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獅子心王リチャード1世コミュの--第3回十字軍 part2--

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Part1からの続き
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=60980505&comm_id=4733816

《1191年》
8月9日、捕虜と十字架が返還される日になった。しかしサラディンは準備が整ってないので、日程変更を申し出た。
フランク側は了承し、後日サラディンに指定された場所に赴くことになった。

8月19日、オーストリア大公レオポルド5世は、アッカ陥落の分前を要求し、城壁に軍旗を掲げた。
リチャードたちはこれを不快に思い、軍旗を踏みつけ、堀に捨てる。レオポルド5世は憤慨し帰国した。

8月20日、改めて捕虜と十字架の返還の日になった。
リチャードはサラディンの弟と会合すべく、数人の供だけ連れ、指定場所に行った。
だが誰も現れず、待ちぼうけを食らう。
(何度もすっぽかされたとも…)
サラディンはサラセン人捕虜を見捨て、十字架を持ち続けることで、もっと価値ある和平を築くために、約束を翻したと伝えられる。
裏切られ、待っていた人々は苦悩に満ち、涙が溢れた。
リチャードの緊張と忍耐は極限に達した。
サラセン人捕虜を連れて来るよう命じると、サラセン兵が見える所で片っ端から斬首を命じた(写真1)
2700人の捕虜が殺され、命拾いしたのはアッカ守備隊の代表2人と数人の有力者のみだった。
2人はエルサレムとアスカロンを引き渡すとリチャードに約束した。

8月22日、アッカの守備をベルトラン・ド・ヴェルダン、エティエンヌ・ド・ロンシャンに任せ、妹のジャンヌと妻ベレンガリアを残して、ナアマン川を越えてハイファへ向け南進。
8月の酷暑の中、サラセン人の奇襲に備え、慎重な行軍となった。
リチャードは、ギー・ド・リュジニャンと前衛隊を率いた。
アッカの南、レーヌモンドの町からサラディンの弟アル・アディールが続けざまに奇襲してきたが、しっかり隊列を組み、平然と軍を進め、ハイファに入った。
ハイファはサラディンにより完全に廃虚とされ、兵はヤシの木の下で休憩を取った。
対するサラディンはカイムーンに野営地を作る。

8月30日、ハイファを出立。
前衛はテンプル騎士団、後衛は聖ヨハネ騎士団がつとめ、セザレの町に入ったがここも廃虚となっていた。
続いてナハル・ファーリクに入ったが、あまりの酷暑と水不足、サラセン人部隊の絶え間ない攻撃を受け、リチャードは悲壮な覚悟を決める。
これ以上水場がなければ渇きで倒れ、撤退するにも既に進み過ぎていていることを悟り、戦闘隊形を作り、背水の陣の構えをとった。
サラディンはこの様子に交渉のチャンスがあると考えた。
交渉は援軍の到着のための時間稼ぎになる。

9月5日、サラディンの弟アル・アディールと会見が行われ、リチャードはエルサレムの返還を求めたが却下され、戦闘開始を決意。

9月7日、それはアルスーフの戦いとして有名である(写真2)
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Arsuf
http://www.youtube.com/watch?v=tj2kC13sgrw

2万近いサラセン人部隊が津波のように襲いかかってきた。
リチャード率いるフランク側も2万(諸説あり)。
まずロングボウを使って撃退を試みたが、聖ヨハネ騎士団の被害が大きく、団長ガルニエ・ド・ナプルーズは馬を全て失う前に突撃をかけようと進言。
リチャードは耐えるよう諭したが、我慢できずに、聖ヨハネ騎士団とイングランド騎士の一部隊が突撃を開始。
リチャードは作戦を変更し、巧みに歩兵・弓兵を操り、騎士団の突撃を援護し大勝利を得た。

9月10日、リチャードは進軍しヤッファを占領。
町はやはり廃虚となっており、再建を決意。
一方サラディンはアスカロンを防衛する気だったが、臣下の反対を受けて破壊することに決めた。
アスカロンの住民は急いであらゆる物を安値で売り、エジプトやシリアに逃れた。
この破壊を知るとリチャードは、モンフェラート候コンラート1世に八つ当たりした。

9月末、サラディンはアスカロンだけでなく、ラムラの城塞、リダの教会を破壊しエルサレムに入った。
リチャードもエルサレムから2里のモンジョワへ迫り、聖都が見えると、馬から降りて祈りを捧げた。

10月末、ヤッファ再建に目処がたつと、町をエヴルー司教ジャンとシャロン伯ギヨームに任せ出発。
ヤズールでサラディンの前衛隊を破り、エルサレムまでの街道防備を整え、カサル・デ・プレーヌ、カサル・モワイアンの要塞再建を行った。

11月8日、アル・アディールと会見。
アルは食事と砂糖菓子と飲み物、貴金属の贈り物を持ってきた。
リチャードは故郷の料理をアルに振る舞い、対談は半日に及び2人は宗教を超えて友情を深めた。
リチャードは、妹ジョーンとアルを結婚させるという宗教、人種を超えた奇抜なアイデアを思いつく。
2人にエルサレムと周辺地域を共同統治させる、平和的かつ斬新なキリスト・イスラム共存策だった。
しかしジョーンは兄の提案に怒り、アルがキリスト教徒にならない限り、結婚しないと言い張り、サラディンも断固反対したので話しは流れてしまう。

11月16日、まぐさを蓄えに出たテンプル騎士団2人がヤズールの北で、ベドウィン族に襲撃されるが、リチャード自ら斬り込んで救出する。
リチャードは行軍を開始し、ラムラとリダを目指したが、サラディンは急いでこの地を破壊。

11月15日〜12月8日、豪雨によりラムラの廃虚に作った野営地から動けず。

12月25日、ラトルーンに続き、ベイト・ヌバを占領してクリスマスを祝う。
エルサレムではアル・アディールが防備を固め、サラディンはエジプトで増援の兵を集めていた。

《1192年》
1月13日、ブルゴーニュ公ユーグ3世は、先に帰国したフランス王を憚り、エルサレムを前にフランス軍を率いて離脱。アッカへ退いた。
リチャードはモンジョワでこの報を受け、激怒し嘆いた。

1月20日、アスカロン再建に取りかかる。
イングランドから、弟ジョンに不穏な動きがあると知らせがあり、帰国を促される。
リチャードは諸侯を集め、近いうちに帰国することを告げた。
騎士300人と歩兵2000人を聖地に残すことに決めたが、問題は誰が代わりに指揮を執るか?だった。
ギー・ド・リュジニャンは満場一致で却下され、リチャードはモンフェラート候コンラート1世にその権利を渡すことを承認する。

4月5日、リチャードはキプロス島を、10万デュカでテンプル騎士団に売り渡していたが、住民の暴動が起き騎士団の手に余るようになった。

4月28日、モンフェラート候コンラート1世は夕食に出かける途中、2名のアサシン(山の老人率いる暗殺教団)に暗殺される。
エルサレム王国の後継者問題は、ティールにやってきたリチャードの甥シャンパーニュ伯アンリ2世に落ち着いた。

1192年5月5日、シャンパーニュ伯アンリ2世は、コンラートの元妻イザベルと結婚し、アッカに入城。
エルサレム王の地位を確固たるものにした。
ギー・ド・リュジニャンはリチャードの配慮でキプロス王になる。

5月17日、リチャードはアスカロン周辺でサラセン人と戦闘後、ダロンの要塞を包囲し5日間で陥落させる。

5月24日、ダロン要塞にて聖霊降臨祭を祝う。
イングランドのことが気がかりだったが、エルサレム攻略を決心。
ブランシュ・ガルドの要塞を経由し、ラトルーン、ベトノーブルへ進出。
リチャードはこの間、50人の騎士を連れてサン・サムエル山中の岩窟に住んでる聖なる隠者を訪ねた。
隠者はリチャードに木片の十字架を渡し、
「今日から7日目に私は死ぬ。したがって神は、陛下がこの聖遺物を所持されることを望まれる。陛下や他の罪人たちのために、十字架にかかって亡くなられた神への愛ゆえに、陛下が苦しみ、労を取られたのだから」
リチャードは隠者を宿舎に連れてゆき、亡くなるまで見守ったという。

6月20日、エルサレムを前にして、アッカからの援軍を待っていたリチャードは、エジプトのビルバイスから来た隊商を攻撃。
大量の貴金属、武器、香辛料、布地、4700頭に及ぶラクダとラバ、ロバを奪取。

7月4日、リチャードは諸侯を集め、兵力不足ゆえ一旦エルサレム攻略を断念することを告げる。

7月26日、サラディンは手薄になったヤッファを攻撃。
守備隊は町を放棄し、城塞に籠城。

8月1日朝、リチャードは船でヤッファ救援に駆けつけた(写真3)
6000人のサラセン人部隊に対し、リチャードは17人の騎士と300人の弓兵のみで大暴れ。
自ら先頭に立って、盾と斧を持って群がる敵をなぎ倒した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Jaffa
http://www.youtube.com/watch?v=1UpkKH99wDE&feature=related

8月5日、リチャードの手元には騎士50人、2000人の兵しかおらず、サラディンはこの情報を掴むと、攻勢に出た。
リチャードは槍兵と弩射手を交互に配置。
弩射手には兵が1人付いて、射手が射ってる間に付いてる兵が装填を行い、効率のよい連射を可能にした。
弩の連射で敵を怯ませると、リチャードは自ら攻撃に出て、手の皮が破れるほど奮戦。
敵将を見つけると腕と頭に一撃を食らわし、地獄へ追いやったと年代記に記述されている。
この時、サラディンの弟アル・アディールは、リチャードが徒歩で戦うのを見てアラブの名馬2頭を贈った。
夕刻、サラディンは戦況が芳しくないのを見て、ヤズールに向かって撤退を開始。
かなりのの兵力差を乗りきったリチャードは、矢を受けてまるでハリネズミの様だったという。

9月2日、リチャードが知らぬところで、サラディンとの講和が締結され休戦となった。
シャンパーニュ伯アンリ2世とソールズベリー司教ヒューバート・ウォルターが交渉をまとめた。
これにより、ティールからヤッファの南まで、帯状の海岸線はフランク側の領地となった。
エルサレムはサラディンの手に残ったが、キリスト教徒の巡礼は許された。

サラディンとヒューバート・ウォルターは会見の席で、

かくも勇敢にして信頼のおける君主は2人といないであろう
と自らの主君をウォルターは称し、サラディンも同意見だった。

この頃リチャードは病に倒れており、サラディンから手紙と果物とシャーベットを贈られていた。
病から回復すると、エルサレム攻撃の準備をしようとしたが、諸侯の反対にあう。
リチャードは講和が成っていた事実を知ると、手にした松の木の棒をかじりながら「主よ、なぜ余を見放し給うや?」

「余にして余が神たる主が今日、打ち負かされたのは余の軍隊の怠惰のゆえではないのは確かだ。それは主のせいであって、ここにいる主の哀れなリチャードではない」と憤激する。
そして自らに聖墓に参ることを禁じた。
エルサレムを奪回できなかったからである。

10月9日、事後処理を終えキプロス島から乗船、イングランドへ向け帰国の途につく。

リチャードの勇ましくも苦難に満ちた十字軍士としての役割は終わったが、さらなる試練と伝説が待ち受けていた。
それはまた別のトピで紹介しようと思いますのでお楽しみに。

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