿にしか選べない選択肢の果てに咲く一輪の花の名を「勇気」と言うことも俺らは知っていた。
最適解すらない選択肢の前でも立ち止まらないのが生き残る術だと俺らは知っていた。
「一宿一飯の恩を忘れるようなら男をやめなきゃいけないんでね。」
哲馬は肋骨の折れてる胸を張った。
「馬鹿は承知で生きてます。どうせ馬鹿なら賑やかなほうがいい。なぁ、哲馬。」
「あぁ、馬鹿にしか見えない景色もあるからな。」
俺らはぽろぽろと涙を流す坂野さんにかける優しい言葉は持ち合わせていなかった。
閉じ込めていた感情がぽろぽろとこぼれてくる坂野さんを俺らは兵士のように見守っていた。
華奢な肩が小刻みな動きを止めるまで黙って見守っていた。
「お化粧、崩れちゃった・・・」
呼吸を整えた坂野さんは小さな声で言った。
「お化粧、崩れちゃったから今日はもう帰るね。」
「ご馳走様でした！元気になったので明日は会社に行きます！」
「俺、送っていくわ」
哲馬は煙草をくわえるとサンダルを引っ掛けてドアを開けた。
坂野さんは下を向いたままお辞儀をした。
「また明日！」
二人がドアの向こうの闇に溶けていくのをいつまでも見送っていた。
「電子レンジがないのが不便だって言ってたからそのうち持って来ちゃうんじゃないか、電子レンジ。」
駅から戻ってきた哲馬は陽気に振舞っているように見えた。
傷が痛むのだろうか。
「すっかり仲良しだな、哲馬！いっそ、付き合っちゃうのはどうだっ！」
朝ご飯にと残してあった蟹チャーハンを頬張りながらほんの少しの嫉妬を隠しながら突っ込んでみる。
「まさみちゃんが大学をサボらない為にそれも『有り』かと思ったけどな・・・」
「ふたりが仲良しだったら俺も安心して無茶出来るしな！」
「まさみちゃんの話を聞かせてくれってねだられて、それをずっとニコニコ聴いてる坂野さんにそんな事言えるか、この馬鹿！坂野さんの気持ちも少しは察しろ！」
「軽率だったわ。すまん。」
「反省しとけよ。親父のとこへ行って書類貰ってくるわ。帰りは明日だからひとりで頭冷やしとけ。」哲馬はＴＺＲの鍵を指に引っ掛けて出て行った。
２ストロークの甲高い排気音が遠ざかってゆく。
人声の絶えた四畳半が体育館のように広く感じた。
６
音の絶えた部屋のドアがノックされる。
TZRが戻ってきた気配はなかった。
そもそも哲馬はノックなどしない。
ドアを開けるとすっぴんの坂野さんが立っていた。
濡れた髪ですっぴんの坂野さんは部活が終わったばかりの女子中学生のように見えた。
「駅前の銭湯に入ってたら終電に間に合わず、坂野 戻ってきてしまいました〜」
すっぴんの坂野さんから石鹸とビールがした。
「終電、行っちゃいましたか・・・」
その姿で本気で最終電車に乗るつもりだったのだろうかと思考を巡らせる。
女性が何を行動原理に定め何に従って物事を考えているのか俺にはさっぱり解らなかった。
なにせ俺は女性と付き合ったことが一度もなかった。
ましてや終電が出てしまった後「戻ってきてしまいました〜」と女性に玄関口に立たれるケースなど夢想すらしたこともなかった。
部活帰りの中学生のようなメデューサの前で思考も体も石と化していた。
「まさみくんが元気になっておねぇさん、嬉しいぞ〜」
最終電車も哲馬のＴＺＲも送っていく手段がない以上『酔っ払いは眠かせてしまわないと・・・』と防衛本能が告げていた。
ひとは未知なるものに怖れを抱く。
遭遇したこともない状況と未知なる酔っ払った坂野さんの前に本能すら怖気づく。
「作ってくれた美味しい御飯のお陰で元気になりましたよ。水持ってきますから布団に横になってて！」
「せっかく仕事にも学校にも邪魔されずに話が出来ると思ってきたのに・・・」
「俺もちゃんと御礼を言いたかったから嬉しいんですけどね。」
「なら、ここに座ってて。」
俺は距離を取ることも寝かしつけることも諦めて布団の横に正座した。
「哲馬くんは出掛けるって言ってたしさぁ。哲馬くんからいろんな話を聞かせてもらったよぉ・・・」
坂野さんは俺にまつわる事柄や逸話を知っていた。
俺すら忘れているような些細な昔話まで知っていた。
「いいよね、友達って。思い出をいっぱい共有してて。話聞いてたら私自身もまさみくんの高校からの友達みたいに思えてきて嬉しかった。」
「・・・」
「哲馬くんが『まさみちゃん』って呼ぶじゃない。私、あさみって名前なのね。最初あさみちゃんって聞こえてびっくりしちゃった。」
坂野さんの名前があさみだという事すら俺は知らなかった。
「一文字違いなんだよ、名前。『あ』と『ま』は似てるしね〜。知らなかったでしょ？私ばっかりまさみくんの事知ってて不公平だからどんなに答え難い質問でもひとつだけ答えてあげる！年上のおねぇさんの過去が明らかになるチャンスですよ〜」
ずっと坂野さんの違和感が気になっていた。
意図的に成長を止めたような不自然な違和感。
ひとはそれを意図的に行えないはずなのにそこに生じている奇妙な歪み。
坂野さんが歪みを引き起こした原因が他のなにより知りたかった。
「坂野さんが中学の時、何があったか訊いてもいいですか・・・」
「えぇ〜、男性遍歴とか初体験とか訊かなくていいの？」
坂野さんから笑顔と酔いが退いていくのがわかった。
「やっぱり、通じ合ってるのね。それ、ジョーカーだから。」
「母が死んだの。自殺だった。学校から帰ったら梁からぶら下がってたわ。死ぬくらい嫌だったら逃げればいいのに・・・そんな姿を私に見せた母を絶対に許さないって思った。妹がいたから中学卒業してすぐに働き出したの。妹の面倒も私がみて高校の学費も私が出したわ。今は妹も働いてるから楽になったけどね。」
坂野さんは亡くなった母親にきっと似ているのだろう。
成長するごとに許せない母親に似てゆく自分が許せなかったのだろう。
幼いままの容姿は母親に似てゆく成長への拒絶。
そして俺の面倒をみてくれた理由も瞬時に理解し納得した。
妹を背負って茨の道を裸足で歩いてきた坂野さんは俺達よりもずっとずっと強かった。
魂の偉大さは苦悩の深さに比例する。
華奢な身体に収まっている魂は深い色彩と強い輝きを放っていた。
その魂と共に歩みたいと思った。
「同情や憐みは要らないの・・・だから誰にも話したことないし。」
同情や憐みではなくその魂をもっと知りたいと願った。
親から受ける影響力は思いのほか強く、暗示として無意識領域に刷り込まれる。
強過ぎる暗示は呪いのように手の届かない無意識の深海からその人を縛る。
呪いに抵抗し茨の道を歩んできた坂野さんの頭を抱いて髪をなでた。
坂野さんは口惜しそうに涙をこぼした。
「ここに来ると私泣いてばっかりでごめんね。いつもは感情が漏れないようにしてるんだけどここに来るとダメね・・・。」
その魂と重なりたいと思った。
暗く冷たい記憶の沼から伸ばされた手を摑むのに何の躊躇もなかった。
坂野さんの頬につたう涙の雫を舐めた。
瞼の縁の涙を舐めた。
閉じられた瞼の隙間からそっと舌先で眼球を舐めた。
「たった今から坂野さんの涙は俺のものです。坂野さんが涙を流していいのは俺の為だけだから。もう過去はあなたを泣かせないし、それを俺は許さない。」
俺の躊躇も言い訳も計算も推測も全て引き千切ってそこから彼女を引き出したかった。
彼女のそれまでの人生を真っ当な理屈や慰めの言葉ではなく強引な一撃で捻じ曲げてしまいたかった。
過去からの呪縛の干渉が届かぬように更に強い呪文で縛ってしまいたかった。
「絶対嘘！誰とも付き合ったことがないなんて絶〜〜〜〜〜〜〜対嘘！！」
予想外の行動と恥ずかしい台詞に坂野さんは俺を押しのけて下を向いて言った。
「自慢じゃないけどほんとに誰とも付き合ったことなんてないし、嘘もつかないですよ。」
「嘘つきだし・・・ロマンチストだし・・・サディストだし・・・眼球舐めるし・・・」
「そんな俺ですがよろしいでしょうか？」
「私だって六才も年上だし・・・スタイルだって子供みたいだし・・・中卒だし・・・そんな私でもいいんですか？」
「質問に質問で返さないように。」
坂野さんは布団の上に正座して頭を深く下げ「よろしくお願いします。」と言った。
俺も同じように頭を深く下げ「こちらこそよろしくお願いします。」と言った。
どれが恋で、なにが愛なのか、さっぱり分かりはしなかったが離してはいけない手だけは分かっていた。
おしまい
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コメント(19)
昴さん＞＞
ありがとうございます（泣
行間を開けて台詞が読んでくれるひとの頭の中でイメージした声で再生されるように１と２は工夫したんですが上記の理由で行間を削ってでもラストまでここに載せたくて・・・。
昴さんのおっしゃる通り、１と２は会話の「間」とか「空気」を楽しんでもらうのを重視したのに比べて３は駆け足になってしまってる分それが犠牲になってしまってますっ！
これが恋なのかと問われたら、私自身ちょっと首を傾げて「ナイチンゲール効果かもしれないですし・・・」とはぐらかすしかないんですがｗｗｗ
１・２を読み返して同じテンポで３を読んでもらえたらこれほど嬉しいことはございません！
昴さんのお名前と同じタイトルの日記もここに貼っておきますね。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=713065290&owner_id=3506723
友人が「一番好きだ」と言ってくれた日記で私の好きな日記のひとつです。
ありがとうございます（泣
行間を開けて台詞が読んでくれるひとの頭の中でイメージした声で再生されるように１と２は工夫したんですが上記の理由で行間を削ってでもラストまでここに載せたくて・・・。
昴さんのおっしゃる通り、１と２は会話の「間」とか「空気」を楽しんでもらうのを重視したのに比べて３は駆け足になってしまってる分それが犠牲になってしまってますっ！
これが恋なのかと問われたら、私自身ちょっと首を傾げて「ナイチンゲール効果かもしれないですし・・・」とはぐらかすしかないんですがｗｗｗ
１・２を読み返して同じテンポで３を読んでもらえたらこれほど嬉しいことはございません！
昴さんのお名前と同じタイトルの日記もここに貼っておきますね。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=713065290&owner_id=3506723
友人が「一番好きだ」と言ってくれた日記で私の好きな日記のひとつです。
白月 亮さん＞＞
見てる人が恥ずかしくなるような台詞・・・
突然、言わなきゃって口に出したりしませんか？ｗｗｗ
私は口から出ます！
後になって赤面どころの騒ぎじゃありません。
言われた方も相当恥ずかしいと思いますわ。
それはどんな台詞かって？
それは死んでも言えません・・・
『「まさみちゃん」って言い過ぎ』ｗ
ラストは余計な事を私が言わずに読んでくれたひとが一言書き足してくれるような、そんな感じにしたかったんですよ・・・
読んでくれたひとの数だけまさみちゃんがいて、哲馬がいて、坂野さんがいて
読んでくれたひとの数だけ望んだラストがあるわけで
・・・と、逃げ口上を残しつつ
「白月 亮さん、マイミクになってください！」
見てる人が恥ずかしくなるような台詞・・・
突然、言わなきゃって口に出したりしませんか？ｗｗｗ
私は口から出ます！
後になって赤面どころの騒ぎじゃありません。
言われた方も相当恥ずかしいと思いますわ。
それはどんな台詞かって？
それは死んでも言えません・・・
『「まさみちゃん」って言い過ぎ』ｗ
ラストは余計な事を私が言わずに読んでくれたひとが一言書き足してくれるような、そんな感じにしたかったんですよ・・・
読んでくれたひとの数だけまさみちゃんがいて、哲馬がいて、坂野さんがいて
読んでくれたひとの数だけ望んだラストがあるわけで
・・・と、逃げ口上を残しつつ
「白月 亮さん、マイミクになってください！」
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