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私の献身の記録です。
他言は無用に願います。

こんな事が書けるのは、ほとんどの聖職者が
これとは較べものにならないほどの経験をしておられる事を
聖職の道を捜していたときに知ったからです。


クレソンの花

人生は、雪の下に咲く一輪の花のように、いのちがある限り、
どのような困難も突き破って、美しい花を咲かすことができる。
始まりは小さくても、希望を持って歩み続けるならば、
人生に美しい花を咲かすことができる。親しいumedaさんの文章から


     人生の目的は?

 


クレソンの花   一

 大根の花を見ることは珍しいが、クレソンの花を見ることはもっと珍しい。七草のひとつナズナに似た小さな白い花をたくさん咲かせる。今、私はクレソンを育てて、花を咲かせたいと、変なことに夢中になっている。毎日あれこれ植物学的に考えては実用に耐えないことをしてがっかりしている。毎朝、特許事務所に通う道の側溝には、太さ八ミリ、高さ三〇センチにもなるクレソンがそだっている。何故だろうか?

 大阪では見ることが困難になった自然の涌水が、千里丘陵の竹林の下から少しづつ涌き出して、側溝を勢い良く流れているからである。その泉のもつ生命力というか、小さな植物の生命を生かす力の大きさに驚く。クレソンを引き上げて見るとその根は、たくさんの虫に養分を吸い取られていることがよく分かる。それでもなおクレソンは葉を広げ、花をたくさん咲かせる。野生というか、自然を感じる。

 このクレソンを取って来て5センチくらいに切り、水栽培をすると、初めは勢い良く育つが、そのうち生きる力を失い始め、肥料を施しても、かえって腐ったりしてしまう。神様の育て方ではない。

 イエス・キリスト様はこの泉のような方だなァと、この数年思うようになった。清い水が滝のように洞窟から涌きでるフィリポ・カイザリヤでイエス様が「あなた方は私を誰と言うか」と問われたこと、スカルの井戸での涌き上がる水の話、「あなた方のために一つの泉が開かれる」との預言、これらのことの中に、豊かな水源である神様の存在を何よりも明瞭に示す泉としてのイエス様が示されています。

 そして慰め主というおかしな語が《聖霊様は生ける水として泉より流れ出し、キリスト・イエス様を理解できるようにすることによって私達は慰められる》のだという意味から、父、子、聖霊の三位一体の教理が、ダイナミックな神様の働きをも示すものであることが分かり始めたのです。 

 このように理解出来るだけでも私は大変に幸せを感じるのです。導いて下さる神様の力が、生命の水の流れの中にあることがわかるのです。

 このようなことを分からせて下さった神様を証したいと思い、私がどのように生きてきたか、生かされたかを書き記しておきたいと思います。

 私は雪深い山々に囲まれた信州の北端、飯山市で生まれました。母の実家は、特に私の生まれた部屋は、昼でも目をこらして見なければ、そこに何があるのか分からないほど真っ暗な場所でした。四十四年前は《わらすべぶとん》という、綿でない、藁を入れた布団をつかっていたようです。そんなところで終戦後すぐに生まれた私は初産でした。母は大出血で、死にかけたそうです。その時、母にとっては継母であったおばあちゃんが「こんなかわいい子が生まれたのだから、死んではいけない、死んではいけない」と励ましつづけてくれたので、ようやく生きる事が出来たのだそうです。
 
 
クレソンの花 二

 私の父は子供がなかった茂十郎のところへ養子として来ました。父は呉服屋で長い間奉公し、あと三年で店を持たせて貰えるという所まで来て徴兵となり、戦地から帰って来た時は、もうそんな話もなくなっていました。帰ってすぐに私が生まれ、敗戦後の苦しい時代に誕生したベビーブーム、団塊の世代と言われ続けたのです。

 その当時まで、商売の才能のあった茂十郎は飯山座という地方としては珍しく大きな映画館の前にリリーというカフェを出し「帝都よりモガ(モダンガール)来る!」というようなキャッチフレーズで人を集めていました。しかし両親は酒の配給も無くなって来たこと、また、子供の教育に良くないからということで、飲屋をやめて菓子屋を始めたのでした。

 そこで、私の幼い時代の思い出は幼稚園、野山や川遊びの他に、繁華街で毎晩ゲロをはく大人達、珍しかったテレビを見せて貰いに行った芸者置屋の芸者さんたちが、どうしても出てきます。全体に貧しい時代でしたが、台所の隅でご飯にみそ汁をかけて食べるような芸者たちの姿は哀れでした。

 茂十郎は稼ぐ方は上手でしたが、使う方はもっと派手で、片道四里の湯田中温泉に仕事の後走ってダルマを買いに行ったそうです。ダルマとは手も足も出ないという哀れな女たちのことだったのです。よく長野電鉄に飛び込み自殺があり、この人達だったことが多かったようです。茂十郎の妻が気の強い女性だったそうで、そんな茂十郎を連れ戻すためにタクシーに乗って子供を連れて出掛けたそうです。

 そんなこんなで家の中はお金のことでいつも争いが絶えず、私が寝ている二階に、まるでナタで人殺しでもしかねないほどの喧嘩が毎晩聞こえるのです。

 ある朝気が付いてみると金ピカの仏壇がなくなっており、代わりにミカン箱のような仏壇になっていました。おじいちゃんが持って行って金にかえたとのことでした。変にサバサバした気持ちになった事を覚えています。

 このような中でも、キリストへの道が備えられていたのです。母方の腹違いの叔父が信州大学の工学部に通うために家に下宿していたことがあり、手を引かれて教会へ何度か足を踏みいれていたのです。記憶にあるのはクリスマスの子供の祝会で、聖堂の中にピーナツを三角のセロハンにいれたものを隠し、子供がそれを見付けるというゲームでした。オルガンの蓋を開けるとそこにあったというようなこと、たわいもない遊びですがそれをなさってらした多分木島のおばあちゃんと言われた伝道師の方は、深い苦しい思いのなかで笑顔をつくっているのだなということが、不思議に感じとれました。

 しかし、叔父が卒業したときに私と教会との間は途切れてしまいました。そして、その時代がそうであったせいもあるでしょうが、暗い貧しい時代を過ごすことになります。菓子屋という小銭の商売で妹一人、弟一人の三人の子供を食べさせ、教育していくことは出来ず、父は学歴もないまま、あちらこちらと勤めを変えては収入の道をはかったのでした。「今日はサンマだよ!」という時は御馳走だよという母親のはずんだ気持ちが入っていました。こどもはあきあきしていたのですが。


 クレソンの花   三

  小学校ではひたすら一人で本を読むような生活でした。また、休みには弁当持参で山遊びや釣りなどをしていました。当時は学校の先生の権威がまだあって、隣のクラスの先生はバットで生徒を殴るなどと聞いて脅えたことでした。中学では島崎藤村の「破戒」の舞台の飯山、それも総て身近な所にあるのを知り、それを読んで主人公自身が部落民であることを詫びる場面で、涙を流したことがあります。何も悪いことをしたのでもないのに、何故謝らなければならないのか、悲しいことでした。

 暗い時代に、さらに暗いことを考えていました。人間は死んだらおしまいではないか。それなら総てが無駄ではないのか?と。私がアイスクリームの補充のためにお使いにいったお店は、魚屋からスーパーにまでした立志伝中の親父さんが経営していました。そのだるまのように頭のはげたおじいさんが死ぬときに「死ぬのは嫌だ、死ぬのは嫌だ・・・」と言い続けたと聞くと、何と救いのない世界なのかと、更に心が暗く冷たくなりました。

 こんな事もありました。裏通りの角に、その当時は極めて珍しい、背も鼻も高い外人が、黒のキャソックを着て仁王立ちし、「あなた方、滅びますよ!!」と叫んでいたのです。恐ろしくなって家に逃げ帰りました。

 高校に入ってからは苦しい大学受験へと自らを追い込んでゆきました。工学部を出た叔父は、当時名古屋におり、私は名古屋大学受験を目指しました。分子生物学の黎明期でした。次々と明らかにされてゆく生命、人体の神秘に触れる科学を万能と考えていたのです。科学は生命を解明することが出来る。何も不思議なことなどない。総ては物質の働きである。そんな風に考え、ユートピアピアも科学によってもたらされるものと漠然とながら考えていました。

大学受験の一年まえに下見に来ないかと誘いをうけて名古屋へ出掛けました。数日滞在したある日、皆が身支度を始め、「行くよ!」と言われて、日曜日だからデパートにでも行くのだろうと思って付いて行った処がなんと教会でした。多分名古屋聖マタイ主教座聖堂であったと思いますが、大勢の人々、ことに婦人方が多かったのですが、礼拝をしていました。それに触れて「あぁキリスト教は生きているんだなぁ」と思いました。それまでキリスト教なる宗教があることは知っていました。しかし礼拝が守られていることも、本気で信じられていることなど、思ってみたこともありませんでした。この科学万能の時代に宗教が…と、そんな時代だったのです。礼拝後の紹介の時に叔父はしきりに私を制しましたが私はそれを振り切って自分の名前を告げたのでした。何かそうせずにはおられなかったのです。

  名古屋から帰るとすぐ教会へ行くことにしました。ところが優柔不断である私は教会の前まで行きながらなかなか中へ入ることが出来ません。教会の前を二、三度行き来しながら入れず日曜日はついに帰ってきてしまいました。そこで教会の看板をよく読んでみると夕方には晩祷があること、木曜日の夜には聖書研究会があることを知り、夕方になって聖書研究会に出掛けて行きました。真っ暗な聖堂の入り口に立って「こんばんわ」 「御免下さい」 と何度か声をかけると、ようやく暗い中から人影が現れ、パチッと昔の古い型の電球に灯が入り、ニッコリ笑って「よくいらっしゃいましたさあどうぞ」 と言われたのでした。今も親しい交わりにあり、祈って下さっている中村司祭との出会いでした。


クレソンの花   四             
 それから勉強がはじまりました。人生の目的は何なのだろうか?と思っておりましたので、説教、聖書研究会以上に、洗礼準備のための、体系的で、丁寧な教育がありがたかったと今でも思っています。大略、次のような要旨であったと思います。

 「神は愛です。神様は愛なのです。これが聖書の最も短い要約なのです。神様の愛と人間の愛とは違います。人間の愛は善いもの、美しいものを愛する愛ですが、神様の愛は聖なる愛、罪人を愛する愛です。

 罪とは犯罪のことだけではありません。犯罪を円で表すとしたら、その回りには、犯罪にはならなくとも、道徳的に問題となる罪があります。では、道徳的に完全であればそれで良いのかというと、かならずしもそうではないのです。宗教的な罪があります。たとえ、道徳的に問題がなかったとしても、神様の教えに従わなかった罪、背く罪があるのです。私達は神様の言葉、戒め、律法を守ることが決して出来ません。してはならないといわれるとしたがる、それが現実の人間です。

 そして罪は死をもってあがなわれなければなりません。血を流すこと無しに罪が許されることは無いからです。しかし私達は死ぬことができません。ですから、生きている限り私達は罪のなかにいます。たった一つの罪を犯しても私達は罪人なのです。そして自ら罪人である人間にはこの罪を取り除くことが決して出来ないのです。ヘブル語で罪という語には的外れという意味があります。神様を神様としない自己中心、自分が第一、それが罪なのです。

 そこで神様はこの私達を救う道を備えて下さいました。それも預言、約束の言葉の成就という明らかで真実な方法によって。みせしめのために絶え間の無い激痛を出来るだけ長引かせて殺すローマ人の考えた最も残酷な死刑である十字架刑によって、自ら罪無くして私達の罪をあがなう犠牲の供え物となられたイエス様を信じる者は、自らの行いの義によることなく、恵みによって罪許され、洗礼によって神の子とされるのです。

 神様と私達の間のこの新しい関係、契約は決して対等のものではなく、神様の恵みによるものです。我々にできることは、この恵みに応えて生きること、神様の栄光をあらわすことにあるのです。新約聖書の約はこの契約の約であって新しく翻訳されたという意味の訳ではないのです。

 神様は真実な方です。この真実ということをアーメンというのです。」

 十戒の勉強もしました。「汝、姦淫するなかれ。」の説明の中で、「心に情欲をいだいて女を見る者は、すでに姦淫をしたのである。」というイエス・キリスト様の言葉が引用され、聞いているうちに恐ろしくなって、とても私には出来そうにないことと思え、「私には出来ません。」と言いましたところ、「そうです。ですから、祈祷書には神の助けによりて我これを努むと書いてあるでしょう。」と言われ、すこしホッとしました。

 主の祈り「天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり、地にも行われますように…」の勉強では、黙想について初めて聞くことが出来ました。天という一字を黙想するだけで修道士の一時間の黙想に充分であると聞いてびっくりしたことでした。

 私の的外れの質問にも、理路整然と答えて下さいました。そして私の最終的な質問は、クリスチャンの苦しみについてでした。「クリスチャンであることによって苦しみが来るのではどうも?」という問いに対して「苦しみはこの世の人々に対してもあるのですよ!」という答えにギャフンとなったことを覚えています。若くしてシベリア抑留を経験された方の言葉には、反論を許さない力強さがありました。

 家で分からないながらに新約聖書を読み始めました。ふとんの中で、福音書に比べてまだしも馬鹿げていない(何という罰当たりな言い方か)使徒書を通読したり、パッと開いた箇所で迷いを開こうとしたり。ある晩はローマの信徒への手紙五章八節が急に自分のこととして分かったりもしました。「しかし、まだ罪人であった時、私達のためにキリストが死んで下さったことによって、神は私達に対する愛を示されたのである。」

 私がまだ罪人であった時、既に私は愛されている。それなら私は大丈夫なのだ。罪は他の人のことではない。私の日常の現実なのだ。私は、善い者、美しい者のみが愛されるものと思っていました。神の愛はそうではない、とは聞かされていても、まさか、この私が神様に愛されているなどとは夢にも思えないことでした。暗闇の中で天井を見上げていると、次から次へと熱い喜びの涙があふれ、耳の中に入ってゆくので、中耳炎になったらどうしようなどと、変な心配までしたことでした。

 それでも、洗礼を受けるには結構抵抗感もありましたが、同じ高校の先輩が二人同時に受洗することもあって、多少は心強く思ったりしたことでした。ひどく
蒸し暑い日に、学生服を着て受洗したように憶えています。堅信式は十月で、黒瀬主教の按手を受けました。その時、十数人も入れば一杯になる小さな部屋で祝会が持たれました。私は端近どころか、入り口の敷居の上に座っていましたが、主教様が「中に入ってらっしゃい。」と言って下さったので、やっと、中程に進むことが出来ました。この時「末座に行ってすわりなさい。」というルカによる福音書第十四章の御言葉を思いだし、「ああ、聖書に書かれていることは本当なのだなァ」と思ったことでした。

 この主教様は数年前に天に召されましたが、いよいよ臨終という時に、手をふとんから突き出しブツブツ言い出したので、家族の方が慌てて、主教様の手を押さえ付けてふとんのなかに入れようとしたのですが、入れても入れてもまた手を出されるので、そのブツブツをよく聴いてみると、知っている限りの人々の名前を挙げて祝福されていたのでした。本当に素晴らしい召され方をなさった方でした。

 教会には休まず出席しました。なにしろ、牧師のおっしゃるには、「僕が見るところでは、休まず教会に出席している学生の方が成績が良い、日曜も休まず勉強という学生は、仕事と休息のリズムが悪いから、大学受験にも失敗する。」ということで、夏の青年キャンプにまで私は出席しました。

 しかし、最初の年は一期校しか受けず、結果は見事に失敗、長野の予備校に通うことになりました。予備校はかえって人間的、教育的な面で良いなぁと、気付いたりしたことでした。仲間意識もめばえました。また、実質上の校長先生が朝のほんの数分の話をされる時に、よく漢字の語源の話をして下さったものです。父という字は、斧と鞭(むち)とをもった手を意味しているとか、葬式の葬という字は上下の草むらの中に死体が置かれている様を示すとか。幸福の幸とは手かせを示し、罰せられるべきところを幸いにも逃れることが出来たこと、福は祭壇の横に置かれた油の壷が一杯であり、神様の祝福の満ち溢れている様を示すとか、実にキリスト教的で、語源への興味を持ち始めました。皆様もぜひ主(しゅ)とか、聖とか、義とか、愛とか、罪、死、救い等の語源を調べてみて下さい。


クレソンの花    五            
 次の年の受験は、合格可能性も出て来て期待しながら臨んだのですが、最終日の最終科目の数学で、0点を取った事が、結果を見るまでもなく明らかとなりました。四問でしたが、一つも分からなかったのでした。さすがに打ちのめされて、広い名大の構内をトボトボと帰りました。途中で名大生に呼びとめられて、薦められるままに《赤旗》の一ヶ月購読の契約をしました。断る気力さえなかったのでした。

 二期校は長野の信州大学工学部化学科を受けました。数学が不得意な人間が工学部を選ぶ場合は、どうしても化学を選択します。試験問題は分かり易く、今度は全問解けました。これはと思っておりましたが、合格発表に私の名前はありません。国立以外の大学は経済的に不可能ですし、二浪以上では奨学金の受給資格も失うことになり、血の気が引く思いでした。

 ところが、その年に限って信大の理学部が、工学部の合格発表後に受験申し込みが可能でした。さっそく申し込み、試験の前日に松本に着いた私は、試験場の下見に、松本駅からゆるやかな上り坂になった大通りを歩きました。ボストンバッグを手に下げて、同じ受験生姿の学生と張り合い、相手があきれるほど性急に歩いたのでした。

 文理学部の構内は幹も太いヒマラヤ杉が美しく、その所々にロープを結び付けるためのくさびが打ち込まれていました。アルプスに憧れて全国から集まった学生達が、駆け上がるためのものでした。

 ここでようやく合格通知を手にすることが出来ました。何年もの努力の末に手にした栄冠でしたが、特に感激もなく、やっと終わったと思っただけでした。そして、その同じ日に、工学部からの補欠合格通知をうけとったのです。「これは良く考えてみなければならんぞ。」との父の言葉で、全く考えるまでもないことが分かり、工学部に進むことに決めました。

 その年から信大の教養課程は松本で行われることになり、私は《こまくさ寮》に入りました。鉄筋三階建ての医学部寮の前に木造二階建のおもちゃのような《こまくさ寮》が建っていました。寮歌を放歌高吟し、寮費値上げを政治問題として血相を変えるような寮生活をさめた目で見ていた私は、何はともあれ聖書研究会に入りました。

