ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

獅子心王リチャード1世コミュの--第3回十字軍 part1--

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
獅子心王の勇名と悪名を大いに高めた第3回十字軍(The Third Crusade 1189〜1192)の遠征。
アイユーブ朝スルタン・サラディンによる聖地エルサレムの陥落に端を発する。
ローマ教皇グレゴリウス8世の呼びかけに、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャードという、西欧で最も強力な君主が指揮官として揃い踏みしたことでも有名です。

過去に母アリエノールが十字軍に参加したこともあり、リチャードの熱意は相当なものだった。
遠征中は航海術や考古学に興味を抱き、東方へのロマネスクに胸踊らせるリチャード。
その反面で戦場では情け容赦ない苛烈ぶりを示し、怒りに任せ残虐行為に走って、サラディンの人格者ぶりを高めるのに一役かってしまうこともあった。
十字軍はリチャードという人物を象徴する出来事であり、それは冒険と波乱に満ちた遠征となった。
このトピでは、逸話に豊富なリチャードの第3回十字軍の動きを追ってみようと思います。

《1187年》
10月2日、アイユーブ朝スルタン・サラディンの攻勢により聖都エルサレムが陥落。聖地のラテン国家は壊滅的打撃を受け、西欧諸国に衝撃と悲しみが広がった。
アキテーヌ公/ポワトゥー伯リチャードは、この報が届いた翌日、十字軍参加を決心。
トゥールのバルテルミ司教の手を取った最初の1人であった。

《1188年》
1月21日、ジゾールとトリの間で、トゥールのバルテルミ司教が、十字軍参加を呼びかける大集会を行う。
そして聖戦のために、全教会で"特別10分の1税(サラディン税)"の徴収が決められた。

トゥールーズ伯レイモン6世と戦闘中だったリチャードは、ポワトゥーで捕虜になった者の中から、十字軍遠征を決めた者を釈放する。


《1189年》
春、フランス王フィリップ2世の後ろ楯を得て、父ヘンリー2世と交戦中だったリチャード。
ある時、父の使者としてカンタベリー大司教ボードゥアンがやって来た。
会見はフェルテ・ベルナールで行われ、十字軍遠征へ末弟ジョンを共に連れていくことを父に求めた。
自分の不在中、父がジョンを王位につかせないかを心配したのだ。

9月3日、リチャードはイングランド王に戴冠。

9月5日、聖職者や貴族たちから臣従礼を受ける。
そして各儀式を一通り終えると、十字軍遠征準備に取りかかった。
留守中の行政を考え、ダーラム司教ユーグとオマール伯ギヨーム・ド・マンドヴィルを巡回裁判官に任命。
ウィリアム・マーシャルの弟ジョンに納税台帳の管理を任せた。

反逆の恐れのある南ウェールズのリース・アプ・グリフィンには、弟ジョンを遠征させ降伏させた。

それから遠征資金確保のため、官職やあらゆる物の売買を行うという荒業に出た。
代官は一度解任され、金を払うことで再び代官になった。
金を払わなければ投獄された。
それは聖職者、貴族も例外ではない。
リチャードは金を持ってそうな者の地位剥奪に夢中になり、ついには「買い手があればロンドンだって売るぞ」と豪語。
エリの司教ウィリアム・ロングチャンプは、大法官の地位を得るために銀貨3000リーブルを払ったと言われる。
それゆえ国庫には歴代の王が持ったことないほどの、銀の宝物がうなった。

11月、ウィンチェスター、セント・エドモンドを騎行し、母アリエノールとカンタベリーで、ボードゥアン大司教とサント・トリニテ大修道院の修道士問題を仲裁。

12月、カンタベリーに出て来たスコットランド王ウィリアムと、その弟デイヴィッドに、臣従の礼の義務を免除する。
ただし、エステルラン貨1万マルクと引き替えであった。
義弟ジェフリーも、ヨーク大司教選出を認めてもらうべくエステルラン貨3千リーヴルを支払った。

12月11日、ドーヴァーからフランス・カレーを目指して乗船。

12月25日、ノルマンディー・ピューレで壮麗なクリスマスの宮廷を開催。

12月30日、ゲ・ド・サン・レミにて、フランス王フィリップ2世と遠征における詳細な打合せを行う。
両王遠征中に貴族たちは敵対行為を行わない、和平を破ったものは破門するなど、王不在中の取り決めも定められた。
出発日は、当初の4月1日では間に合わぬということで、6月24日にヴェズレー集合となった。
この会議は翌年1月13日まで行われた。

