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スラヴォイ・ジジェクコミュの近著の中の日本

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 以下は、ジジェクの近著『厄介なる主体 1』に出てくる日本に関する記述です。
 少し長くなりますが、引用しておきます。

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 日本の中で、社会から排除された者たちのカーストは、部落民と呼ばれている。かれらは屍肉に触れる職種(屠肉、皮革加工、墓堀り)に従事しており、しばしば穢多(穢れ多き者)などと呼ばれることもあった。今日、「蒙を啓かれた」現代においては、公然として忌み嫌われることはなくなったとはいえ、なおもかれらは暗黙のうちに無視されており-----企業はいまだに彼らの雇用を避け続け、親たちはわが子を結婚させまいとする------それのみならず、「政治的な公正さ」をタテマエにし、かれらの感情に十分配慮しますといった態度で、人々はこの問題から目を逸らそうとしたがっているのである。しかしながら決定的に重要となるポイント、それは日本社会が前(プレ)ポリティクス的(いや、むしろ非<ノン>ポリティクス的)な、「企業組織形態」で機能している証拠なのだが、そのポイントとは、かれらを代弁する声が響いている(ここで近年逝去された偉大な作家、住井すゑについて簡単に触れるだけで十分だろう。彼女は多巻にわたる感銘深い小説『橋のない川』において、部落民を題材に採ることで、日本のピラミッド上の身分制度全体が、いかに無意味なものかを暴露している----示唆深いことに、彼女のトラウマになっている原初体験とは、子どもの頃、天皇を崇め奉ろうとして、彼女の親類が、天皇滞在時に使用された便所を汲み取り、彼のしもが混じる糞便を、まるで聖遺物のようにしまい込んだのを目撃してしまったときの衝撃であった)その事実があるにもかかわらず、部落民たちは、自分の境遇を積極的にポリティクスとして前面に押し出そうとはせず、また自分の置かれている位置を、まさしく「部分ならざる者の部分」であるがゆえに、日本社会という普遍性を真に代表するのだ、と主張することで、不変なる個物の位置として構成していこうとしなかった点である・・。

コメント(3)

六文銭さまが引用された部分に付された註釈を参考までに。


「決定的に重要なのは、部落民を排泄物と同一化することである。自分の親戚が天皇のしもを慈しむさまを目撃してしまったとき、住井すゑは、次のような了解に達したのだった。すなわち、「王は二つの身体を持つ」──王の身体は、まさしく身体のように組織された社会を体現している──と古くからいわれてきた言に忠実に従えば、部落民、つまり社会という身体の排泄物もまた、そのさまと全く同じように慈しまれるべきなのだ、と。言い換えれば、住井すゑは、身体という言葉を、普通ではなされないほどに字面どおりに受け入れることで、天皇の二つの身体それぞれのあいだに存する、構造的な相同性を見ていたのである。天皇の身体のなかで、最も低い位置を占める部分(排泄物)でさえ、社会組織を象徴する彼のもう一つの身体、崇高なる身体において、その相応物となるものを配せられなければならないのだ。彼女のおかれた困難な境遇は、『パルメニデス』のなかで、永遠なる形相/イデアと、質料によるその模倣という関係が、厳密に吟味してどこまで適用しうるのかという、実に厄介な問題に果敢に取り組んだプラトンの境遇と非常に近しいものがある。いったいどのような質料的対象物が、その雛形である永遠なるイデアによって「存在論的に裏づけされている」のであろうか。泥土、汚物、そして排泄物といったような、「低次の」対象物の永遠なるイデアなども、また存在しているのであろうか。」
 上記の叙述は、いささか荒っぽく要約しますと、象徴秩序の中核もまた空虚であり、そこで「普遍」と目されるものも、ある「特殊」が他を排除した結果に他ならない、そうした中で、「特異な個別」、「部分ならざる者の部分」(症候としての過剰)が、その普遍と特殊との間の亀裂を指し示し、その普遍を揺るがす者である、という全般的な論旨に呼応しています。

 ジジェクは、資本主義におけるプロレタリアート、日本の天皇制における部落民の中にそれを見ています。そして、象徴化された秩序に対し、「出来事=真理」を対置するバディウを「真理のポリティクス」を擁護する者として(部分的な批判を持ちながらも)支持しているようです。

 したがってこの書は、当然のこととして、ジジェクがなおかつ、ポスト・ポリティクスやグローバリゼーションに抗して、「出来事=真理」の陣営にあることを示しています。

 だから私には、ジジェクをカルスタ風に読んだりする風潮がよく分からないのです。

 なお、これに刺激されたわけではないのですが、「フランスの暴動」についての見解を日記に記しましたので、お暇な方はお目通しの上、ご意見やご批判などどうぞ。

 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=51902903&owner_id=169021
興味深く読ませて頂きました。UP有難うございます。

ところで、引用して頂いたこの本、副題が「政治的存在論の空虚な中心」というようですね。当然、連想はロラン・バルトの『記号の帝国』を呼び起こさずにはいられないわけですが…、先程、たまたまネットで拾った情報なんですが、ジジェクは来日時の公演で、天皇制を「ヘーゲルが論じた君主制そのもの」だと言ったそうですね。『法の哲学』によれば、彼の論じた君主とは、具体的な行政は、法のもとに執行されるに任せ、自らは単に、超える事の出来ない頂点としての署名を行う者としてのみ存在する、そうした形式的な存在に徹した君主。
なるほど、まあ確かに御名御璽に象徴される天皇の役割と似てるというか…、たぶんジジェクさんは、コジェーヴがポスト歴史社会のモデルとして描いた、江戸時代の切腹に代表される「形式に殉じる」在り方としての日本社会という像に影響されてるんでしょうけど。

こういう分かり易いモデル化は、柄谷行人氏なんかからは拒絶されてますけど、概念化やモデル化というのは或る程度そういう強引さも含めてやってかなきゃいけない部分もあるのかな、と。
で、さっき書いた御名御璽について、若森栄樹って人が『裏切りの哲学』で、次のような意味の事を書かれてました。「国民主権を謳う憲法は、天皇の名のもとに発布されている。この内容と形式の矛盾、ダブルバインドによって、日本社会は半身不随に追い込まれている」。そしてこの事は、日本社会が未だ「忠誠」という価値観に支配されている事の裏付けともなっている、と。その辺についての若森さんの分析は、山本七平による「空気」の概念とかなり近似しているように思ったんですが、欧米の学者が「空虚」とか「形式」という概念で図式を描いてしまうのに対して、やはり日本人学者はナマの生活感覚として、それだけでは割り切れないという思いがあるんだろーな、、、などと思う今日この頃です。

こういったような天皇制の問題について関心の有る方は、是非うちのコミュに参加して頂きたいです。

天皇とNationalityを考える。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=262363

結局管理コミュの宣伝かよ、って感じですが、そろそろ議論のレベルをもうちょい高めたいと考えている所なので、もし良ければ慈善の心で参加して下さいな、皆様。

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