ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

武田二十四将コミュの上原備中守昌辰

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
上原備中守昌辰について語り合いましょう。
上原備中守昌辰についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋



-----------------------------------------------------------------------------
上原備中守昌辰 1514〜1552年

-----------------------------------------------------------------------------
小山田昌辰、信辰、伊賀守、古備中ともいう。石田(中巨摩郡上石田)を領する。
上原虎満の長男。譜代家老衆。平賀氏一族。甲斐源氏を祖としているので甲斐武田氏とも同族。
永正11年(1514年)に上原伊賀守虎満(上原伊賀入道玄怡)の長男として生まれる。信濃佐久郡平賀の出であることからも、父上原虎満や上原昌辰は信濃佐久侵攻戦では大きな役割を担っている。父上原虎満の従弟上原虎種も武田信虎に重く用いられ、 板垣信方や飫富虎昌の副将として、ともに信濃佐久侵攻戦に従軍している。 上原昌辰は内山城代、海尻城代、小諸城代をつとめる。 上原昌辰自身は天文21年(1552年)に死去。
文献によれば上原氏が小山田氏(石田小山田氏)を名乗るのは翌天文22年(1553年)のこととされる(『高白斎記』によると天文20年(1551年)9月のこととしている。)。両者とも備中守であったことから混乱が生じているのだが、つまり上原昌辰までは上原姓であって、次男上原昌行から小山田姓となる。甲斐国石田に所領があったことから石田小山田氏と称されるようになったという。
上原昌辰は城を守ることにかけては優れた武将であり、 武田信虎にも信頼され、信濃侵攻の頃の武田家では上原昌辰が慣例的に守将になっていた。 飫富虎昌が信州内山城主をつとめたとき小山田姓を名乗り、その後武田晴信の命によって上原昌行が飯富虎昌の跡を襲って小山田氏を名乗ったとされる。 上原昌辰は古備中と称され、上原昌行が後備中と称されることがある。 上原昌辰は父上原虎満と同じく伊賀守を称したとされてきたが、実は上原虎満と混同されてきたことで伊賀守とされていただけで、備中守であった。 上原伊賀守は父上原虎満のことで、上原備中守は上原昌辰である。
天文9年(1540年)、上原昌辰は板垣信方と小宮山昌友、長坂虎房、日向昌時らとともに佐久侵攻作戦にあたった。総指揮官を板垣信方、副将として上原昌辰と小宮山昌友がつとめる。1日に36城も攻略したわけであるが、村上義清の反撃も強く、上原昌辰が海尻城守将を務めていたとき、村上義清の猛攻にあう。しかし日向昌時とともに村上義清勢を迎撃。必死の防戦により、武田勢の援軍がくるまで守り抜いた。天文6年(1537年)にすでに海ノ口城を落としており、武田晴信が初陣をかざった合戦であったが、その後武田信虎によって築かれた海尻城を守っていたのが上原昌辰である。佐久地方は武田方と村上方で取ったり取られたりを繰り返していた。
上原昌辰は天文10年(1541年)海野平合戦、天文11年(1542年)3月瀬沢合戦、10月信濃大門峠合戦、天文12年(1543年)12月小田井合戦、天文16年(1547年)7月碓氷峠(笛吹峠)合戦、天文17年(1548年)2月上田原合戦、天文17年(1548年)5月桔梗ヶ原合戦、天文11年(1542年)7月塩尻峠合戦、天文19年(1550年)戸石城合戦(戸石崩れ)、地蔵峠合戦など、村上氏や小笠原氏との信州勢を相手に、飫富虎昌、真田幸隆、教来石信房(馬場信房)らと戦場狭しと駆け巡ったという。
上原昌辰の長男上原昌重は天文19年(1550年)、武田氏が戸石崩れの際に地蔵峠合戦で討死。 上原昌辰も、天文21年(1552年)3月、時田合戦(常田合戦)で、弟上原昌成とともに戦死した。享年39歳。
次男上原昌行は天正10年(1582年)の高遠合戦で、武田盛信(仁科盛信)の副将をつとめ、壮絶な討死をした。
上原昌辰には長男上原昌重、次男上原備中守昌行(上原六左衛門信常)、三男上原治左衛門辰行がいる。 上原昌行には長男上原藤四郎昌盛、次男上原弾正有茂、三男上原壱岐守茂誠(上原六左衛門)がいる。 上原茂誠には長男上原主膳之知がおり、上原之知には長男上原之成がいる。
父上原虎満には、長男上原昌辰以外にも、次男上原管右衛門昌成、三男上原大学介昌貞(上原彌助)、四男上原十郎兵衛盛昌がいる。 上原昌成には長男上原多門貞重がおり、上原貞重には長男上原熊之助重吉(上原甚五兵衛)がいる。父上原虎満の叔父上原甚五郎吉勝(上原和泉守)には長男上原淡路守虎種(上原随翁軒種正)がおり、 上原虎種には長男上原筑前守種吉(上原助之丞)、次男上原与左衛門種長(森与左衛門)、三男上原兵庫種知(上原瀬戸)がいる。 上原種知には長男上原守吉、次男上原勘衛門尉守長、三男上原藤介守真、四男上原浅右衛門長吉がいる。 上原守吉には長男上原吉備がいる。
上原茂誠(小山田茂誠)は、真田昌幸の娘(村松)婿でもあり、配流地の真田幸村(真田信繁)が心を許した義兄。天正10年(1582年)、真田昌幸と戸石城に籠り、武田家滅亡後は真田昌幸長女の村松殿(宝寿院)を娶り真田の重臣となった。 真田幸村(真田信繁)同腹の姉の夫である。関ヶ原では真田信幸に従っていたようで、戦後、真田家で真田信幸を当主とする新体制が確立すると、 上原茂誠(小山田茂誠)も家老として同家に留まった。九度山に蟄居した旧主であり、舅の真田昌幸に対しては立場上、表立って接触を図ることはできなかったが、折をみて日用品や食料などを手紙を添えて差し入れていた。また、義弟である真田幸村(真田信繁)にとっては気の置けない人物であったらしく、九度山にある時も、また大阪城に入った後も、幾度となく上原茂誠(小山田茂誠)に対して近況を記した書簡を送っている。 真田幸村(真田信繁)は「歯も抜け、髭などもほとんど白くなり、身体も弱くなって」と蟄居中の弱音を漏らし、「何とかもう一度お目にかかりたい」と気取りのない心情を吐露している。虚飾のない「戦国武将」真田幸村(真田信繁)の人柄、心情を最もよく知っていたのは、他ならぬ上原茂誠(小山田茂誠)であったのかもしれない。元和元年(1615年)3月、一時講和の成った大阪城で、真田幸村(真田信繁)は上原茂誠(小山田茂誠)に対して書状を発した。「定めのない浮世、明日の事も知れません。我々の事はこの世に無い者と思ってください」知られている限り、これが真田幸村(真田信繁)の絶筆である。
-----------------------------------------------------------------------------

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

武田二十四将 更新情報

武田二十四将のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング