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憲政史研究家、倉山満コミュの亡国前夜

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倉山満の砦
http://www.kurayama.jp/
において「亡国前夜」という連載記事が掲載されていましたが、このたび完結しましたので、許可を受けて転載いたします。なお誤字等一部を編集しています。

コメント(28)

亡国前夜(1)ー「憲政の常道」を守った池田勇人 その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=137

 読者の方々はどう思われるであろうか。この砦で毎日のように強調しているように、来年の参議院選挙が日本の運命を決する本番である。民主党政権が参議院選挙の直前に不利だった場合、別の総理を看板にして参議院選挙を戦うのは許されるだろうか。散々、自民党がやって国民に呆れられた挙句に見捨てられた行為であるが。それを民主党に許すべきかどうか。

 

 民主党の動きがおかしい。鳩山首相の指導力の欠如、目も当てられない。「官僚政治改革」など夢のまた夢、というような状態ができあがりつつある。もしこのまま鳩山首相の政権運営が失敗した時、まさか「参議院選挙がすべて」などと考えて、鳩山首相に代わる選挙向け総理を据えようなどと考えてはいないか。それならば衆議院との同日選挙をしなければならない。それが「憲政の常道」である。政権発足したばかりでそれは早すぎるのではと思われるかもしれないが、単に自民党が弱すぎるので助かっているだけである。

 私は予言する。民主党が「憲政の常道」を守るなら日本国民に幸福をもたらす。さもなければ、混乱だけが訪れる。これは歴史を勉強すれば明らかである。

「憲政の常道」の重大な要件は、選挙によらない政権交代があってはならないことである。つまり政権たらい回しをさせないことが「憲政の常道」である。

 小泉以後、安倍・福田・麻生と、自民党内閣が交代したにもかかわらず、一度も衆議院の総選挙で国民の信に訴えなかったのは記憶に新しい。少なくとも政権交代したら、その内閣は衆議院を解散すべき、それが「憲政の常道」である。もちろん、簡単に内閣を変えてはならない、という前提がある。簡単に内閣が変わるのだからそんなに総選挙をしていられない、というのは倒錯した議論である。それは「現状主義者」の戯言であって、「現実主義」とは無縁の議論である。

 自民党の総選挙によらない政権交代を批判して民主党は今の地位にあるのだから、よもや同じ事をする気はないだろう。それでは民主党が批判した古い自民党と同じである。もっとも今の自民党が昔の社会党と同じなので、「野党が弱いから一党優位が続く」などとなっては国民は悲惨である。少なくとも民主制からは程遠い。

亡国前夜(1)ー「憲政の常道」を守った池田勇人 その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=137

 では古き歴史をたずぬれば、自民党にも「憲政の常道」を守った政治家がいたのである。それが池田勇人である。

 昭和三十五年、革命前夜を思わせる騒乱の中、岸信介内閣は退陣した。社会党も分裂して民主社会党(後の民社党)が結成され、政権担当可能な野党の結成に期待が高まっていた。

 このような中で、自民党の総裁選挙に勝利し、総理大臣の地位に就いたのが池田である。この時の自民党は衆議院定数四百六十七議席中の二百八十七議席と絶対多数を握っており、前の解散から二年しかたっていない。別に解散に訴える必要はない。むしろ黙って二年間をすごそうと考えるのが定跡であろう。現に側近らもそのように考え、翻意を迫った。それに対して池田は答えて一言、「朝、仙人が来てそう言った」と。

 岸首相の誘いに乗り主流派入りした時、総裁選挙に出馬した時、そしてこの時と、重大な政治決断をする時の池田の決め台詞である。客観的には不利である。少なくとも51%以上の勝率など保障できない状況である。そのような場合、理屈で説明しても無駄である。凡人には「見」えないが、政治家には「観」える風景がある。池田の場合、それがすべて当っているのである。ただ説明しようがないだけである。このような政治家の資質をマックス・ウェーバーは「情熱」と呼んだ。困難を切り開く勇気、世界を動かす力量、と呼んでもよい。結果、自民党は九議席を増やし、圧倒的多数を維持した。そして池田政権は長期政権となった。

 今の視点から見れば説明できる点は色々ある。ただ、これを「憲政の常道」という視点からの説明は知らない。あえて不利な状況で勇気を持って決断し、「憲政の常道」を守った。「憲政の常道」は守った政治家や政党にも利益をもたらすのである。

※なぜ「憲政の常道」を守ると政治家や政党の党利党略にもかなうのか、一見して不思議な作用のようだが、英国憲法を勉強すればわかる。A・V・ダイシーは、この原理を1000頁くらいかけて説明している。もちろん、一冊の本では済まない。手品の種のようなものだが、長いので省略。経済学が「適度に個人の欲を満たすようにすれば市場経済は上手くいく。」と説いているのと同じようなもの、と思っていただきたい。「適度に」がツボである。

 我々日本人は「憲政の常道」を守った池田勇人という政治家をもう少し誇っても良いのではないか。それは、我々日本人が欧米人に押し付けられるまでもなく、彼らにとやかく言われない民主制である「憲政の常道」を自分達の努力で勝ち取った点への誇りである。もう、「戦争に負けてアメリカ人に教えてもらうまで民主主義を知らなかった。マッカーサーが言うように、精神年齢は十二歳なのは尤もだ」などという嘘の歴史を信じるのはやめようではないか。

 池田勇人はあらゆる面で戦後最高の宰相である。特に「憲政の常道」を守った!この意義は今こそ問い直すべきである!

※根拠は、7月7日記事の「以下は専門的知識の前提がないと、やや難解な話を。」より後の、追記1と追記2に関連する部分をお読みください。それでもまだ一部である。
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=4

 さて再び問いかけ。イタリアでは上下両院の選挙は同時に行わる。日本でもこのような制度を導入しよう、との意見は多い。私は今の憲法で参議院の制度をいじれないのであれば、必ず衆参同日選挙を行う慣例を蓄積すべきであると思う。

 とにかく、政権たらい回しをするくらいなら下野して自民党に政権を譲る。鳩山首相はそれくらいの覚悟で政権運営をすべきであろう。その覚悟があるならば私も応援するし、何より「憲政の常道」が守ってくれるのである。
亡国前夜(2)ー「憲政の常道」を破った三角大福
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=139

 鳩山故人献金問題、検察が本気になれば、いくら国民が忘れてもそう遠くない時期に問題となるであろう。「親の鳩山威一郎の代からの慣例でした」が言い訳になると思っているのだろうか。それだけ悪質だと言うことにしかならないのだが。

 いずれにしても、この「亡国前夜」の主題は「政権たらい回しは許さない!」である。追い続けていきたいと思う。

 

 さて、「三角大福」とは、三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫の次々と総理を努めた政界実力者である。あまりに政争が激しく総理の入れ代わりが激しいので、中堅代議士だった竹下登は「歌手一年、総理二年の使い捨て」と揶揄した。三角大福の平均政権担当日数は本当に二年である。問題は、この人たち、揃いも揃って「憲政の常道」を無視しているのである。

 「政権交代したら総選挙に訴える」「与党第一党の総裁のみを総理大臣候補とする」という、戦前の政友会や民政党が守っていた、「憲政の常道」の最低条件すら平気で蹂躙しているのである。

 田中内閣は実は弱体政権である。福田赳夫と争った総裁選の票を見ればわかるのだが、大平・三木に加え、中曽根康弘の支持がなければ負けていたのである。田中本人はそもそも総選挙を先延ばしにしたかったらしいが(それ自体が「憲政の常道」の蹂躙であるのは、池田勇人の項で説明した通り)、社会党・公明党・共産党の野党連合に総選挙に追い込まれるような有様であった。それでも新内閣発足から半年で解散総選挙に打って出ただけまだマシだが。

 次の三木内閣は、弱小派閥からの選出であり、「三木おろし」が年中行事であった。この総理、口を開けば「世論を信じる」などと言いながら、遂に解散を決断できず、現行憲法下で唯一の任期満了解散になっている。自民党は史上初の過半数割れを起こし、その敗北の責任を取って退陣するのだが、野党第一党の社会党は何も言わなかった。誰も当時の社会党に政権担当能力など期待していないので忘れているが、戦前なら与党第一党が政策で失敗したら、野党第一党は政権を要求したのである。濱口雄幸はそうしたし、戦後でも吉田茂は片山内閣退陣に際して同様にしている(この話が最重要なので、詳しくは後日に。)。まじめに政権担当する意思と能力がない野党第一党の存在は民主制にならない。これは今の自民党への批判であり、期待である。

 福田内閣も党務を大平幹事長に握られ、福田派の拡充を嫌う大平や田中角栄に阻まれて、解散したくてもできなかった。別に今の話や、羽田孜総理が小沢一郎新生党代表幹事の反対で解散権を行使できなかった話を思い出せとは言っていませんので。念の為。

 大平はようやく解散をしたのだが、その後の過程があまりにも無残である。総選挙で過半数を割ったにも関わらず、しかも本人は責任を取ってやめたがったのだが、田中角栄の「君に辞められたら俺が困る」という一言で説得された気になって翻意した。挙句に退陣を迫る三木に対して「では自分が辞めて社会党に政権を渡せと言うのか」と開き直っている。開き直る方も問題だが、「そこまで非現実的な話はしていない」と返す三木も三木である。いや、ここまで存在価値がない野党第一党の社会党が問題か。

 そして悪名高い「四十日抗争」が起きる。自民党が首班指名候補者を決定できないのである。この前の「麻生の名前は書きたくない」どころではない。今年は誰もが鳩山総理の実現を現実的には疑っていなかった。この砦で書いた話はあくまで理論上の問題である。しかし、この時は、本当に誰が総理大臣になるかわからなかったのである。総選挙の意味が無くなったのである。そして自民党から大平と福田の二人が首班指名候補に立つという前代未聞の事態が発生してしまうのである。

亡国前夜(2)ー「憲政の常道」を破った三角大福 その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=139

 「憲政の常道」とは、本当は総選挙による政権交代が望ましい、そうでない交代の場合は事後に総選挙に訴えなければならない、が骨子である。つまり国民が総理大臣を選べることに意味があるのである。これは英国でも戦前日本でも同じである。池田勇人は明らかにこれをわかっていたし、あえて不利な状況でも総選挙で国民に信を問うたのは前回の通り。

 野党第一党の社会党に政権獲得の意思がない、与党の自民党は総選挙よりも党の総裁選挙の決定が優先する。ここに「憲政の常道」は破られたのである。「憲政の常道」を破った政権は安定しない。これが原理である。当たり前である。国民に信を置かない民主性など、いくら憲法典に立派な条文が書いてあっても無意味である。それこそ「外見的民主制」とでも呼べばよい。憲法学者や歴史学者がよく帝国憲法のことを「外見的立憲制」などと呼ぶが、では日本国憲法はどうなのか。共産主義を信奉しているらしい憲法学者や歴史学者は自民党の支持者の訳ではないのだが、それならばそのような自民党政治を許している日本国憲法体制を批判しなければ筋が通らないではないか。

 何が何でも帝国憲法を悪魔化し、日本国憲法の悪口は言いたくないと考えている輩。

 やはりアカですらない、ただのバカだ。

 それはさておき、三角大福の混乱期の原因、戦前二大政党はいかに政争が激しくても守ったような規範すら無視したから混乱したのである。

追記:民主主義と憲政の常道の違い

 日本国憲法に「民主主義」「国民主権」の原理を入れることに、松本烝治憲法担当大臣は最後まで抵抗しました。その理由は「そんな無責任はできにない。国民に怒られる」です。

