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聖書 スゴスギ コミュのこの話題は面白いかも!

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◆ヤハウェかエホバか

 『ヤハウェ』とは知る人ぞ知る旧約聖書の絶対神の名前である。つまりは、ユダヤ教徒が崇拝する神、天地万物を創造したとされる唯一絶対神である。しかし、ヤハウェと言われても、一般的な日本人には馴染みのない名前であろう。というのは、日本語訳の聖書では、ヤハウェという固有名詞を全て「主」という一般名詞に読み替えているからだ。ゆえに、いくら聖書の中を探したからとて、その名前を見つけることはできない。ちなみに、新約聖書にも「主」という単語が出てくるが、あれはギリシア語の「キボトス」を訳したものであるため、ヤハウェとは違い純粋に「主」という意味の一般名詞である。
 
 ヘブライ語の文字は22字より成り、これらはすべて子音文字である。当然、古代ヘブル語書物の表記には母音がない。ゆえに、神の名前を書き記す際には、神聖四文字(テトラグラマトン)と称される「ヨッド・ヘー・ヴァヴ・ヘー」が使用された。アルファベットで代用するなら『YHWH』となる。しかし現在、神聖四文字の正確な発音方法は分かっていない。当のユダヤ人自身がそれを忘れてしまったからだ。自分たちの神の名前を忘れるとは、ひどい民族だと思われるかもしれないが、これには深い事情がある。彼らの神自身が、十戒の定めにおいて「神の名をみだりに叫んではならない」と誡めているからだ。
 
 ユダヤ教徒にとって律法、特にモーセの十戒は絶対である。安息日に働いてはならないという教えを厳守して、攻め込んで来た敵軍にまったく抵抗せず、全滅してしまったと言われるほどなのだから、その信念の固さは並々ではない。もちろん、神の名をみだりに叫ぶなというモーセの十戒の3戒目も、彼らは命に懸けて厳守した。「みだりに」どころか、まったく発音しなかった。その代わりに神聖四文字は『アドナイ(主)』と読まれるようになり、やがては本当の発音方法さえも忘れ去られてしまった。全ては神に対する畏敬の念と律法の遵守ゆえである。
 
 ところで、中世から近代にかけて、神の御名は『エホバ』であると信じられてきた。しかし、この発音は文法的におかしいし、神学的な根拠もまったくない。先述したように、ヘブル語原本では神の名を表記する際、神聖四文字『YHWH』が使用され、ユダヤ人たちは伝統的に、これをアドナイと呼び習わしていた。しかし中世に入ってから、マソラなどの写本において、神聖四文字に母音を補うようになってくる。そこで神聖四文字『YHWH』の間に、アドナイの母音であるe,o,aを挿入して、『YEHOWAH』としてしまったのだ。
 
 これは当初、純粋に「主」という意味しか持たず、今まで通り『アドナイ』と発音されてきた。しかし、ユダヤの伝統を知らない中世のクリスチャンがこれを神の名前であると思い込み、そのまま『エホバ』と音訳してしまったのである。では、真の意味での神の御名、すなわち神聖四文字『YHWH』は本来どのように発音したのであろうか?現在、古代のギリシア語文献やヘブライ語の文法規則から推定して、学術的に『ヤーヴェ』もしくは『ヤハウェ』と呼ぶのが正しいとされている。よって以下、神の名前としてはヤハウェを使用していきたい。

◆我ありの神

 ヤハウェはなぜヤハウェと呼ばれるのだろうか?そして、絶対神の名前がヤハウェであるとされるのはなぜなのか?それは他でもない、絶対神ヤハウェ御自身が自らを指して、ヤハウェこそが我が名であると証言したからだ。ヤハウェという名前にはさまざまな意味が込められているが、『存在するもの』さらには行動的に人々と共にいて、常に見守り、援助を与える者という意味が最も重要であると考えられる。他の空虚な神々とは違って、自らの究極の実存を証する名前、そして自分は常に自らを信じる民と共にいる、と宣言している名前こそがヤハウェなのである。
 
 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。(出3:12)
 
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。(同3:14)
 
 ここでいう『わたしはある』をヘブライ語に訳すと『ヤハウェ』なのである。一般的には『有りて有る者』として知られている。もっと正確に言えば、このときヤハウェが語った名前は『エフエ』。「主」と訳されたヤハウェは一人称だが、エフエは三人称である。よって、逐語的に訳すならば、『彼はあらしめる』となる。その名の通り、ヤハウェは地球上のあらゆる存在を有らしめる者である。全ての生命を生かし、養う、光と命の源であると言ってもいい。ちなみに、ここにはもっと深遠な意味が込められているのだが、それは先を読み進めるに従い、自ずと明らかになってくるだろう。

◆神は何人いるのだ?

 ユダヤ教は、絶対神ヤハウェを崇める一神教である。真の神はヤハウェしかおらず、異教の神は一切認めない。なにしろ十戒の第一戒が、「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。」なのだ。八百万の神々と呼ばれ、神仏入り乱れる日本の宗教とは違い、彼らにとって神=ヤハウェなのだ。それがまた神に対する絶対的な服従と、律法の頑なな厳守を可能にさせていたと言えるだろう。これほど徹底した律法主義の確立は、彼らの先祖が被った苦い経験に深く関係している。今では想像もつかないが、かつて彼らの先祖は幾度となく絶対神から離反し、バアルやアシュタロトをはじめとする異教の偶像神に跪拝していた。それゆえ絶対神の怒りが燃え上がり、彼らはバビロン捕囚という最大の屈辱を味わうことになったのだ。
 
 現在、ユダヤ教は唯一神教の代表格である。それは間違いない。しかし、バビロン捕囚以前、聖書の編纂が未完で、ユダヤ教の教義さえまだ完全に整理されていなかった時代、はたして本当にユダヤ教は唯一神教だったのか。特に、トーラーが書き記されたとされるモーセの時代、ユダヤ教草創期には、本当にそれほど徹底した唯一神信仰が存在したのだろうか?近年、この問いに疑問の声が投げかけられはじめている。というのは、聖書をよくよく読むと、そこには一神教のユダヤ教にはそぐわない記述がしばしば散見されるからだ。旧約聖書の創世記1ページ目、のっけから次のような記述がある。
 
 初めに、神(エロヒーム)は天地を創造された。(創1:1)
 
 まず、エロヒームとは固有名詞ではない。「神」なる存在を表す一般名詞である。ただし、単数形ではない。ヘブライ語では、神のことを「エル」という。エロヒームとはエルの複数形である。よって、原文を正確に訳すならば、「初めに、神々は天地を創造された」となる。しかし、これはおかしい。ユダヤ教は唯一神教ではなかったか?同じく、「主」を意味するアドンも、旧約聖書の中では複数形のアドナイが用いられる。神を表現するのに、なぜ複数形を使うのか?一般的な説明としては、単数形では畏れ多いゆえ、畏敬の念を込めて、複数形で表現するのだという。しかし、複数形にすれば畏敬の念を込めたことになるという根拠は、一体どこから来たのであろうか?それに旧約聖書には次のような記述があるのだ。
 
 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」(創1:26)
 
 この箇所は、神が自分に畏敬の念を込めて、「我々」と呼んだとでも言うのだろうか?もちろん、そうではない。神は複数存在したのだ。同じく、旧約の神が自らを我々と呼んだ箇所には、創世記第3章22節や同11章7節がある。元来、ユダヤ教の神が複数存在したのなら、なぜ唯一絶対神信仰が生まれたのであろうか?研究者の中には、イクナートンの宗教改革に(歴史上はじめて唯一神教を作りだしたとされる)、エジプトに滞在していたモーセが大きな影響を受け、厳格な唯一神を崇拝するユダヤ教を作りだしたのだと主張する者もいる。しかし、それは正しくない。旧約聖書の中には、罪を犯したイスラエルの民に対して、隠された教義があることを示唆する記述があるからだ。
 
 詳細はすでに別項で紹介しているので、重複は避ける。ただ簡単に言えば、破壊される前の原・十戒石板には、知られざる神の奥義が書き記されていたということである。そして、その隠された教義を、一般のユダヤ教徒たちにはじめて開示した人物こそが、イエス・キリストなのである。誤解されないように念のため言っておくが、これはわたしの説ではない。新約聖書の思想なのだ。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。(マタ13:35)」確かに、ユダヤ教とキリスト教の教義は根本的な部分で大きく異なる。しかし、イエスは新しい宗教を開いたわけではない。彼は、一般のユダヤ教徒に隠されていた聖書の奥義を開示し、神との新たな契約を結んだに過ぎないのである。では、イエスが開示したユダヤ教の奥義とは何か?その一つが三神の存在、すなわち御父、御子、聖霊の教義である。

◆イエス・キリストの教え

 イエス・キリスト――まったくもって謎に満ちた人物である。聖書によれば、彼の父は大工のヨセフであり、母は聖母として知られるマリアである。ヨセフはイスラエル十二支族の中のユダ族、しかもダビデ家の末裔であるという。イエスの系図は、マタイとルカの二つの福音書に収められているが、両者はダビデ以降まったく異なり、どちらが正しいのか分からない。また、母マリアが、どの種族に属していたのかも判然としない。エリサベト(マリアの親族)がアロン家の末裔であるとあるから、レビ族だったのかもしれない。イエスは30歳になった時、洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、40日間の断食を行い、悪魔の誘惑を撥ね退けた後、故郷のガリラヤで最初の宣教を始めた。イエスの伝道期間に関しては諸説あるが、聖書学の世界では3年半というのが定説である。それはイエスの次の言葉に依拠している。
 
 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。…(中略)…そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六ヵ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」(ルカ4:18−26)
 
 イエスは故郷のガリラヤで「主の恵みの年」の始まりを告げた。すなわち、自らによる伝道の開始を宣言したのだ。そして、次に続く聖句が重要である。三年六ヶ月の間、天からはまったく雨が降らなかった。しかし、ほんの一部の人間にだけは、神の恵みが与えられたという。ヘブライ語の“雨”には“教師”という意味があり、“(雨のように)降り注ぐ”は“教える”と同一の単語である。すなわち、イエスの喩えが意味することは、全く神の言葉(=雨)が欠乏した時代にあって、一部の敬虔な人間たちのもとにだけは、義の教師が遣わされ、神の教えを雨のように降り注ぐことになる、というものなのだ。預言者エリヤの故事は、キリストによる伝道の雛型になっているのである。ならばイエスの宣教期間、すなわち「恵みの年」も3年半だったと考えられる。ちなみに、聖書学において、花嫁は神を信じる聖徒の象徴。やもめは、神と離縁した、すなわち神の恵みを受けられなくなった者の象徴である。
 
 聖書の記すところによると、イエスは神の子である。天にいる父なる神の独り子であるという。さらに言えば、イエス・キリスト自身、父なる神と聖霊に並ぶ“神”である。しかし、イエスは人間であるマリアから生まれたとされる。人間が神を産むことなどあり得るのか?これは、当初から初期の教父たちの間で、大きな問題となっていた。そこで生まれたのがキリスト両性論である。簡単に言えば、イエスは神であり、人間でもある、どちらも正しいというものである。まるでガキの返答のようだが、正統とされる教義はどれも似たり寄ったりである。そして、イエスを真の神であると認めた結果、発展していったのが“聖母マリア崇拝”である。神を産んだマリアは、それだけで神に等しいというわけだ。しかし、聖母マリア崇拝には土着の大地母神信仰が根底にあるため、神学的な根拠はまったくない。はっきり言えば、マリアはただの人間に過ぎないのである。
 
 そして、イエス・キリスト自身、間違いなく人間だった。唯一、普通の人間と異なる点は、イエスの父親は人間ではないということである。聖書の思想によれば、過去から現在へと至る全ての人間の霊は、御父の言葉によって創造された。「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。」(ヤコ1:18)すなわち、御父とは全人類の“霊の父”なのである。では、新約聖書の中で、イエスが御父の“独り子”であると記されているのはなぜなのか?その理由は、イエスの父親が人間ヨセフではないからに他ならない。すなわち、イエスの肉を創造したのは、御父御自身なのだ。永遠に朽ちない復活体を得るということは、死すべき人間が御子に似た者となり、御父に近づくことを意味する。それはまた、人間の達し得る究極の姿こそが神の本質であることを暗示している。その意味で、“人間”イエスは“神”だった。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現われであって……」(ヘブ1:3)

◆三位一体は正しいのか?

