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武田二十四将コミュの南部肥後守満秀

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南部肥後守満秀について語り合いましょう。
南部肥後守満秀についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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南部肥後守満秀 1510〜1575年

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河西満秀、河西肥後守ともいう。
南部宗秀の長男。南部城主。小山城主。
甲斐国巨摩郡鏡中條(南アルプス市、旧中巨摩郡若草町)を領す。河西氏は甲斐の豪族であり、源姓を称する。家系は清和源氏の一流である河内源氏の傍系とされており、甲斐国巨摩郡を発祥としていることからも、武田氏庶流とされている。甲斐源氏の流れで南部氏の後胤にあたる。桓武平氏葛西氏流ともいわれている。他にも讃岐国や伊勢国でも河西氏は豪族が分布している。
父南部下野守宗秀は、南部定秀の長男。武田氏の家臣であり、甲斐国南部城主という。鎌倉時代の武将南部光行の十二代目の後裔を称し、 武田信虎、武田晴信に仕えている。大永3年(1523年)には小山城主の穴山信永を破り、小山城代となっている。天文17年(1548年)には、乱行を理由に甲斐国を追放され陸奥国会津まで流浪し、そこで餓死したという。『甲陽軍鑑』によると、南部宗秀は家臣石井藤三郎を成敗しようとするも取り逃がしてしまい、 山本勘助の助けで石井藤三郎を捕える。しかし自身の失態を棚に上げて手傷を負った山本勘助を非難し、それが武田晴信の不興を買うこととなり、追放となった。
長男南部満秀(河西満秀)は父の汚名に憚ったか改姓し河西を称す。
天正3年(1575年)長篠合戦で戦死している。
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