 現在の日本国憲法の運用においては、「憲法の番人」のはずの最高裁に政府からの人権擁護を訴えていっても、「国民に選ばれた国会の作った法律には合憲の推定が働く」「国家の重大事である統治行為は主権者の意思を尊重すべきであり、最高裁は判断すべきではない」「政府は国会により選ばれているが、最高裁は国家や内閣より国民より距離が遠いのでおいそれと判断はしない。よって政府の裁量は相当広範に認められるべきである」などと、文明国の法常識がある外国人が聞いたら失神しそうな詭弁を押し通しています。これを正当化しているのが芦部憲法学ですが。

 やたら複雑な言い回しの東大憲法学や最高裁の判例を大根切りに解説しているので細かいところは省きますが、要は今の憲法体制では、

「政府や国会のやったことは全て国民の責任」

というのが民主主義の意味なのです。松本大臣の懸念は見事に的中しました。例えば、現に裁判員制度が導入された時の最高裁事務総局の言い訳が「主権者に選ばれた国会で決まった事ですから」でした。こんな例、探せばほぼ無限に出てきます。例えば最高裁の判例集とかオンパレードですから。

亡国前夜(2)ー「憲政の常道」を破った三角大福 その3
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=139

 すべての立法を個々の国民が行おうとしたら直接民主制しかありませんが、それは物理的に不可能です。だからこそ、選挙区の議員は自らの手で選ぶ、が選挙に意味を持たせる最低要件です。少なくとも「この人は、公約の全部を実現できなくても、不誠実な約束を破り方をしない人格の持ち主だ」と判断する機会が与えられます。この辺りの詳しい話はE・バークが詳しいです。

 その最低限、しかも今の日本では当選して最初の国会で行う政治活動が首班指名選挙の投票、すなわち総理大臣を選ぶことです。その総理大臣の選挙で自分の選んだ代議士が誰に投票するかわからない、これでは民主制などありえないのです。

 これに対して「憲政の常道」は国民主権を必ずしも前提としません。議会における国王主権の英国にも、天皇の統治権を臣民が代行する戦前の日本にも、国民主権原理はありません。これはどうなるか。責任は政府の当局者にだけあるのです。「国民に選ばれましたから」「主権者である国民様が決めたことに従っただけですから」などとの言い訳は通用しないのです。むしろ、世論は「陛下の政府」「陛下の野党」の行動を監視する役割です。これをA・V・ダイシーは「民主制における世論は、国際法に対する軍事力のようなもの」と称しています。軍事力によって国際法が守られるように、世論の圧力によって民主制が守られる、これが英国憲法の考え方です。

 実はこの原理、帝国憲法では最後まで守られています。最後に確認できるのが東條内閣です。東條内閣の権力基盤、実は衆議院を手なずけていることなのです。悪名高い翼賛選挙で当選させたはずの衆議院が造反しようとした時に慌てて内閣改造による政権浮揚、などをはじめます。これが命取りになるのですが、「衆議院に不信任された内閣は解散か総辞職をしなければならない」との習律はこの時にも生きているからこその騒動なのです。

 翻って、三角大福以降の時代は。。。実は、日本国憲法体制においては、池田勇人だけが守った、と言った方が正しいのかもしれないのです。
亡国前夜(3)ー闇将軍と「憲政の常道」
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=142

「闇将軍」と言われた田中角栄の絶頂期は昭和五十五年七月の鈴木善幸政権成立から昭和六十年二月に脳梗塞で倒れるまでである。その権力はいかほどのモノであったか。

 数ある有力政治家を差し置いて、なぜ鈴木善幸が首相になれたか。

頭が悪くて無能だったからである。

??? これでは、さすがに意味不明であろう。もう一つ重要な理由がある。田中角栄への忠誠心が誰よりも高かったからである。つまり、頭が悪くて無能でも、田中角栄への忠誠心がある自民党代議士ならば総理大臣になれるかもしれない。むしろ頭が悪くて無能な方が都合が良い。そうなれば田中角栄への忠誠競争をはじめる。その競争に勝って、晴れて次の総理大臣になれたのが中曽根康弘である。おぞましい時代の到来である。

 どれくらい頭が悪かったか。世界中の新聞に「ZENKOU WHO?」の見出しが踊った。総理大臣になる覚悟も準備も全くなかった善幸さん、開口一番「私は財政や外交はわかりません。和の政治を目指します」と、聖徳太子が聞いたら卒倒するようなことを言い出した。総理になって最初の所信表明演説で、原稿用紙一枚分を読み飛ばして一言。「鈴木原稿、一枚減稿!」

 これ、私の作り話であって欲しい、と自分で書いてて思うが、当時のニュースになっていたことなので否定のしようがない。

 この時期の田中角栄、ロッキード事件の被告人で、自民党籍すらない、一無所属議員である。自分の裁判を有利に進める、ただそれだけのために自民党の中に田中派を扶植し、自分に都合が良い総理大臣を据え続けたのである。つまり、日本の統治機構のほとんどは一無所属代議士に支配されたのである。

 この時の自民党は反田中勢力が健在で、しばしば田中の権勢が揺るぎかけた。しかし、方法が悪かった。政争を挑むは良いが、常に「総理は田中の都合が良い人物で良いから、自民党総裁は寄越せ」と条件闘争をするのである。最近の「麻生おろし」でも唱えられた「総総分理論」である。こういう時の田中は決してぶれなかった。決まり文句は一つ。

「総理総裁の分離は、憲政の常道に反する!」と。この一言で、反田中派は沈黙させられるのである。そもそもの要求がお門違いだからである。自民党の総裁選挙で勝てるわけではなし、新党を作って第一党を目指すでもなし、確かに反田中派の行動は「憲政の常道」に反するのである。

 では田中は「憲政の常道」を守ったのか。確かに「憲政の常道」の原理に則ったから田中の主張は通っているのである。選挙で勝ったものがすべて、それが民主主義である。そういう意味で「憲政の常道」は田中の行動を正当化しているようである。

 しかし、「憲政の常道」が想定する総裁総理とは国民に選ばれた政治家である。国民に選ばれた与党第一党総裁だから、総理大臣の権力を行使できるのである。ところが、その総理総裁より強い政治家がいる。一無所属議員に総理大臣が言いなりになる、「憲政の常道」の想定外である。よって、与党の総裁選挙に出馬することなく、総理の首班指名選挙に出ることなく権力を行使する田中の存在そのものが、「憲政の常道」に反するのである。

 「闇将軍」とは、責任をとることなく権力を行使する政治家である。これは「憲政の常道」に反するのである。

 

 以下、他意のない独り言。田中さんの愛弟子である小沢一郎さん、「御輿は軽くてパーが良い」と漏らしたこともあるとか。海部俊樹さんのことであって鳩山由紀夫さんのことではないと祈る。
亡国前夜(4)―田中角栄は大政治家か
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=147

 田中角栄、良くも悪くも戦後日本を作った大政治家であると評されることが多い。本当か?

 大蔵大臣として、高度成長期の日本の舵取りをした。その通りなのだが、それはまずもって池田勇人の功績では?田中が有能に処理したとか、官僚を使いこなしたとか、その辺りは否定しないが、最近よくある「1960〜70年代の高度成長期」「その時代をリードした田中角栄」という言い方をされるが、全部が全部「角栄のおかげ」は言いすぎだろう。むしろ70年代の佐藤内閣はひずみが指摘されたし、その後を引き継いだ田中内閣は狂乱物価で日本経済をどん底に叩き落したのだし。

 自民党幹事長としては最高の人材だったのは間違いない。よく言われる「解散総選挙に勝利して、子分を増やして、総理大臣へ」という道をたどれたの、実はこの人だけである。ただ、それが何なのか、という話になる。単に自民党の議席と自分の派閥を増やしただけでは?

 総理大臣の時、経済政策には完全に失敗している。唯一の功績として教科書に載っているが、一九七二年の日中国交回復(正常化)とか。台湾を切って大陸と手を組んだのが、なぜ偉いのか、今となってはさっぱりわからない。そもそも中国と「国交回復」とか「正常化」とか、そういうものの言い方自体が、北京政府のプロパガンダそのままではないか。日本政府の立場としては、一九五二年日華平和条約によって、中国(中華民国)との外交関係正常化と果たしているのである。田中がやった一九七二年の合意は、「北京政府を中国の政府として認める」であって、国家承認をした訳ではない。中国と自称する国の存在はとっくに日本は認めて居るのであって、その代表である政府の認定を変更しただけである。「国交回復」「国交正常化」という言い方自体が自分の国の過去の行為を抹消するということにいい加減気付かねばならない。

 で、なぜ北京政府と仲良くすることが功績なのか?

 総理を辞めてからの壟断は前述の通り。刑事被告人である自分の都合の為に、解散総選挙をさせてみたり、総理大臣を好きなように取り替えたり、大臣や役所の人事を壟断してみたり。KGBの元工作員の回顧録を見ると、日本がスパイ天国になっていく過程と田中闇将軍の権力増大がこれでもかと符合するのである。なぜこんな簡単なことを誰も指摘しないか。KGBか田中角栄のどちらかにしか興味がない人が多いからであろう。両方に注目していたら一目瞭然なのだが。

 さて、以上の事実を踏まえて論点は二つ。

 一つは、田中の行為が日本国憲法上、違憲にならないのである。それどころか、民主主義として正当化できてしまうのである。常に彼の主張は、自民党総裁選挙や衆参の国会議員選挙で多数の支持を得ているからである。その支持数が絶対的か相対的かの違いがあっただけで。戦前の「憲政の常道」の時代においては、少なくとも元老の西園寺公望は絶対に許さなかったようなことを次々とやっているのである。

 憲法の条文に書いてあることさえ守ればそれで良いのか?合憲か違憲かだけが問題なのか。私は田中角栄が自民党田中派を通じて日本を支配した状態は、非立憲であったと思うが、日本国憲法には田中に制裁を加える力はなかった。

 

 もう一つは、歪められた歴史に騙されてはならない、ということである。

 田中の功績のほとんどすべては、誰かに使ってもらった時にこそ発揮されたものである。彼が頂点に立つと碌な事がないのである。その点で限界はあっただろう。

 少なくとも「日本を豊かにした高度成長期をもたらした政治家」としてはまず池田勇人を挙げるべきであって、田中角栄を池田勇人より上に位置できる理由を私は知らない。

 それでも、「角さんほどの大政治家はいない」との声も絶えない。これこそ本当か?(続く)
亡国前夜(5)―恐怖の超権力者 その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=153

 これからの三回シリーズ、特に歴史の知識がなくても、細かいところは「そんあものか」くらいで流すか、興味があれば調べるかしてください。大事なのは、歴史を語りながらも今に通じる論理を語っているところです。「今、我々が社会に不安を抱いている。その正体は何なのか。」その問題意識だけで良いです。知識は気にしないでください。



 「田中角栄こそ戦後最大の政治家」「その後、数々のミニ角栄が出現した」などと、今の日本の問題を考える上で錯覚をおこさせる間違った歴史認識がはびこっているので、これは正さねばならないと思ってきた。そこに今の日本を考える上での本質はないのである。田中角栄が歪めた「憲政の常道」を跡形もなくした政治家、しかもいびつな形で超越的な権力を掌握した政治家のことを我々は忘れていないか。

 本題の前に、田中角栄伝説の根拠は「高度成長期の政治家」である。時流に乗った政治屋でありその手腕が卓越していたのは確かだが、日本人を豊かにした功績において池田勇人以上に位置するとそれは過大評価になるはずである。ところが、池田は専門家の評価こそ高いものの、一般的な人気は、しかも自称専門家間の評価でも田中の方が圧倒的に高い。はっきり言えば、高度成長に対する貢献度で言えば、高度成長計画そのものを立案した下村治と池田に使われた田中角栄のどちらをあげるべきか、などという議論すら必要かもしれない。

 私も個々の事実を取り出して、田中の功績や実力を評価するのは吝かではないが、「では、他と比較して」という冷静さを失えば、かえって彼のすごさがわからなくなるのではと思っているのである。少なくとも、「戦後最大の政治家」でないことは確かであろう。

 佐藤栄作、田中角栄、竹下登の三人はそれぞれ自民党最大派閥を支配し、十年間の権力を維持した。では三人の内、握った権力が一番弱かったのは誰か。これは明らかに田中である。佐藤の場合は、政敵が次々と病死するという幸運に恵まれたのが長期政権樹立の最大の理由である。逆に田中の場合は、常に政敵が強かった。三木武夫・福田赳夫は生涯のほとんどにおいて政敵であった。失脚してからの復権に関しても、福田の敵失に助けられている面も大きいのである。田中の権力の絶頂は三木武夫の実質的引退以降である。それでもあの手この手を使いながらも最弱小派閥の河本派(三木派の後身)に抵抗勢力としての存在感を許しているのである。色々とデータを挙げて田中派の権力が弱かった点の立証は可能であるし、田中の主観的な心象風景は愛人にして金庫番が残した『佐藤昭子日記』でわかろう。むしろ田中のすごさは、自民党内反主流派や東大出身官僚(特に最高裁と検察など司法官僚)などをついぞ統制できないにもかかわらず、次々と総理大臣の首を挿げ替えながら延命措置をはかる手腕にあろう。それが哀れを誘うし、国民にとっては大迷惑な話であったが。

 では、竹下登はどうか。その「戦後最大の政治家」の派閥を丸ごと乗っ取ったではないか。しかも周到な計画を立てて極めて合理的に。十年間も田中は警戒心を丸出しにしていたのであるが、それをも乗り越えて「憤死」同様の状態に追い込んだのである。田中が佐藤派に対して同じことをしたときは、佐藤は「派閥をやめる」と公言しており、影響力は末期症状であった。田中は権力の絶頂を維持しようとしていた時期である。ついでに言うと、同じ事を竹下に仕掛けた小沢一郎は結局は敗れている。政争術において田中が竹下に優越している点を私は知らない。竹下は運にすら頼っていないのである。

 竹下登こそ戦後最大の権力者である。そして現在の日本の国難を導いた大悪人である。その罪、藤原道長や徳川家斉に匹敵しよう。私はこの三人を「恐怖の超権力者」と呼ぶ。

 
亡国前夜(5)―恐怖の超権力者 その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=153

藤原道長・徳川家斉・竹下登の共通点は三つ。一つは、武力を用いずに、無敵の権力を握った点である。道長の場合は、散発的に火付け強盗で鬱憤晴らしをする勢力は存在したが、そこまでである。「天皇家を乗っ取ろう」などと言い出さない限り、彼の権力は無敵であった。徳川家斉は「世の中をよくしよう」などという気がまるでないので、現状打破の際に生じる摩擦が存在しない。天保の改革を用意していた改革派も、家斉の死まで待たねばならなかった。

 二つは、この三人、何の政治的功績もないのである。竹下の消費税などはどんなに国民生活に影響があっても、行政事項であって政治ではない。家斉の文化文政の経済文化発展も彼の功績にはできないであろう。何もしていないのであるから。道長に至ってはそれらに匹敵する内容すらないのである。三人とも、権力の保持以外に何もしたいことがない、だから権力は強まる、という、「見た目の繁栄期、実は危機が忍び寄っている時代」に特有の政治家なのである。

 佐藤栄作や田中角栄は少なくともやりたいことがあって、その政策の終了や失敗が求心力の低下に繋がった。田中に至っては「裁判で無罪になりたい」と、慢性的に弱点を抱えているのである。ところが竹下はそのやりたいことがないのである。政策がどうなろうと、求心力が低下しようがないのである。

 三つめは、安全保障体制が崩壊しているのである。藤原道長の時は「刀伊の入寇」によって大宰府が女真族に荒らされたが、政権は何もしなかった。徳川家斉の時は「フェートン号事件」により長崎が英国軍艦に荒らされたが、やはり何もしなかった。竹下登の時は不審船やらテポドンやら色々な不審物が北からやってきたが、いずれにおいても総理大臣を支配していた闇将軍は何もしなかった。そして三人とも彼らの権力はまるで揺るがなかった。国を思う改革派は沈黙を強いられたのである。

 

 さて、竹下内閣はリクルート事件で世論の猛反発を浴びたが、一年も誰も倒せなかった。政官界のすべてを制圧していたからである。自民党は田中闇将軍時代と違い総主流派体制で、竹下への挑戦者がいない。野党は懐柔されており、共産党まで本気で退陣要求をしていないのである。官界では検察のみマスコミへのリークという手段を通じて抵抗したが、内閣総辞職こそが竹下の反撃開始であった、とは研究の常識であろう。

 田中内閣は『文藝春秋』での暴露記事露出後数ヶ月で退陣に追い込まれている。次の三木内閣の手によって逮捕にまで追い詰められているのである。復権までには四年(少なく見て二年)かかった。

 竹下退陣後は宇野宗佑・海部俊樹・宮沢喜一が、十ヶ月空いて村山富市・橋本龍太郎・小渕恵三、すべて竹下の意向により総理となった。田中が遂にできなかった「自分の派閥から総理を出す」を二代も行っている。田中の場合、竹下がいつ派閥を簒奪するかという不安があったので、不可能だったのである。田中には竹下がいたが、竹下には裏切れるような政治家はいなかったのである。

 この間、金丸信や後藤田正晴が実力者としてもてはやされたが、彼らが竹下に優越した根拠はなんだろう。金丸は大蔵省には何の影響力もなかったし、後藤田は議員に子分すら一人もいなかった。むしろ彼らは竹下権力の両翼では?

 そして竹下登が権力を握った一九九〇年代の十年間をすべてのエコノミストは何と呼ぶか。「失われた十年である」。つまり、今の格差社会は竹下登が作ったのである。これ以上の説明が必要であろうか。一つだけ述べよう。それが今回の主題である歴史歪曲である。

 我々は竹下登に向けるべき批判を小泉純一郎に向けていないか。

 確かに小泉改革には、経済政策に限定しても言いたいことは多い。しかし、経済政策に限定すれば、なおさら小泉改革は竹下の平成不況へのカンフル剤の役割だったのでは?ならばカンフル剤が正しかったか否かではなく、根源まで遡って問題を分析すべきであろう。



 
亡国前夜(5)―恐怖の超権力者 その3
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=153

ここまで述べてまだ世間では、「角さんは大物、竹下など小物」などと言われかねないが、
現在の政局は「竹下登の後の権力を誰が握るか」なのである。今こそ考えるべき政策は「竹下登が残した歪をどう正すか」である。

 藤原道長の後には後三条天皇から源頼朝に至る世界史に残る大変革を成し遂げた。この壮大な社会変革は簡単に語りつくせないが、後三条天皇の「粛清なき宮廷改革」や源頼朝の「簒奪なき構造改革」など、世界史にほとんど類をみないのである。

 徳川家斉の後には、天保の改革こそ失敗したが、改革の機運は止まらず、遂に幕末維新へと突入した。その後の明治維新の奇跡はご存知の通りである。

 では竹下登の後には?

 我々、生きている人間がやらねば誰がやる?

 そのためにも、(つづく)


注 次回予告部分を省略しています。
亡国前夜(6)―すべてを竹下登が決めた時代 その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=155

 中曽根康弘内閣は長期政権となった。最初の三年間は田中角栄の傀儡として。田中曽根内閣などと称された。最後の二年は、田中が倒れ、最大派閥田中派が分裂したこともあり、それなりの指導力を発揮した。「大統領型首相」などとイメージ戦略を打ち出していたが、実態は各派閥への根回しに奔走していた。もちろん最大の根回し対象は、田中派のほとんどを傘下におさめた竹下登である。

 吉田茂・池田勇人・佐藤栄作・中曽根康弘・小泉純一郎と、戦後の総理大臣は総選挙に二回勝った総理は安定政権を築いている。その任期のすべてにおいて安定していたわけではないが。

 中曽根も、竹下登大蔵大臣とその盟友(用心棒)である金丸信幹事長の協力で総選挙に勝利し、自民党総裁の任期を一年延長してもらった。これは小泉郵政解散の時も言われた話だが、国民が信任した総理を政党の都合で交代させるのは問題があろう。やはり、総理在任中は与党総裁の任期は数えないべきであろう。さもなくば、政党内の政権たらいまわしを認めることになる。

 現に竹下登もそのたらいまわしによって中曽根後継に就任した。しかも、候補者による話し合いの末、中曽根総裁の指名、という形で。当時のニュースでは「中曽根総理が竹下氏を後継総理に指名」などと流れていたが、この「」の部分、なぜそうなるのかをきちんと説明できる大人はあまりいなかったのではないか。形式的には、日本国憲法の規定に従って衆議院の首班指名選挙で選ばれるのであるが、その前に実質的に一部の政治家の談合で決まっているのである。しかも、中曽根の「裁定文」は、「安倍外務大臣を選びたかったの?」と思わせるような文言が並んだ後に「よって竹下登君がふさわしいと思います」である。

 竹下内閣は成立の由来からいかがわしかった。しかも、田中内閣と違い、強大な反対派閥は存在しない。「総主流派体制」などと称されたが、竹下の根回しとは、要するに通達である。野党に対しても同じことをするのである。ロッキード以来の疑獄事件と言われたリクルート事件で一年以上も世論の批判を浴び、消費税以下の支持率3%などと言われながらも、竹下が一番都合が良い時に辞めて、後任も自分の最も都合が良い人物に決めている。この間、野党も皆沈黙している。自分達もリクルート事件に関与していたのもあるが、竹下流国対政治に絡めとられていたからである。普段は元気な共産党までこの時ばかりはなぜか大人しかった。

 理解しにくいのであるが、この頃の野党は与党と談合して国会運営を行っていたのである。塩川官房長官など、「私は野党にお金を渡していました」などと公言していたのである。本気で政権をとる気のない野党ほど有害なものはない。田中角栄はこの種の工作費を「民主主義の必要経費」などと豪語していたが、その田中すら社会党・公明党・共産党の野党連合に衆議院解散に追い込まれているのである。竹下の野党対策の完成度や如何に。

 
亡国前夜(6)―すべてを竹下登が決めた時代 その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=155

さて、竹下が宇野総理を選んだ理由は大きく二つ。一つは自分に忠実であること。もう一つは、中曽根派の一代議士にすぎない宇野を選べば生意気な同派の分断になり、中曽根派の実力者の渡辺美智雄が宇野後継に名乗りをあげづらくなること。他にも当選回数が、序列が、などと色々あるが、いずれにしても国民の意思とはまったく関係がなく、竹下一人の都合である。 

 竹下唯一の誤算は、宇野が参議院選挙に敗北したことである。ただ、この時は竹下の与野党談合体制は健在であったので、竹下の権力が大きく揺らいだわけではない。それなりに打撃は受けたが。

 次に選んだのは海部俊樹である。彼を選んだ理由は(馬鹿らしいので省略)。ただ、この総理、政権交代直後に解散をして安定多数を獲得した最後の総理なのである。しかも時の小沢一郎自民党幹事長が「体制の選択選挙」などと銘打ったので、自民党か社会党か、どちらかを選ぶ選挙となった。惜しむらくは、社会党が全員当選しても衆議院で過半数に遠く及ばない候補者しか立てなかったので、何の実質もなかったことであるが。

 あまりの竹下派院政に他の派閥(代表は小泉純一郎を含むYKK)や、竹下派内で反感を持つ政治家(代表は小沢一郎)の不満は高まり、海部は退陣に追い込まれた。この時、「竹下派傀儡の海部政権を倒せ!」と先陣を切っていたのが小泉純一郎である。誰に言われて?竹下に言われてである。この人、1998年には竹下に命令されて総裁選挙に立候補したほどである。この辺りの話、政治記事に当時から普通に書いてあるが知らないか、忘れているだけである。ちなみに小泉さん、「竹下派」を攻撃して名を上げたが、「竹下登」は一度も攻撃したことがない。

 次に選ばれたのが宮沢総理である。この人、結局何もできませんでした。竹下のいじめに耐えかねた小沢一郎が竹下派を飛び出した(追い出された?)り、自民党そのものから飛び出した(追い出された?)り、だけが唯一の特筆すべき事例である。

 さてここで問題。小沢一郎は間違いなく勝算ありと見て戦いを挑んだのであるが、少なくとも竹下派内の派閥抗争には完敗した。なぜでしょうか。この答が重要なのである。これこそが、日本国憲法統治構造の最大の理由なのである。

 長くなりそうなので、この項、一旦終了します。今回の記事、自分で書いていてイヤになるほどつまらない歴史的事実が羅列されているのだが、しかし事実なのだから仕方がない。しかも、これほどの出鱈目が日本国憲法の規定に一切反していないのである。おそろしや。
亡国前夜(7)ー小沢一郎が負けた理由 その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=159

 小沢一郎が竹下派を追い出された理由と、細川・羽田連立政権が崩壊した理由は同じである。

 平成四年八月、自民党を倒す、その為ならば何をしても許される、と第五党を首班とする細川内閣が成立した。この内閣を牛耳っていたのは、小沢一郎新生党代表幹事(と市川雄一公明党書記長。もう忘れられた存在?)であり、二重権力と批判された。

 二重権力とは、連立与党の党首全員が閣僚になっている一方で、小沢らが構成する幹事長級の与党代表者会議とで意思決定機関が二元化した状態をさす。と、ここまではよく言われ、しばしば小沢の暴走が連立瓦解の原因であると指摘される。

 ただ、三重権力になっていたのをお忘れではないか。

 社会党からは山花委員長(右派)が政治改革担当相として入閣した。しかし、総選挙で議席を半減させた責任により委員長を村山富市(左派)に譲っている。つまり、社会党だけは党首が入閣せず、連立内閣の意思決定に参加しない状態を作ったのである。これを小沢が「体質の違う社会党を排除しようとした」と評されるが、仮に小沢の主観でそうだったとしても、客観的には社会党の拒否権集団化である。しかも社会党は責任を負わない。現に、政治改革法案は社会党左派の造反で参議院で一度否決されているのである。

 さて、細川内閣はなぜ潰れたのか。三人の人物を見ればわかる。

 一人は、この時点で小沢の宿敵と化していた梶山静六である。竹下派七奉行と呼ばれる政治家の中でも筆頭の実力者である。田中角栄は早くから「竹下は裏切る」と見越して警戒し、「竹下が裏切っても梶山が守ってくれる」と信頼していた親衛隊長である。その梶山が竹下を担いで造反したので絶望したとも言われる。

 誰もが認めるタカ派政治家の梶山が国対仲間の社会党左派の村山に接近し、早くから社会党の切り崩しをしていた。このように自民党保守系政治家が尖兵となって社会党左派に接近した事例は枚挙にいとまがない。保守系政治家の黒歴史である。

 二人目は、野中広務である。小沢を竹下派から追い出す時も細川首相の政治献金問題を追及する時も急先鋒である。青年団以来の竹下側近である。つまりは所謂竹下派七奉行よりも格上なのである。梶山が表の親衛隊長ならば、野中は裏の親衛隊長か。その野中が、竹下派分裂・自民党野党転落という危機に表に出て来た。

 三人目は、青木幹雄である。小沢は衆議院竹下派の多数を制圧したから竹下に対して勝算があると踏んだ。参議院など衆議院についてくると勘違いしたのである。確かに衆議院議員の数では辛勝したものの、参議院竹下派の多数は竹下に抑えられた。この時に竹下の意向を忠実に伝えたのが青木幹雄である。現在の憲法構造と選挙制度では、参議院を制するものが日本を支配するのである(この話は別に。)。青木こそ、竹下の真の側近であった。

亡国前夜(7)ー小沢一郎が負けた理由 その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=159

 要するに、小沢は竹下に負けたのである。まず参議院を切り崩され、首相を退陣に追い込まれ、衆議院を切り崩され。結果、竹下派を追い出され、連立政権を壊され。「参議院を抑えなければ勝てない、参議院さえ抑えれば盛り返せる」という法則である。現在の小沢さん、反省しすぎたのか、参議院の旧社会党左派をこれでもかと大事にしている。

 さて、細川内閣の後の羽田内閣では、組閣当日に社会党をはずして統一会派を作るという暴挙に出て、村山委員長に連立離脱の大義名分を与えてしまう。この頃の小沢、世間では横暴と言われていたが、私には何かに脅えていたようにしか見えない。普通は自民党を切り崩してから、社会党を切り捨てるだろう。手順前後のせいで自民切りくずしが難航するのである。

 この頃の東アジア情勢で重要なのは北朝鮮問題である。アメリカは核開発を阻止するために本気で戦争を考えていたが韓国も日本も乗り気ではなかった。それは、日本はこの有様なので。

 一説には、小沢は米国の要望にこたえる為に、親北朝鮮派の切り捨てに奔走していたとも言われるが、それにしても中途半端ではある。既に政界中枢では拉致問題が知られていたのに、なぜかこれを訴えていないのである。別に直接「参戦しましょう」などと言う必要はない。「国際貢献を」などと言うから、「あれはできるがこれはできない」などという日本国憲法に縛られた話しかできなくなるのである。「同胞を救う!その為に団結を!」と言った方がよほど大義名分として明確なのだが。国際情勢よりも竹下登との権力闘争を優先させた、が真相としか思えないのである。最優先課題の政策と政争は、優先順位をつけるものではなく、実は同じものなのだが。

 結果、社会党と自民党が結託することによって、小沢は苦節十五年の野党生活に追い込まれる。北朝鮮問題は有耶無耶に終結し、今に至っている。

 さて、問題。社会党に自衛隊・日米安保合憲以下、五十年の歴史全否定を飲ませたのは誰でしょうか。諸説ありますけど。

 教訓一。参議院が大事!(政争)

 教訓二。有事に日和るな!(政策・国際政治)
亡国前夜(8)ー竹下登と内閣法制局
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=161

 中村明『戦後政治にゆれた憲法九条 内閣法制局の自信と強さ』(中央経済社、一九九六年)によると、村山内閣組閣直後に、総理と大出法制局長官が二人きりで一時間ほど会談したらしい。その直後に村山は盟友の野坂建設大臣に「駄目だ。あいつらを敵に回したら政権は持たない」と漏らし、自衛隊・日米安保以下全部容認したという一幕があったらしい。

 社会党五十年の歴史を一時間で放棄させる内閣法制局。何者なのか。語りだすとそれだけで一冊の本になるのだが、最も大事なのは戦後の第三代長官・高辻正巳である。この人、佐藤内閣を通じて長官を務めた。つまり、法制局を護憲の府にした人である。最高裁判事を経て竹下内閣法務大臣に就任した。

 竹下登『証言保守政権』(読売新聞社、一九九一年)によると、予算がついた法律に対しても「憲法違反」との判断を下して、その政策そのものを無効にしてしまうのが内閣法制局である。
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=160
にて全省庁の上に財務省(主計局)があると書いたが、そのさらに上に法制局がいる構造が出来上がっているのである。「官僚機構」などという表現にも注意が必要であろう。

 たとえば小沢氏の法制局嫌いは有名だが、「議員立法の実質禁止」などと彼の言うとおりの政策を採れば、すべての法案は法制局の審査の下に置かれるのである。国会はその翼賛機関と化してしまう。小沢さん、わかって裏で法制局とつるんでいるとしたら相当のワルだが、わかっていないとしたら相当のバカである。私は裏情報などは知らないので判断しない。

 竹下と法制局の関係などこれからの研究課題なのだが、佐藤・竹下と法制局の蜜月だけは容易に想像できよう。ちなみに竹下は何かやりたいことなどないが、法制局は自分達の過去にやってきた歴史は守りたいのである。彼らの権力の源泉は「あいつらは法律に詳しい」なので、過去の言説との矛盾をつつかれるのだけは嫌がるのである。それに対して竹下には守るべき理念など何もないのである。

 日本憲政史の法則。「指導力に注目してはならない!拒否権の強さに注目せよ!」

 竹下と法制局が本気で対立するなど思い出せないが、この点でも何かしたいことがない竹下は日本国憲法下では無敵なのである。

 村山政権ではただひたすらすべてが行政的に処理されていく。社会党の歴史的転換は政治決断でもなんでもなく、お役所的ルーティンワークなのである。

 退陣に際して「憲政の常道に従い、自民党に政権を譲る」とはよくもぬけぬけと言ってくれたものだ。この一言で私は村山富市を絶対に許せない。単なる政権たらいまわしではないか。

 ついでに橋本内閣でもルーティンワークは続く。竹下元老の下で、役人の心太人事の感覚で、最も忠誠心が高かった橋本、しかも政治家にまるで人望がないので反逆能力ゼロだった橋本が宰相に就任し、何の国家戦略もなく、ただ目の前の情勢にだけ対処していく。

 こういう風に政治家が本来果たすべき「国家の方向性を示す」をやらないと困るのは誰か。真面目に仕事をしている役人である。自分達が必死になってやったことが、全部無駄になりかねないので。

 この時期に良かったことをあえてあげると、橋本龍太郎と小泉純一郎が争った自民党総裁選挙は良かったかなあ。まじめな政策論争だったし。

 政争においては、表の親衛隊長の梶山静六と、かつては裏にいたが表の世界でも台頭する竹下側近の野中広務の角逐が激しくなる。これが自民党政治を本質的に変えていくのである。
亡国前夜(9)―青木幹雄は神か悪魔か その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=162

 華々しく散って来い!葬式は盛大にあげてやる!

 よくよく考えたら、すさまじく無責任な励ましである。平成十年自民党総裁選に際して、江藤隆美が梶山静六に出馬を促した際の台詞である。で、江藤さん何をしていたかと言うと、テレゴングをひたすら押しながらテレビ世論調査の「首相になって欲しい人ランキング」で梶山の順位をあげていたという。・・・本人も竹下に追い詰められて何をして良いかわからずにせめてもの思いで、、、と述べている。何もしないよりはマシか。ちなみに江藤さん、カストロ&チャベスとのスリーショット写真を回顧録に載せるようなお茶目な方である。これをやってフジモリはアメリカ(オルブライト)によって失脚させられたのだが。。。

 あと、1998年は平成十年です。すみません。などと軽い話ではじめますが、以下はひたすら異様な話ばかりです。当時、私がウォッチングしながら感じた異変を御伝えできればと思います。なぜそんなウォッチングをしていたかと言うと、まあ事情があったのです。その辺りの記録は将来は国会図書館の「憲政資料室」で公開できるようにします。本当は当時の独自取材が山のように入ってる記事ですけど、一応公開情報のみを証拠としています。この長ったらしい記事の最後まで読めば何となくわかるでしょうけどね。



 橋本内閣は参議院選挙にまさかの大敗北。総辞職に至った。後継を選ぶ自民党総裁選挙には、小渕恵三・小泉純一郎・梶山静六が名乗りをあげた。永田町の常識では、大本命は小渕、梶山は泡沫と思われていた。ところが。。。

 さて、この時の総裁選挙、すべてが異様だったのである。まず週刊誌には「梶山以下三人の代議士がアメリカ大使館に呼ばれた」とか平気で載っていたし。梶山出馬は、細かい立証は省くが、田中角栄の権力樹立以来優勢だった北京派に対するワシントン派の最初の反撃、と考えて良いだろう。ちなみにこの場合は、ウルトラ親中派のクリントン政権中枢とか、前身のOSSの段階で共産主義者に乗っ取られていた CIAの如き無能者組織ではなく、国務省&東京大使館の意向と考えるべきである。

 55年体制は、98年を境に変質する。98年までは、三木武夫と竹下登が関わらない限り、相手を抹殺するまでやらない八百長なのである。98年以降は、加藤紘一が迷い出ない限り、相手を抹殺するまでやる真剣勝負である。

 平成十年総裁選では、実質的に竹下派(その頃は小渕派を名乗っていた)の属領と化していた旧河本派以外のすべての派閥が分裂しているのである。数が多いほうから以下。

 小渕派・・・小渕恵三(竹下直参)対梶山静六(を含めて3人)

 三塚派・・・小泉純一郎(竹下に命令されて出馬)対亀井静香(派閥分裂)

 宮沢派・・・加藤紘一(前橋本内閣で主流派)対河野(この時のみ「愛国心」を絶叫)

旧渡辺派・・・山崎拓(前橋本内閣で主流派)対村上正邦&江藤隆美(タカ派で有名)

 結果、小渕の当選は予想通りだが、梶山は基礎が三票なのに大健闘で百二票の二位。小泉は自分の派閥すら固めきれずに最下位と政治生命の危機に追い詰められた。なぜ?今後の歴史家の課題であるとしか言いようがない。三十年後に米国が公文書を公開すると相当のことがわかろう。

 さて、しばらくは小渕はひたすら根回しだけで支持率を上げていく。小渕の悪口を書くと、どんな無名のジャーナリストのところにも小渕本人から電話が来るのである。ただ根回しでも参議院の劣勢は回復できない。公明党も連立を要求してくる。そこで、いきなり宗教政党と手を組むと反発が強烈なので(実際に自民支持層が相当離れた)、まず自由党と手を組み、ついで公明党も引き込んだ。この時点での小沢一郎自由党党首は、竹下の軍門に下った姿勢で、内部から自民分裂を策していたのは確かだろう。

亡国前夜(9)―青木幹雄は神か悪魔か その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=162

 よく、「小沢との連立は竹下の影響力低下の証拠」「野中がNEC疑惑で竹下を脅して黙らせた」などとの解説を目にするが、嘘だろう。ならばなぜ竹下の葬式に財務事務次官が一人で駆けつけるのだ?確か島根まで行ってなかったか?本当に過去の人ならばそんな必要はあるまい。竹下の後継者の眼を気にしていたからの行動以外ありえまい。むしろ当時、野中がはしゃぎすぎて竹下に土下座させられる話が載っていたが、その方がまだ信憑性はあるか。この辺り、大宅壮一文庫に行く時間があればきっちり立証できるのだが。

 竹下の影響力低下の原因は明らかで、病気である。その結果、平成十一年十月五日、またもや異様な事態が発生する。青木幹雄官房長官の就任である。この速報を聞いた時、「永田町の権力中枢で何か異変が起きている」「とうとう竹下が裏の側近を表に出した」「青木は神か悪魔かのどちらかでしかない」と直感したものである。以後、内閣を青木が取り仕切るようになる。

 青木は学生時代から大学を中退してまで竹下の下に馳せ参じた側近中の側近であり、所謂「バッジをつけた秘書」である。彼の弟も竹下の秘書である。竹下派分裂騒動で、有能なメッセンジャーボーイを努め、小沢追い出しの最大殊勲者でありながら恨みを野中に向けさせていた。そしていきなり参議院からの官房長官登用である。こんあ経歴の人物が重要人物でない訳がない。

 そして小沢自由党党首が散々無理難題を吹っかけたあげく連立離脱をしたことで小渕首相が病気で倒れたことになる。しかし小渕が倒れた直後に普段は絶対に説明をしない小沢が事情は違うと言い訳する。その要旨は「自民・自由の同時解党による新党結成」だったそうである。小渕はそれを飲めずに苦しんだとのことである。

 小渕の「遺言」を青木が聞いたことになり、五人組が密室で次期森総裁を談合したことになる。今、世間に出ている情報だけでもこの一連の騒動をさりげなく動かしているのは青木であるとわかる。最大の証拠を挙げると、この五人組の談合なるもので「森さんで行きましょう」と宣言し、しかも続けて官房長官に留任しているのである。この過程で野中は追随している。

 竹下も小渕とほぼ同時期に他界する。権力の真空地帯が発生する。



 さて、当時考えていた「北朝鮮に拉致された中大生を奪還する条件」を本邦初公開。

一、大売国奴竹下が健在の内は、とにかく拉致問題の存在を日本中に広めるしかない。

二、竹下の側近でありながら実は面従腹背の実力者に、拉致問題の重要性を認識させる。

三、竹下死後の跡目争いに乗じて親中派を駆逐し、親米派政権を樹立する。

四、その時には、民主党の政策転換よりも共和党のしかも相当な親日政権の可能性が高い。

 つまり、●●が●●を担いで、●●や●●を総裁選で打倒するしかない、と考えていた訳です。ちなみに最初の●●が最も重要なのです。他の三つは入れ替え可能なので詮索自体に意味がありません。ついでに言っておくと、「村岡じゃねえ〜」が一時期の口癖。

 平成十年総裁選以降、親米派と親中派の対立と見ています。米国にも親中派がいるから困るのですが。永田町だけで永田町のことを決められない、それが日本現代政治の特徴です。
亡国前夜(10)―自民党はなぜ敗北したか その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=168

 自民党はなぜ敗北したか。講演などでは「鎌倉幕府が滅びたのと同じ理由」と述べています。ということは民主党政権は???

 さて、本題。

 自民党が敗北した理由としてまったく間違っているのが、「麻生太郎が漢字が読めなかったから」である。そんなものは単なる現象であって本質でもなかろう。

 翻って考えよう。池田勇人などは所信表明演説で「能ある猫はヘソ隠す!」と自信満々に述べて国会中の大爆笑を誘い、「君達、人が真面目に演説しているのになんだ!」と本気で怒ったので、さらに自民党も社会党も一緒になって笑いあったという逸話も残されている。

 では麻生と池田の違いは何か?麻生は慢性的不況(要するにデフレ)下の総理である。経済が上手くいっていない時にアホなことを最高責任者に言われたら国民は殺気立つ、というそれ以上でも以下でもない現象である。逆を言えば経済が上手く言っていれば笑って許されるのである。

 池田は高度経済成長を成功させた総理大臣である。戦後政治家の中で唯一、日本をどのような国家にするかという意味での国家観を描き、病気で退陣するまでほとんどすべてに成功しているのである。最も成功した池田の理念は、「日本は特別な金持ちなど居なくても良い。皆が真面目に働けば、皆が豊かになれる社会を実現するのだ」である。これは一時期「総中流意識」などと揶揄されたが、「ごく一部だけが特権階級、ほとんどすべてが下流」などという今と比べていかがか。もはやなつかしいを通り越して夢物語であろう。しかし確かに存在したのである。

 確かに池田には、吉田茂首相や石橋湛山蔵相のような優れた上司もいたし(もうひとり重要人物がいるのだが、それはいずれ論文か本にしたいので企業秘密)、

前任首相の鳩山一郎や岸信介は既に高度経済成長路線を走っていたし、そもそも下村治のようなブレーンの発案がなければ出てこない発想だが、それでも高度経済成長により、極端な金持ちは居ない代わりに極端な貧乏人は出さないという社会を築いた功績は、誰よりも池田勇人に帰すべきであろう。その後の自民党は池田の遺産を食いつぶしていたと断言できる。

 自民党が政権を維持できたのはなぜか。民主党登場以前は、野党第一党の座に日本社会党という、政権担当意欲が皆無な、政党と呼ぶのもおこがましい院内会派兼圧力団体が居座っていたから、国民はどんなに与党に不満でも現実的には自民党しか政権の選択肢がなかったからと言える。ただこれだけでは、自民党が時々大勝した理由が説明できない。そのような消極的な理由だけなら、自民党も社会党も両方とも目減りしなければならないが、社会党だけが一方的に減退しているのである(例外が土井たか子のマドンナブーム)。

 昭和五十一年のロッキード三木おろし選挙が「支持政党なし」のいわゆる無党派層が発生したとされる。これ以降の12回の衆議院選挙で、10回は無党派層の動向で風が吹いたと言われる。つまり、世論の風により勝者が決まっているのである。自民党は5勝5敗である。

 内訳は、

三木・・・ロッキード事件と三木おろしへの反感で大敗。新自由クラブ躍進。

大平・・・一般消費税導入発言への反発でさらに大敗。伯仲国会に。

大平・二回目・・・大平の死への同情票で大勝。

中曽根・・・田中角栄有罪判決で大敗。伯仲国会で新自由クラブとの連立を余儀なくされる。

中曽根・二回目・・・衆参同日解散を断行し大勝。

海部・・・社会党政権への不安を煽りまくり、議席は減らしたが安定多数を獲得。

宮沢・・・政治改革解散。新党ブームで大敗。野党転落。

(橋本・・・特に風なし。与党を確保。)

(森・・・意外と風が起きず。与党を確保。)

小泉・・・小泉ブーム。大勝。

小泉・二回目・・・郵政解散。史上最高の大勝。

麻生・・・政権交代選挙。民主に大敗。

 

亡国前夜(10)―自民党はなぜ敗北したか その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=168

 そもそも自民党とはどのような政党か。社会党ではなくて自民党でなくてはならない理由はなんだったのか。

 これは私の独自の説ではなくて、浜田幸一という政治評論家が言っていたのだが、自民党の存在意義は「富の公正配分をすることにある」だそうである。これと同時に、「自由主義陣営の一員として日米安保条約を守り云々」となるのだが、それは如何なものか。池田の死後の佐藤内閣では、主権国家としてまともな国防政策をやめているので。

 つまり、自民党は経済が元気で、利権を配れる以上は政権政党でいられたのである。上で言えば、中曽根内閣まではバブル期で何とかできているのである。闇将軍と言われた田中角栄の本質はアメである。ムチを与えようにも、三木武夫や検察庁に塀の中に落とされた田中が生き残るにはアメを与え続け、自民党内に巨大派閥を維持し続けなければならなかったのが実情である。私は田中角栄という政治家に、特に総理就任後に関しては、むしろ哀れを感じる。

 一方で失われた九十年代は竹下支配の時代である。配るアメがどんどん縮小していく時代である。島根県の人間なら誰でも知っている話だが、別に竹下に政治献金をしても利権にありつける訳ではない。ただ支持しないと絶対に排除されるだけである。自民党と圧力団体の関係もこのようになっていく。自民党に勝てる政党が登場するまではこのような状態が続くのは必然であろう。竹下登の本質はムチである。私は竹下登という政治家に、悪魔性を感じる。

 竹下登は十ヶ月だけ権力の座を譲り渡したが、死ぬまで権力を手放さなかった。確か島根の、竹下の葬式に財務事務次官が駆けつけていなかったか。そんなの竹下の継承者への忠誠の儀式でなくて何か。(この辺り、政治評論家の渡辺乾介がこれでもかと描写していた)

 それでやったことは?失敗し続けた経済政策?

 できあがったのは?あと一歩でとりかえしのつかない格差社会?

 大体、マネーサプライ(市場に出回らせる通貨の量)を十五年いじらないって、どういうことだ?つまり、ペーパーマネーが希少品になるから価値が上がって、ということは手に汗流して働くことの価値が下がることでは?それは博打みたいな人生をやってたまたま当ったIT長者だけが得をするという社会の到来では?

 今の慢性的経済不況を小泉改革の責任にする人が多いけど、根本的には竹下の責任では?

 小泉時代の経済政策に関してはただ一言。中途半端なカンフル剤!それ以外で本質的に付け加えることがあればご教示ください。


 それにしても、民主党政権。格差社会を少しでも良くする気配、皆無ですな。日本の富を同増やし、どう配るかに関して、何かを考えているようにも思えない。自民党もだが。

 そもそも自治労って政府に寄生しようという集団なので、公正などという概念が無いからなあ。池田勇人が「富の公正配分」「総中流社会」のようなことを考えたのは、訳のわからない社会主義者に日本を食い荒らされないためでもあるのだから、単に経済政策を超えて、思想戦とか安全保障政策の意味でも意義があったと思う(この辺りは、日本の地政学の普及者である倉前盛通先生も「池田にはグランドデザインがあった」とおっしゃられていた)。

 特定の老人が若者を搾取する社会、いい加減に断ち切らないと。

 ついでに外国人参政権にも一言。

 若者は選挙権や被選挙権がありませんし、公務員の地位にもありません。一方で、特定の在日外国人も同様ですが、特定の日本の政治家に巨大な影響力を行使しています。例えば、政治献金をしたり、選挙でタダ働きをしたりです。

 日本の若者が何もしないと、彼ら日本を乗っ取りたい人に二度と逆らえなくなります。まずはできることをしましょう。とりあえず、この砦を毎日見て、書き込みをして、一人でも多くの人に伝えましょう。参加できるイベントには全部参加しましょう。そこにどれだけの若者が集まっているか、本気で国を思う若者が集まるだけで、大人たちの見る眼が変わります。

 老人達が無茶苦茶にした我が日本!守るのは青年です!

 最後に吉野作造の口癖。

「時代を動かすのは常に青年である!それはいつの時代、どこの国家でもそうである!」 
亡国前夜(11)―小泉改革の光と影 その1
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 今回の主題は「親米は悪で売国奴か」である。

 森喜朗総理には資質が欠けた。新聞の首相動静欄は「今日の失言」と化していた。しかし、本人が辞めると言い出さない限り辞めなくて良いのが日本の総理大臣である。加藤紘一というピョートル三世を超える人類史上最大のヘタレが「加藤の乱」なる珍騒動を起こしたが、野中広務幹事長の「不信任案を可決してみろ。解散総選挙で勝負だ!」との恫喝に屈してしまい、テレビの前に釘付けになっていた日本中のサラリーマンのおじさんを腰砕けにさせた。この黒幕は青木幹雄だと言われたが、まさか誰にも根回しせずに酔っ払った勢いで宣戦布告し、テレビの前で恫喝されて屈服するなどとは予想もしていなかっただろう。

 それはさておき、消費税率か森内閣の支持率かということで、これでは数ヵ月後に控えた参議院選挙は戦えないとの空気が蔓延し、総理の森も「自分の一番都合が良い時期に都合が良い人物に譲ろう」などと考え始める。で、総辞職後、総裁選挙を行うことに。
 その頃の表向きの派閥とその内情は?

橋本派・・・野中広務副会長vs青木幹雄参議院幹事長
 竹下の跡目争いですさまじい暗闘。野中は派内の支持が得られず、橋本龍太郎会長が出馬。

 森派・・・小泉純一郎会長擁立で一枚岩。
 ついでに加藤の乱で冷や飯の加藤紘一派と山崎拓派も従える。実は基礎票が一番多かったのが小泉。

堀内派・・・古賀誠幹事長vs堀内光雄会長
 古賀は野中の最側近。小泉は堀内を切り崩す。結果、総裁選挙では自主投票に。

江藤・亀井派・・・亀井静香が出馬。弟分の平沼赳夫出馬説もあった。
 結果的に総裁選挙を降りて小泉を支持して騙される。

河野派・・・河野洋平&麻生太郎
 最初は親中派河野擁立もあったが、親米派麻生が出馬。とりあえず候補を立てて派閥を結束させることはよくある。

高村派・・・高村正彦
 麻生を支持。事情は河野派と同じ。大島理森とか野田聖子擁立の話もあった。

 以上、各派とも米中代理戦争の様相を呈していたのである。平成十年総裁選と同様に全派閥が分裂などということにもなりかねなかったのである。

 さて、当時のマスコミは「最大派閥の橋本圧勝!」などと言っていた。私はどこをどうつついても小泉が勝つようにしか見えなかったが。

理由一。その最大派閥が分裂していた。
 当時の新聞、特に五大紙よりもタブロイド紙の『夕刊フジ』と『日刊ゲンダイ』を比べるとわかるのだが、野中の本音は最大派閥の支持+古賀派(堀内派)の支持で出馬したがっていたが、青木はかつての梶山のような「追い出し出馬」に追い込もうとしていた。

 例えば以下のやり取り。通訳つき。
野中「私の出馬は200%ない」・・・皆が推す状況を待つ。
青木「野中さんの出馬は300%ない」・・・誰がお前なんか推すか。出て行け。
野中「私は200と言ったが、300とは言っていない」・・・ふざけるな。今の権力者は俺だ。
青木「野中さんは健康に気を使い毎朝体操をしてしる」・・・お前の弱みなどいくらでもばらす。

 橋本派の幹部の中で野中以外誰もまじめに活動していなかったのだから。村岡兼造など選挙の途中で橋本を候補から降ろす算段をしていたほどで。

理由二。議員も党員も、選挙に勝てる候補でなければ総裁にしない。
 民主党は昔の社会党と違い、政権奪取能力があるのである。領袖の談合だけで総理を決めて負け犬になりたくないのである。国会議員にとって選挙は死活問題である。小泉・橋本(・亀井・麻生)の中で、選挙に勝てる候補など小泉しかいないではないか。

 しかも前述の如く、実は国会議員の基礎票が最も多いのである。各派閥への切り崩しも大成功。党員票では圧勝。森総理が「党員票を三倍に数えろ」とか押し通したが、それ以上に橋本派の分断に成功。

 他にもあげれば色々あるが、とにかく圧勝。参議院選挙でも勝利し、安定政権を築く。
 私が考えたのは「三木おろし以来三十年ぶりに親米派の勝利」「小泉政権のうちに拉致問題を動かさねば」だった。三木の軍師で小泉の指南役の松野頼三も本懐だっただろう。
 小泉は三木武夫的に「親米」「世論に訴える」「反官僚の旗」「変な金の集め方をして足元をすくわれないようにする」をやりながら、田中角栄的に「自民党内多数派工作」「財務省は敵に回さない」「総裁選挙・総選挙で勝利する」を実行しているのである。


亡国前夜(11)―小泉改革の光と影 その2
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 再選の際も、何だか変に「小泉あやうし」みたいな意味不明な報道があったが、当時のマスコミ本気だったのか?嘘だとわかってやっていたのか?そんな報道をした人たち、馬鹿か嘘吐きである。では誰が代わりに総裁総理になったのか?亀井?少し考えればわかる話だったのだが。

 さて、小泉政権が安定した四つの理由。
一、米国ブッシュ政権との強固な同盟。・・・桂太郎とテディー以来だった。
二、財務省の全面支持。・・・小泉も青木も大蔵族。「郵政三事業」「財投黙認」は大蔵歓喜。
三、参議院の安定。・・・人事でやりたい放題やった小泉も、青木の閣僚推薦名簿は丸呑み。
四、世論の支持。総裁選挙と衆議院総選挙で小泉は全勝。

 以上の条件の下で、連立を組む公明党も追随した。

 さて、小泉改革の光と影について二点。政治改革と対外政策について。

 政治改革は一時的にかなり進んだ。(もはや跡形もないが)
「憲政の常道」からすれば、総選挙に勝利した与党第一党の総裁を、衆議院総選挙で国民が承認した形ではある。しかし、期間が開きすぎていた。
 特に、二度目の総選挙では、一年後の総裁(つまり総理)引退を宣言して解散している。後を継いだ安倍内閣がああなるとは思ってもいなかっただろうが。
 現行憲法の条文を一切いじらないなら、参議院選挙と衆議院選挙を同日に行う慣例にするべきだと思われる。
 総理任期中は与党総裁の任期を数えない、という党規も必要だろう。(今の民主党でそれをやれば大変だろうが)

 なお、それまでは当選五回以上(当選から十五年)で大臣だったのが、当選三回(当選後十年)でもなれるようになった。これは特筆しても良いであろう。

 対外政策では親米政策である。それが気に入らない自称ナショナリストも多いようだが、ではもう一つの選択は親中しかないのだが、それで良いのか?
「親米でも親中でもない自主独立」など今すぐやろうとするなら、チトーなみの覚悟がいるが。
そういうことを今すぐやれと主張する人は、「日本人同士の殺し合いをやれ」「人口の一割くらいの出血を覚悟しろ」と堂々と言うべきであろう。
 私だって、心の底からアングロ・サクソン崇拝の屈米ポチなど汚らわしいが、戦後日本には他に選択肢がないではないか。

 郵政民営化が米国への売国政策だと百歩譲って認めよう。真偽などどうでもよいと思っている。官庁の利権争いに外国が介入しようがしまいが。はっきりいってくだらないことで、賛成派も反対派もこんなことに政治生命を懸ける時点で、ものの優先順位がわかっていないのでは?と疑いたくなるような、はっきり言えば瑣末なことである。
 では、天下国家の本質論をしよう。それまでの田中・竹下派の親中はどうなのか。政治とは究極の選択である。

 まだイラク戦争に足をとられていない米国の後ろ盾があったから、小泉訪朝で五人の被害者とその家族が帰国できたのではないか。「小泉が馬鹿で無能だから五人しか」と言うのは勝手である。ではその前と後は?

 何より、「九.一七」で日本人は怒ったではないか。相当数の日本人が、実は平和と人権を説いた戦後民主主義など大嘘で、周辺諸国に脅され、謝りながら生きているに過ぎないのだと気づいたではないか。
 もはや「九.一七」以前の日本がどういう精神状態で如何に悲惨な言論状況だったかを忘れているのではないか。人間とはそういうもので、それを忘れずに記録、再現するのが歴史家の使命なのだが。

 ただ、この小泉政権の際にも永田町で勝っていただけである。拉致を金正日が認めてからの、日教組の「でも戦争だけは絶対に良くない」教育がいかにすさまじかったか。教師のはしくれとしてそれは実感したものである。

 愛国心に燃えるが難しいことはわからない小泉総理を、「女系天皇こそが忠臣の道ですよ」などと洗脳した連中の手口も恐るべしである。私は女系天皇には断固反対だが、小泉総理の愛国心は否定しない。
 その意味で小泉家は四代続けて真人間の家系である。特に二代目の純也元防衛庁長官の英雄的な功績は国史に刻むべきだと思う。純一郎だけが突然変異だとは思わない。ただ、「郵政法案も読んでいない」と公言する方に難しい話がわかると思わないので、やはりそこに付け込まれたと考える。

 目的は皇統保守、手段は親米から自主独立を考える私としては、この時機に敵が如何に反撃の機会を伺っていたかを検証すべきだと考える。それが今の愛国保守のなすべきことでは?