 ここの聖書研究会は医学部の学生が作っていたもので、半数以上が医学生でした。生命の神秘、また、死との直面ということが、日常的にある医学生にとって、聖書は特別の意味があるようでした。医学、看護学合同の医学祭では脳の輪切りを見たり、医学生に遺跡などからでる人間の骨の男女別の見分け方などをしつっこく食い下がったりしました。

 ウイリアムス神学館に入ってから、その偉大さを知ったのですが、宗教学は、神学の巨人カール・バルトのロマ書を訳した吉村善夫でした。冬のみぞれまじりの一日、彼が高下駄、黒マント、角帽の学生姿で大学構内を歩いていたのを忘れることが出来ません。彼はドストエフスキーと近代精神(神否定)の超克ということを学生に説いていました。

クレソンの花   六             
 学部での三年間(実際は四年間でした。)長野の工学部に 汽車通学をしました。当時は蒸気機関車がまだ残っていて走っていたのです。

 私が工学部を選んだ理由の大きなものの一つは、福音書が記す奇跡の問題に対する疑問の念が去らなかったからです。確かに今思えば、神が自分が神であるということを人々に知らせるためには、奇跡が必要であろうというふうに思うことができます。また、神の国到来の約束された徴として奇跡を考えることもできます。しかし、その当時は科学万能の時代であって、宗教に対して攻撃するのが進歩的とされており、奇跡を素直に受け取れなかったのが事実です。飯山の日曜学校で子供達に話しながらも、自分がいつも躓くのは奇跡の問題でした。聖書に嘘が書かれていては頼りにならないのです。

 ですから、工学部での勉強も化学式の詰め込みや、計算ばかりというようなことには心が動かず、成績は下がるばかりでした。

 一方、科学思想的なものには興味があって、ガリレオやニュートンがなぜ敬虔なクリスチャンであり得たのだろうかというようなことに興味があったのです。また、少しずつ知れば知るほど人間の体、細胞等の恐ろしいまでの秩序、小宇宙と呼ばれるにふさわしい精緻さに心が引かれていきました。

 さらに、法則が絶対という考えからも徐々に抜け出して行きました。法則が成立するのは実はごく限られた条件の範囲内であると分かったのです。オームの法則であろうが、ボイルの法則であろうが、法則といえるほど絶対のものではないのです。もしかしたら、奇跡というのも有り得るかも知れないなどと思い始めました。まさか物質不滅の法則から考えてパンが無から生じることはないであろうとか、水の上を歩くことは重力の法則から考えてあり得ないであろうとかいう心の声に対してさえ、いや総ての体中の原子、分子は動いているのだから、それが一時に同じ方向に動いたらどうだろう、物質不滅といっても、物質がエネルギーに変わることがあるのだからとまで、今で言えばブラックホールの逆の、物質が一点から涌き出すホワイトホール等という話しでもあれば、すぐ飛び付くような精神状態でした。

 そうした中で妙にリアリティをもって語りかけて来るのは科学者の信仰の態度でした。自分流の理解ですが、パスカルは言います。

 「もし右と左の二つのどちらかに賭けなければならないとして、右は永遠の生命、左は確実に永遠の滅びであるとしたら、人は信仰に賭けるのが当たり前ではないか」

 また、同じように奇跡の問題にぶつかりながらも自己の醜さのためにアメリカの神学校にまで入学した内村鑑三の、奇跡は人生の実験つまり神様の言葉に従うことによって確かめられるのだという生き方に引かれました。
 
 これも自分流の言い換えですが、彼はアメリカの神学校の総長に「内村君、君は自分を見ている。そうではなくて君のその罪のために十字架にかかって苦しんでいるキリストを見なさい」
と言われて、初めて魂の平安を得たのでした。今となっては難しすぎる彼の文章を紹介してみましょう。

 「かくして失望の極に達したる時、余の場合においてはアマスト大学前総長シーリー先生が余の指導者であった。すなわち人の義とせらるるは行為(おこない)によるにあらず信仰によることを、余は初めて彼より教えられたのである。「なんじの義とせらるるはなんじの努力によるにあらず、なんじ自身いかにおのれを聖めんと欲するも聖むるあたわず、なんじの義はなんじ自身においてあるにあらず、なんじの罪のためその身を十字架につけられたまいし、かの主イエス・キリストにおいてあるなり、ゆえに自己の努力を放棄し、ただ彼を仰ぎ見よ、さらば救われん。」と。このことを知って余の重荷はたちまち余の双肩より落ちたのである。神の前にみずから義人たらんとのみあせりし余は、ここにおいて目を挙げて、十字架上に宝血を流したまいしキリストを仰ぎ、よってもって義とせられたのである。すなわちすでにまねかれたる余は今や義とせられたのである。余はここに救いの第二階段を登ったのである。」

 聖書を人ごと他人のこととして読んでいる限り奇跡は馬鹿げたことでした。しかし、自分のこととして読むならば、奇跡なしには救われない自分のこととして読むならば、クリスマスも、水の上を渡ってこられたイエス様の救いも、十字架も、復活も総てが福音となって行くのでした。


クレソンの花   七             
 学部でも聖書研究会に入りました。会員募集のポスターを見て、指定の庭のロータリーにいきましたが、入会者は私一人で、まことに心細いことでした。新たに入会したのは私一人でしたが、変わった人の多い聖書研究会でした。三ヶ月かけて一つの積分方程式を解く人、人の泳がない季節に湖で一人泳いでびっくりさせる人とか、巻紙に毛筆で教会の青年会の奮起を促す人とかいろいろでした。三回生になると自動的に私が聖書研究会の部長になり、許可も受けていない部屋で勝手にミーティングをしているところを見つかってとがめられたり、さんざんでした。

 こんなこともありました。部員が少ない、集めなければならない、集めるにはどうするか、何か催しをすれば良い。何をするか、あれはどうだ、これはどうだ、といろいろ考えた末に教育学部、短大、工学部の聖書研究会が合同でミズバショウを見に行こうということになりました。奥裾花渓谷に巨大なミズバショウの群生地が発見されて脚光をあびている時でした。まして短大生との合ハイともなれば、釣られる者も多かろうという甘いもくろみでした。

 ポスター作りも私が五W一Hを書くだけなのに、先輩は「これでは人を引き付けることは出来ん。もっと良いキャッチフレーズを考えなけばアカン」ということで、頭をひねったのですが、私にはさっぱり思い付きませんでした。ついに先輩の《水芭蕉のほとりで!》と決まり、皆感心したことでした。

 さて、当日は指定したバスターミナルに向かいました。ところが、だんだん雨模様になってきました。しかもバスターミナル内は行楽に出掛ける人達で一杯でした。集合の場所も目印も何も決めておかなかったため、だれがポスターを見て集まってくれた人なのか、さっぱり分かりません。「雨だったら中止ということでしたよね!」と私が言うと、「えッ、そんなの聞いていない」ということで、さらに悪評を買ってしまいました。ましてポスターを見て出掛けた人にはだましたことになってしまいました。ミズバショウが群生している現地は、晴天でも長靴が必要なのです。貸長靴屋が営業しているようなところであることを知っていた私は、臆病風に吹かれて、中止の方向にもっていってしまいました。

 それでは、ということで、解散したのですが、ではどこに行こうか?と仲良しの教育学部の聖研部長と、そこに来たバスに乗りました。バスは山清路(さんせいじ)に向かって走ります。山清路は谷の水が明るい空色やグリーンとなって澱んでいる美しい処でした。では、これからどうしようか?ということで、歩くことにしました。一つの川に沿って上がる道をトンネルを抜けたりしながら上がり始めました。そのうち気が付くと、素晴らしい峡谷美の処に来ているのです。「やッ これは凄いな!」などと言いながら上がって行ったのです。長野県に住む人でさえ、殆ど知らない差切という景勝地に入り込んでいたのでした。水が岩を差し切ったという地名の由来が書いてありました。祈りを全く無視した人間的な目論見が、もろくも崩れ去った直後にあって、二人はしばらくこの偉大な峡谷美に打たれたことでした。


クレソンの花   八             

 大学時代は日曜学校の教師を頼まれていたため、信仰上の話をすることは自分にとって勉強になりましたが、子供達はなかなか洗礼を受けませんでした。今考えると、洗礼の話はしなかったように思います。子供は子供の礼拝、大人は大人の礼拝と、分けていました。子供たちが大きくなったとき、「もう大きくなったのだから大人の礼拝にでなさい」といって大人の礼拝に出席させたところで、見知らぬ大人、なじめない大人の礼拝では長続きしなかったようです。私が受け持った三十名ほどの子供達の中で、洗礼を受けたのはたった一人でした。それも両親が信者でしたから大人の礼拝にも出ていた子でした。その時以来私は子供の礼拝と大人の礼拝の関連の大切さに特に関心を持つようになりました。なにしろ、中村司祭は「子供を洗礼まで導かない日曜学校は悪魔の子を作っているようなものだ!」との極言でしたから努力しましたが、懸命になればなるほど、迷いは心の中で深まるばかりでした。

 大学の三年から四年にあがる時でした。自分でも、必要な単位が少し足りないかな?と思っていましたが、「例年二割は落ちるらしい」との仲間の噂を聞いて、二割は十人弱だから、これは到底駄目だ、と諦めて勉強もろくにしなかったのでした。ところが本当に落ちたのは私一人でした。奨学金も貰えなくなり、本当に困りました。ところがその年からたとえ落ちても研究室へは入ることが認められたので、四年生と同じ研究をすることが出来ました。卒業に必要な単位もその年の内に取ることができ、おかげで楽しい研究室生活を二年もすることが出来ました。コロジオン膜を通っての電気浸透にかんする研究は一年で充分なのに、ダラダラと二年もかけたことになります。

