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☆成増グラントハイツ☆コミュの"Takamatsucho Air Field"・・・

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・・・と、成増飛行場は米側から当時、呼ばれてました。
昭和19年11月頃から始まった本格的な東京への空襲は、
昼夜問わず3〜5日間隔で続いてたそうです。
練馬区におけるB-29による空襲も昭和20年8月10日ま
でに合計18回来襲してきました。

空爆の目的は、成増飛行場及び近辺一帯、陸軍第一造
兵廠練馬倉庫(現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)、鐘紡
練馬工場、また隣接地付近には陸軍赤羽兵器廠、中島
飛行機武蔵野製作所〜荻窪製作所もあり、戦闘機や陸
軍施設、工場の破壊を目的に精密ピンポイント爆撃を
してたそうです。

台東区〜江東区〜墨田区〜中央区等の対人無差別空爆
とは異なるのが特徴なのではないのでしょうか・・・
近年、練馬区内の土中から見つかる、多くの焼夷弾や
爆弾の不発弾は、それらを攻撃目標とした流れ弾の一
部と考えられます。

大戦中、マリアナ諸島のグアムやサイパン、テニアン
各島を手中に入れた米軍は、これらを基地にして、日
本本土へB-29を発進・・・日本本土への侵入時は富士
山を目標として西側から入り、千葉県の九十九里浜や
鹿島灘から海上に抜けてたそうです。

B-29の探知は、八丈島の電波警戒機で行っており、敵
機を感知してから防空司令部経由で各防空飛行戦隊に
指令が流れて攻撃態勢になるので、何と!発見から約90
分近くかかったといい、B-29はその間にノコノコと東京
に達してしまったのです。

特にB-29の侵入には、ジェット・ストリーム(偏西風)
を上手く利用してたそうで、ジェット・ストリームに
乗ったB-29は実際、偏西風時速約300kmとB-29の時
速500kmの最高約時速800kmの速度になっていたと
言われてます。
高度約10000m位から侵入してくるB-29は、この場合、
都市部への爆弾の着弾には、現在の武蔵野市〜小平市近
辺から爆弾を投下してたそうです。
成増飛行場の各種戦闘機も、一度の航行時間が2〜3時間
位が限界で、富士山からこの近辺までに撃墜しなければ
ならなかったのですが、困難性も伴ってました。

やっとのことで高度10000mに上昇した鐘馗等の戦闘機
も敵機B-29と速度差があまりない為に後方からの追撃は
難しく、上方や前方からの瞬時の攻撃しか出来なかったと
いい、更に、互いの速度が約500kmの速度だったとした
場合、すれ違う場合の相対速度は時速約1000km・・・
(マッハ1/音速)になります。

瞬時の前方攻撃は極めて難しく、一度攻撃すると一挙に高
度が下がる事になるので、再攻撃はかなりの困難だったそ
うです。

最終的に関東地方に来襲した米軍機は、艦載機と爆撃機を
含めて6,247機、投下した爆弾は焼夷弾を含め34,128tと
いう記録です。
練馬区の被害状況は、昭和19年11月24日から昭和20年
6月10までで米軍機来襲18回、爆弾976個、焼夷弾757
4個、不発弾99個、死者160名、重傷者50名、軽傷者65
名、全焼857件、半焼26件、全壊78件、半壊111件、羅
災者4088名という記録が残ってます。

成増飛行場は、南側の高射砲陣地(春日町付近)、北の探
照灯(成増電話局NTT付近)、東の誘導電波送信所(三原
台付近)、東南の電波探知機所(春日町付近)北西の日本
陸軍白子病院(現在の国立埼玉病院)、周辺に分散した弾
薬、燃料集積所(春日町、土支田、高松)、飛行場内各所
の対空機関砲陣地、掩体壕という具合に帝都防衛の一大基
地でした。

一部の説によると成増飛行場は、そのままGHQの米軍飛行
場として使用される可能性もあったそうです。
戦後、米軍機が飛来し、成増飛行場の当時のまま残されて
いた滑走路に着陸を試みましたが、着陸したとたん滑走路
が凹み事故を起こしたそうです。

元々の成増飛行場は、戦闘機や中型輸送機用の飛行場とし
て建設された為、主滑走路は長さ1,200m、幅60m、コン
クリート舗装の厚さは12cm、補助滑走路は長さ1,500m
の芝生・・・という具合にあまり大きくない施設の為由、
飛行場そのものの広さの限界性から実現せず、立川や横田へ
展開する運びになりました。
この頃、立川の飛行場も同じくしてGHQ専用の候補に上がっ
てましたが、主滑走路も長く、幅が100m、舗装も何重にも
なっていて21cmと厚く、施設面積も広大だった為、正式に
米軍飛行場になったそうです。
この飛行場の当時の正式名称は「成増陸軍飛行場」・・・
所在地は「東京都板橋區練馬高松町」・・・
"練馬飛行場"または"高松飛行場"と呼ばれてたこともあった
そうです。

画像/左側から・・・
★大戦末期の米軍機の低空偵察による成増飛行場・・・
 回りは何もない典型的な当時の練馬の田園地帯。
 画像上部が川越街道寄りの北側、手前が南側。
 川越街道や東武東上戦も何となく見えるような?
 ・・・気がしてきます。

★成増飛行場に勢揃いした二式戦2型乙[鐘馗」。尾翼
 のマークは飛行第47戦隊の図案化。昭和19年11月

★当時の成増飛行場本部・・・
 飛行場の南西地区にかつてはありました。
(現在のホテル・ガデンツア光が丘/旧 第一ホテル光が丘
 付近・・・)
 

コメント(3)

ジェットストリームについて一言。
ジェットストリームはむしろ高々度精密爆撃を志していた米爆撃航空団にとっては、多いに悩みの種でした。自慢のノルデン照準器も、800km/h対応は無理でした(^^;)
皇国には八百万の神がおわし、神風が吹くから空襲なんてあり得ない…。と、言っていた人達も、まさかこんな形の「神風」があったとは思わなかったでしょうね。

むしろこの神風は、精密爆撃から無差別爆撃への切り替えを促す一因になったというのも皮肉なものですね。
高射砲陣地で思い出したんですが


15年程前でしょうか。
小学生の頃に、高射砲の台座を見ました。

春日町5丁目、現在の春日町西公園の東側に畑があって(今は住宅地かな?)、その畑に数カ所
丸い台座があったのを覚えてます。


キャベツ畑の中に違和感のある丸い台座‥‥
それを避けるようにしてキャベツが植えてありました。
学校の先生が、高射砲の陣地だったと言っていたので恐らくそうかと思います‥‥



遊び場だった地域の空を、昔は爆撃機が飛んでいたなんて。
そんな想像をして、不思議な気持ちになったのをよく覚えています。


余談ですが、そこからすぐの農家に友達が住んでいて、庭の地下に防空壕が掘ってありました。
自分たちで掘ったという防空壕は、地下の秘密トンネルみたいでした。
ほとんど埋まっていましたが、それでも結構広かったなぁ‥‥


空襲‥‥やはり大変だったんでしょうね。


ちなみに、その農家には大昔の練馬小学校の校舎があって、中に古い机がたくさん並んでたのを記憶しています。
今でも建物は残ってるはず。



‥‥と、話が逸れてしまいましたが。
ここ10年で街がだいぶ変わってしまったので、
子供の頃にそういう痕跡を見たり、考えたりする事ができたのは、とても貴重な時間だったんですね。


長々と失礼しました

m(__)m


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