 言うなれば、文化闘争である。(文化大革命はやっては駄目)
亡国前夜(12)ー世にも不思議な物語
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 ハマコー曰く。
 小泉内閣恒例のサプライズ人事で、武部勤が幹事長に。
 次期総理候補筆頭の安倍晋三は、参院選挙敗北の責任で幹事長代理に降格した。

 その時の小泉が武部に言い聞かせたこと。
「武部よ。君は細かいことだけやってくれればいいよ。
 大事なことはみんな安倍君がやるから。」と。

 これ、本当の話?
 難しい話が苦手な人はここまででお休みして、気力と体力が充実した時に以下の本題を読みましょう。



 さて本題。平成十七年の話である。
 小泉純一郎総理が政治生命を掲げる郵政民営化法案は、大量造反にも関わらず、衆議院は五票差で通過した。小泉は躍りだすように戦況を眺めていた。

 しかし、参議院が否決した。
 自民党の造反である。この時、青木幹雄参議院会長と片山虎之助参議院幹事長は、見越したように談笑していた。

 過去、散々小泉をいいように使ってきた森前総理は「干からびたチーズ」を片手に、カメラの前でぼやくという道化役をやっていた。

 亀井静香ら、造反派は怪気炎を挙げていた。
「これで解散なんかできやしない。総辞職だ!」と。

 ところが、小泉は「郵政民営化法案への造反は内閣不信任案と同じである。」と、衆議院解散の姿勢を示した。
 亀井らは「衆議院が賛成して、参議院が反対したら、衆議院を解散するのはおかしい」と吼えた。
 おかしいのは小泉の姿勢ではなく、日本国憲法の参議院規定である。
 拒否権集団の横暴に際して、内閣総理大臣は一度だけ国民の信を問うことができる。
 これが「憲政の常道」である。。

 英国でも先例がある。貴族院が「衆議院の優越」という憲法慣例に違反した際、時のアスキス首相は衆議院を解散。民意の所在を明確にした上で、貴族院と対峙して勝利した。

 あらゆる政治上の解決は、衆議院総選挙により最終的に決着させる。それが議会制民主主義である。
 しかも、総理は国民に理由を説明した。
 これで許されないならば、第二院(参議院)は何をやっても許されることとなる。
 憲法学者の中には郵政解散を憲法違反と叫ぶ無知蒙昧の輩もいるようだが、あれこそ日本国憲法の欠陥に対する挑戦である。

 この時の小泉総理に小ピットを髣髴させられたのは私だけだろうか。私だけだろうな。
 二十五歳の青年宰相・小ピットは政権発足当初、巨大野党に対して勝ち目がないと思われながら解散総選挙を断行し、約二十年の長期政権を築いた。

亡国前夜(12)ー世にも不思議な物語 その2
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 ただし郵政解散は、法律論としてはまったく正しい勇気ある行為なのだが、政治的には定跡外れの行為である。
 数ヶ月間の準備で、しかも解散してから候補者を集めるような選挙で勝利はできないのである。しかし、成功した。なぜか。理由は以下。

一、「小泉劇場」「ワンフレーズポリティクス」の集大成。・・・「約束は守る」「信念は曲げない」という小泉首相のわかりやすい姿勢が支持された。
二、小選挙区制なので、「風」次第で、大勝も大敗もありうる。・・・中選挙区制(大選挙区単記制)などというこの世で最低の選挙制度との違い。
三、技術的な成功・・・一ヶ月の選挙期間を置いて、小泉支持派の浸透に成功、武部が何も考えずに特攻、など。
四、小沢一郎が失脚中・・・年金未納というくだらない問題。いっちゃん、選挙だけは強いがこの時は無力化。
五、死神・・・自治労・日教組などという無能者集団に依存した岡田代表が何も出来ず。

 大事なのは、「五」である。
 勝負事の「悪手を咎められない悪手は最も罪が重い」の法則で考えよう。いくら定跡外れの悪手でも、相手がそれを咎める能力のない無能者ならば、その悪手は絶好手になるのである。
 解散前は「小泉さん、どうする気だろう」と思っていたのだが、直後に確証を得た。小泉は「自治労・日教組のような死神など、必勝の信念で戦えば蹴散らせる」と確信していたのだろう。しょせん、単体では寄生虫にすぎない自治労・日教組ごとき無能者集団など、小泉の号令で戦闘集団と化した自民党の敵ではなかった。これは「実戦心理」に基づく「勝負勘」があった、としか説明できない。相手が弱ければ、最善手を読なまくても良いのである。

 そして、自民党は大勝。郵政法案などという、どうでも良い法案は通過。
 小泉は、安倍晋三に総理を譲る。事実上の禅譲である。一応、自民党総裁選挙があって、「麻生対谷垣、第二代・最後の自民党総理争奪戦」を繰り広げていたが、瑣末な話。

 さて、ここからが奇妙な話の開始である。
「戦後レジーム」の脱却を掲げる安部総理に対して、『朝日新聞』以下、というか『産経新聞』以外の大新聞は総攻撃。安倍さん、短期間でかなりの実績を残している総理なのだが、これでもかと攻撃され続けた。
 何が悪いって、公務員改革に手をつけたからなのだが。まじめな叩き上げノンキャリア官僚出身の井上義行氏を首相秘書官に据えた時点で、霞ヶ関の官僚機構全体を敵に回していたのだが、さらに「キャリア官僚制廃止」に着手したのである。
 ここに、「特権官僚&自己認識インテリマスコミ&腐れサヨク」の対安倍内閣包囲網が成立した。

 で、小泉が事実上引退するのと入れ替わりに、選挙技術にだけは卓越した小沢一郎が民主党を乗っ取ってしまう。そして、平成十九年参議院選挙では自民党を歴史的大敗に追い込んでしまう。
 この際の権力基盤は自治労と日教組である。
 参議院選挙大勝の夜、小沢代表の姿が消えた。それはいつものことだが、いつもの「小沢遊び」の雰囲気がまったくなかった。誰に呼び出されていたかは知らないが。
 民主党に戦勝空気はなく、議席的には大敗のはずの共産党と社民党がはしゃいでいた。

 いつの間に、かの無能者集団の自治労と日教組がこんなに実力をつけたのだ?

 今を読み解く原点である。
亡国前夜(13)―歌手一年、総理も一年の使い捨て その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=363

 安倍総理は内閣改造で乗り切ろうとした。しかし、またもや農水大臣のどうでも良い不祥事発覚。こんなの、×××××××(略して××)を使いこなせなかったかサボタージュされたかしか理由がない。
 こんな状況で総理が体調を壊して退陣。

 ちなみに安倍政権が参議院選挙敗北、退陣に追い込まれた理由を列挙。

 政権発足前に井上義行秘書官を登用し、全官僚機構(というかキャリア)を敵に回す。日大夜学⇒ブルートレインの運転手⇒まじめすぎる働きが安倍さんに認められて登用、という経歴そのものが許せないらしい。ましてや総理側近として頭を下げる相手になるなんて耐えられない。
 政権発足直後に「戦後レジームの脱却」などと宣言したので、あらゆる敗戦利得者を敵に回す。
 ところが、表向きはタカ派評論家で通っているが、本性は日和見サヨクなどころか本物の×××である××××の口車に乗って、中途半端に「最初に中国を訪問しよう」とか、「村山談話の継承」とかをしてしまい、自分がどこまで何をするのか見失わされた。ついでに言うと、いっしょにブレーンをしていた善良だが頭の悪い ××××は「政権をとったからといきなり何でもできる訳ではないのだ。これくらいが丁度よいのだ」などと哀れなことをのたまわっていた。
 組閣では根本的には官房長官と幹事長人事以外は間違えなかったが、大臣のくだらないスキャンダル(と呼ぶのもおこがましい醜聞)が針小棒大に報道される。
 以上、中途半端に色々な人の逆鱗に触れた安倍政権に対して、腐朽官僚と官公労(自治労・日教組)の大包囲網が成立。
 ここで渡辺喜美行政改革大臣が、「キャリア官僚制廃止」というタブー中のタブーに言及。全面戦争開始。戦っている内に安倍総理も本気になって政策課題を次々とこなすは良いが、「お友達」連中が無意味に神経を逆撫でして、総理の神経が磨り減る。。。
 そこへ降って沸いた大臣達の不祥事連発。戦後レジーム擁護マスコミが狂喜乱舞。
 以上、収拾不能に。

 そこで名乗りをあげたのが、福田康夫。私の元・上司の上司の・・・・・・上司です。

 一言で言うと、第一印象最悪。ただし、そこを耐えればいい人、です。証拠は、福田康夫・衛藤征士郎・明石散人『一国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ』(ベストセラーズ,2005)のあとがきをどうぞ。明石さんの立場が、、、それを読むのもイヤと言われたら知りません。

 拉致被害者への対応がひどかったのもその文脈で理解できるでしょう。家族としてはたまったもんではないでしょうが。(この話はややこしすぎるので、これで終了)

 この人の経歴を思い出しましょう。
 亡国前夜の主題の一つが、「永田町は米中代理戦争の舞台」でしたが、親米派の反撃第一弾が福田官房長官就任でした。
 安倍官房副長官が「核武装」発言をしたら、かばうだけでなくさらに「非核三原則否定発言」をした官房長官です。

 拉致問題の母こと中山恭子さんを担当に送り込んだのも福田長官でした。

 少し話は変わりますが、小泉政権初期に「石原新党」の掛け声がありました。小泉政権(というか総理個人)に不満な勢力への受け皿として常に語られましたが、それに乗ろうとした政治家は皆、不遇でした。野中・亀井・平沼・・・。
 つまり、「バスに乗り遅れるな!」と掛け声をかけて、本当に乗りに来た乗客を蹴り倒すバスです。地獄行き幽霊バス?というか、不満分子のあぶり出しの為の八百長ですね。

 安倍官房長官が総裁選挙に出馬しようとした時も福田氏は、親中派が必死に担ごうとしたのを、これでもかと思わせぶりな態度をしておいてギリギリまで粘りながら、土壇場で不出馬を表明。親中派は谷垣などというどうしようもない候補に走らざるを得ず壊滅。(何でこんな二番煎じのミエミエの手口に引っかかることができるのだか。。。)

 で、福田氏自身が総裁選挙に出馬した時も、安倍内閣の敗戦処理。
 安倍さんと本気で仲が悪いならどこまでお人よしなのだか?

亡国前夜(13)―歌手一年、総理も一年の使い捨て その2
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 では、安倍・福田が米中代理戦争?私は八百長ならもう少し上手くやれ、と見てましたが、「嘘も百回言いはれば真実になる」の法則通り、政官界のかなりの人が信じてしまいましたけどね。この法則は良く知られていますね。では、真正保守の人には覚えておいて貰いたい法則。

「中国人は弱みを握らせてくれない人間は絶対に信用しない!」

 中国からしたら、どれだけ口先で友好を唱えても、弱みを握らせてくれない福田康夫など信用できるはずがありません。「福田氏は親中国派じゃない」と 2007年9月25日の『重慶日報』で中国国務院シンクタンクの楊進博士が指摘した、という記事をどこかで見て(確か『産経』かな)確信。ついでに特記。

 しかも『朝日新聞』は全然福田内閣を支援しませんでしたね。もはや民主党による政権交代路線まっしぐらで。(『朝日新聞』は赤でも左でもなく「流行通信」なのでこういう時に便利)

 ちなみに福田内閣高村正彦外相は、外交的に連戦連勝でございます。本題からはずれるので一言だけ。高村外交をとやかく言う人多いですが、そういう方は是非とも私に、

高村外相のマケドニア政策に関して知らない事を教えてください。

 難しいですか?ではアゼルバイジャン政策で?
 それも無理?

 ならば大幅に譲歩して、河野洋平外務大臣の法律音痴に付け込んで、アルベルト・フジモリ元ペルー大統領を保護した法相はどなたでしたか?

ということで、福田政権の本質は

 最大限親中派を装った、

 最後の親米政権!

 ちなみに、本日付のウィキペディアを見てみたら、驚くばかりの親米タカ派政策が並んでおります。小泉政権よりもタカ派なくらいです。要するに「相手が困ることはしない」などと目くらましをしながら、困ることばかりしていたのです。少なくともしようとしていたのですね。

 で、福田総理は小沢一郎民主党に「大連立」を持ちかける。
 世間では読売新聞の偉い方が黒幕だそうで。実はこの大連立騒動は二回目で、一回目は誰も相手にしていませんでしたね。でも、×××××が同意した瞬間に話が一気に進みましたね。(ベタ記事でしたけど)
 大連立騒動とは何だったのか?

小沢一郎への一本釣り!

 要するに党首ごと引き抜いて、ねじれ国会を解消しようとしただけです。だから小沢代表が話を持ち帰ると、「なぜ持ち帰ったんだ?その場で断って来い!」などと理不尽な言われよう。しかも代表を辞めさせてもくれない。
 間違いなく福田総理、「小沢さんともあろうお方が、自治労・日教組如きの風下に立つのはおかしいでしょう?」くらいの内容は言っていないはずがない。

 しかし、念願の単独政権を夢みる自治労・日教組が自らの奴隷である小沢を放すはずがない。
 かくして万策尽きた福田は、自民党の議席減を最小にするには、世論調査で人気の高い麻生太郎を総理にして、支持率が下がらない内に解散総選挙に打って出るしかないと突如辞任。
 以後一年間、何も語るべきマトモなことは無くなる。

そうそう、この時の菅直人民主党代表代行は良いことを言っていました。
「総理が代わったら衆議院を解散して、国民の信を問うべきだ。
さもないと単なる政権たらいまわしだ!」と。
 実に良い言葉ですね。これを

憲政の常道

と申します。

亡国前夜(13)―歌手一年、総理も一年の使い捨て その3
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 ところで、麻生太郎?せっかく福田首相以下清和会が自民党の敗北を最小限に抑えようと総理にしたのに早期解散せず。
 以上の一事を以って、語るに値せず。
 え?真正保守の総本山では?

 就任五日で中山成彬国交大臣が「日教組批判をした」と馘首された時点で自由主義の敵です。
 田母神騒動では内心の自由にまで踏み込み、蹂躙しましたね。近代主義の敵ですね。
 なぜ政権与党が野党の弾圧に屈するのだか。後世の歴史家の高笑いが聞こえてきそうですね。
 ついでに、最近は経済政策に関してリフレをしましょうとか正論を言っていますが、この人こそ総理の時になぜまともなことを何一つやらなかったのだか?それどころか、やはり民主党の圧力に屈して、白川方明を日銀総裁にしました。


 ネット論壇では麻生元総理の人気高いようですけど、私その全てに反論できますので。
 しばらく更新はするでしょうけど、締め切りが集中する一週間で気が立っています。
 それでもモノが言いたい人は反撃覚悟でレスをどうぞ!
(「潜ります」と宣言すると必ず嫌がらせのように喧嘩を売られるので、こういう表現にしました)

 とにもかくにも、以上の歴史を踏まえれば、下記の記事の意味も読み方が変わってきますね。

 福田元首相「輿石氏こけたら、小沢さんは、やりようなくなる」 
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100520/stt1005202005013-n1.htm

 さて、いよいよ次回は最終回。実は一番最初に書いていました。
亡国前夜(最終回)―マッカーサーこそ日本民主制の癌 その1
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=366

これまでのあらすじにして総集編

 昨年の衆議院選挙の前から、本日の参議院選挙次第で日本は滅びる、と言い続けました。
 日本人のほとんどが忘れているでしょうが、昨年今頃は
「自民党でなければ誰でもいい!漢字が読めない麻生首相はイヤ!」
「マニフェストに基づく政策本位の選挙が日本にも根付いた。」
「官僚の言いなりの自民党ではなく、一度は民主党にやらせたほうがよい。」
「ようやく選挙による政権交代が起き、日本にも二大政党制がはじまった。」
などと狂奔していました。
 

 日本人は何と歴史に学ばない民族であろうか、いや、そうなってしまったのか。
 その問題意識が「亡国前夜」もそうですし、この「砦」をはじめたきっかけです。

 昨年の民主党による政権交代のみならず、戦後民主主義そのものが外見的民主制にすぎないのではないか。歴史を通じて検証しようとしたのが、「亡国前夜」シリーズです。

 自民党は、池田勇人のような卓越した才覚を持ち、かつ憲政の常道を守った総理大臣を輩出しました。しかし、その池田の残した高度経済成長の遺産を食い潰してきただけでした。
 では長くなぜそれができたのか。政権を担う能力のある責任政党が自民党しかなかったからです。
 日本社会党は、陛下の野党では決してありませんでした。
 民主制は、陛下の与党だけでなく、陛下の野党が存在しなければ成立しません。
 決して政権を担当しようとはしないが、拒否権だけは行使する社会党の存在が自民党を腐敗させました。
 平成不況でもはや自民党が存在価値を喪失した時に登場したのが、日本社会党の後身である民主党です。
 ところがその民主党は陛下の与党でも、国家本位の政党でもありませんでした。
 この期に及んでも、外国人参政権など日本を解体しようとする法案の提出を虎視眈々と狙っています。
 もはや国家本位の政党はどこにもなくなりました。

「しょせん、日本人には欧米のようなデモクラシーは無理なんだよ」
「しょせん、アメリカに戦争で負けて民主主義を教わった国だしな」
「しょせん、マッカーサーに12歳の子供とか言われた民族だしな」

 よく聞く自虐です。
 本当でしょうか。



 最終回、時は遡ります。

 憲法の条文に書いてあることさえ守れば何をしても許される。
 田中角栄、竹下登ら闇将軍は日本国憲法を守って、日本の民主制を破壊しました。
 このような外見的民主制の起源はもちろん、日本国憲法制定時です。

 ただ昭和二十年代は、自由民主党という巨大与党は存在しません。
 保守二大政党政治を目指していました。

 幣原内閣が総選挙で敗北すると、第一党の自由党総裁の吉田茂が首相になりました。
 吉田内閣が総選挙で敗北すると、片山哲を首班とする社会党連立内閣が成立しました。
 片山内閣は、社会党左派の造反で総辞職に追い込まれます。マッカーサーは連立与党の芦田均民主党に組閣を命じます。
 芦田内閣は、昭和電工汚職が発覚し、反対党の自由党に政権移譲しました。種々の陰謀はありましたが。
 吉田内閣は、占領軍の妨害を撥ね退け、解散総選挙を断行し、国民の支持で長期政権を築きました。

 鳩山一郎は日本民主党を結成し、社会党と提携して吉田内閣を倒しました。
 そして自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成されます。

 さて、ここで日本の民主主義の阻害要因は何でしょうか。二つあります。
 一つは、日本社会党です。
 保守二大政党が政権をめぐり争ううちに、社会党と手を組んだほうが勝てる、となってしまいました。規範そのものが失われました。数の横暴を止める規範に力がなくなりました。

 もう一つは、マッカーサーです。
 マッカーサーと占領軍こそ、日本民主制の敵です。

 総選挙で自由党が勝利して総裁の鳩山一郎内閣ができそうになると、鳩山を忌避していたマッカーサーは衆議院議員の資格を剥奪し、総理大臣になる資格そのものを奪いました。
 片山哲が総理になった理由は「そいつはクリスチャンだから別に社会主義者でも構わないだろう」との不真面目な理由でした。
 片山内閣が社会党の内紛により崩壊するや、「憲政の常道」により政権移譲を要求する野党総裁吉田茂の主張を無視し、連立与党内の民主党芦田均内閣を築かせました。
 芦田内閣が下野を決断すると、吉田茂への引退を強制しようとしました。

 戦後民主主義の寄生虫である日本社会党を育てたのもマッカーサーです。
 日本を民主化するなどと言いながら、占領政策に都合が良い政治家のクビをすげかえ続けた元祖闇将軍こそ、ダグラス・マッカーサーです。

亡国前夜(最終回)―マッカーサーこそ日本民主制の癌 その2
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=366

 では当時の日本人はこれに手をこまねていていたのでしょうか。

 吾々は白洲次郎という超人を知っています。
 白洲次郎がいなければ、今ごろ日本人は日本語を捨て、英語をしゃべっていたでしょう。
 身も心も植民地人として。

 吾々は石橋湛山という英雄を知っています。
 石橋湛山がいなければ、日本人は奇跡の戦後復興をできなかったでしょう。
 今ごろ日本人は三等国民のまま、身も心も貧乏な民族に貶められていたでしょう。

 他にも、知恵と勇気を振り絞って占領軍の横暴に抵抗した日本人はいます。
 松本烝治、金森徳次郎、佐藤達夫、清水澄、佐々木惣一、美濃部達吉、齋藤隆夫、三木武吉、池田勇人。。。彼らのすべてが勝利者ではありません。しかし、彼らが占領軍の言いなりになっていたら、日本人は永久に奴隷民族となっていたでしょう。
 アメリカの奴隷ではありません。
 アメリカ本国で相手にされないような救いようのないおちこぼれアメリカ人の奴隷です。

 たとえ負けるとわかっていても戦った歴史がある。
 戦った歴史があれば再び立ち上がることができる。
 幾多の亡国の憂き目をみた民族が、正しい歴史を自覚することによって再生しました。
 イスラエルもポーランドも、一時は国名ではなく地名に過ぎなかったではないですか。
 むしろ、一度も歴史から消えたことがない国が、世界で日本だけです。

 では歴史は超人や英雄だけがつくるのでしょうか。
 そうではありません。
 むしろ平凡な人間、駄目人間が動かす時もあります。

 この亡国前夜を締めくくるにあたって、駄目人間が巨悪に立ち向かった挿話をご紹介しましょう。
 その究極の駄目人間とは三木武夫。
 彼の駄目人間ぶりは亡国前夜に限らず散々これでもかと強調してきました。
 しかし、駄目人間でもいざという時に救国の愛国者になることもあるのです。

 時は昭和二十三年九月。
 片山社会党に続き、芦田民主党の連立内閣は崩壊寸前でした。
 しかし、マッカーサーと側近のケージス大佐は反対党の吉田茂に政権を渡したくない。
 そこで、三党連立の残る一党である国民協同党党首の三木武夫を呼び出し、政権を担当するよう命令しました。
 齢、41歳。もしこの時に政権を受けていればどうなったか。衆議院464人中29人の少数政党を率いているに過ぎません。
 何もできずに終わったかもしれない。それでも史上最年少総理です。
 このような状況で政権に飛びついた政治家がどれほど多いか。

 その筆頭が三木の弟子の海部俊樹です。
 自民党最弱小派閥30人の、しかも領袖でもないのに、竹下登の一声で河本敏夫を裏切り、最後は野垂れ死にしました。
 海部を評して、党人派の雄である田村元は言います。
「三木さんは我々の敵だったが、常に茨の道を選んだ。それに比べて海部さんは天麩羅の匂いのする方になびいた。」

 マッカーサーは二度に渡り三木を呼び出したが総理の座を蹴り、その後26年間も少数派の悲哀を味わうことになります。

 ここで重要なのは、三木の台詞です。

アメリカにデモクラシーがあるなら、日本には憲政の常道がある!

 我が国では国民の意思を無視して最高権力者を選ぶことは許されない。
 権力者が交代するならば、総選挙で国民に審判をあおがねばならない。
 それが戦前日本人がたどりついた日本流民主制です。
 憲法の条文がすべてなどではない。
 ましてや一人の権力者の意思で何をやってもいいことにはならない。

 マッカーサーは三木の理屈をまったく理解できませんでしたが、三木に横暴を押し付けることはできませんでした。あの「神より偉い」と言われた権力を振るったマッカーサーが、駄目人間の三木武夫に屈した瞬間です。

 この砦で何度も強調している、言葉の力です。

 戦前の憲政の常道を知る日本人は、マッカーサーが唱える似非民主主義の胡散臭さを知っていたのです。別にアメリカ人のおちこぼれに習う必要などないのです。
 マッカーサーや占領軍をアメリカ人の代表とすること自体が、アメリカ人に失礼です。
 オウム真理教を指して日本人を語るようなものです。

 しかし、マッカーサーの民主主義をありがたがる、精神的奴隷・植民地根性人の多いことか。

 もし日本を見下した外人や欧米かぶれに出会ったら憲政の常道を英語に直してもらいましょう。正解は?

Normal  Constitutional Practice!!

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