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やまじえびねコミュの『愛の時間』感想

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 管理人様勝手にトピック立てさせて頂きます。
『愛の時間』がこれまでの作品の中で、最も胸に来ましたので、感想を書きました。単品の作品に感想を付けるのが不都合であれば削除お願い致します。
 また、長文になりましたが、もし、他のコミュの方の同作品への感想がありましたら、と思っております。
 以下本文(本人の2008.9.16日記と同文 同年9.17校正)です。

 今年の最高の作品。大絶賛したい。大絶賛します。
 大絶賛、て日本語で変だけど(笑

『愛の時間』 (Feelコミックス) (Feelコミックス)
http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=9375867&id=1081215


  前に「やまじえびねの作品に嫉妬した。それはレズにしっとした。何故ならレズでなければこれ程深い愛を描けないからではないか、と思ったから」と書いた。この思いがさらに深めたのか『愛の時間』という作品であった。

 今回は内容的にハードな作品だった。けれども、先ほどの思いは強まるばかりだった。やまじえびねのブルー「えびねブルー」とでも言うような、「たけしブルー」があるので「えびねブルーグレー」とでもいうような純度の高い静けさが作品全体を覆っていた。
  その「えびねブルーグレー」が厚い作品を読んだ後に最も強く心に残った。ハードな内容の奥底に潜んでいるブルーグレーの塊が、心の中に息と共に沈んでいった。禅やヨガの呼吸法で息が肉体の中に沈んでいく時と同じような、そんな感覚を読後、味わった。

 「えびねブルーグレー」は、同性愛に関係しているのか? 同性愛でしかありえないのか? と問えば、関係しているとも言えるし関係していないとも言える。同様にありえないし、ありえるのだ。アリストテレスの種と個の話で言えば、種として関係しているしありえない、個として関係していないしありえるのだ。
 『愛の時間』はフィクションなのだから、多くの人に訴えかける作品だから、種の、つまり一般的に括られる話をしよう。
 同性愛者は現代日本社会では、「男って何?」、「同性愛ってどうして?」、「どうして私は人と違うのだろう?」という問いを突きつけられる。古代ギリシャのように同性愛が異性愛よりも高い地位にはない。ローマは異性愛も同性愛も同等に社会の中で受け入れられていた。あるいは日本の江戸期までの衆道は異性愛と同等と思われていた。現代日本社会では、明治期に入ってきたキリスト教の影響と言われるが、異性愛よりも低い地位に見られている。だから、一般的に括られると低い地位になった同性愛では、「自分て何?」、「どうして私は?」、「同性愛って私にとって何?」という疑問を嫌でも突きつけられる。そして同性愛は、性愛というのは肉体を伴う行為だから、自分の肉体の感覚を伴った問題となる。フェミニズムなどの精神的な行為と根本的に異なる。それに、現代日本社会では食事、という行為は、精神的な側面を殆ど失ってしまった。「頂きます」は「あなたの命を頂きます」や「神様の命を殺して私は生きていきます。有り難うございます」という意味を失ってしまっている。「頂きます」といわない人、食べる前に手を合わせない人の何と多いことか。排泄も、単に下水に流すだけの肉体だけの行為になってしまった。日本人は95%前後の人が死を覚悟する場が病院になってしまったし、自分の肉体の感覚として精神的な価値を問う行為が、非常に少なくなってしまった。
 そんな中で性愛だけは精神的な意味を持った肉体的な行為として現代日本社会の中に残っている。そこから「どうして私は?」や「私にとって何?」という意味を肉体の問題として問わされるのが、同性愛なのだ。この同性愛が一般に問う問いが「えびねブルーグレー」を生み出している、と私は感じた。
 
 本のあとがきで、やまじえびねは「描く終わるまで健やかにいられたことに感謝」と書いている。これは自分の肉体の感覚の深い内省の迷路から抜け出したことをはっきりと読み取れる。だからこそ、これまでの内省の迷路から迷路を描いていた作品をさらに深めた、言い換えれば迷路を突き抜けようとする作品を描けたのであろう。これは作品の内容がハードになったことでも判る。やまじえびねの作品は、最初の頃夢見がちな現実と泡沫を行き来するような作品(『夜を超える
』や『お天気といっしょ』(1)、(2))であった。そこから今回ははっきりと現実を客体化する視点が出てきた。内容がハードになったのも、同様に客体化出来たからであろう。不安に取り込まれている時は、不安が恐ろしすぎて描けないからである。せいぜい、不安をそのまま描くことしか出来ない。けれども、不安を客体化した時、不安にそうような夢想がそこに入れられるのである。レイプ犯の男性が現実感を持ちながら突き放して描かれて、つまり客体化して描かれていたのは、深い内省の迷路を突き抜けたからであろう。そしてレイプ犯をさらにレイプされた時の気持ちを描けたのも、同様であると推測する。レイプの話は過激な面だけれど、おとなしい面でも同じ客体化が沢山見られた。そして過激な面とおとなしい面の中に潜っていくと「えびねブルーグレー」が感じられるのである。ハードな内容になったのはこうした理由からではないだろうか。

 「私って何?」を肉体で内省した問い、そこから初めて生まれる純度の高さからすれば、性別や男女の区別、特に社会的区別や文化的な差異は、全て討ち捨てられてしまう程度のものである。そこに到達したのだと感じた。
 個の話からこの肉体で内省した問いを見れば、同性愛である必要はない。異性愛者であっても、肉体を通して内省した問いを持っている人はいる。そうした作品もある。逆に、同性愛を描いていても単なる性欲のはけ口や、自己肯定、自己承認欲求だけの作品もある。いや、異性愛、男性愛を問わず、そうした作品の方が多い。けれども、はっきりとしたメッセージを伝える、という観点からすれば、「私って何?」とか「どうして私は人と違うのだろう?」という問いを発するのに同性愛ほど判りやすいものはない。男性同士と女性同士で言えば、女性同士の方が統計的データとしても5〜10分の1くらいと少なく、腐女子と言われるホモ文学や漫画が一般書店で売られている現状からすれば、レズは非常にメッセージ性で優れている。私はそれを考えると、漫画という表現手段の中でやまじえびねの貴重さを、深く吸い込んだ呼吸と共に脳天を打ち抜かれたような気がした。さらに、食事や排泄という行為が精神的な側面を失った現代日本社会を考えると、2発目でも打ち込まれたような錯覚に陥った。そしてさらにそれはそうした題材を此処まで昇華させたやまじえびね、という表現者の凄さに感服したのである。最も難しい対象から昇華させるには、長いホースを海から空へとつなぐようなものである。それゆえ、昇華していくうちに海水は純度の高い水分子になっていく。私の肉体の中でも、横隔膜の下から脳天へと純度の高い水流が駆け上がっていくようであった。

 ただ、これ程の純度の高さは、誤解されやすい。市販のヨーロッパや日本の名水と静岡市の水道水を目隠して飲み比べてみると、美味しいとするのは水道水の方である。けれども、人々は売れているから、皆が買っているし、なんとなく、という理由でヨーロッパの水や日本の名水を買い求める。少年犯罪件数は減少し、犯罪発生率も変わらないのに少年犯罪が増えている、怖い、という人々と同じである。このように考えると、登場人物の悪役やハードな内容は、一般的な人々の心を止めてしまうのではないか、やまじえびねの勝手に名づけてしまった「えびねブルーグレー」を見られないのではないか、と危惧してしまう。そうだとしたらとても残念である。

 けれども、この問題は古くからある。禅の奥義は一般の人々には理解できない。「禅問答」という言葉は「単に難解、意味不明、言葉遊び」のような意味合いで使われている。「無位の真人」へと運ぶ一種の心理トレーニングで、判ってしまえばなんのことはない、全員が持てる心の持ちようなのだが、一般的には理解されないのである。禅を極めた人は、時に快活に過激に、時に泰然自若に静かにある。過激が禅の本質ではないように、『愛の時間』の過激な内容も、やまじえびねの本質ではない、とだけ一般の人々向けには書いておきたい。

 やまじえびねが、どのような人であろうとも、私はこの作品を生み出したことに敬意を表したい。
 目を閉じれば、何人もの登場人物が頭の中でおしゃべりをしている。人生の中で彼らの声が聞きたくなれば、また、ページを開くだろう。そうした時、また純度の高い「えびねブルーグレー」に逢えるであろう。

 なんともなんとも大きな作品との出会いであった。
 今年もいい年になりました。感謝感謝です。 

コメント(1)

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