 宗教上の歴史には、必ず論争というものがある。本来、思想同志の論争とは生産的なものであるが、そこに権威や権力の問題が絡んでくると、しばしば一方が正統となり、他方が異端とされる。思想と思想の関係ではなく、正邪曲直の関係となるのだ。宗教は、何らかの絶対的なものを信じる立場が前提とされる。教義が不確かでは、唯一神教は成り立たない。それゆえ、初期のキリスト教会では、不確かな教義を定義し、矛盾点を解決するためにさまざまな意見が提出され、論争が繰り返された。その典型が、イエスの神性・人性論争である。イエスが“神の子”であると同時に“人間”であったという現実を、どう考えればよいのか?神と人間は両立できるのか、という問題だ。
 
 キリストの人間性は、実体ではなく仮の現われに過ぎないとするキリスト仮現論(マルキオン)や、キリストの神聖のみを認めるエウテュケスの単性論など、さまざまな意見が提出された。しかし、最終的には、325年のニカイア公会議において、「真の神にして、真の人」というキリスト両性論が確立され、正統教義としての地位を築き上げることになる。当然、それ以前の教説は全て異端として退けられた。しかし、イエスを神の子として認め、主とする場合、そこには新たな問題が生まれてくる。“父なる神”と“子なる神”を認めるなら、それは二つの神を崇める二神論ではないのか、というものである。このように、神の子たるイエスと父なる神の関係、および、神の御魂である聖霊との関係についても、さまざまな意見が闘わされた。
 
 すでに50年代に書かれた「コリント信徒への手紙ニ」には「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わり」と述べられ、80年頃の「マタイによる福音書」にも「父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し」とある。3世紀のサベリウスは、神はまず“父なる創造主”としてヘブライ人に自己を啓示し、次に“イエス・キリスト”となって自己を啓示し、昇天後は“聖霊”となって自己を啓示したとする経綸的三位一体論を唱えた。しかし、使徒時代から、父なる神は永遠に父なる神と考えられてきたし、キリストも天地創造に先立って存在しており、永遠に“父の御子”であると考えられていたため、時間とともに役割や性格が変わる神という考え方は、異端として退けられた。
 
 318年、公会議の場において、教会は、父と子と聖霊が「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」であるとする「内在的三位一体論」を正統教義として採択した。内在的三位一体論とは、神は一つであるが、父・子・聖霊という三つのペルソナを持つというもの。その淵源は「3」という数字が調和や一致を表すという思想にある。三者の実体を一つとすることで一神教体制を守り、同時に三神それぞれの神格も守ったのである。しかし、この三位一体論は、決して論理的なものでも、さまざまな異説を論破できるものでもなく、ただ、無条件にかく信じよと命じるドグマに過ぎなかった。にもかかわらず、三位一体の神学は、以後、絶対的な教義としてキリスト教世界に広まっていくことになる。

◆三者一致説

 ユダヤ・キリスト教の神は唯一神である。これは間違いない。実際、三神の存在を説く新約聖書にしても、神が一つであるという教義を捨て去ったわけではない(一コリ8:4)。しかし、神が唯一と呼ばれたからといって、神を三重人格者ならぬ三重神格者にしてしまうのは、はたしていかがなものだろうか?実際、新約聖書は、父・子・聖霊をまったく別個の存在として描いている。典型的な例が、イエスがヨハネからバプテスマを受ける場面だ。
 
 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マタ316:17)
 
 天から聞こえたのは御父の声、鳩のように降ってきたのが聖霊である。この情景を考慮する限り、三神は別個の存在であるとしか思えない。神は一人ではなく、三人存在しているのだ。では、なぜ唯一神と呼ばれるのか?実は、聖書の中にある思想を用いて、この矛盾点を解き明かすことは可能なのである。そのためには、神が一体であるという概念を正しく理解しなければならない。
 
 聖なる父よ、わたしにあたえてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(ヨハ17:11)
 
 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。(同17:22)
 
 どちらの聖句も、イエスが父なる神に呼びかけたものである。“わたしたち”とはイエスと御父、彼らとはイエスの弟子たちのことを指す。つまりはそういうことなのだ。三神の一体の概念とは、教会における、聖徒たちの一体の概念と同じものなのである。
 