 大学院生の指導で手作りのギョウザを山ほど作ってコンパをしましたが、ギョウザの具に塩味をつけることを知らずに作り始め、作り直しさせられたりした記憶があります。白菜は実験で使うミキサーをよく洗って水を加え、瞬間的に刻んでしまいました。研究室生活の二年目に研究室に入ってきた学生の中に上田のU君がおり、たのまれて教父母となり上田聖ミカエル教会へも出かけ、同教会とも一層親しくなったことでした。卒業後の就職先は、県内には思わしい所がなく、横浜保土ケ谷の古河電池に就職しました。二部上場の会社でしたが、入社間もなく、一部上場の話が出て、株価は連日値上がりしました。社員にも株を買うようにとの話が出るほどで、景気の良いことでした。給料が一年で五割も上がったのではないかと思います。

 教会は横浜の大きな教会に行っていましたが、田舎出の私には何かもの足りず、その頃渋谷聖ミカエル教会にいたU君の勧めもあって、横浜から渋谷まで毎週通い、晩祷を済ませて横浜へ帰りました。日曜日だけでなく、平日の夜の聖書研究会にまで顔を出し、食事を頂いたりしていました。司祭は今立教大学の関 正勝教授でした。教会の仕事が忙しく、いつ勉強されるのかと思うほどでしたが、多忙の中でもよく勉強しておられました。その頃から立教に戻って学問をとのお考えだったようで、いろいろ準備を整えておられたと思います。

 ミカエル教会の青年会が聖公会神学院を会場にしたプログラムを立て、私も参加しましたが、寮の廊下の薄暗い所には悪霊が宿っているような雰囲気で、ゾッとしたことでした。独りではとても来られないとさえ感じたことでした。この青年会はなかなか活発に活動していて、草津の救ライ園慰問など多くの思い出があります。夜の集会後、施設内の温泉に入ろうということで、男女別に分かれましたが一つ屋根の下で聖歌を大声で歌い交わしたこともありました。


クレソンの花   九  

            
 渋谷聖ミカエル教会には、長野県出身の青年が五人もいましたから、ずいぶん教会生活が励まされるように感じました。ある司祭が、新潟から青年を転籍するには、同じ教会に送るようにしているとおっしゃっていましたが、もっともなことだと思います。

 ある時、「あなたは信州出身なの?それならイエス様どっこいね」という意味不明な会話を聞いて、それは一体何ですかと尋ねたところ、忘れられない話を聞くことが出来ました。信州それも南の方らしいのですが、おばあさんが山奥に一人で住んでいて、そこへ行くには吊橋を渡らなければならないのだそうです。確かに信州にはそういう場所はたくさんありますが、その吊橋がよくゆれる橋で、夜中などは灯も全くなく、一歩ごとにブラーンブラーンと左右にゆれて、大変怖いのだそうです。そういう時、そのおばあさんは一足ごとに《イエス様ーどっこい!イエス様ーどっこい!》と言ってバランスを取りながら真っ暗な中、吊橋を渡ってゆくのだそうだす。

 その頃です。私は初めてプロポーズをしたことがあります。相手は日曜学校の先生でした。その時の返事も忘れることが出来ません。「牧師になるなら」ということでした。そんな条件付きの返事なんてあるものかと思いました。その話は結局断られましたが、私も人を指導する力などなく、牧師になれそうもないと思っていました。また牧師の置かれている経済的事情を知れば知るほど牧師志願など思いもよらないことでした。この女性はいつまでも家に置いておくわけにはいかないからと、半ば強制的に同じ農家の方と結婚させられたと、後で聞きましたが、私が牧師志願をその時決心していれば、あるいはこの女性と結婚していたかもしれません。当時のことを今でもチラッと思うことがあります。その後も三人の牧師から牧師になるように勧められました。信徒の方からの願望もありましたが、私は踏み切れませんでした。ところが後日になって、いざ牧師にと決心した時に起こった様々なトラブルには閉口しましたが、全く予想もしなかったことでした。

 さて、会社の仕事の難しさは、まるで、月ロケットを一人で打ち上げろと言われたかのように感じ、手も足もでませんでした。最初はヒドラジン燃料電池、最後は携帯電話用の銀電池の開発でした。試作品を持って通産省の電子技術総合研究所に行ったことがあります。

 ああいう最先端にいる人達は、知れば知るほど不思議な世界に触れるわけで、宗教的思索にふけったり、あるいは占星術的考えに傾いたりすると聞きましたが、研究所内部の雰囲気は正にそのようなものでした。部屋じゅうに細い電線が張り巡らされ、かなり異常な世界でした。ここで私は自分の能力の足りなさを一層はっきりと自覚させられました。一方で、発明と特許に関する研究心が抑えがたく起こり、もう一度大学院で勉強し直そうと考えたのでした。


クレソンの花    十             
 大学院に入って勉強をと思ったわけですが、仕事を辞めてから始めたような受験勉強では、秋の入試に間に合う筈もなく、希望していた高分子研究室には入れませんでした。暗い気持ちでいたところ、年が明けてから再募集があり、合成化学科の無機材料研究室に入ることが出来ました。高分子膜と無機合成とでは全く別の世界なのですが、大学四年の時、同級生が煉瓦を鋸で切っているのを見て、高分子研究のわけのわからなさにくらべて何となく自分にもできそうだなと思ったことがあったのがきっかけでした。大学での奨学金はチャンチャンと返済していたので大学院に入ってからも難無く奨学金が借りられて幸いでした。

 大学院での授業は分かり切った世界の話ではなく、現在研究中で、まだ分からない世界を少し覗かせてくれるものであり、また、導電性のある強度の大きなガラスを造る目的を持って研究するという創造性があるものでした。創造のために必要な自由な雰囲気の中で、随分と無茶なこともしました。これは私が目撃したことですが、ガラスを造るためには熔融した酸化物を急冷しなければなりません。どうしたら急冷することができるか?バケツに水をはってその中にるつぼをほうり込めば良い。ということで、ポリバケツに水をはってそこに一二〇〇度にも加熱して真っ赤になったるつぼをほうり込んだところ、一瞬ゴボゴボと音をたてたその直後にバシャッーと大音響とともに大きな水柱が立ち、天井まで飛んだのでした。高熱のるつぼをほうり込んだために、水が急速に沸騰して爆発したのでした。ポリバケツは破裂してしまいました。

 一年間の院生生活はアッというまに過ぎてしまいました。実験結果をまとめてガラス学会で発表することになりました。発表する原稿はそれこそ手取り足取りよろしく一行一行教えられ、直してもらいました。その指導方針は「分かったことを書く。分からないことは一切書くな」ということでした。実は分からないことのほうが面白そうで、それを発表したほうが興味深いのではと思ったのですが、人間の知識の一大蓄積をもって自覚自任している世界では、興味よりもバナジウム何%で、加熱時間、電気抵抗がいくらいくら、ということが、もっと大切なのだということでした。

 学会で発表した後の質問は「そのガラスには艶があるか?」というようなことでしたが、それがどうしたというのだという反抗的な気持ちが先にたってしまい、ついブッキラボウな答えをしてしまったのです。実はガラスの性質を知るためには艶は重要な指標だったのです。

 信仰的にはどんどん落ち込んでいった時代でした。同学の院生がバイトをしていたキャバレー内の面白くおかしい話を聞いて、繁華街に通い始めました。心の中では、自分は女性との会話が不得意である。工学部は女性がいないも同然だし、繁華街に通って女の子と話をするのも訓練の一つと、都合のいいように解釈して、祈祷書にある通りに、「己が工夫と欲に従って」いったのでした。キャバレーの場所、費用、女の子の源氏名まで細々と記し、それを卒業記念パーティー用に配ったりしました。


クレソンの花   十一            
 教会には欠かさず行きながら、繁華街に通うようなことが何故できたのか、そんな矛盾が何故できたのか?教会を大切なものと考えたからというよりは惜しかったのだと思う。週の一日を使い。僅かであっても献金をし、時には友達をなくし、教会へ行くなという家人との争いを無視しての教会生活は、自分の中では大きなものとなっていったのだと思う。

 次に就職するなら弁理士を目指す特許事務所をと決めていたので、九月一日の就職活動解禁の日に、先輩が開いていた特許事務所に電話しました。この先輩が受験勉強のために研究室の涼しい恒温室に来ていたときに一度会ったことがあるだけでしたが、会ってくださいました。そしていろいろ聞かれました。「君は何に成りたいのだ」と聞かれ「弁理士と博士に成りたい」と答えました。その時、牧師にも成りたいのだと言いたかったのですが、言っても分からないのではないかと思いました。「弁理士になってどうするのだ」と聞かれて「なれればそれでいいんです」と自分でも呆れるような返事をしたことでした。

 法律の世界での弁護士の役割が、技術の世界での弁理士であり、同じくらい試験が難しく、報酬も豊かで、当時は夢であった一千万くらいのステレオ装置も買おうと思えば買うことが出来る、そんな程度の認識でした。

 実際に事務所に勤めて、傍ら受験勉強を始めてみると、悩まされたのは激しい運動不足でした。一日机に向かって仕事をし、夜は読書という生活ではそうなるのは当然ですが、運動という運動は嫌いでしたから、運動不足はつのるばかりで、心臓の回りに脂肪がついて圧迫される感じがし、ついには駅の階段にもハアハア息をのむ有り様でした。

