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Rajpur(ラジプール)ACIMコミュの#10−11−13 奇跡ってそうなの?

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#10−11−13
http://rajpur.blog13.fc2.com/blog-entry-133.html

長いけど、貼付けます。
ええっ、そうなの??とかなりに混乱してます。
何もする必要が無い、に関しては、目覚め/卒業の中で、行為者として達成を求めるのは止めなさい、存在としてただあり続けなさいとあったので、そういうことなのかなと思いますが、奇跡については…。

体と一体化せず、しかも体の治癒を見るまでやるって、どんななんでしょう?
エゴ大事になりそうな気もしています。

実践についてシェアできたらと、トピをたてました。

よろしくお願いいたします。


8段落
多くの人達はコースの中の「あなたは何もする必要がありません」“You need do nothing,” というフレーズを気に入っているようですが、この文の意味するところは「あなたは上手く働かないやり方をやめる必要があるのです。」ということなのです。
あなたは「何にもならない事」を止める必要があるのです。(そう私は言いたかったのです。)
あなたは幻想/幻覚を起こしている行動(そして苦しみの体験にあなたを縛りつけている行動)を止める必要があります。
これが「神の法が述べていること」なのです。 神の法がそう言っているのです。
だから、神の法はあなたから何かを要求しているのです。 {神の法が解るように成るためには、あなたが「何かをする」必要があるのです。}


13段落目〜
知覚の瞬間的シフトが起こっている」とあなたが考えていたとしても、そこに修正(癒やし)が認められていない(認識されていない)なら、それは奇跡的ではなく、だからそれは奇跡ではないのです。

このような成長の歪みが子供に起こっていた場合はどうでしょうか?
あなたの子供、あるいはあなたの孫や甥/姪が障害をかかえていた場合(あなたはどのように考え対処しているでしょう)。
あなたは、彼等(子/孫/姪/甥)がその状況内で得られる最上の生活を送れるように助けるでしょうか?
あなたは二つのステップを行ない「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねるでしょうか?
そして明瞭な理解が流れ込んで来た時、あなたの中に真理の理解が流入してくることを体験した時、(見かけ上は全く何も変化が無くても)あなたはもはや見かけに騙されなくなって、あなたはその事に感謝し、この気付きが奇跡だと考え、これが「知覚の瞬間的シフト」の全てなのだと考えるでしょうか?
「そうではない!」と私はあなたに言っているのです。

フォロースルー(振り抜くこと/やり通すこと)が必要なのです(これがあなた達には欠けています)。
このことに関して今夜話しましょう。 なぜなら殆どの人が、ACIMの奇跡を理解していないから。
リアルな世界への架け橋となるステップを踏むことがどういったものか、あなたに理解出来ていますか?
神の法がなされている(神の法が成り立っている)証拠が見えないのなら、聖なる瞬間を実践することにどのような意味があると言うのでしょうか?

樹木がその対称性を取り戻したり、(成長が滞っていた人の)手足が伸びたりすることを見ていないなら、あなたはまだア・コース・イン・ミラクルズの力に気付いていません。
その場合、あなたは(他の人の体験しているものよりは)少しだけ肯定的な高揚/自信/希望を何となく感じているだけに過ぎません。 
そして、それが(ACIMから得られることの出来る)全てだ考えてしまうのです。 あなたは、それが自分に得られる全てだと考えてしまうのです。 「それ以外のものは得られない」とあなたは考えてしまうのです。
何故なら、ACIMとは(あなたの世界が変容することではなく)知覚のシフト(考えが変容すること)にしか過ぎないのだから。 (とあなたは考えてしまってはいないでしょうか?)

あなたの誤認識(誤った知覚)は常に、天国に対する誤認識(誤解)なのです。
あなたの誤認識は常に、リアリティに対する誤認識(誤解)なのです。
それは(あなたの面前に実際に存在しているのは)神のリアリティなのです。 神の現れがそれ自体を照らしているのです。 神の現れが、それ自体をそれそのものとして無限に光り輝き、分離することなく対立することなくパーフェクトに表現(実現)しているのです。

もしあなたがそれを見ていないのなら、そこには修正が必要なのです。
必要とされている修正を行いそれを達成することとは、つまりあなたが天国を見ること(今ここに、あなたの面前に神の創造を見る事)なのです。
それは、あなたの腕の先に手を見ること、あなたの孫の短くなってしまっている手足が成長するのを見ることなのです。 あなたはそれらが修正されること(その本来の姿として現れること)を見るのです。

何故でしょう。
何故なら、あなたはリアリティを見るのだから。 神がそこに存在している様子、神がそこにパーフェクトに永遠に不動に美しく居る様子をあなたは見るのです。
もしリアルな世界が存在していなかったのなら、リアルな世界への架け橋も必要ではないでしょう。 解りますか?

だから下記が要点です:
「修正を必要としているもの」をあなたが見ている時、それに対して辞令的祝福しか与えていなかったなら、あるいはより意図的なより強靭な祝福(注意)を与えていたとしても(奇跡を引き起こす)「知覚のシフト」をあなた自身が体験するまでそれをし続けなかったなら、あなたは修正を見ることがなく、(その時)あなたはまだ眠り続けているのです。 それでは、あなたは目覚められないのです。

「私はコースを勉強し続けて来ました。 それでも問題はあれこれ発生しており。 今も問題は起こっていますが、それでもコースが示していることを出来るだけ忠実に行なっているつもりです。 しかしどうしたら良いか分からないのです。」 (そう感じて居る人が多いはずです。)
だから我々は今夜「どうしたら良いか」説明しているのです。

あなたが「二つのステップ」を行なっていても修正が現れていなかったなら、そこには修正が必要であり続けている訳です。 
何に対する修正が必要なのでしょうか?
あなたの知覚に対する修正が必要なのです。
その場合、修正を途中で諦めるべきではないのです。 それを(二つのステップを)止めてはいけないのです。
「(あまり嬉しくはない)この状況が起こっており、これもまた神の創造の一部で、私は出来る限りこれを祝福したのだけれど、しかし色々な影響のせいで上手く行っていないのです。 そして私はこれらのことをコントロールすることは出来ません。」などと言っていては駄目なのです。
「もしかしたらこの草は、癒やされたくないのかもしれない。 短い手足を持つことが、この子のカルマなのかもしれない。 この子の人生のレッスンにはこれが必要なのかもしれない。」
これらはクソッタレな考えです。 これらは真理ではありません。
このような怠惰な無責任なだらけた振舞い(思考)を繰り返しながら、自分はACIMを実践していると考えたり、その理解を得ていると考えるべきではありません。

『ラジさん、「唯一正しい意志の使い方は、それを使わないことです。」とあなたは言ったではないですか? 「唯一正しい意志の使い方は、自己意志を使わないようにすることです。 自己主張(自分の見方への固執)を放棄することです。」とあなたは言ったではないですか?』
もちろん、私はそう言いました。
しかし私は、「意志を全くもたない、ブニョブニョしたものに成りなさい」と言ったのではないのです。

「唯一正しい意志(人間的意志)の使い方は、それを(人間的意志/分離的意志を)使わないよう選ぶことです。」
人間的な意志を使わないよう選択したなら、あなたは自分が(これ以外に適切な表現がないので)意志的に成っていることを発見するでしょう。 
 「サムシングエルス(他の何か=神)」を差し置いて自分を主張するのではなく、「サムシングエルス」と協調出来るように成っていることをあなたは発見するでしょう。

そして、あなたが普段から行なっている強烈な自己主張が放棄されている所で、何かが突然自動的に起こるのです。 ハーモニー(調和)が体験され、その時あなたはもはや全てのものと対立してはいないのです。
その時あなたは「全てのもの」や「全てのこと」の意味を感じ、自分がそれらとどのように共存しているか知るのです。
そしてあなたの(自己主張的)意志/意図がないところで、「あなたがどのように在るべきか」が明白になるのです。

あなたはどのように在るべきなのでしょう? 
あなたはパーフェクトに在るべきなのです。 パーフェクトに適切で在るべきなのです。
だから、その時あなたは何かをするのです。
その時(どのように在るべきか明白に成ったなら)あなたは何かをするのです。
あなたは、適切な動きになるのです。 だからあなたは行動するでしょう。
しかし、この行動は自己意識から発せられたものではありません。
これは孤児的マインドから発せられている行動ではないのです。
『「何か」の一部に成ること、「何か」と混ざること、「何か」と協調すること』をあなたが 自分に許可した時、この行動があなたの中から沸き起こってくるのです。
この「何か(サムシング)」とは、今まで認識されてこなかった「あなた」、つまり「あなたのその他の部分」なのです。 それは神の全てなのです。
だから、その時「神が成っているもの」があなたの行動に反映されるのです。
そうして(神の)意志が表明されるのです。 {神の意志があなたの意志として現されるのです。}
あなたはこれを理解する必要があるのです。

だから、あなたは何もしなくなる訳ではありません。
全ての瞬間に、あなたは神の表現を完全に適切に表す者に成るのです。
だから、あなたのする全てのことは、とても意味があるようになり、とても価値があるようになり、神聖に(完全に)リアルになるのです。

聖なる瞬間を実践して静寂の中に入り、あなた自身をあなたの源から分離しなくなったなら、あなたは「あなた自身の存在の全て(あなたが存在している全ての有り様)」の中に入って行くでしょう。
その時あなたの行動が、その全ての側面において修正を行ない、その修正があなたに見えるようになるでしょう。
何故なら、幻想の全ての細部が消えるまで、修正されるべき全てのものが修正されるまで、あなたは自分の注意/意識の全てを父の視点に与えようとはしないだろうから。

『全ては愛か、でなければ「愛を求めている声」である。』と言われています。
「愛を求めている声(call for Love)」とは何でしょうか。
それは修正を求めている声です。 そして修正は「表現された愛」であるに違いないのです。
だから、修正が完了するまであなたは愛を止めるべきではないのです。

つまりあなたは、(二つのステップ/聖なる瞬間を)継続し続けるべきなのです。
あなたは何を続けるのでしょうか? あなたはコントロールし続けるのでしょうか?
違います。 あなたは真なる知覚/認識を求めて自分のマインドを整え続けるべきなのです。

神の法が成り立っている場所(神の完璧性の体験があなたに与えられている場所、父の意志があなたの中に表現されており、あなたが完全にパーフェクトに適切に振舞える場所)にあなたが自分の注意を与え続けることにより、他者に癒しの体験がもたらされるのです。

これは非常に大切なことです。
リアルな世界への架け橋が、あなたが次に自分の注意を与えるべき場所(聖なる瞬間)なのです。

何故これを行なう必要があるのでしょうか?  幻想の中であなたがハッピーになれるようにですか? あなたが天国の中で天国以外のものを見続けられるようにですか?
いいえ、違います。
いまここにあるリアリティを、あなたがそのまま見えるように(これを行なう必要があるのです)。 これがわたし達の行おうとしていることなのです。

コメント(7)

「修正が行われたことを知って、安らげている状態」まで、2つのステップをやり続けなさいということでしょうか。

修正が適切に行われたかどうか、どのように知るのでしょうか。
適切さを、私は知っているのでしょうか。

少しでも不安を感じているなら、2つのステップを続けなさいというのならわかるんです。
でも、手足が伸びるまでとか言われてしまうと、戸惑ってしまいます。

奇跡の持つ力を自分で(一人で)決め付けるなということかな?
と感じてきました。
消しゴム4000年さん ご紹介ありがとうございました。
ここは読んで無かったです。
かなりヘビーな内容ですね、読んでて激しい睡魔が襲って来ました。

私はワークの実践も抵抗があってなかなか進まないのですが、
ここには事実とそれに対する心構えが書かれている感じがします。

この世界は幻想で、夢をみているようなもので、
実際は天国の中に御子はいて、神の愛しか存在しないと言われますよね。
実感はし辛いのですが、この世界もそれぞれの人も、また心に思う事も、
「神から離れた」という錯覚の想念が作り出したイリュージョンで、
私はそれをことごとく「現実」だと思って信じている訳です。

そしてその想念は、愛に抵抗するバリアーとして、
ほぼ四六時中働き続けている。
あの人がどうの、この人がどうの、私がどうの、お腹が空いた、
病気が、お金が、進学が、親が、晩ご飯を、手を切った、掃除をせねば、
腹が立つ、認められていい気分、この人が好き、自分が嫌い、

みたいに、ひっきりなしに必死にランダムに働き続けていて、
「ここにある愛」に目をそらし続けようとする作用があるようです。
かといって、それそのものを現実と思い込んでいる身には、
どうする事もできないので、聖霊に祈るしか無いのですが、
自分がワーワー言ってるままだと聖霊の声は聞こえ辛く、
「何もしない」、自分の色々の思いを放棄するところに、
バリアーに穴が空いて聖霊の声が受取りやすくなり、
その声というのは真実の愛なので、自分のそれまでの見方、
それまで本当だと思っていた心が変わる、というのが奇跡なんだと思います。

現象としては、それまで愛に抵抗して病気を見ていた心が変わって、
病気が無くなってしまう、ということもあるだろうと思います。

でもそれが結果や目的では無くて、
愛はそもそもそんな物は作っていないのだから、
愛に戻る道を引き返している私たちは、
「この状況はどうしようもない」「これはカルマだ」「何か意味のある事だ」
「これは成長の糧なのだ」と、起こってるように見える事から逃げずに、
「このように見えている事の向こうに愛があるはずだ」という意志を持って、
聖霊に祈り続ける事を言っているように思われました。
もしかして…と思うことがあったのでシェアさせてください。

父ががんを再発して、入院、手術が必要になりました。

初めにいった病院での所見は、
「すぐに幹部の除去が必要。位置も深く、大きく切除するので、自立呼吸が難しくなりますね。飲み込むことにも障害が出、肺炎にかかりやすくなります」
ということでした。
これじゃがんは治るけど、障害者になるってことですね。

とんでもない!
とセカンドオピニオンを求めることにしました。

そこでは、まず抗がん剤でがんを小さくし、その上で改めて切除部位を確認しましょう、大きくは切らないです、ということになりました。

で、手術して、組織検査してみたら、がんがなくなっていました。

父がけろっとしていたので、この結果を当たり前のように思っていましたが、これはもしかすると奇跡かもしれない。

父は完全に流れに任せていました。
そうなのかもしれないです。
補足

手術して、切除した肉片を組織検査したら、です。

念のため。

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