 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように務めなさい。体は一つ、霊は一つです。」(エフェ4:3−4)
 
 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。(コリ10:17)
 
 もちろん、イエスの弟子たちは一体だからといって、一つの体に多くの人格があるというわけではない。あくまでも、信仰上の連帯感と相互扶助の精神、そして完全な隣人愛を象徴的に表しているに過ぎない。いいだろうか?イエスの弟子たちでさえ、別個の存在でありながら、一つの体になれるとあるのだ。弟子たちにできて、三人の神にだけはできないという道理はない。三位一体の教義は、明かに聖書の思想と矛盾している。御父、御子、聖霊は別個の神である。これは間違いない。しかし、目的と教えを完全に一致させているため、人類に対しては唯一絶対神として望むのだ。いわば、一つの体となるべき教会の信徒たちに対して、三人の絶対神は模範を示していると言えるだろう。この三者一致説により、三一神学は完全に崩れ去ることになる。
 
 ただし同じ教会の中でも、使徒や預言者、異言を語る者、教師などさまざまな役割を与えられているように、そして一つの体が多くのパーツからなるように、父・子・聖霊もそれぞれ別個の働きと権限を有している。さらに、絶対三神はそれぞれ、上から流出する神的意思(カヴォド)に応じて各自の役割を果たす。そして、神界の意思は御父を頂点として流出することが分かっている。神の計画を完全に掌握しているのは、御父だけであるとあるからだ(マコ13:32)。具体的に、キリストは御父の命により(ヨハ8:28)、聖霊は御父もしくはキリストの指示により(ヨハ16:13−14)、教えられた通りのことを語り、そして人類に働きかける。

◆絶対神ヤハウェの正体

 聖書の神は唯一であるが、三神から構成される。ただし、三位一体のような概念ではない。別個に存在する三人の神が、目的と霊を完全に一致させ、一つの神界を構成して人類に望むのである。旧約聖書において、神が複数形で呼ばれ、絶対神が自らを指して“我々”と語ったのもこれに起因する。すなわち、三神の教義は新約聖書だけのものではなく、旧約時代から定められた絶対の原則だったのだ。現在のユダヤ教は唯一神教であるが、本来はキリスト教と同じく、三柱の神を崇める三神教だったのである。しかし、出エジプト時代、背教したイスラエルの民にこの奥義は隠され、さらにバビロン捕囚によって選民思想を強化したユダヤ人が、ユダヤ教そのものを変質させてしまった。
 
 実際、絶対神ヤハウェだけが旧約の神ではない。新約でいう「聖霊なる神」への信仰も当時すでに存在していた。嘘だと思うなら、聖書を開いて読んでみればいい。そこには、絶対神から注がれる「神の霊」という概念がすでに登場している。もっとも、旧約の「神の霊」の概念を、御父やキリストと並ぶ存在にまで神格化したのは、伝道者パウロであるとされる。では、キリストに関してはどうなのか?使徒たちは、メシアたるイエスを、天地創造以前から存在する永遠なる神の子と考えていた。実際、新約聖書には“先在のイエス”という概念がある。イエスはマリアを通して受肉する以前に、すでにメシアとしての権能と神性を持って、この世に存在していたとする思想だ。
 
 ヨハネによる福音書には次のようにある。「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は、はじめに神と共にあった。万物は言によってなった。」ロゴス(言)とは、神の言葉の顕現たるイエス・キリストのことである。その言は神(=御父)と共にあり、しかも万物はこの言によって成ったという。天地を創造したのはイエス・キリストなのだ。言葉を翻せば、人間イエスとして受肉する以前から、キリストは“神”として、この地上世界に関与していたことになる。かのパウロも次のように証している。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。」(コロ1:16)では、旧約聖書の中には、先在のイエス(すなわち受肉前のイエス)に関する記述が存在しているのだろうか?キリストは永遠なる神の御子である。そこで、旧約聖書を「神の子」というキーワードで探索すると、驚くべきことが判明するのである。次の記述をよくよく読んでほしい。
 
 いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。(申32:8−10)
 
 ここにある「主」とは「ヤハウェ」を訳したものである。ヤハウェの嗣業はイスラエルの民であり、異国の民には空虚な偶像神が割り当てられたとする典型的な思想だ。(エレ10:14−16参照)。この記述もそのことを指しているのであるが、注目すべきは“神の子”という表現である。異教の神々だけではなく、絶対神ヤハウェもまた、“神の子”として呼びまとめられているのだ。しかも、ここからが重要である。ヤハウェは“いと高き神”によりその嗣業を割り当てられた、と明確に記されている。現在の教会では、キリストが父と呼ぶ神は旧約の絶対神ヤハウェであるとされる。しかし、この記述を考慮すれば、ヤハウェは“いと高き神”の“子”であり、御父なる神はヤハウェではなかったことになるのだ。
 
 ヤハウェは旧約時代の唯一絶対神である。しかし、そのヤハウェが神の子であるならば、先在のイエスの正体は自ずと明らかになる。先述したように、ユダヤ人は神の名をみだりの叫ぶのを避けたため、神を言い表すときには必ずアドナイを用いた。神の名とはヤハウェ、『わたしはある』という意味の実存表現である。しかし、新約聖書の中でただ一人、この禁じられた名前をユダヤ人たちの目の前で堂々と言い放った者がいた。律法の厳守ゆえに、発音さえ忘れ去られた神の名を、その人物は幾度となく証したのである。当然ながら、ユダヤ人にとって、その行為は神に対する冒涜と映る。最終的に、ユダヤ人たちはその男をサンヘドリンに連行し、強引な有罪判決を下すことで、処刑した。男の名はイエス・キリストという。
 
 『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。(ヨハ8:24)
 
 あなたは人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。(同8:28)
 
 はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』(同8:58)
 
 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。(同13:19)
 
 イエスが4度にわたって語った『わたしはある』とは、ヘブライ語でいう『ヤハウェ』。旧約の絶対神の名前である。さらに、現在の聖書学者たちはまったく無視しているが、これらの場面において、イエスは御父に呼びかけているわけでも、御父を証しようとしているわけでもない。主体はあくまでもイエス・キリスト。すなわち、イエスは自らを指して旧約の絶対神ヤハウェであると証言しているのだ。多くのクリスチャンにとって、にわかには信じ難い話であろう。しかし、これが真実である。はるか天地創造の時代、絶対神ヤハウェは、地上世界に顕現し、神として君臨する権能を父なる神から与えられた。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハ17:5)
 
 その際、御父が御子ヤハウェに割り当てた民こそがイスラエルの民であった。このことは前述の申命記の箇所で証されている。ヤハウェはイスラエルの民の代理親となり、民族の神としてその栄光を現わした。しかし、時が来た。ヤハウェ御自身が肉をまとい、その血を流すことによって、地球上の全人類をアダム以来の罪から解放するという神の計画が発動したのである。旧約時代に霊の存在であった絶対神ヤハウェはマリアを通して受肉。人間イエス・キリストとして生誕した。福音を宣べ伝え、人類の贖いを達成するために、ヤハウェは自らの嗣業であるイスラエルの民のところに来たのだ。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現わしました。」(ヨハ17:6)
 
 御父がヤハウェではないとすれば、キリストが教えた父なる神の正体とは何なのか?それも、聖書の中に、明確な表現で証されている。ヨハネ福音書によれば、神のロゴスたるイエスは、最初にあった『言』である。それは創世記において神が最初に叫んだ言葉、『光あれ』に他ならない。イエス・キリストは光そのものなのだ。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」旧約聖書において、神は最初に光を創造した。まさしく、人間を照らす光であり、永遠の命をを与えるメシア『イエス・キリスト』である。ただし、イエス・キリストそのものを創造したわけではない。イエスは神の霊として、すでに存在していた。これは、イエスが語った「世界が造られる前に、父の御許で持っていた栄光」の授与であり、救世主としての予任の儀式である。ならば、その光を創造した神、エロヒームこそがイエスのいう御父に他ならない。これが絶対三神の真相であり、イエスが明かした奥義である!

コメント(5)

久保先生からの回答

主の御名を讃美致します。
 お返事が遅れ、申し訳ありませんでした。
 文章を読ませていただきました。途中までは、いい線いっているなという感じ
なのですが、途中から、いかがわしくなりますね。
 いくつか問題点があります。
 一つは、三位一体論を誤解していることです。著者は、三位一体論を否定して

「別個に存在する三人の神が、
目的と霊を完全に一致させ、一つの神界を構成して人類に望む
のである。旧約聖書において、神が複数形で呼ばれ、絶対神が
自らを指して“我々”と語ったのもこれに起因する。」
 としていますが、この「別個に存在する三人の神が、目的と霊を完全に一致さ
せ、一つの神界を構成して人類に望む」ということが、実際、三位一体論の言っ
ていることです。ですから三位一体論を否定する必要はないのです。三位一体論
とは、三者一致説ではありません。

 また「イエスが4度にわたって語った『わたしはある』とは、ヘ
ブライ語でいう『ヤハウェ』。旧約の絶対神の名前である。……イエスは自らを
指して旧約の絶対神
| ヤハウェであると証言しているのだ。」
 と述べていますが、イエスが語った「わたしはある」は、イエスが父なる神ヤ
ハウェと同じく真実在のおかたであることを述べたものであって、ヤハウェご自
身ということではありません。

 また父なる神はヤハウェではなく、エロヒムであるというのも、奇妙な説です
。聖書では、エロヒムとヤハウェはつねに「神なる主」(ヤハウェ・エロヒム)
というように語られ、父なる神とはヤハウェです。これについては、詳細に述べ
ることができますが、メールなので、簡単にのみ指摘させていただきます。

 簡単ですみませんが、参考にしていただければと思います。
 貴兄とご家族に主の祝福をお祈りいたします。
 
説明不足だったので、#2を削除して、#3に書き込みます。

HIROさん、

久保先生は、キリスト教の方ですか? 

ユダヤ教側が認める三位一体は、無いことも無いのです。でも、コンセプトが難しく、その完全理解を出来る方は限られています。

そこで、ユダヤ教側は、新約聖書(ギリシャ語聖書)を考慮外としたがります。ユダヤ教の望む理解を、一般人が出来るためには、旧約聖書(ヘブライ語聖書)のみで教えを説く方が、かえって楽になるからです。



以下、歴史として、時代を追って説明します。

シュメール伝説ですが、古代のエロヒムの意味は「天空から飛来した人々」でした。

YHVHの一神教になったのは、エルサレム崩壊時代です。ソロモンが寵愛する王妃にバアル神の像を城壁の外に建てる許可を言い渡した辺りが問題になっています。

エロヒムとYHVHを区別するようになったのは、もっと後の時代です。キリスト教が完全分離した後ですね。キリスト教と共鳴する形でもあり、反面教師のような形でもありました。この区別についてですが、イエスがYHVHであるとなったことがあるのでは?

ゾハールの説明によれば、

 ユダヤ教の神は、エロヒムでありYHVHでもあります。
 エロヒムと大天使ミカエルが、同一では無いのです。
 つまり、「イエスはYHVHではない」とされます。
 イエスが救世主とするならば、イエスは大天使ミカエル
 なのだそうです。

 救世主は、霊性が低いので、その分、人間になれます。
 男女的に分けるのなら、救世主は、中性的でバランスが
 取れています。でも、エロヒムは、霊性が高過ぎて、
 人間にはなれません。男女的に分けるのなら、男性的だ
 と言われます。



トピックの文章に見落としがあるとしたら、八百万の神々のトップは大御神様(天理教では親神様)と呼ばれます。もしも、神道が中東の影響を受けているのだとすれば、この方、大御神様こそがYHVHです。(こちらは、古事記&日本書紀を参上のこと。)
なしぁ さん
スミマセン、レス遅れて、せっかく書き込みいただいたのに。
久保先生は牧師さんです。
著書はハンパじゃないですよ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198608814/sr=1-1/qid=1160812365/ref=sr_1_1/250-7007984-2324234?ie=UTF8&s=books

コレなんかメンタマ飛び出ます。笑
検索ソフトで誰でも事実、事象を確認できます。
ヘブライ語がわからなくてはならないですが^^;

いろいろありがとうございます。
タルムードの話を聞いてみたいです。^^
HIROさん、

せっかく私宛に書いてくださったのに、海外在住なので本はなかなか手に入りません。でも、ありがとう。

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