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宗教の誕生と存在理由を考えるコミュの宗教は3つの道で一セット

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別のコミュニテイで管理人を変わっていただいたので、そのコミュニテイから
ここにトピックを移動しました↓


仏教には二つと一つの合計3つのセットがあると思います。
「(1)悟りの仏教」
真理を追求し、
「この世界(宇宙)のありよう」を理解する。禅宗、ソクラテスなどの哲学

「(1B)人間として死ぬ迄生きるしかない事を(1)で自覚したので、ただ死ぬ迄生きる」一休、芭蕉、利久、茶道、華道

「(2)救いの仏教」
(1)(1B)で悟った者が、悟れなかった者、悟らない者、
を↓
一般の苦しいと思う苦(死、病、老 別離 等)から救おうとする目的を持つ。
方法としては「方便」を用いるが、「方便」だとは言わない。
<<阿弥陀如来は実在し、阿弥陀如来に救われる>>と信じさせる事によって、生きている人々は苦しまなくていいのだと信じる事により、今の苦しみから「安心」できる。
救世主イエスがだれでも救ってくれる事と同じ。
罪人であっても、救ってくれる。あまねく救ってくれる。
そう「生きている間」信じさせる事で、苦しみから解放させる目的を持つ。ただし、その事は言わない。教えない。方便だとは言わない。「信じさせて救う」目的だから。
しかし、同時に「悟りの道(1)」へ勝手にそれぞれ自分の力で
目覚める事も当然OKである。だから般若心経(悟りの書)も使っている。本来の<<阿弥陀如来>>の救いだけが目的なら、
般若心経は「悟りの書」なので方便には逆効果だから使わないはずなのだが、「悟りの道」も残してある所からも、
親鸞はすべて承知でやっている事のはずです。
親鸞も空海も「自然のありよう」を「悟った」後、
、悟られない者のほうが圧倒的に多い「人の世界」を救う事を
目的としたので、実際にはありえないような想像の世界により
苦しむ人を救おうとしたのです。
たとえば、あんたの目が潰れ、恋人から捨てられ、いつしか年を取り、「もう半年しか生きられない」となった時、
「悟りの宗教(1)」で、
生きているモノは必ず死ぬ、そもそも、「死」も「生」も
諸行無常で、ただ「変化」しているだけに過ぎない、、、
などと解いても、もはや聞く耳持てない苦しみの狂気の時に、
まして只管打坐して、真理に気付いてみよ、と言っても、そんな心の余裕は無いはず。
ならば、阿弥陀なりイエスなりが「あなたをちゃんと救ってくれますよ。今は目が見えず、年は取ってしまって老いたかもしれないし、大好きな彼女とも別れてしまったかもしれないが、
大丈夫!あと半年頑張って生き抜けば、死後は、浄土(天国)で
元の若い目の見える貴方になり、別れたいろんな人とも、しあわせに永遠に暮らせますよ」と信じ込ませたほうが「安心(あんじん)」するでしょ?
だからイエスは言う「信じる者は救われる」と!
親鸞は言う「法然を自分は信じるたとえ地獄へ落ちようと!」
↑(^.^;
そういう親鸞の姿勢に禅宗の「ただ生きる」を実践していた
後年の一休は、心底感心し、浄土真宗に改宗しようかと思ったそうです。

このように仏教には↓

「(1)悟りの仏教」
 
真理を追求し、
「この世界(宇宙)のありよう」を理解する。禅宗、ソクラテスなどの哲学

「(1B)人間として死ぬ迄生きるしかない事を(1)で自覚したので、ただ死ぬ迄生きる」一休、芭蕉、利久、茶道、華道

「(2)救いの仏教」
(1)(1B)で悟った者が、悟れなかった者、悟らない者、
を↓
一般の苦しいと思う苦(死、病、老 別離 等)から救おうとする目的を持つ。

↑の3つが矛盾なくあるのです。
それぞれは違うのですが、矛盾はしない。
その根底には、「自然の有り様(真理)」に気が付いたという
釈迦やソクラテスの気が付いた事「悟り(「自然の有り様(真理)」に気が付いた」)
が根底にあるからです。

このあたりは僧侶でも、理解出来ていない者が多く、
しかし、親鸞も空海も、そういった場合は、その理解出来ていない僧侶もまとめて面倒見ちゃうわけです。
まとめて、信じて救われさせよう、というわけです。
「信じる者は救われる」
要するに、人が「苦しい」と感じる期間は少なくても「生きている間」だけですから、その期間「信じ込めば」いいわけです。
死んでしまえば、もはや、空想による悩みなどから解放されます。ですから、死んだ者の事を「オシャカ(釈迦)」になると
言いますよね。
成仏しやがれ!と言って殺す時代劇のセリフもありますよね、
死ねばだれもが、苦しみを考える事すらもう出来なくなる、
しなくなる。
だから、とにかく生きている間の苦しみをかかえている人を
その苦しみの「おびえ」から解放しようという目的で、
イエスは神を、親鸞は、阿弥陀を「方便」として使っただけです。そのようなモノは存在しないのは、百も承知です。
だって彼等は、「この世(宇宙)のありよう」に気が付いた
者「ブッダ(覚者)」ですから。

コメント(41)

弥勒 さん

<<方便を方便だと言って救済することもあると思いますよ。
人間そこまでバカじゃないですからね。
方便を方便だと知って救われる人もいると思います。>>

いや、そんな話ししてるんじゃないんだ。判ってからレスしてね。
そもそも仏教の目的は何かちゃんと勉強してからね。

<<これ「生」が抜けてますね>>

↑最後の「等」という意味を知ってるか?

言葉尻をとらえる前に自分の足元固めてね。
「生きている間」と書いてるでしょ?
全体を解れよね、

「人間」は「人間として」生きている間
「人間」がからこそ苦しい。
だからこそ人間にだけ「宗教」がある。
「信じるものは救われる」

あれは「イエス」を「信じれば救われる」ではなく「かくあれかしと信じれば全てはかの如くある」という意味での「救われる」だと思っていたが・・・僕の認識違いかな?
連続投稿すいません。

>イエスは神を、親鸞は、阿弥陀を「方便」として使っただけです。そのようなモノは存在しないのは、百も承知です。

・・・。
その根拠はどこにありますか?
>その根拠はどこにありますか?

私も気になります・・
仏教とキリスト教の落差は大きいですから・・同じ括り?
>すももさん

>あなたがたは、神や阿弥陀の存在に根拠があると言えるわけですか?

論点が違うので答えるに値しません。
僕はイエスや親鸞が神仏を「方便」とし使っていた、ということを何故言い切れるのか、彼らのどの言葉や行動でそう言い切れるのか、解釈できるのかを聞いているのです。存在の有無を聞いているのではありません。


>根拠があるなら、他宗教との整合性をどうお考えか?
他宗教の創始者は嘘つきですか?

これも論点が違いますがあえて言うなら、
誰も嘘をついてはいません。その証明も不可能だし。
アラーもブッダもイエスもモーゼも阿弥陀もあらゆる神も仏も全て神。これで整合される問題です。


>根拠が無いなら、あなたがたも神や阿弥陀の存在を承知していないはずです。
「承知」は「証明」とは違います。

論点が違うので答えません。
>すももさん

どうも認識に違いがあるようですね。
神を方便としたトピ主を「許せない」とは一言も言っていません。
くりかえします。
僕はイエスや親鸞が神仏を「方便」とし使っていた、ということを何故言い切れるのか、彼らのどの言葉や行動でそう言い切れるのか、解釈できるのかを聞いているのです。存在の有無を聞いているのではありません。
方便なら方便でもよろしい。でも、彼らが神仏を方便として使用していたと解釈できるような話・説を聞いたことがないのでその根拠が知りたいだけです。
トピ主は「方便」と断定している以上聞かれた場合は答えるべきでは?


>これも、あなた個人の解釈=「方便」でしょう?

整合性について聞かれたので述べただけです。方便とするなら方便でしょう。
私の質問も誤解されているrしい・・
親鸞とイエスの立場の違いを無視して「方便」と言い切れる根拠を聞いているだけですよ(^^)
イエスが「方便」という概念を持っていた可能性は親鸞より低いと思いますよ
新約聖書を読む限り「方便」の概念は無いに等しい
すももさん

>イエスは磔になったとき、
>「父よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と嘆いたそうですが、
>あなたは、磔にされたイエスが神から見捨てられたという解釈ですか?

いえ・・詩篇の22編の冒頭の言葉を十字架上で・・と解釈しています
すももさん

詩篇の22編の最後が神を褒め称える言葉で終わっていますので文脈上そのように理解するのが穏当かと・・
すももさん

>イエスは、生前、詩篇を何度引用して話されたと伝えられていますか?
>そして、その箇所は、どことどことどこでしょうか?

そんなの私だって記憶していませんよ
それに親鸞とイエスの立場の違いについての議論には関係ありません
>すももさん

やはり考え方が違いますね。
繰り返します。
神の存在の有無について聞いたのではありません。
イエスや親鸞が神仏を方便とした、これはどの「事実」をもってそう断定されているのかが知りたいのです。それによっては自分の考え方を少し修正する必要さえあるかもしれないし、逆に反証の材料になるかもしれないからです。

>イエスは、生前、詩篇を何度引用して話されたと伝えられていますか?
>そして、その箇所は、どことどことどこでしょうか?

これは、
イエスは、生前、詩篇のどの部分を引用して「神」なる方便を使用したと思うのか?
そして、その箇所は、どことどことどこでしょうか?

という質問に変えさせていただきます。
すももさん

そもそもイエスが生きていた時代のパレスチナに「方便」という概念が存在したとお考えですか?
それであれば「存在証明」お願いしますよ
>すももさん

理解できかねます。
それはすももさんの仮定です。
トピ主は「イエスや親鸞は神仏を方便としていた」と断定しています。

>仮に、イエスや親鸞が神仏を方便としていなかった、
とするなら、イエスや親鸞が「本当に神仏を認知していた」か、
「妄想癖」か「嘘つき」のいずれかということです。

それはすももさんに思考の表明であり、トピ主の言説の根拠とはなりえません。
もし、「神仏を認知していなかった」とトピ主がなんらかの根拠を持っているのならば「方便」の話に決定的な答えを有すると思いますが。


>そして、質問者(トピ主)が、神仏を認知する立場でないなら、
「イエスや親鸞は、神仏を方便としていた」と考えるしかありません。

方便ではないとするなら、
「イエスや親鸞は、妄想癖か嘘つき」と考えるしかないからです。
しかし、そうは、考えたくないから「方便」と考えるわけです。


僕は「方便」と断定する根拠の元になる詩篇などを提示して欲しいのです。
それもなさずに「方便」とするのはそれこそ「嘘つき」や「妄想」なのでは?
方便なら方便で、存在しているなら存在しているでまったく僕は構いません。
神仏を認知されてないならばそれはそれで結構なのですが、「神はいる」とする側への反証として「方便」とする根拠が知りたいのです。
スレイマンさま
「方便」という概念はインダス文化圏の概念ではないでしょうか?
チグリス・ユウフラテス文化圏の宗教概念に同じモノを求めるほうが無理でしょう
>しのぶさん

僕は別コミュでもすももさんと対話しているのでこの方が執拗に何かを繰り返す場合、そこになんらかの意図があるのを知っています。
喰らいついていくことしか僕にはできませんが、それがお互いの向上に繋がる経験をしているので対話は諦めませんw暫くはね^^

おそらくしのぶさんの言いたいことも正解なのでしょう。
が、そこをあえて超えていく対話もまた新たな正解に繋がる気がしています。
なのでこのまま続けていきましょう。

ホットなままどこかクールで。
スレイマンさま
了解しました・・しかし・・私は飽きてきたので。。消えます
むう。
またもやすれ違いか。

宗教論争を仕掛けてはいません。そういう意識はありません。
そもそも「神の実在」への挑戦ではないのです。
トピ主の「方便」としている箇所を示していただきたいだけなのです。
神仏を信じないのはどうぞご自由に。
でも、信じない、あるいは「実在」しないと言うならばそこから話を進めるうえで何を根拠として・・・

わかるかな?
>すももさん

なるほど。
そこを方便と考えるのですね。
ふむ。
ホクトさん
<<回心の種類を1度生まれと2度生まれの2種類に分別>>
というのは文字どおり
<<『宗教経験の諸相』>>を書いた<<w.ジェイムズ>>さんのフンベツのようですから
それはその方の分け方、区別の仕方、文字どおりのフンベツに過ぎません。
著者の事も本も僕は知りません。
その上で自分の個人(に過ぎない)の考えをかかせていただきます。
<<悪から目を背け自然的な善を信じる>>
そもそも「悪」だの「善」だのの定義は何でしょうか?
仏教とは釈尊がそういった事に着目した事ではなかったでしょうか?
つまり「フンベツ」です。そして、その事による「とらわれ」です。
そして、それらにとらわれている自分に気付き、とらわれから、自分を解放し、
分別に過ぎないと理解出来た(なってしまった)時、
それが悟りだというのが、釈迦の教えだと僕は今の所そう思っています。
それが「統べて」かどうかは僕の知るところにありません。

<<ネガティブな思考についてはどうお考えでしょうか? >>
ネガテイヴに考えてしまったかどうかもフンベツに過ぎませんし、
また。ネガテイヴに考えるという意味は、
そもそも、いまだ現実にもなっていない未来を自分で勝手に予測して
自分の空想がネガテイヴであったかどうかというような意味でしょう?
つまり、僕は来月借金返せるのだろうか?十年後には病気になっていないだろうか?
などと、、、一秒後自分が人間として生きて存在しているという確証すらないはずなのに、ただ空想の世界に右往左往しているだけの事でしょう?
まあ、そこが人間が人間たる所ですけど(と僕個人は思っています)
ですから、ネガテイヴとかポジテイヴは、たんなる空想や妄想ごっこに憂いてみたり
「この宝くじ当たったら車買うぞ!彼女にモテルだろうなあ」なんてポジテイヴなのも
空想に過ぎない。「どうせあたらないや!」とネガテイヴになってみたとて、
どちらも同じ「空想」「妄想」であります。
そして、その宝くじの発表のあるあと一週間後まで、自分が人間として生きているかどうかすら実はあやふやな事でしょう?
____________________________________

<<救済に力点が置かれていますが>>とありますが、そんな訳ではありません
全ての人が悟る事が出来たなら、おそらく(想像ですが)もはや救済はあまり必要無いか、或は、全く必要なくなるかだと思います(ありえない事でしょうけど)
禅宗の僧侶であろうと、浄土真宗の僧侶であろうと、真言宗の僧侶であろうと
キリスト教の牧師であろうと、、何であろうと、人間がやる事に過ぎず、
全ての者が悟る事が出来るという事が現実的に無い、むしろ悟る者は少ないはず。
(しかしこれは選ばれた者でも優秀だという事でもなく、たまたま、歩いていてみずたまりに出会ったようなもの、たまたま)
悟れない僧侶やいつまでたっても悟れない修行僧もひっくるめて、
悟れなかった場合は、「こうやって救おう」と「こうやって人間であるがゆえに
生じてしまう苦しみから救ってしまおう、解放してしまおう」というのが
「救いの宗教」であり、そのやり方、、つまり「方便」はそれぞれの宗教、
宗派の違いによって異なる。
それぞれの、おのおのが信じる宗派の教え(方便)を
心から信じ込む事が出来たなら、、、
「信じる者は救われる」「信じるものは幸いである」と。
念仏であろうが、呪文であろうが、それは、それぞれいろいろあるけど、
「信じ込む事ができたなら」そうすると「人間であるがゆえの苦しみから救われる」。
それが「救い」の意味だと思います。

<<親鸞が悟ったとなってることについて補足の説明>>
親鸞はさきほど言った意味で「救い」を目的とする宗教です。
信者が自分で、阿弥陀様が私を見捨てない、阿弥陀様の名前を口に出した事そのもの
も阿弥陀様のおかげである」みたいに、思いきってしまう、信じてしまう。
そうすれば、救われる「人間を今生きているがゆえに生じる苦しみから解放される」
というのが、親鸞の「方便」ですから、( 僕個人はそう今のところ思っています)
決して、親鸞自信の「悟り」は語りません。語ったら、弱い者には方便が弱くなるからです、決してそれは話しません、というか話さないはずです。
手品のネタですから。
ですから、証拠はおそらく残っていないし、残さないでしょう。
ですから、証拠が無いならだめじゃないか!と思われたなら、
ただの僕の想像だとしか言えません。
ですが浄土真宗の方の中にも多くの「方便による救い」ではなく、「悟り」になった
方がおられるようですから、禅宗でも浄土真宗でも、「たまたま悟ってしまった者」が
出てくるようですし、「たまたま悟られなかった者」もいるようです。
そして親鸞は、その「たまたま悟った者」は、もうどうでもいいのです。
なぜか?それはもう彼等はほったらかしておいても大丈夫だからでしょう。
しかし「たまたま悟れなかった者」は苦しみの根源からの解放が無く、
「人間として生きているがゆえ」に生じる悲しみや苦しみから逃れられていません。
彼等こそ私は必要なのだと、親鸞は思った事でしょう。
彼等悩める子羊の為にこそイエスは生きようと思った事でしょう。
空海も日蓮も。
利久も。
芭蕉や一休は他への救いに重点を置かず、自然の生物が、ありのまま、そのままで
死ぬまで生きているように、ただ死ぬまでたまたま生まれた人間を生きようとしたのでしょう。

*僕は学がないので、質問の意味をもし取り違えていたりする場合はまた、教えてくださいね。
それから、ここで僕が書いた事、僕がこのあと書く事、話す事は
全てがあくまでも、僕個人に過ぎない考え方であります事をご了承ください。

________________
*方便について、質問されておられる方がおられましたが、
この書き込みを読んでいただいて、推察いただけたらと思います。
「方便」は「これは方便である」といってしまったら、もはや方便の意味が無くなる。
このコミュニテイの性格上、そのあたりをギリギリで書かせていただいています
が、あくまでも、僕個人の今現在の考える所に過ぎません。

ちなみに
<<「神の存在を認めていないのか?」>>
神とお会いした事が無いので、存在するかどうか僕にはわかりません、
存在するかも知れないし、存在しないかもしれない。
「仏はいたか」というなら、その仏が釈尊を差すならば、存在したと思います。
しかし、仏教では釈尊が存在したかどうかが一番大事な事ではなく、
「彼が気付いた事」こそが大事であり、釈尊が存在していたかどうかは
歴史学者にまかせればいいこと。
千手観音はいるか?不動妙王は物理的に、そのままの形でどこかに存在しているとおもっているのか?という御質問でしたら、「そらおらんでしょう」と個人的な意見を
書かせていただきます。
イエスが存在するかどうかは、さきほど書きましたように、
「信じる者は救われる」です。
「信じる事が出来たならその者は幸いである」です。
アミダが存在するかどうかもしかりです
「信じた者は救われる」
「信じる事が出来たなら幸いである」です。
救いを目的とする宗教は、おそらく、ここは同じだと推測します。
ただ。無数に数ある宗教や宗派の中のはおおぼけや、オカルトや、インチキ銭儲けも、混ざっていますから、なんでもかんでも
「信じる者は救われる」かどうかは判りませんが
一瞬でも「信じる事が出来た瞬間」は幸せではあったろうとは思います(^.^;
そのまた次の瞬間から地獄のような苦しみになるようでは困りますけど。
そうならない為に、いろんな情報を入れて、何が正しいか何がインチキかを見分けられるようになりたいものだと思います。
こうやって、思いを書き込み、話し合う事もその中のひとつかと考えています。
いっぱい僕もいろんな人におそわりたいと思います
えーと。それとですね。
<<「嘘も方便」
事をうまく運ぶためには、一つの手段として時には嘘が必要なこともある。
大辞林 第二版 (三省堂) >>