 これでは?と悟ってウインドサーフィン講習会に申し込みをしました。ウインドサーフィン草分けの頃でしたから、協会の会長が車に五台ほどウインドサーフィンを積んで、東京から六時間以上かかる長野県の野尻湖までやって来てくれました。この講習会の主催者は、過去に横浜でウインドサーフィンを見て、これは必ず儲かるとひらめいたケンネル(犬屋さん)の若い親父でした。私はこの親父と親しくなって、長野にウインドサーフィンを導入しようなどと、熱を上げていったほどでした。なにしろこの運動嫌いが、夢中になれ、安全で、格好よくて、運動不足など一発で治ってしまいましたから、さっそく二十万円もする一式を購入することにしました。

 この人から商人の世界を少し覗かせてもらいました。その考え方、行動力には目を見張るものがありました。ある時は犬の鉄製檻を受け取りに長野から新潟市の近くまで車を運転するのも平気な風で、「今日はこれで二万円になる。どうだ、ここの刺身定食はうまいだろう」などの話から始まって、多くのことを教えられました。株を買わないかと勧められて、いろいろ世話になっていることだしと思い、十万円出しました。ところが株券をくれません。何回催促しても上手に逃げられてしまいます。「あの株券のことですが・・」と切り出すと「フンフン・・・」と鼻であしらわれ、どう言って断ってやろうかと断る口実を楽しんで考えているのが見えるようでした。私も勉強があり、いつまでも拘わっていられないので、あれこれ考えた末に「あれは貴方に差し上げることにします」というと、さすがに驚いた風でした。その頃私の周囲には受験する仲間が集まり始めていました。


クレソンの花   十二      
       
 受験生仲間は、事務所の男性三人、松代で塾を経営していた女性、高専卒のバイタリティあふれる男性で始まり上田から、塩尻からと遠距離からの勉強仲間、大学院卒の女性他と様々な人が加わり、又、去っていきました。この中で合格したのは四人で、最初に受験生仲間の幼稚な議論から抜け出して合格したのは青本と受験生仲間が呼んでいるぶ厚いおもしろくもない工業所有権逐条解説を、読み始めの日と読み終わりの日とを一回読むごとにつけて、三〇回も読み返した人でした。最後には、聖書ほどもあるその本を一時間で読むことができたそうです。受験生が集まったのは六畳一間で、間借りの家賃は月五千円でした。夜遅くまで読み合わせしたり、議論を続けました。指導者なしに、ああでもないこうでもないということでは、熱意はあっても有効とは言えなかったような気がします。私は帰りの列車がなく、自然にこの部屋に泊まり込み、部屋の主のようになってしまいました。

 特許事務所のほうは、どんどん盛大になっていきました。駅前の一室から移転して見晴らしの良い新しい三室へ、現在は広い敷地に三階建てての美しいビルになっています。所長は講演が好きという感じで、週の半分は様々なところでの講演会ということが珍しくない状態でした。

 そうこうしている内に、私を導いて下さった中村司祭が長野聖救主教会に転任して来てくださいました。ああよかったなァと思いながら、事務所から歩いて二十分ほどの先生の所にお邪魔するのに半年か一年たってしまいました。叱られてしまいました。受験勉強中でしたので、入り浸ることもありませんでしたが、今でも覚えているのは中村司祭がキャソック姿で事務所を訪ねて下さったことです。女子事務員は何事かとびっくりしていましたが、私もびっくりしました。用件は飯山復活教会の婦人会に印刷物を届けて欲しいということだけでしたが。

 仕事、受験勉強と毎年の東京での受験、日曜礼拝とその直後からの車に乗ってのウインドサーフィン行きということで、五年間が過ぎ去って行きました。成績は一向に上がりません。今思い返すと一度書いた答案が何故そんなに点が悪いのか、つきつめて考えて、自ら模範答案まで仕上げるという大切な、一番苦しいことをしなかったのが原因だと思いますが、やはりその時には、それをしとげるだけの能力というか努力が足りなかったのだと思います。

 仕事の方はどんどん難しくなっていきました。英、独、仏、伊は勿論スウェーデン語などの文献もあり、手を焼きました。しかも所長は忙しくて、週に五分間の打ち合わせの時間が取れないこともありました。行き詰まっていた私は仕事を止めることにしました。しかし、家の者には相談せずに止めましたので、毎日弁当をもって県立図書館に通いました。

 弟にはしらせてありましたので、ある日、図書室に電話の呼び出しがありました。電話の内容は父の入院ということでした。家にかえって母と相談したときに、母は「これからはあんたにがんばってもらわねば」と言いましたが、その言葉を引き取るかのように、私は仕事を止めたことを母に告げました。一つでも重い出来事が、二つも続いて起こったことに、母はしばらく沈黙していました。


クレソンの花   十三 
            
 父は大腸ガンでした。ひどい便秘というか、糞づまりの状態で苦しみ、様々な民間薬を飲んでも少しも通じがなかったのは、直径三センチくらいのポリープが大腸内にポプラのボールのように吊り下がったためでした。大腸ガンは素直なガンといわれますが、手術は成功し、若い医師が、病院の廊下のリノリウムの床に、長さ三十センチもの開いた大腸をベッタリと置いて、丁寧に説明してくれました。三年もたてば再発はしない、大丈夫でしょうと言われて安心しました。手術後初めて通じがあった時、父は「出た!出た!」と言って喜んだそうです。

 しかし、小心の父にガンのことは言えません。言ったとしたら父は気に病んで死ぬかもと思ったからでした。ですから父は病状を深刻に受け止めず、食生活の改善などは全く考えもせず「野菜なんて馬の食うものだ」といって食べず、ついに、好きなようにということになってしまったのでした。

 ウインドサーフィンはその後もしばらく続けました。琵琶湖に車で出掛けてインストラクターの資格を取ろうとしましたが、前回の湘南と同じく、今回も荒れ模様の高い波の中でじたばたしてしまい、それなら安定性の高さを見せようと足を開いて踏ん張ったところ、足を揃える格好良さを損なってしまい、自分には体育系のセンスとか格好良さは全くないことが分かり、また、セールを水中から引き起こすだけでせなかの筋肉がいたくなるなどの年令を意識して、それ以後は全く止めてしまいました。

 毎日、長野県立図書館という冷暖房完備の立派な図書館に通い、仲間の援助を受けて週一回東京の受験講座に通いましたが一年も続くと経済的に困難になってきました。そこでアルバイトをしながら勉強を続けました。ところが、受験勉強に集中出来ず、書棚にあった内村鑑三全集や、料理関係の本に興味が移り、読み耽ってしまいました。ついには、一次試験すら通らなくなったのでした。

 当時は全く自由な身でしたから、日曜日の午後と水曜夜の聖書研究会、また、中村司祭が隣の稲荷山の教会、幼稚園に行かれる日は、留守番兼ご老人相手と、週三日は長野聖救主教会に出掛けました。当時、飯山復活教会には、河西先生という農林高校の国語の先生が求道してこられ、私は彼を連れて、この聖書研究会や諸所に出掛け、車中長話をしたものです。「イエス様は、「私はよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」とおっしゃてくださっているけれど、羊飼は羊を食べちゃうんだからね」と話しても、東北大学で哲学と宗教を学んだその先生は、ただ冷静に受け止められたようでした。また、「わたしはねたむ神である」というのは言葉どおりに受け取ってはいけないという曽野綾子さんの話をしたところ、非常に怒られてしまいましたが、今でも印象に残っています。

 その少し前から、東京の堀越さんという青年が、しばしば長野の教会をたずねてこられたことがあります。全盲の彼は、ねたましく思われるほど素晴らしい人格の持ち主でした。当時大学院で言語学を学んでいたようですが、ある日彼から「大阪で開かれる聖霊セミナーに参加しよう」と、長電話で熱心に勧誘されました。しかし私は受験生でありわざわざ大阪まで出掛けてみるほど価値のある集まりとも思えず頑なに断ったのでした。


クレソンの花    十四           
 遠い大阪での聖霊セミナーへの勧誘は断りましたが、それから一年近く経過したある日、長野聖救主教会の牧師館でホカ弁のお昼を食べている若いアメリカ人と会いました。ウィラーさん(現在ハワイにてブライダル司祭)でした。彼はアメリカで牧師になろうとしましたが、性格検査で粗暴(?)とかの理由ではねられ、日本伝道をということで名古屋で英語塾の講師や経営をしながらカリスマ派の教会に出席し、そこで日本人女性と熱烈な恋愛結婚をしました。

 その後もやはり司祭になりたい、それも聖公会希望ということで、一旦帰国しましたが、そこで当時中部教区の主教であった植松主教に励まされ、再度日本に来ていたのでした。植松主教も即採用などということは出来ないわけで、長野の稲荷山諸聖徒教会に部屋があるからということで家族五人でそこに住み、彼自身は長野市内の塾に出掛けて英語を教えていたのでした。ホカ弁を食べながらも楽しそうな、バイタリティーあふれる彼には人を引き付けるものがありました。

 彼は大分荒れていた稲荷山の教会の牧師館の修理をしたり、祈りの会などをもって聖霊刷新キャンプの計画、実行をしてゆきました。聖霊セミナーと言うには少し大袈裟過ぎますが、しかしその内容においては中身の濃い、充実した会であったと思います。ある日曜日、又々河西先生と長野聖救主教会に出掛けたところ、司祭は稲荷山に出掛けて留守ということでしたので、それなら稲荷山に行こうということで、さらにドライブを続けて稲荷山に行ったのでした。稲荷山の教会では聖霊刷新キャンプの準備で、聖堂内部の壁を教会員総出で塗り替えているところでした。私も飯山復活教会の壁を塗り替えて「きれいにしましょう、明るくしましょう、楽しくしましょう、目標日本一の教会」などと張り出したりしていたことでしたから、さっそく車のトランクから作業着と長柄のローラー刷毛を取り出し、ペンキ塗りを手伝ったことでした。

 思いがけない援軍の出現は稲荷山の教会の人達には神の導きを思わせたようでした。一仕事終わってから食べた梅の甘酢漬の鮮やかな色、爽やかな味は格別でした。

 「反対する人もあるからね」との中村司祭の言葉を、それもそうだろうくらいに聞いていましたが、いざ聖霊刷新キャンプが始まってみると驚くことばかりでした。お堅い日本キリスト教団からも招かれて説教をする水野先生は、ウィラーさんが出席していた教会の牧師であり、その小柄な体からは火のように熱烈な説教が次から次へと繰り出されました。

 しかもその火は主イエス・キリスト様が証をされることによるもので、旧約聖書そのままのタンバリンや踊り、手をあげての賛美や自由祈祷といった、聖公会からすれば相当に風変わりな様式を忘れさせるものでした。この時の説教の録音テープを活字にしたくなり、十三万円もするワープロを買って習いはじめたほど大きな影響を受けました。そのメッセージの内容は、我らの救いというよりは、まず私の救いであったように思います。主イエス・キリスト様が天から降られたこと、それは私達がというよりは、私が天にのぼるためであった。聖霊によって乙女マリアから生まれられたのは私が聖霊によって新たに神の子として生まれるためであった・・・。主イエスの十字架と復活だけでなく一挙手一投足は勿論のこと、その眼差しのひとつすら私のためであることが分かったのでした。


クレソンの花    十五  
          
 水野牧師の説教の要旨をご紹介したいと思います。

 「私は今朝、改めてイエス様の生涯を考えました。イエス様がゲッセマネで血の汗を流して一生懸命祈っていらっしゃるのに弟子たちは寝ていた。なんと象徴的な出来事かと思います。弟子が目を覚ましたとき、イエス・キリストを捕らえる兵士がすでに来ていました。イエス様が捕らえられ、拘束され、縛られた。何のためか?それはガラテヤ書にあるとおり、私達が罪の奴隷となって縛られ、拘束された不自由な生涯を送らないためです。私達が本当の意味で自由人として生きるためであったのです。

 愛はいつも自由を要求しますし自由を与えます。愛は自由を持っています。愛の喜びを知るには、自由がなければなりません。私達に自由を与えるため、イエス様があの夜、縛られたのです。

 縛られただけでなく、兵隊達はイエス様を辱めました。嘲笑しました。軽蔑しました。イザヤ書にあるとおり、もはや貴方達が辱められない為です。私達がイエス様の流された血、いのちの恵みをあらわす血潮とイエス様の体をあらわすパンをいただくとき、イエス様が辱めを受けられたため、私達はイエス・キリストによって栄誉を受けることができる。イザヤ書には神の栄誉を受けることができるとあります。素晴らしすぎて私には、信じられないような気がします。こんな醜い私がどうして神の栄誉を受けることができるのか?

 しかし私は知っていることがあります。私の父は明治の生まれで、とても厳しい父親で、私はいつも文句を言っておりました。その父親が何を私に要求するかというと、学校へ行ってしっかり勉強せよ、です。私は学校も勉強も厭だった。ですから父親がいなかったらこの世は天国だと思ったことがあるんです。それでも父親は私に厳しく言います。しかも私の姉が小学校の先生で、父親の意向をうけ、しっかり勉強しろ、と言うんです。本当に閉口しました。私はいつも反抗心を燃やし、早く自立して家を出たいと思い、腹をたてながらその時を待ったのです。

 その時が近づいてきたある日、母親が私に言ってくれました。「明広、おまえはお父さんがなぜあんなことを言うか知っているか?」「知らない」と言いましたら私はその時、初めて父の生い立ちを聞いたのです。父は小学校の四年のとき父と母を亡くした。そしてその時から、妹、弟をかかえて働きに出た。そして苦労して苦労して現在の地位にまできたのだ。父親は職場に社会に働きながら学歴の大切さ、勉強の大切さをいやというほど感じた。だから父はその苦しみをおまえに味わわせたくないために一生懸命言っているのだと。

 それまで知らなかった息子の私がのんきだったのですが、びっくりしまして、今度は父親に違った考えを持ったわけです。私は父親がどんなに雨が降ろうが風が吹こうがいつも精を出しよく働いていたことを思い出します。そして働きながら天国に召されていきました。そういう父親を思い起こすときに、私は一つだけ言えます。人間の親でも自分の子供には良いことをしたい、天の父なる神はなおさら良いことをその子供にして下さらないはずがあろうか?

 ヨハネの福音書にはイエス様は自分の弟子を最後まで愛し通されたとあります。この訳は非常に難しかったのですが、徹底的に、限りなく、残っている弟子たちを愛し通しつづけられたという意味があるのです。ですからイエス様は私の身代わりになって、皆様の身代わりになって捕らえられ、皆様を自由にされたのです。イエス様はいばらの冠をかぶせられました。恐ろしい姿です。針の大きな長いいばらで編んだ冠を兵士は突き刺した。なぜですか?イザヤ書には貴方に栄光の冠をかぶせるためとあります。

 イエス様は鞭打たれました。イエス様は私達の科(とが)のために私達の病を負って鞭打たれたとあります。イエス様の福音は単に私達の精神を救うだけではないのです。イエスの打たれた傷によって私達はいやされた。私達がイエス様の十字架、苦しみの光景、流された血を見たとき、それは偶然に流されたと考えてはならない。キリストの体が私達の、また私の体となるためであった。ですから、パンを食べることはイエス様の体にあずかることです。」  

 クレソンの花   十七      
      
 夜の部に入ってさらに驚くべきことが起こりました。聖霊に満たされることの重要性が説かれ、個人個人の経験としてこのことが強調されてゆきました。確かに「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる・・・・」の先の御言葉は「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(口語訳)です。お金よりも良いものはないと思っておりました時は、なぜここで聖霊が出てくるのか全く分かりませんでした。そしてこの時もそれほど納得する時間を与えられたわけではありませんでしたが、「聖霊を受けたい方は祭壇に向かって右の方にお集まり下さい」との招きがなされました。皆がぞろぞろと右の方に動いていきます。中には右から左へ動いて行かれる方もいらっしゃいます。

 一瞬どうしようかと思いましたが、その時中村司祭が右に行かれるのが目につきました。中村先生が右に行かれるのなら悪い事ではないだろうと、私も右に行くことにしました。言われた通り手を高く挙げて聖霊よ来てくださいの姿勢を取りました。求める者は受けるとの御言葉が語られ励まされました。又、「良いものを求めたのに悪いものがきたのでは私はもう神様を信じられません」という水野先生の言葉にリラックスしながら求め続けました。異言での祈りを恥ずかしがる必要のないことが語られ、水野先生が一人一人の前を巡回して行きます。

 祈り続ける私の口の言葉をガクガク言わせるかのように、手をおいた後に、手でアゴを上下に動かします。変な感じの言葉が自分の口から出ます。まるで自分でコントロール出来ない言葉のようです。恐怖心にかられて止めようとしましたが、
「止めないでください」といわれて続けました。変な言葉です。まるで寒いときの「おおシュビシュビシュビ」と言う人の言葉のように何の意味があるとも思えません。それでも三十秒、一分と続けてゆきました。肩の力がストンと抜けてゆきます。お腹の方がゆったりとして来ました。周り中うるさいくらい聖霊を求める祈りが続いているのに、私のお腹の方に平安がやってきます。異言で祈れば祈るほど平安から力、力から喜びへと進んでいきます。力強い異言での祈りが始まります。聖霊を受けたのかどうかは分からないことであっても、異言で祈っていることは事実です。そしてどんどん神の言葉が分かり始めたのです。

 ああそうかコリントの信徒がパウロ先生から叱られたのは異言を語る、異言で祈る人達が自ら与えられたパワーを誇り、愛よりも力という転倒した考えに一時的にせよ落ち込んでしまったのだな、あの異言を語ることができることへの感謝などという変なこと、あれもこれも一時にパーと聖書が分かって来ました。ペンテコステのような恥ずかしい記事さえなければ聖書は素晴らしいのだがと思っていたのに、目の当たりにペンテコステを見る時、聖書の総てが分かっていき、つながっていくようでした。

 この時の聖霊刷新キャンプでは洗礼さえ受けていなかった河西先生までが異言で祈るようになり、二人で飯山復活教会に帰った時は、聖書を読みましょうという彼の言葉に従って、それではエレミヤ書を読もうということで、一章ずつ交替で二十章まで読んでしまいました。それほど聖書への愛に溢れていたのです。

 その次の日曜日、教会に行きました。意気揚々という感じの私達に対して皆さんの雰囲気が変です。そして礼拝後のお茶の時間に、牧師さんの口からはまさか出ないと思われるような言葉が出ました。「聖霊が何だ」。これ以後私は聖霊さわぎとでもいうべきものに巻き込まれていったのでした。 


クレソンの花 十八      
 これ以後、まるで湯が沸騰するかのように様々なことが並行して起こり、記述が後先になったりしますが、お許し下さい。

 聖霊が何だと言う先生のもとでは聖霊刷新キャンプのテープを皆で聴こうなどという婦人達の行動は無茶に思えた私は、その集まりを妨害するような行動をとり、婦人達の反感を買うことになってしまいました。

 変な礼拝をする人達という偏見を持っていたペンテコステ派の人達にたいして非常に興味を持ったため、彼らの言うクリスチャン村でのキャンプに出掛けることにしました。河西先生の車に私と女子青年とを乗せて車は木曾路を下り岐阜県に入ります。クリスチャン村といってもそこは廃校になった分校の講堂と山小屋風の幾つかの小屋からできたキャンプ場で、確かに十分な広さの集会場があるのは魅力ですが、それ以外は特別な施設は何も無いようなところでした。

 ただ、ちょっときれいな池があり、夏などこの池で、頭までザブリという浸礼での洗礼が行われるとのことでした。着いた日の夕方、雨まじりの小屋の裏手に白いタオルや荷物らしいものが有るのが見えました。なんだろうと思っておりましたが、後で女子青年に聞いたところでは、一日目に荷物を窓から放り出されたのだということでした。ああ、あの喫茶店に勤めているとかいう女の子だろうなとすぐ思ってしまう子がいました。

 増井先生という日本アライアンス教団総裁とかの講師の小屋で、アフリカで兵士に機関銃を向けられながら、数千人の人々に向かってメッセージした話しなどを聞きながらも、茶色のジャージ姿からは貧相な感じを受けました。昔は悪かったという彼も、いざメッセージという時にはバシッとしたスーツ姿でした。神の言葉を語るのだからということでしたが、それ以来、私も日曜学校のお話しをするときでも、スーツを着るようにしています。

 「生ける水の川」というキリスト教出版社の担当の男性は中国伝道をしたいと言っていました。二十五歳くらいの若い牧師がいました。風呂に入りながら、この風呂は自分達でブロックを積んで作った手作りですと言っていた彼はキャンプの最終日にボンゴの後に山ほどの荷物を手際良く詰め込んでいました。いつもやっているから慣れてしまってと言いながら。

 このキャンプの参加者はほとんど子供でしたが、普段は非常におとなしいという印象を受けました。昼は学びの時で、夜の礼拝においては、歌詞の一部のみを変えて延々と賛美が続き皆の心が一つになったころ、講師の先生による力強いメッセージがなされます。預言の成就ということについて非常に詳しく語られました。さらに賛美、さらにメッセージという感じで、延々と礼拝が続き、深夜一時すぎにまでおよぶ礼拝のなかで、異言による賛美などは当たり前になってきました。キャンプ参加費用が極端に安かったせいもありますが、一万円札の献金をしたのはこれが初めてでした。

 水野先生は私達のために特に時間を取って下さり、このキャンプのテーマである「神の国」がイエス様のおっしゃりたかったことであるということを、聖書を詳しく引用して語られました。

 聖公会とは組織が違うせいでしょうか、総裁のもとで働く牧師だけが集まって年金の話を始めたところ、段々話が暗くなっていくのが印象的でした。また、中部教区の教区会のあとに名古屋の赤坂にある教会の礼拝に参加させていただいた時は、お年寄りが少ないように思いました。なにしろ、四角い部屋の一隅が説教台で、その横にチアガールのような踊り隊が出て、その横には、水野先生とカナダ人の奥さんとの間にできた長身の長女がロックバンドの使うドラムセットを叩たいておりもう一方の壁に設けられたモニタールームでは礼拝と説教を録音しているなど、若いつもりの私でもくらくらするほど激しいものでしたから。踊りで、また、太鼓で主をほめたたえよ、とは聖書に書いてあってもまさかそのとおりにするとは思ってもみなかったことでした。

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 つぎの年の聖霊セミナーは同じ稲荷山の教会で開かれることになり、だいぶ熱心に河西先生を誘ったのですが、うんと言いません。夏の間にソ連旅行をするのだということで、とうとう彼は参加しませんでした。後で聞いたところでは、彼はシベリア鉄道のコンパートメントで、もう友人も寝てしまったであろうと思ってひざまずいて異言で祈り始めたところ、友人はこれを聞いていて、君はラテン語ができるのかと聞かれたそうです。

 聖霊セミナーで行っている癒しの時に合わせて、長野から一人の青年が車で母親と一緒に来ていました。彼が金融関係の会社に勤めていたとき顧客とトラブルがあって精神的に参ってしまい、当時はその眼の焦点が全く定まらない状態でした。彼は長野の聖書研究会に出席していたため、彼を中心に聖書研究をやっていこうということにしたところ、その母親は涙を流して喜んだということでした。一人息子でした。「これらの最も小さい者の一人にしたのはわたしにしたのである」の御言葉に従ったまでですが、何と彼の病は完全に癒されていったのでした。御言葉に従うときに奇跡が起きる、そんな初めての体験でした。

 聖霊セミナーに来ていた東北の女性に聖霊を受けるということについて、こんどは私が彼女に説明しました。彼女は自信など全く無さそうでしたが、次の日会った時に彼女は私の手を握り締めて「ありがとう、私も受けた」と言うのです。女性の方から手を握られたのは初めてでした。

 夜の部で異言で祈り合うサークルがいくつも出来ました。手をつないで異言で祈り合い、頭を垂れていると上から恐怖のようなものが襲って来ました。まるで上を向いたら天が開けるのではないかと思えるような激しい賛美の時でした。天が開けるのが見えて喜んだステパノは大変な義人です。天が開けたら汚い私など死んでしまうという恐怖に襲われてしまうのです。勿論眼をあけて上を見れば、古い聖堂の天井が見えるだけに相違ありません。しかし、この時思ったのはそんなことではありませんでした。「これはえらいことだ、天国があったらどうしよう、入れなかったら大変なことになる」。

 最終日の昼食時、一人づつ立って一言述べることになり、私は人前で初めて牧師志願を言明しました。私の隣の席は最後まで空いていて、そこに水野牧師が来て座ってくださったのですが、私のこの言葉を聞いて、実に適切なアドバイスをしてくださいました。「固定的に考えないで下さい」ということでした。固定的に考えて後で様々なトラブルを繰り返すたびに、いいアドバイスを戴いたなと思いました。決っしてこのアドバイスに従ったことはありませんでしたが。「わたしに従って来なさい」とイエス様に言われた者はどの人がどんなことを言ってもそれが完全にもっともなことであったとしても、人の言葉に従ってはならないと今でも思うのです。

 並行して同じ時期に、聖公会の「明日の教会を考える会」の中にあった霊的生活委員会の黙想会に出席することができました。カトリックの煉獄援助大宮女子修道院をお借りしての集まりでした。あの俗っぽい大宮(決して嫌いではありませんが)にあるとは思えない聖なる場所で、周囲を林で囲まれた中心部がストンとくぼんで開けており、そこに修道院と併設の幼稚園がありました。出迎えて下さった菅野さんのこぼれるような笑顔が印象的でした。


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 大宮の修道院における黙想会は、聖霊セミナーが多少騒々しい力強さというのに比べて慎みのある明るさという印象でした。同じ霊性でも色々あるのだなというのが実感でした。

 黙想とは沈黙することです。人が沈黙し、神の前に出て、神の言葉を聴くことですという理解が前提になっていましたから、ギターで歌を歌っていても、何となく節度のある好もしい集まりでした。机とベッド、それと十字架の懸かった壁くらいしかない個室での黙想、眠りは、実に静かでした。

 次回の黙想会には河西先生を引っ張り込みました。食事がものすごくおいしいんですよというと、独り者の彼はそれではということで、難所と言われる碓氷峠を越えて車でやってきました。長谷川司祭の、自分自身、異言で祈ることもできるけれど、一線を画すというお話しがありました。その席には数人の異言で祈る人がいたことになります。その集会の中で洗礼を受けていなかったのは河西先生だけでした。祈りの時に、一人の女性が河西先生が洗礼を受けることができますようにと祈り、全員でアーメンととなえました。心に願っていても大胆に口に出して祈れないでいた私にとっては衝撃でした。

 二泊三日の黙想が終わると本当にくたくたに疲れてしまいます。心のこもった本当においしい食事は、その回復のためでもあるのですが、夕暮れ時にさあ出発という時、河西先生がとても車を運転出来ないというのです。もっともです。たまたまその時、私のポケットの中にビニール袋に入れておいたクコの若葉が数枚ありました。じゃあこれを食べてといって差し出し、自分も数枚食べたところ、旧約聖書のサムエル記にあるヨナタンではありませんが、目がぱっちりとあいて出発でき、碓氷峠も乗り切れたのでした。クコといってもご存じない方もいらっしゃるでしょうが、石垣などに生えている虫食いだらけのトゲっぽい草木です。栄養のあることを虫も良く知っているのだなといつも感心しながら横を通っていました。

 この黙想会に出席して洗礼を受けた人、長く堅信式を受けられないでいた人が按手を受けられるようになった人、聖職を志すようになった人、様々でしたが、いずれの人も、良い影響を受けたようです。

