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中高年のための京都コミュの2013年度の干支は、【蛇・巳(へび)】 ですね。

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今年も初詣は、地元(山科区)の氏神様の三ノ宮神社(さんのみやじんじゃ)からスタートします。
そして、伏見稲荷大社、八坂神社、上賀茂神社、下鴨神社は、必ず参拝します。

みなさんは、初詣は、どちらでします?


【蛇・巳(へび)】 ゆかりの神社仏閣。
◎大豊神社。2012年の下半期に新しく狛蛇が安置されました。
哲学の道にある「大豊神社」では、愛らしい動物の神使が人気です。大国主命がご祭神の「大国社」をまもるのが狛鼠。ほかにも災難除けの「日吉社」をまもる狛猿、火の神をまつり「愛宕社」には狛とび、商売繁盛の「美田稲荷社」には狛狐。それぞれの末社でゆかりある神々をまもっています。
(テレビのニュースで観ました。自分は、まだ確認しておりません。)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000005315881&owner_id=9873863

◎出町妙音堂
ご本尊は青龍妙音弁財天画像。伏見御所の「弁財天」といわれ「京都七福神」のひとつ。技芸上達、福徳円満にご利益あり。白蛇が弁財天さまの使いのためか、お堂には蛇の絵馬などが多数飾られています。
奥にある六角堂は、年齢の数だけ周囲を回れば願いが叶うと云われています。
場所は、出町柳商店街の豆餅の「ふたば」さんの向かい側の駐車場入口の南側にあります。鯖街道の入口です。

◎玄武神社
玄武は北方の守護神。亀に蛇が絡まった姿をしています。http://www.gennbu.com/
惟喬親王を祀り、京都の北方を守る鎮護社として元慶年間に創建。玄武は中国の風水思想における四神のうちの北方を守る神獣のこと。本殿には玄武の像や玄武が描かれた絵馬があります。4月第2日曜日には平安時代にルーツをもつ「玄武やすらい祭」を開催。鉦や太鼓などを鳴らしながら鬼たちが町を踊り巡行します。
住所 〒603-8214 京都市北区紫野雲林院町88

◎妙満寺(みょうまんじ)
康応元年(1389年)寺町二条にて創建。現在地へは昭和43年に移転しました。4月の枝垂れ桜、5月初旬のツツジはとくに美しく、寺院を華やかに彩ります。また、インドのブッダガヤ大塔を模した仏舎利大塔をはじめ、「安珍・清姫の鐘」や宝物が並ぶ展示室、俳句の祖・松永貞徳が造営した「雪の庭」など、個性的な見どころにあふれています。静かな本堂のそばからは、比叡山の荘厳な眺めも満喫可能。まさに「パワースポット」といえる厳かな空気が漂います。
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/

◎三室戸寺(蛇(巳)に縁のある寺)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000063297331&owner_id=9873863
住所:〒611-0013 京都府宇治市莵道滋賀谷21
交通:京阪電車 三室戸下車 徒歩15分

宇賀神(うがじん)。日本で中世以降信仰された神です。人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではないようです。
・錦絵に見る蛇(巳)にまつわる霊験話。錦絵解説。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1857944557&owner_id=9873863

◎蟹満寺(かにまんじ)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000048622547&owner_id=9873863

住 所 :木津川市山城町綺田浜36
アクセス:JR棚倉駅から徒歩約19分
電話番号:TEL:0774-86-2577
拝観時間:8:00〜16:00
拝観料:500円(一般/30人以上450円)・450円(高校生)・200円(小・中学生)
駐車場:普通車用駐車場有り

蟹満寺は、「今昔物語集」に出てくる「蟹の恩返し」の縁起で有名で、実際には蟹幡(かむはた)郷という古代の地名に由来する、白鳳時代末期(680年前後)に創建された寺院です。本堂の側面に蛇をハサミでつかむカニの額がかかっています。
本尊の国宝銅造釈迦如来坐像は、わが国の仏教美術史上最高傑作とされる奈良薬師寺金堂の薬師像に比肩しうる秀作とされています。このように優秀な仏像でありながらもその由緒、伝来がはっきりしないため、その来歴の謎をめぐって長い間論争が繰り広げられてきましたが、平成17年の調査では、蟹満寺本尊はやはり白鳳創建以来の旧仏であったことが判明しました。

蟹満寺(かにまんじ) - 京都府木津川市のホームページより抜粋。
http://www.city.kizugawa.lg.jp/article.php?id=435&f=275&t=cat

◎六波羅蜜寺・七福神(弁財天)
弁天は、古代インドにおける川の神(水神)だったことから、川 の流れのイメージ゛に起因して、
インド古来の蛇・龍信仰とも相まって、神使は「蛇」や「龍」だとされた。
さらに、日本に入って、弁天信仰が龍神信仰とも習合したことか ら
海(龍宮)のイメージも加わって、「亀」も神使とされた。
この項 では「蛇」を扱う。

【京の冬の旅キャンペーン2013年】
☆干支「巳」のご利益と非公開文化財特別公開
●2013年1月26日(雨天決行)
●主な立ち寄りスポット
・妙音堂弁財天 本堂六角堂特別拝観
・相国寺塔頭 大光明寺 特別拝観とご住職の法話
・相国寺塔頭 慈照院 京の冬の旅特別公開
※事前予約制です。
http://www.kyokanko.or.jp/huyu2012/2012huyutabi_4.html#huyu12_4_1

コメント(9)

◎三室戸寺(蛇(巳)に縁のある寺)

・蛇体橋 (じゃたいばし)
蛇体橋を渡ると三室戸寺境内の参道に入ります。

やましろの民話
 宇治の三室戸寺には、参道の入り口に小さい橋がある。名を蛇体橋というてな、 なんでも雨の降る日には橋の裏側に、蛇の影が現れるのやそうな。  ずっと、昔のことや。山城の綺田(かばた)村に、三室戸の観音さまを信仰している心のやさしい娘がいた。
 ある時、娘は村人が蟹(かに)を殺そうとしているのに出くわし、 「魚の干物をあげるから、逃がしてやっておくれ」と頼んで、蟹を助けてやった。  さて、ある日のこと。その娘の父親が畑に行くと、蛇が蛙(かえる)を飲み込もうとしていた。 そこで父親は、「蛙を放してやりなさい。放したら、わしの娘をやるから。」と、蛇に言うたのや。蛇はすぐに蛙を放し、やぶの中に消えていった。
 その夜、蛇はりりしい若者に姿を変え、父親のところへやってきた。 「約束通り、娘をもらいにきたぞ。」  父親はびっくりぎょうてん。 「三日後に、来てくれ」 と、言い逃れをして蛇を帰したのや。
 三日後、娘は戸をしっかり閉めて部屋に閉じこもると、三室戸の観音さまを念じながら、一心に観音経を唱えた。 恐ろしくて気が遠くなりそうなのを必死でこらえてな。 外で娘を待っていた若者は、ついにしびれを切らし、蛇の姿にもどると、尾で戸を打ち破った。 「観音さま!」  娘が叫んだとたん、たくさんの蟹がこつぜんと現れ、はさみをふり立てて蛇に切りかかった。怒り狂う蛇を退治したのや。
 翌日、娘は三室戸寺へお礼参りに、出かけた。途中で雨が降りだし、三室戸寺についたころには、本降りになっていた。 娘が参道の橋を渡り、なにやら気配を感じて振りかえると、橋の上に蛇が横たわっていた。 蛇は悲しげな目で娘をじっと見つめると、橋の裏側にまわり、ふっと姿を消したのや。  雨が降る日には蛇の影が現れる。 いつしか人々は、この橋を蛇体橋と呼ぶようになったのや。 (純愛の純朴な蛇が哀れ・・・。嘘つき父親め!!主観です。)

・錦絵解説
山城国綺田村の農夫の娘は、髪のほつれもかまわず経巻を開き、一心不乱に『観音経』を読誦している。  娘が蟹を救ったことで蛇の害から免れる、いわゆる蟹報恩の話は、全国に伝承されている。文献では『法華験記』に記す蟹満寺縁起が初出であるが、ほぼ同文が『今昔物語集』『古今著聞集』などにも収載されている。この蟹満寺の縁起譚を用い、三室戸寺の霊験が語られている。
 『観音経』を信奉して殺生をしない娘は、村人に捕まえられた蟹を助けた。一方、信心深い父も、蛇に呑まれそうな蛙を救うため、たわむれに娘をやるとの約束をした。蛙を放し、約束をたがえずやってきた蛇は、本文によると蛇身もあらわに室の戸を破り娘に襲いかかる。ただし図中、蛇の化身は若小姓姿のみで、尾は描かれていない。
 忽然としてあらわれた多数の蟹は、蛇の化身を囲み足元から切り刻もうとしている。その蟹のあらわれた源は、扁額中左下に流れる宇治川である。遠くこの宇治川から次第に形をあらわしながら無数の蟹が、這い上がってきたのである。  経机の手前には、香炉が転がり線香からは煙が上がっている。こぼれて散った灰も、蛇の来襲に娘が動転し、切羽詰った雰囲気を感じさせる。

・宇賀神(うがじん)
日本で中世以降信仰された神です。人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではないようです。
・錦絵に見る蛇(巳)にまつわる霊験話。錦絵解説。
新しいトピック、ありがとうございます。

上記以外に巳に関する神社の話は知らないです。
2013年は気にかけて歩いてみますね。

先日、京都水族館へ行ってきましたが、蛇に関する特別企画がなされてました。
ただ、写真には撮ってきませんでしたの、報告だけにさせていただきます。

蛇の脱皮した抜け殻なんかもありましたよ。
出町妙音堂  (妙音弁財天) 


妙音弁財天では、初巳の1月3日の巳の日、巳の刻<10時 (09時〜11時)>に良いことがありそうだ。
新年度の干支は、なんだったっけ? えぇ〜〜っと・・。あ!「巳」だ。meは、来年もヘビー級の駄洒落を発信したいと発心します。(ー人ー)ゴ〜〜〜〜ン・・・
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1814563809&owner_id=9873863

《京洛七福神の出町妙音堂 》
弁財天:芸術や財運を授けてくれる弁財天は、京の七福神は左京区の三千院、京洛七福神は上京区の出町妙音堂となっています。正式には青龍妙音弁財天といいます。

鴨川と高野川が合流する三角州、鴨川に架かる出町橋西詰、青竜町(せいりゅうちょう)に出町妙音堂(妙音弁財天)がある。地名は御所の東、左青竜に由来するといわれています。

正式には青龍妙音弁財天という。「伏見御所の弁財天」といわれています。

本尊は青龍妙音弁財天画像を安置する。歌詠、音楽、芸能上達、寿命増益、怨敵退散、財宝満足の信仰を集めています。


青龍妙音弁財天画像は、鎌倉時代に西園寺公衡(さいおんじきんひら)の長女寧子(ねいし)が後伏見天皇に嫁する時に持参した西園寺家の念持仏です。

本尊は、伏見離宮に祀られていたが、享保年間(1716〜1736年)に伏見宮家の邸宅とともに当地に移転されました。

その後、明治維新で伏見宮邸が東京に移り、それとともに本尊も東京に移されたが、京都の旧信徒の請願により、再び現在地に戻されました。

◆弁財天 
弁財(才)天は、古代インドの河神に由来する。ヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーは、聖なる河の名を表わすサンスクリット語。河の流れる音の連想から音楽神とされる。日本での弁財天信仰は奈良時代に起こり、京都では江戸時代中期に始まった。水に関係深い場所に祀られることが多い。また、青龍と川、鴨川の関わりも深く、青竜町の町名はいまも残る。

巳の年の巳の月の巳の日に縁があるといえば、源頼朝と鎌倉の銭洗弁財天もそうですね。
弁財天は、神仏習合では宗像三女神の市杵島姫命[イチキシマヒメ]、あるいは宇賀神(稲荷神・宇迦之御魂神[ウカノミタマ])のこととされています。
宇賀神(稲荷神)というと狐を連想されるかもしれませんが、狐は宇賀神(稲荷神)の使いであって、宇賀神(稲荷神)自体は蛇神とされています。
そして鎌倉の銭洗弁財天は、源頼朝が巳の年(文治元年・1185年)の巳の月(4月)の巳の日の夜の霊夢に従って宇賀神(稲荷神)を祀ったことに由来するといわれています。

ですから、弁財天さまを奉っている神社は、巳年の方が参拝されます。
・年間行事 
豊川だ枳尼真天初詣(1月1日-15日)、鎮座祭(1月22日)、節分祭(2月節分)、初午祭(2月2午の日)、春季祭(4月22日)、秋季祭・御焚祭(11月27日)。縁日(毎月14日、22日)。 

・出町妙音堂の所在地
〒602-0801 京都市上京区河原町通今出川上ル東入ル青龍町
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000078841293&owner_id=9873863


>2 仙ちゃんさん

京都水族館での蛇の企画展は、テレビニュースでも案内されていましたねえ。実は、未だ京都水族館には行っていないんですよ。一人で行くにはちょっと抵抗がありまして・・・ヽ(^^ゞ

落ち着いたら見学させていただきます。
初詣2013年元旦・山科三之宮

地元の神社で初詣をさせていただきました。メジャーな神社の人ごみは苦手です。山科三之宮は、創建延喜年中(901〜924年、平安時代、醍醐天皇の創建)。その後応永年中(1394〜1429年、室町時代の後小松天皇寄進)に再興。慶長18年(1613年、後水尾天皇寄進)社殿改築。元和9年(1623)勅願所の綸旨を賜い三之宮と称せられる。明治に至るまで、毎年宮中より神供米四石を下賜されていた。

祭神は、鵜鵜草葺不合尊。のちに、醍醐天皇を合祀しました。
醍醐天皇(885〜930)は第60代天皇。宇多天皇の第一皇子。寛平9年(889年)、15歳で即位。


住所:京都市山科区八反畑町60
>>[4]

醍醐天皇とは藤原時平の讒言を聞き容れて菅原道真を大宰府に左遷した天皇なんですね。
宇多上皇に反発したかったのでしょうか。

このあと、都には菅原道真の怨霊の仕業とされる異変が続きましたね。
そんなこともあって醍醐天皇はこの神社を創建して祟りを鎮めようとしたのでしょうか。

三之宮といえど立派な社殿を構えた神社ですね。
宮道神社(みやじじんじゃ)・初詣[撮影日:2013年01月02日]


藤原高藤と宮道列子のロマンスの地

源氏物語の光源氏と明石の君のモデル。初代玉の輿伝説とも云われています。
また、菅原道真公太宰府左遷のルーツとして歴史的にも興味深い。

住所 京都市山科区勧修寺仁王堂町
創祀は寛平10年。平安時代初期に宇治郡を本拠としていた宮道氏が、祖神である日本武尊・稚武王を祀ったことに始まる。宮道大明神・二所大明神とも称される。山科神社と同じ祭神を祀り、『山城名跡志』や『神祇志料』では、延喜式式内社である宇治郡山科神社に比定している。

宮道氏ゆかりの神社で、寛平10年(898)に創祀され、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚武王(わかたけるのおおきみ)と山科神社と同じ。平成12年5月、社殿等の再整備に併せて建立された「由緒碑」によると、宮道神社は寛平10年(898)創祀されたとある。その後、宮道弥益、宮道列子、藤原高藤、藤原定方、藤原胤子等が合祀され宮道大明神・二所大明神とも称されている。
宮道氏は山城国宇治郡、宇治郡(現在の京都府宇治市・京都市山科区周辺)を本拠としていた氏族で、この地は宮道の邸宅跡。

<御祭神>
日本武尊(やまとたけるのみこと)・宮道氏の祖神
稚武王 (わかたけのみこ) ・・・・日本武尊の子

<のちに合祀された御祭神>
宮道弥益(みやじのいやます)・・・胤子の外祖父 
宮道列子(みやじのたまこ) ・・・・胤子の母 
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)・・胤子の父
藤原胤子(ふじわらのたねこ)・・・醍醐天皇の母(藤原高藤と宮道列子の間に生まれた長女)
藤原定方(ふじわらのさだかた)・・三条右大臣(藤原高藤と宮道列子の間に生まれた次男)
など、勧修寺ゆかりの人々

平安初期、栗栖野に住んでいた宮道弥益(みやじのいやます)の家へ訪れた藤原冬嗣の孫の藤原高藤(ふじわらのたかふじ)は弥益の娘(妹の説も)列子(れつし)を見初め、一夜の契りで授かったのが胤子。胤子(いんし)は宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を生んだ。

その後、宮道家は皇室や藤原氏の庇護(ひご)のもと栄えた。胤子が亡くなったあと、醍醐天皇は母の生家(宮道弥益邸)を菩提寺として建て替え、勧修寺と名付けた 。後に寺は一族の氏寺となった。

平安初期、栗栖野に住んでいた宮道弥益(みやじのいやます)の家へ訪れた藤原冬嗣の孫の藤原高藤(ふじわらのたかふじ)は弥益の娘(妹の説も)列子(れつし)を見初め、一夜の契りで授かったのが胤子。胤子(いんし)は宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を生んだ。その後、宮道家は皇室や藤原氏の庇護(ひご)のもと栄えた。胤子が亡くなったあと、醍醐天皇は母の生家(宮道弥益邸)を菩提寺として建て替え、勧修寺と名付けた 。後に寺は一族の氏寺となった。
<醍醐天皇>
(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))
平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍に生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。
のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。

同5年(893年)4月2日立太子。同9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。

しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰権帥に左遷し昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。

時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』の完成や、律令制の基本法である延喜格式の撰修にも着手しており、むしろ政治には真摯で制度改革には意欲的だったことが知られている。「延喜の治」は形こそは摂関を置かない親政でも、実際には天皇と時平の提携による政治主導に帰するところが大きかったと云われている。

 
http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=9873863&video_id=8883520