なぜこのように辞書は解説しているかです。

いいかげんな思い付きでは無く、
方便は仏教には大事な事であるからです、
ただ、このあたりまで辞典で説明するには一冊全部書かなければいけなくなって
しまうかもしれませんが。
とても宗教には大切な部分だからです。
なのに「不思議」でしょう?
どこの宗派も「うちは方便でやってやす!」とは答えない。
どこも言っていないのに、辞書には書いている。
言っては救えなくなってしまうので言わない。
宗教の目的は「人間が人間としてたまたま生まれてきてしまい、
人間として生きるがゆえに人間には生じてしまう悩み、苦しみ」
それからの解放、救いが目的だからです。
何が正しいかを「死にたい!」と
首をくくりかけているせっぱつまった人に語り聞かせても
効果はありません。
その場合まず「救う」のが「救いの宗教」
せっぱつまってないけれど、ちょっち苦しい人や、真理を知りたい人、
釈迦の思うところを少しでも知りたいという人向けが「悟りの宗教」だと
僕は思います。
「人間にたまたま生まれて、そして生きている、死ぬまで人間で生きる」
その間、人間であるがゆえに生じる苦しみ、悲しみ、悩みの苦痛をどうするかが宗教。

原因の根本を切除する外科、で治すか、、それでは治らない場合はモルヒネで
痛みを感じなくさせるか、どちらも医療。
そして生きているがゆえに必要な事。

キリスト教では、自殺は絶対してはいけない罪だと解きます。
死んでしまっちゃおしまいだから。
生きてる間だからこそ苦しい事や悲しい事でもがくだけだから、
たまたま人間に生まれ、そして「人間として生きている短い間」
いかに、こころ安らかに、優しく、おだやかなに、生きているがゆえの苦しみに
しばられず、解放されて生きるかという知恵であったり方便であったり。
般若心経の般若は「知恵」という意味でしょ?
釈迦の言う悟りって

輪廻から脱出することやないの??
<<輪廻から脱出することやないの??>>
ちゃうと思うよ僕は
悟ったら、輪廻の意味というか、「変化しているだけ」とわかっちゃうから、別にどうってことのない、事実を知るだけだから。
脱出とかそういう事ではないと僕は思います。
変化が輪廻と同じ意味だとすれば、ただそれだけの事ちゃうかなあ
脱出するとかしないとか
輪廻があるとか無いとか、もちろんそれを修行したからどうにかなるとか
そういう事じゃないと思う。
釈迦は、修行してもしなくても「ただ変化するだけ」でしかない
この世界のありように気が付いただけだと思う。
だからと言ってどうしようもない事を認識したと思う。
個人的にはそう想像しています。
おそらく輪廻という中国語訳を日本語解釈したあたりで、
そこに、妙なものが入ってしまった気がします。
僕はそんなたいそうな事ではないと思っています。
脱出するもなにも、
「ありとあらゆるものは例外なくただ変化するだけ」でしかない。
諸行無常、
人というカタチも肉の塊というカタチも
「例外なくただ変化するだけの刹那のカタチ」に過ぎない。
B☆SS さんはその事に気が付いている事ですけど。
脱出するという言葉をどうしても使う場合は、
とらわれからの脱出くらいの意味だと僕は思います。

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