《1190年》
2月、母アリエノールに婚約者アデライド(フランス王妹)、弟ジョン欠地王、義弟ジェフリーが、イングランドの司教を多数連れて会いに来た。
ジェフリーは大法官ウィリアム・ロングチャンプが持ってる権限の範囲について、確認を求めた。
リチャードはジョンとジェフリーの弟2人に、3年間はイングランドに入ることを禁じ、宣誓させる。

2月3日、ソーヴ、ラ・レオルの大修道院に寄進を行う。
その後、タルモンにリューデゥー僧院、フォントネにサン・タンドレ・ド・グルファイユ僧院を建立。

5月7日、サン・ジャン・ダンジェリーのグラス・デュー大修道院に寄進を行う。
それからガスコーニュで、巡礼者を襲撃したバスク人の討伐へ向かう。
城を襲撃し、ギヨーム・ド・シジーを打ち首にして、ノルマンディー・シノン城に戻ると、遠征準備の最終段階に入った。

5月18日、イングランド・ダートマスを大艦隊が出航。
マルセイユでリチャードど合流する予定だが、途中ポルトガルでサラセン人に占領されていたシルヴィアの町を奪回。
ポルトガル王サンシュ1世に助力し、転戦したため、合流に遅れが生じた。

6月10日、先発していた神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世が、アルメニアのセレフ川で溺死するという衝撃的な事故が発生。
皇帝が率いていた10万とも言われる十字軍最強の軍は瓦解してしまい、一部が聖地へ向かう。

7月4日、フランス・ヴェズレーで、十字軍出発の荘厳な儀式が、リチャードとフランス王フィリップ2世出席のもとで行われる。
リチャードは巡礼者用の杖とひょうたんを受け取り、聖地を目指して出発。
リチャードが率いるイングランド軍は総勢8千人、フィリップ2世のフランス軍は2千人と伝えられる。

7月14日、リヨンに達し3日間過ごした後、英仏両軍はここから別れて進んだ。
リチャードはマルセイユに入り、多くの巡礼者を共に加えて、イングランドからの艦隊を待った。

8月7日、一向にイングランドから艦隊が来ないことに焦り、20隻のガレー船と10隻の大型船を調達し。
マルセイユを出航、フランスを離れた。
不安を感じたのか、リチャードはこの時"物思い気で沈んでいた"という。

8月13日、サン・トノラ、ニース、ヴァンティミルを経由しサボーナに入り、ジェノヴァでは病に倒れているフランス王フィリップ2世と再会、フォール・ドーファンでは5日間滞在。

8月20日、イングランドからの船団がやっとマルセイユに入港。
修繕と補給で1週間停泊。

8月23日、ポルト・ヴェネール、ピサに到着。ここから陸路を取ることにしたが、考え直し再び乗船。

8月25日、ポルト・エルコーレに入港。
帆が壊れたため船を変え、オスティアの港に入る。司教オクタヴィアンの出迎えを受けた。

8月28日、ナポリに着くとサン・シャンヴィエ大修道院を訪ねた。

9月8日、ナポリを発ち、陸路サレルノを向かう。
そこにはヴェスヴィオ山(火山)があり、臣下が怖がるのも気にせず登山をした。
サレルノを出発すると、サン・トゥフェミーを経て、ミレトに進む。
イングランドからの艦隊がいよいよ到着するという報が届き、喜んだ。
ここでリチャードは1人の供を連れ、徒歩で散策。
1軒の家の前に来ると、ハヤブサの鳴き声が聞こえた。
その家に入ると、住民にハヤブサを所望したが、住民は助けを呼びに行き、リチャードはあっという間に取り囲まれてしまう。
住民たちは石を投げつけてきて、ある者はナイフで襲いかかってきた。
リチャードは仕方なく剣を抜き、刃の平で1人の男の脇腹を一撃する。
しかし剣は折れてしまい、逆に石を投げつけながら、なんとか包囲を突破。
ラ・パニャーラの城で臣下と落ち合い、無事にイングランドからの大船団と合流した。

9月16日、フランス王フィリップ2世一行がシチリア島メッシナに入港。
シチリア王タンクレーディが用意した宮殿に宿舎を取る。
少し遅れてリチャードは114隻に及ぶ大艦隊を引き連れ、金管楽器を鳴らしつつ、堂々とメッシナに入港。
町の人々はあまりの騒々しさに恐怖を覚えた。

9月24日、フランス王フィリップ2世と会見。再会を祝した。
リチャードはメッシナの城壁の外にある、ぶどう畑に囲まれたレニョー・ド・モアックの屋敷に落ち着く。
それからすぐに絞首台を立てさせ、裁判を開き、遠征中に罪を犯した者に裁きを下す。

9月28日、シチリア王・タンクレーディがパレルモ要塞に監禁した、妹ジョーンを迎えに行き、聖ヨハネ騎士団の施設に宿泊させた。

9月29日、妹ジョーンをフランス王フィリップ2世と訪ねる。
この時フィリップ2世はジョーンに一目惚れする。

9月30日、ラ・バニャー要塞を奪い、妹ジョーンを住まわせた。
2日後には、"グリフォンの僧院"と呼ばれていた城も奪い、シチリア王タンクレーディに圧力をかけた。
この行為はメッシナの住民に不信感を与える結果となった。
町のあちこちで十字軍士と住民が衝突し、リチャードはそのたびに部下を罰する羽目になった。
タンクレーディは和解を願って、賠償を支払い、娘の1人とリチャードの甥ブルターニュのアーサーとの婚約を決めるなど、いくつかの協定を結ぶ。
リチャードはこの協定の保証人として、教皇クレメンス3世に頼んだ。
しばらく海風と気温が厳しく、十字軍のメッシナ滞在は長引くことになる。

10月4日、フランス王フィリップ2世との会談中に外で暴動が発生。
自ら鎮圧に向かうが、騎士5人と従者20人を失う。
この時フランス軍が救援に来なかったことに、イングランド側は不満を募らせる。

10月8日、フランス王フィリップ2世と協力関係を確認し、遠征中の掟を新たに制定。

12月19日、シチリアを激しい雷雨が襲い、ガレー船一隻に雷が直撃し沈没。
リチャードは、これを神の所業と恐れをなし、聖職者たちの前で裸になり、過去に行った男色を懺悔する。

12月25日、リチャードがメッシナを見下ろす場所に築いたマテグリフォン城にて、フランス王フィリップ2世らとクリスマスを祝う。

《1191年》
1月、コラッツォ修道院長ヨアキムと会見。
ヨアキムは、「サラディンは殺され、エルサレム王国を失い、サラセン人は滅びる」と予言し、リチャードを喜ばせる。

2月、余暇を利用し、様々な競技を楽しんでいた時、ギヨーム・デ・バール(フランス王側近)が、リチャードの服を傷つけた。
リチャードは激怒し、フランス王フィリップ2世らが謝罪し、なんとかギヨームへの怒りをおさめた。
このあと、自身の艦隊から何隻かをフィリップ2世に譲渡し、同行者に自らの財宝を分け与えるなど、寛容さを見せた。

3月1日、シチリア王タンクレーディとの会見のためタオルミーナへ向かう。
途中、迎えに来たタンクレーディとカターニアの町に3日間滞在。
アーサー王の剣、"エクスカリバー"をタンクレーディへ贈る。
タンクレーディからは、指輪、4隻の兵器輸送船、15隻のガレー船を贈られる。
タオルミーナに入ると、タンクレーディからフランス王フィリップ2世の手紙を見せられ、フランス王がリチャードのことを悪く伝えていたことを知って激怒。
リチャードはメッシナに戻ると、フィリップ2世へその手紙を渡し、説明を求めたが…
「アデライドと結婚したくないから余を攻撃するのだろう」と逆に怒りを露にする。
リチャードは「アデライドは父の子を宿した」とし、結婚を拒み、ついには銀貨1万マルクと、ジゾールの城や贈り物を返すという条件で、婚約解消となった。

3月31日、フランス王フィリップ2世の艦隊はアッカに向かい出航。
この日、母アリエノールがナバラ王サンチョ6世の娘ベレンガリアを連れ、メッシナに入った。

4月2日、母アリエノールはメッシナを出航、帰国の途につく。
ベレンガリアは妹ジョーンが面倒をみることになった。

4月14日、マテグリフォンの城を破壊し、200隻を超える大艦隊を率い、シチリア・メッシナを出航。
だが艦隊は大嵐に遭い、甚大な被害を受ける。

4月17日、リチャードと僅かな艦船がクレタ島に到着。

4月18日、クレタ島を出航。

4月20日、フランス王フィリップ2世がアッカの攻囲に加わる。

4月22日、リチャードの艦隊はロードス島に入港、船の修繕、補給を行う。

5月1日、ロードス島を出航。
しかし再び嵐に遭い、4隻がキプロス島に流される。
そのうち3隻はなんとかリマソルの港に入った。
多くの人々が溺死し、その中には元大法官ロジェ・モーシャも含まれていた。
キプロス太守イサキオス・コムネノスは、リマソル港に入ったイングランドの艦船から、金になりそうな物を根こそぎ奪い取り、生存者を身代金目的で投獄。
さらに妹ジョーンとベレンガリアが乗った船の入港を拒んだ。
リチャードはこれを知ると、艦隊を率いキプロスを目指し、島から60キロ地点で漂っていたジャンヌとベレンガリアが乗る船を無事収容。
それからイサキオスに使者を送り、財産と投獄者を返還するよう3度にわたり交渉をしたが、その返事は冷淡だった。

5月8日、「武器を取れ!」と発したリチャードは、キプロス島に上陸、猛攻を加えてキプロス太守イサキオスは逃亡。
リマソルの住民も逃げ出した。
イングランド軍はイサキオスを追撃し、その野営地を奇襲。
多くの財宝・物資を奪い、リマソルの町を占領。

5月9日、キプロスの貴族たちがやってきて臣従を誓い、人質を差し出す。

5月11日、パレスチナから前エルサレム王ギー・ド・リュジニャンと、その弟ジョフロワらがやってきて、臣従の礼を取り、忠誠を誓った。
逃亡していたイサキオスはリチャードの前に現れ、金貨2万マルクを賠償として支払う他、絶対的忠誠を誓うと言った。
だがイサキオスは午後になって逃亡し、リチャードは激怒。
自らキプロス島をガレー船で見張り、島の大部分を制圧。

5月12日、リマソルでベレンガリアと結婚。
休む暇もなく、イサキオスの娘がいるシェリーヌの要塞を落とす。

6月1日、イサキオスはシェフ・サン・タンドレの修道院に身を隠していたが、リチャードが向かっていると知り、恐れをなして慈悲を求めた。
リチャードはイサキオスを捕らえ、執事のラウル・フィッツ・ゴドフロワに預けた。

6月5日、キプロス島を出航。
執事のラウル・フィッツ・ゴドフロワはイサキオスを連れて、トリポリに向かった。

6月7日、フランス王の旗を掲げて偽装した、アッカ救援のサラセン人の船を撃沈。

6月8日、リチャードとイングランド軍はついにアッカの港に入港しパレスチナの地に降り立った。
ここまでの道のりも苦難の連続だったが、真の戦いはここからだった。

リチャードの到着後、すぐにピサとジェノヴァの代表者が挨拶に来た。
彼らは商人でもあり、アッカが再びキリスト教徒の手に落ちると感じ、商いの保証を求めた。
ピサ人はリチャードに忠誠を誓ったが、ジェノヴァの人はフランス王に忠誠を誓った。
アッカに籠るサラセン人は、城の北東にそびえる"呪いの塔"から、ギリシャ火を投げつけ、十字軍は苦戦していた。
ナマン川にはサラセン人が投げ捨てたキリスト教徒の遺体が悪臭を放ち、凄惨な光景が広がっていた。
アッカの東にある"サラディンの丘"には、サラセン人の巨大な野営地があり、アッカを救助しようと度々兵を繰り出した。
そんな中、イングランド軍の到着は士気を高め、リチャードはまず投石機や破壊槌などの攻城兵器を、ギリシャ火から守ることに専念した。
しばらくして、リチャードとフランス王フィリップ2世は粟粒熱(マラリアとも)にかかってしまう。
それにより塹壕を掘る工事も度々中断された。
サラディンは英仏両王の病を知ると、ダマスカスの梨や贈り物を届けさせた。