 そうこうしているうちに、河西先生が洗礼を受けることになり、そのための勉強をすることになりましたが、小布施から来てくださっている先生の時間が日曜日以外には取れません。そこで礼拝後のお茶の時間に勉強して皆で一緒に聞こうということになりました。洗礼堅信式の度に、なるほどこんな凄いことを私は約束したのだなと感動(?)するわけですが、それよりももっと感動したというか勉強しました。

 今でもはっきり覚えているのは、なぜ洗礼を受けるのか?ということに対する説明です。洗礼はイエス様が受けなさいとおっしゃったから受けるのだというのです。実に分かりやすい説明で、神の子となるためであるとかなんだとか言いたくなるでしょうにそんなことは一言も言わずに信仰者のありかたを良く伝えた言葉だと感心しています。

 洗礼には堀越さんも名親として出席してくださいました。なんとか彼と河西先生が出会って欲しいと願っておりましたところ私達が上高地までドライブし、川辺の冷たい露天風呂に入って冷えた身体を暖めようようとして白骨温泉に行ったところ断られ、吊橋を車で渡る温泉宿でようやくあたたまっているうちに遅くなりすぎ、彼は長野の教会に泊めていただくことになり、その時彼と同室となり、祈りを共にするのみでなく、ウイスキーまで入って、すっかり打ち解けていたのでした。洗礼の後に河西先生が言った言葉を忘れることが出来ません。ムスッとした顔で彼が言ったのは、「何故もっと早く教えてくれなかったのですか。」でした。


クレソンの花   二十一
       
 温厚と思われている私も、さすがにこの言葉にムッとして「そんなにいうのなら、これから学校に行って先生たちに伝えてみたら。」と言い放ちました。ようやく、彼も難しいことを言ったと気がついたようでした。全く、人に褒められようとして伝道などできるものではないようです。

 独身生活に飽き飽きしたらしく、河西先生が絶対に結婚したいと言いだし、美事に結婚することができました。相手は出身地の他の教派の教会の牧師さんが紹介して下さった小学校の先生でした。あっという間に、教会員が一人から二人に増え、しばらくして、かわいい薫君が産まれて急に教会がにぎやかな感じになってきました。先生たちは空き家となっていた牧師館に住んで下さり、教会に家賃を払って下さる有り難い存在でした。

 私の方は、聖霊セミナーの後、長野聖救主教会の聖堂で自らの聖職への召命の有無を知るために祈ることが多くなりました。ひざまずいて祈るのは十五分も続けられません。正座とか座禅が長く続けられ、聖書を読んでは、祈りました。

 そんなある日、近くの長野商業高校の女子高生がふらっと聖堂のなかに入って来て私に何を祈っているのか聞きました。かわいい分、頭の弱そうな子がいますが、そんな感じです。いちいち召命がどうのと説明するほど私も親切ではありません。「いろいろとね。」と言っておきました。

 次の週くらいにまたその女の子があらわれました。そして、「あした晴れるように祈ってください。」と言うのです。野球部のマネジャーをしているので明日の試合が流れて延期になると修学旅行に行けなくなる、修学旅行にはぜひ行きたいからと言うのです。決めつけるような言い方に反論もできずうなずいてしまいました。私には明日晴れるように祈る信仰などありません。しかもラジオの天気予報では低気圧が接近しているとのことです。夜半には雨まで降ってきました。しかし、祈ると言った以上祈らないわけにはいきません。ふとんの中で異言で晴れるように願いながら一言二言祈りました。

 一ヶ月くらいして、又、その女の子が現れました。何だか神経質になっています。そして、眠れるように祈って欲しいというのです。よく聞いてみると「不思議ねー、試合当日は雨が降っていたのに、十五分前に晴れた。」というのです。おかげで修学旅行には行けたのですが、女の子のことですから皆で一晩中眠らずに騒いでいたため不眠症になってしまったというのです。

 それからその女の子が友達をつれて教会に来るようになりました。「この子は頭が悪いんです。」と言われて、「あっそう」と私は答えました。馬鹿につける薬は無いと思っておりましたからですが、今、考えると、どうも頭が良くなるように祈って欲しいということだったようです。

 入院中の拒食症の同級生も紹介されました。骸骨に少し厚めに肉がはりついた程度の子で、その時来ていた母親の、前に出る強い態度と、父親の、後ろにひかえた態度が印象的でした。同級生の女の子からは祈りの時、強情という感じを受けました。

 恋愛の相談も受けました。野球部のエースで陸上もでき、勉強もできるハンサムな彼は女の子のあこがれの的でしたが、その彼がこの女の子のことを好きらしいというのです。そんな話を聞いているうちに、あっこれは、水曜日の1時ちょっと前に相手が言ってくるなというインスピレーションが与えられましたが、言いませんでした。そのとおりになったのですが、このことを聞いていたら、この女の子の子ことですから、どうなっていただろうかと心配したからです。事実そのとおりのことが起こったためこの女の子は体調を全く崩して、おなかの調子がおかしくなってしまったのですから。
 

クレソンの花  二十二
      
 聖堂での祈りの時は持ち続けましたが、自ら納得できる召命の言葉は与えられませんでした。そのような祈りの時に聖堂には明るい昼の顔と、暗く深く静かな夜の顔の二つがあることを知りました。

 そんなある時、疲れたということで教会の和室でゴロンと横になって、キリスト教書店でよく下さる小さな月刊の出版情報誌を読むともなく読んでいました。その中にアフリカで働く看護婦さんのことがのっており、そのタイトルが「主がお入り用なのです。」でした。あっこれだこれこれ、どの個所だろうと思って、聖書を開くとそれはエルサレム入城のときに乗る小ロバを主が必要とされお用いになる個所でした。まさしくドンピシャリというところです。ドンくさくて力も無い小ロバが神様に引っ張られて抵抗しながらも?ついて行ったお話です。

 召命の言葉が与えられてすぐついて行くほど私も素直ではありません。聖職の厳しさも多少は分かりましたから、そう事は簡単ではありません。しるしを求めました。どんなしるしかといいますと、「イエス様、あなたのお顔を見せて下さい。」というものです。このことを心の中で求めた時、私の心の片すみで、ニッと笑うものがありました。私は、「真っ白な衣のイエス様が現れて〜」などという話を信じる方ではありませんでした。又、ユダヤ人は、偶像を嫌うがためにどのような肖像や彫刻も残していない事、その顔についての記述は聖書その他に全くない事、肖像画の最も古いものでも数百年後ぐらいのものであり、その顔に、これぞイエス様と言えるものが無いことなど、様々な知識から来る、神様にも不可能という言葉が思い浮かんだからです。確かに、新聞にトリノの聖骸布の直径1cmくらいの写真が載ったことがあり、あっこの顔だなと思った事はありますが、まさか、そんな事を信じることができるほど私も単純ではありません。布に顔などが写るなんてそんな馬鹿なと思うのが普通です。

 しかし、トリノの聖骸布について、NASAのメンバーによる科学的な調査が行われ、その結果を取り入れての解説書が出ました。書店で見つけたその本の書名は「この人を見よ」でした。この本の内容は衝撃的でした。例えば、数センチの粘着テープを聖骸布に押し当ててからそのノリ面を電子顕微鏡写真で見ると、ユダヤ地方にしか存在しない花の花粉が見出されるのです。イタリアのトリノには絶対見出されない花の花粉です。その他、聖書の記述の一つ一つ、例えばイバラの冠のあと、脇腹の傷など恐ろしいほどまでこの聖骸布が一致するのです。私の化学の知識はこの本を理解するのに大いに役立ちました。もし手にベットリと油を塗って木綿の布に押しつけたとしたら、何年か後にはそのネガが木綿の布上に黄色く浮かび上がってくるでしょう。それと似たことが起こったのだと理解しています。リビングバイブルのほうが分かりやすいのですが、それによれば「前に、夜、イエスのところに来たことのあるニコデモも、没薬(天然ゴムの樹脂で古代の防腐剤)とアロエでつくった香油を三十キロほど用意して来ました。二人はいっしょに、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料をしみ込ませた長い亜麻布でイエスの体を包みました。」とあります。

 そして、香油と香料をたっぷりと含んだ亜麻布はイエス様の顔も身体も背中も、全身を墓の中でその血その汗によって、天然写真として残したのです。その布に遺されたのはネガでしたから写真に写すとポジとして二千年前のイエス様の顔が今に浮かびあがって来たのでした。まぶたこそ閉じておられますが本の写真を実物大にまで拡大したお顔は正にイエス様のお顔として信じられる品格をそなえたものでした。血の気が引き、足の力が失われる思いがしました。


クレソンの花 二十三
    
 飯山復活教会にある方が時々お見えになりました。主任保母としての重責と家庭とで疲れ切るであろうところを気まじめに精一杯やらないと気のすまない感じで、朝起き会の御本配布までされていました。その方が教会にいらっしゃるので話しを聞いて欲しいという知らせが入り、教会で待っておりましたところ現れました。普段とはまるで印象が異なり、苦しみが顔にあふれていました。どうしたらよいのか分からない、右に行ったらよいのか左に行ったらよいのかさえ分からない感じで、ほっておいたら石にでもすがりつきそうな感じです。そして、そういう時のお話しは支離滅裂で、本当に何が苦しいのかはっきりしません。しかし苦しんでいるのは事実ですし、あまりにもかわいそうなので、頭に手を置いてお祈りすることにしました。一本の手では不安であったので二本の手を重ねて置いて。

 しばらくして教会に出かけてみま

コメント(1)

いやあ、随分、長文が投稿できるもんですね。
ご苦労様でした。

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