ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

武田二十四将コミュの山縣三郎右衛門尉昌景

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
山縣三郎右衛門尉昌景について語り合いましょう。
山縣三郎右衛門尉昌景についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋

-----------------------------------------------------------------------------
山縣三郎右衛門尉昌景 1518〜1575年

-----------------------------------------------------------------------------
山県昌景、飫富昌景、飯富昌景、飫富源四郎、景仲、三郎兵衛ともいう。
山縣重秋の六男。教来石信房、工藤昌豊、春日虎綱らと並び「四名臣」と称された。
母は飫富虎昌の姉。
永正15年(1518年)(永正12年(1515年)生まれ説あり)に山縣重秋の六男として生まれる。幼くして母を亡くした山縣昌景は、継母とも折り合いが悪くなり、亨禄2年(1529年)、11歳のときに実母の故郷である甲斐国の叔父飫富虎昌を頼る。 山縣昌景は叔父飫富虎昌の弟飫富源四郎と名のり、亨禄2年(1529年)から武田信虎に仕え、近習使番として武田晴信に仕えることとなる。武田晴信より3つ年上。
天文4年(1535年)に武田信虎は諏訪頼満と和睦を果たし、佐久郡への侵攻に重点を置きはじめるが、この頃に飫富昌景(山縣昌景)は元服したと考えられる。義兄飫富虎昌につき従い信濃国佐久郡侵攻に従軍。「甲山の猛虎」と恐れられた飫富虎昌に劣らぬ勇将の片鱗を見せ、しだいに頭角をあらわし、伊那郡攻略戦から本格的に活躍しはじめたとされる。
天文21年(1552年)に騎馬150騎を預かり侍隊将となり、天文17年(1548年)に板垣信方と甘利虎泰が戦死してからは、「職(しき)」として重く用いられ、戦場でも武田晴信を補佐し全幅の信頼を得ていた。永禄4年(1561年)川中島合戦では、武田信繁、武田信廉が本陣を固め、飫富昌景(山縣昌景)は旗本隊の指揮官として親族衆の 穴山信君隊、工藤昌豊隊など8000の軍勢で本陣の守衛にあった。永禄6年(1563年)には三郎兵衛尉と改める。とくに飫富昌景(山縣昌景)の城攻め、野戦での駆け引き、采配ぶりは武田晴信も感嘆するほどの妙を見せており、城攻めの短期決戦は山縣勢のお家芸との定評もあった。黒地に白抜きの桔梗紋を染め抜いた旗差し物を背に戦陣狭しと暴れまわる勇猛さは、数数の軍談本にも多く物語られている。『近代武勇記』には「上杉景勝には河田監物信親(川田信親)があり、徳川家康には本多百助正広、 武田晴信には山縣三郎兵衛尉昌景等等の勇将あり。いずれも大剛の士なり」と記されている。『古今武勇覚書』には、飫富昌景(山縣昌景)の出陣の際のいでたちについて「甲州の英傑山縣三郎兵衛の陣脇差を見ると、赤木作りで側は角地皮で菱取に巻いてあり、黒漆で塗りこめている。鞘は白木で所所に桜の皮を巻き、これも漆で塗っている。刀身は一尺五寸ばかりの塗り身である」としている。
永禄8年(1565年)には、武田義信に「武田晴信排斥の謀議」があると察知し、義兄飫富虎昌も関わっていると知った飫富昌景(山縣昌景)は「いかに義兄といえども、御大将に弓を引く謀反の企ては許すことができない」「兄を裏切るより、子(武田義信)に裏切られる父親(武田晴信)の方がはるかに心の傷は深い」と、 武田義信の謀反を未然に防ぎ、飫富虎昌を逆臣の咎により成敗させている。かつて武田晴信は「大義、新を滅す」という戒めに従って実父武田信虎を追放。しかし飫富昌景(山縣昌景)は引き立ててくれる主君への忠誠と武田家を守るために、たとえ兄であっても情に溺れることはなかった。 武田晴信は心中の慟哭を押し隠してまで訴えで出た飫富昌景の忠誠を喜び、300騎の侍隊将に昇進させる。また飫富昌景はもともとの姓、山縣姓に復し、山縣昌景と改めた。飫富虎昌が自刃してからはその兵「赤備」を継承。享禄2年(1529年)に武田信虎に誅されて断絶していた山縣虎清の名跡を継承する意味合いもあったとされている。元亀3年(1572年)9月、武田晴信の西上作戦が開始されると、飫富昌景(山縣昌景)は本隊の出発に先立って三河衆など5000余の軍勢で別働隊を組織し先発。下伊那から東三河へ入り、三方ヶ原合戦では秋山信友隊とともに徳川家康の本陣に迫り、徳川軍をことごとく撃破。豪気な徳川家康も一時は自決を覚悟したほどで、本多、大久保らの直臣に諌められほうほうの態で浜松城へ逃げ込んでいる。 大久保彦左衛門の『三河物語』によれば、徳川家康が「さても山縣という者、おそろしき武将ぞ」と驚嘆したという。武田氏が滅亡してから、徳川家康は散り散りになっていた山縣隊旧臣たちを召抱え、彦根井伊家に仕官させている。また徳川家康は本多信俊の子本多信勝の幼名を山縣と称させたというのだから、 徳川家康の脳裏にはよほど猛将山縣昌景の印象が強烈だったのだろう。
元亀4年(1573年)4月、武田晴信が臨終の際、山縣昌景を枕元に呼び「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を遺したと『甲陽軍鑑』に記されている。
江尻城代をつとめていた山縣昌景であったが、天正3年(1575年)5月長篠合戦では、教来石信房(馬場信房)らとともに強攻めの不利と困難を武田勝頼に説くが聞き入れられず、無謀ともいえる合戦に突入。全身に無数の鉄砲玉を受けたにも関わらず、落馬もせずに采配を口にくわえたまま絶命。『勇士ものがたり一言集』によると、山縣昌景を狙撃したのは織田軍の鉄砲の名手大阪新助であったという。
山縣昌景には長男山縣将監昌満、次男山縣三郎兵衛信継、三男山縣源四郎昌純、四男山縣昌久(上村左兵衛)、五男山縣左兵衛昌次(山縣甚太郎)、六男山縣昌忠(新宮昌忠)らがいる。 山縣昌純には長男山縣荒二郎純寿がいる。 山縣昌久には長男山縣内匠昌之、次男山縣正時(笹治大膳常勝)がいる。 山縣正時には長男山縣刑部正次(笹治左兵衛直次)がいる。山縣正次には 山縣良次(笹治大学)がいる。父山縣与三兵衛重秋は永正8年(1511年)8月の船岡山合戦にめざましい武功を上げ、永正14年(1517年)10月22日の有田中井手合戦でも父山縣重秋、山縣右馬助重房父子は手柄を立て名を馳せた。 山縣重秋の長男山縣重房をはじめ、次男山縣備前守就延、三男山縣備後守就信、四男山縣備後守元信、五男山縣筑後守就相がいた。
-----------------------------------------------------------------------------

コメント(2)

>武田信繁さん

ありがとうございますw
そんな小さかったんですか―wすごいですねw
巻き舌だったというのは初耳ですw

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

武田二十四将 更新情報

武田二十四将のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング