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武田二十四将コミュの武田右衛門大夫信龍

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武田右衛門大夫信龍について語り合いましょう。
武田右衛門大夫信龍についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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武田右衛門大夫信龍 1539〜1582年

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武田信竜、上野介、一條信龍、一条信龍、一条信竜、右衛門ともいう。
武田信虎の十一男。一條時信嗣。市川上野城主。駿府田中城代。
鎌倉期以来の名門一族一條時信の名跡を継承した武田信龍は、武田晴信の異母弟。 武田信龍(一條信龍)の知行地は巨摩郡市川庄(市川三郷町)、青柳郷(増穂町)など。市川上野城を居城とした。甲斐の南方警備の任を担当し、親族衆として200騎を保持。
一條氏は、武田信義の長男一條忠頼(一條次郎)が一條小山(甲府市舞鶴城)に居館を設けて住したことにはじまる。 一條忠頼は木曽義仲討伐の合戦で甲斐源氏を代表する功績をあげたが、強すぎたことを源頼朝に忌まれる結果となって謀殺される。その一條氏を武田信龍が復旧。『甲斐国志』に「武田信虎の男、一條の家蹟を継ぎ氏号とする。古府中に邸跡があり、城墟は八代郡上野村(西八代郡三珠町上野)なり」と記されている。
武田信龍は川中島合戦の頃から活躍。天文22年(1553年)川中島合戦が初陣とされている。
武田信龍の陣旗は「白地に裾赤」であったという。騎馬100騎を預かる侍隊将の地位にあり、永禄10年(1567年)以降は武田の副大将格として兄武田晴信を補佐。永禄10年(1567年)10月19日、武田義信が幽閉先の寺院で自刃したことにより、武田晴信は家臣団の団結を強固にする一方で、帷幄の中心に血縁を据えるために武田信龍を身近に置いたとされる。『甲陽軍鑑』に「七人の軍将にさしついで武名あり。七将は希代の英雄、後人の亀鑑、補弼の良臣」と記され、 山縣昌景や教来石信房(馬場信房)らと同じく武断派家臣の代表であり、かなり気骨のある武将であったという。 山縣昌景をして「伊達男にして花麗を好む性質」と洒落者でなかなかに風流を解する文化人でもあったという。 武田晴信に従って各地を転戦し、武田晴信の駿河侵攻後には、田中城代をつとめる。大和の松永久秀や摂津石山本願寺との交渉にあたり、武田勝頼の代になると田中城代を嫡男武田信就と交替し、甥武田信光(武田信友の次男)とともに駿府城代をつとめる。元亀2年(1571年)5月、武田晴信が将軍足利義昭の側近岡周防守に織田信長討伐を働きかけた書状の添状として武田信龍書状がみえる。長篠合戦のときには、『甲陽軍鑑』によれば「馬場美濃守(馬場信房)の率いる700の部隊もあらかた負傷して退き、または討死して残るは80余人ばかり。 馬場美濃守自身は軽傷も負ってなく、他の同心や被官たちに早く退けと勧めるが、さすがに武勇の武田勢、馬場美濃守を残して退く者はいない。穴山隊は戦闘を交えることなく退く。一條右衛門(武田信龍)殿、馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せているところへ、一條配下の同心が近づき、合戦馴れのした利口な武者ゆえ、馬場信房に向かって、下知(命令)をされるようにという。 馬場美濃守それを聞いて命令するとすれば退くよりあるまいが、と退却をはじめた。しかし御旗本組(武田勝頼)が退くまでは馬場信房隊も退かず、 武田勝頼公の大の字の御小旗が敵のうしろをみせたのを見届けてから馬場美濃守も退いた。 武田信龍(一條信龍)も他の軍も退きなされた」とあり、敗色濃厚な設楽原の戦場に残って味方が退くのを確認するまで動かなかったという豪胆さのある武将であったことが分かる。天正4年(1576年)4月、市川での草間の開発地を地侍に与えた武田信龍判物のほか、天正8年(1580年)9月に武田勝頼から青柳郷で起立した新宿に対して、3ヶ月間の諸役免除を受けているものがみられる。はじめは右衛門大夫と称していたが天正8年(1580年)に上野介に改め、右衛門大夫を武田信就に継承している。天正10年(1582年)2月末、織田信長の甲州攻めにより徳川家康の進攻を受け、甲斐の自領に後退、市川陣地(西八代郡市川大門町)に踏みとどまり、最期まで甲州乱入の徳川家康軍を相手に反抗。3月21日(3月10日)に上野城で武田信就(一條上野介)とともに徳川軍を迎え撃つが、多勢に無勢、捕らえられ徳川家康に処刑される。『信長公記』には「三位中将織田信忠卿、上の諏訪より甲府に至って御入国。一條蔵人私宅に御陣を居えさせられ、武田勝頼一門、親類、家老の者尋ね探してことごとく御成敗。生害の衆、一條右衛門太輔(武田信龍)云云」とある。
『甲斐国志』には武田信龍の墓は市川の善福寺(市川大門町覚王山善福寺)にあると記されているがすでに廃寺となっており、牌子も焼失しているという。武田氏滅亡後に、一條衆70名が徳川氏に従ったと徳川家康への起請文にみることができる。
武田信龍には長男武田右衛門大夫信就(一條右衛門大輔)、次男武田久次郎信貞がいる。
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