6月14日、次いで17日にサラディンが、アッカ包囲の十字軍の背後から攻撃。

7月3日、なんとかリチャードは病から回復し、十字軍はアッカの呪いの塔へ攻撃を行う。
だが、サラディンに注意しすぎ、行軍は思うようにいかなかった。

7月4日夜半、アッカのサラセン人は劣勢を悟り脱出を試みるが、十字軍により撃退され失敗。
アッカの城内にはスパイが入り、守備隊の情報は筒抜けになっていた。
アッカから、メストシュとカラコイスの2人の代表が交渉のため、リチャードとフランス王フィリップ2世の前にやってきた。
安全に逃してくれれば、アッカと武器と持ってる金銀全てを渡すという内容だったが、英仏の王は奪われた全ての領地、十字架、捕虜の返還を付け加えて要求した。
サラディンは要求をはねつけ、交渉は断絶。

7月5日夜半、サラディンは包囲軍に襲撃をかけ守備隊を逃そうとしたが、この情報も筒抜けで、リチャードは待ち構えて撃退。
リチャードはすぐに破壊槌を投入して、アッカの城壁の一角に大きな割れ目を作る。

7月6日、十字軍はアッカに猛攻撃を開始。
アッカ守備隊はたまらず、メストシュとカラコイス、エルセディーン・ジャルディックを派遣し交渉を行うが失敗。

7月12日、アッカ守備隊は聖ヨハネ騎士団とモンフェラート候コンラート1世を通じて降伏を申し出た。
籠城したサラセン人の命は助けられ、金貨20万ディナールと引き換えで解放されること、サラディンの手にある2千5百人のキリスト教徒捕虜と、十字架の返還を8月9日に行うことが約束された。
サラディンはソフォリーまで撤退し、途中の町と城を破壊しながら去った。
リチャードはテンプル騎士団の館に居をかまえ、フランス王フィリップ2世はアッカ城壁内部に宿を取った。
リチャードとサラディンの間で贈り物の交換が行われ、フィリップ2世はサラセン人に財産を奪われた者に、富を返還する。

7月20日、リチャードはフランス王フィリップ2世と会談。
サラディンがエルサレムと占領した土地を返さぬ限り、3年間は戦おうと提案したが、これは拒まれた。

7月21日、ボーヴェ司教フィリップ・ド・ルー、ブルゴーニュ公ユーグ3世、ドルー、ギヨーム・ド・ロメらフランス側の使者は涙を流しつつ、リチャードにフランス王フィリップ2世の帰国を承認してくれるよう頼んだ。
フィリップ2世帰国の報は、悲しみと失望として全軍に広がり、多くの者がこれを思い止まらせようとした。
たがフィリップ2世は、亡くなったばかりのフランドル伯フィリップ・ダルザスの領土を得るために、早く帰国したかった。
フィリップ2世は、リチャードにキプロス島半分の領有権を要求し、激しい議論になるが、和解する。

7月27日、エルサレム王位をめぐり、ギー・ド・リュジニャンとモンフェラート候コンラート1世が大勢の前で議論。
リチャードはギーを支持し、フランス王フィリップ2世はコンラートを支持した。
結局ギーもコンラートも英仏王とその側近の裁定に従うと宣言。

7月28日、リチャードとフィリップ2世はエルサレム王位について裁定を下し、ギー・ド・リュジニャンが存命中は王であるとし、その死後はコンラートが王となり、コンラートが亡くなった時は、その子が世襲できるとし、収入は2人で分け合うとした。

7月29日、フランス王フィリップ2世はコンラートにアッカの征服地を分け与え、リチャードと再び会見を行う。
リチャードは、イングランド王領が平和であるよう尽力するという条件をつけ、フィリップ2世の帰国を承認。
フィリップ2世はこの条件を福音書にかけて宣誓。
ブルゴーニュ公ユーグ3世が残るフランス軍の指揮官になり、アンティオキア公ボエルン3世への援軍として、100人の騎士、500人の兵士を割り当て、リチャードも同数の兵を用意し、5隻の艦船も加えた。

7月30日、リチャードとフランス王フィリップ2世は、アッカで得た捕虜の分配を行う。

7月31日、フランス王フィリップ2世はアッカを出航し、帰国の途についた。
一方リチャードはアスカロン攻撃の準備を始め、船に物資を満載した。
フランス王は帰国にあたり、サラセン人捕虜をモンフェラート候コンラート1世に預けていたが、リチャードはその引き渡しを求めた。
だが拒否され、激怒してコンラートがいるティールを包囲すると言い張った。
ブルゴーニュ公ユーグ3世になだめられ、ユーグ3世がコンラートと交渉することになった。

part2へ続く
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=60980592&comm_id=4733816

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

獅子心王リチャード1世 更新情報

獅子心王リチャード1世のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング