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武田二十四将コミュの荻原豊前守昌明

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荻原豊前守昌明について語り合いましょう。
荻原豊前守昌明についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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荻原豊前守昌明 1509〜1581年

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板垣昌明、弥右衛門、正明、勝明、兵部丞ともいう。
荻原昌忠の長男。祖父荻原昌勝を嗣ぐ。
武田信虎に仕える。祖父荻原昌勝死後は、叔父板垣信方の配下に属す。 武田晴信の代になると、横目付衆や武田晴信の館番役、甲斐各街道の普請奉行をつとめる。合戦時は目付衆、近習とともに旗本馬廻として武田晴信の護衛にあたる。天文11年(1542年)には叔父板垣信方について諏訪侵攻に従軍。 諏訪頼重を討ちとる。天文16年(1547年)8月11日には、志賀城攻めで、笠原清繁を討ちとる。苅屋原城攻めでも太田弥助家臣11人の首を討ちとり、感状を賜った。上田原合戦では、叔父板垣信方を補佐し、楽岩寺勢、布下勢との戦いでは、危険性を諌めたりしている。永禄7年(1564年)7月には目付坂本武兵衛(坂本豊兵衛)とともに横目として飫富虎昌、長坂源五郎、曽根虎盛らの密談を監視。天正9年(1581年)10月8日、72歳で死去。
荻原昌明には長男荻原弥右衛門昌之、次男荻原民部定久、三男荻原図書長久、四男荻原定昌(山縣定昌)がおり、 飫富昌景(山縣昌景)とともに逆心を暴き、武田義信に切腹へと追い込む。 荻原定昌は山縣氏に養嗣入し山縣姓を名のった。 荻原昌之には長男荻原甚之丞昌友、次男荻原玄蕃允重吉がいる。 荻原重吉から荻原重昌、荻原昌吉、荻原昌種、荻原十助種重へとつづく。 荻原種重には長男荻原左兵衛守重、次男荻原五左衛門重秀(荻原近江守重秀)がおり、 荻原重秀は徳川綱吉に仕え勘定奉行をつとめた。
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