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武田二十四将コミュの相木能登守昌朝

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相木能登守昌朝について語り合いましょう。
相木能登守昌朝についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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相木能登守昌朝 1516〜1590年

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依田昌朝、依田正朝、相木昌友、阿江木昌友、政友、政朝、政信、昌信、正友、市兵衛、能登入道、常喜、常善、常林、平三ともいう。
相木常林の長男。
信濃国佐久郡の相木城(長野県北相木村)主。見上城主。信濃先方衆。80騎持ち。山縣昌景の相備衆。
相木能登守常林の長男として永正13年(1516年)に生まれる。相木氏は、清和源氏の流れをくむ依田氏(相木道永)から分かれ、信濃佐久郡相木に拠って相木を姓とした。相木氏は、岩村田城や長窪城を領した大井氏の家老として仕えていたが、文明16年(1484年)、村上政清、村上政国父子が佐久に侵入し、大井城が村上氏によって攻略される。大井氏は衰退し、相木氏は大井氏からしだいに離れ、佐久郡相木城を拠点に独立性を保つようになる。 相木昌朝の代になると、完全に大井貞隆から離反し、かねてから村上氏を快く思わなかった相木氏は、天文9年(1540年)に武田氏に属す。信濃攻略において地の利を活かし数多くの戦功をあげ、武田晴信からの信頼も厚く、騎馬80騎持ちで佐久郡臼田の田口城代を任せられた。天文12年(1543年)には武田晴信の信濃侵攻に従軍し、大井氏滅亡に貢献。のちに真田幸隆とともに甲斐府中(甲府)に屋敷をもらう。娘が真田昌輝に嫁いでいる。信濃先方衆として頭角をあらわし、永禄4年(1561年)9月には、川中島合戦で妻女山奇襲軍10隊中の1隊を率いる。 春日虎綱、真田幸隆らとともに妻女山の越後上杉軍を突く啄木鳥隊の1隊を指揮。川中島合戦後には善光寺平の治安を守るよう命じられ、善光寺に留まる。現在の長野市立城山小学校や長野女子高等学校の辺りに、城砦を築いたといわれ、相ノ木通りは、相木城跡にちなんだものといわれています。
永禄8年(1565年)には次男相木荒次郎昌信(相木政信)が山縣昌景の娘婿になる。 山縣昌景が江尻城代のときの相備衆としても活躍。天正10年(1582年)武田氏滅亡後は、滝川一益をへて相模北條氏に属す。そのため、徳川家康に属した依田信蕃に田口城、相木城を落とされ、関東へ逃れる。天正17年(1589年)、同じく依田氏に追われた伴野貞長らとともに相木に挙兵、 依田信蕃の長男依田康国(松平康国)と相木の木次原で合戦し、再び敗れて関東へ去る。
相木昌朝には長男相木長門守頼房(相木市兵衛常祐)、次男相木昌信、三男相木七良右衛門善量がおり、 相木頼房は武田信廉の娘婿となり、南佐久郡の南相木の名主となって現在にいたる。 相木頼房には長男相木美濃守信房(相木一兵衛)がおり、相木信房には長男相木彦太夫がいる。 相木昌信は山縣昌景の娘婿。鉄砲の名手として知られ、真田氏に属す。永禄12年(1569年)の対北條氏小田原城包囲戦で、北條氏邦の家臣御湯見城主御湯見薩摩守を討ちとって功績を上げている。 相木善量はのちに福井県の相ノ木氏の祖となったといわれる。また一族に相木森之助というものもいるとされる。
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