勧修寺周辺の寺社仏閣(桜)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=18705950&owner_id=9873863
>>[5]

<宮道神社は、菅原道真公太宰府左遷のルーツとして歴史的にも興味深い。 >

醍醐天皇はまた和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている。自身も和歌を良くし、勅撰集に都合43首が入っているほか、家集『延喜御集』も編んでいる。33年間にわたって記した宸記『延喜御記』全20巻は早くから散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次の村上天皇のそれと併せた『延喜天暦御記抄』として伝わっている。

醍醐天皇は、はじめ中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮とし、その御息所に時平の娘・仁善子を入れていたが、延喜9年(909年)に時平が死に、2年後には親王も21歳で早世する。

そのため仁善子の子慶頼王を皇太孫としたが、2年後やはり5歳で夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、延喜23年(923年)になって天皇は道真を左遷した詔を覆し、道真右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。

しかし延長8年(930年)6月に清涼殿に落雷があり公卿数人が焼け死ぬという惨事が起きるとこれ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位。その7日後の29日に出家すると同日崩御した。宝算46。翌月10日、山城国宇治郡山科陵(醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下)に土葬された。

京都市内は、幾重にも結界が張られています。昔の人は、疫病や災害など自然界の災いは、怨霊のせいだと思い、怨霊を静めるために神社仏閣を建てました。
己の猜疑心や背徳の念から生じたいかにも人間的な思考が京都を作っています。
人の喜怒哀楽を具現化したのが京都だと云えましょう。
天満宮の多いことに驚かされる京都です。
山科三之宮もそのうちの一つでしょうが、実母ゆかりの地ですから特別の存在でしょう。

山科三之宮は、醍醐天皇の創建だから由緒正しく御祭神の合祀でも在らせられます。
明治に至るまで、毎年宮中より神供米四石を下賜されていました。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1474449703&owner_id=9873863
>6に続く

宮道列子(みやじのたまこ)のお墓。
宮道列子の墓は、中臣神社の東側にある円墳です。現在は、勧修寺が管理されています。
(大宅寺(おおやげでら)にある列子の両親・宮道弥益夫妻の墓は、後日に参拝予定。)

<宮道 列子 (みやじのつらこ・れっし・たまこ)>
(当時は、女性の身分が低いために、名前の読み方が正しく記録されていないケースが多い。)
生年不明〜907年(延喜7年)10月17日薨去

宮道弥益(みやじのいやます)の娘で、藤原高藤(ふじわらのたかふじ)との間に胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)を産みました。


・宮道弥益邸での藤原高藤と宮道列子の出会いについては『今昔物語集』巻二十二の七「高藤の内大臣の語」に詳しく掲載されています。

・娘の胤子が宇多天皇の女御となり醍醐天皇を産んだため、天皇の外祖母として列子は、従三位に叙されました。

・907年(延喜7年)10月17日薨去。10月26日に正二位が追贈されました。


現在、勧修寺<宮道弥益邸宅跡>の南にある宮道神社に、父の弥益や夫の藤原高藤、子どもたちと共に合祀されています。

・身分が格上の藤原高藤と結ばれ、娘の胤子のおかげで天皇の外祖母として晴れがましい身の上になった列子(たまこ)。これにより、「たまのこし(玉の輿)」という言葉が生まれたのだとか!?(諸説あり。)

・列子と高藤の子孫の一人に紫式部がいます。紫式部が執筆した『源氏物語』に登場する「明石の君」のモデルは、宮道列子ではないかという説があります。(諸説あり。)

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000059257348&owner_id=9873863
大豊神社の巳年にちなんだ像。

大豊神社は、平安時代前期の仁和3年(887)の建立で、鹿ケ谷村・南禅寺一帯の地主神であって、その昔は、現在の地よりさらに東の椿ヶ峰山中にあった山神。鎮疫神として信仰されていた神。寛仁年間(1017〜1021)に現在地へ移り、大豊神社とされた。応仁の乱で荒廃。祭神は、主神が少彦名(すくなひこな)命で、応神天皇・菅原道真を合祀している。

大豊神社は、数年前の家庭用ゲーム機の女性向けゲーム、「遥かなる時空(とき)の中で」という作品の中に、大豊神社と「コマネズミ」が登場しているらしい。一部の女性の間で、人気が高まり認知度アップ。

・京都市左京区鹿ケ谷宮ノ前町1   ・TEL(075)771−1351
・境内自由
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=9873863&id=1814563809

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