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呪縛から逃れてコミュの律法―その4

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★マタイ5:20(口語訳)
20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

★同上(新世界訳)
あなた方に言っておきますが,あなた方の義が書士やパリサイ人の[義]より豊かにならなければ+,あなた方は決して天の王国に入らない+のです。




この聖句から、さまざまな疑問が出てきます。
ここでキリストが言われたことはどのような意味でしょうか。
律法学者やパリサイ人たちの義とはどんな義なのでしょうか。
わたしたちの義とは何でしょうか。
彼らの義にまさっているとはどういう意味でしょうか。


●律法が与えられた背景
律法は、神のご品性を表しています。
モーセが律法を与えられたのは、岩だらけのシナイ山頂でした。そこにキリストが自ら石の板に十の戒めを書き付けられ、義の標準として与えられたものです。エジプトでヨセフが亡くなった後、ヨセフの偉業を知らないパロ(ファラオ)が起こり、彼らの繁栄を妬み、また反逆を懸念したため、彼らは奴隷とされました。それからモーセによってエジプトから出るまでイスラエルは430年もの間、神を崇拝せず、
安息日のことも忘れ去られていました。彼らはエジプトの偶像崇拝や飽食に慣らされ、神の民とは程遠くなっていました。

そのような民を主は愛されましたが、神の民として根気よく教育しなければならず、彼らは何が善で何が悪かを知らず、当然神のことは全く知らない、そのような民を導くために、神はご自分を現されたのです。それが十戒であり、神の基準、すなわち義の基準として与えられたものです。

 『シナイで与えられた律法は、愛の原則であり、天の律法の地上への啓示であった。それは仲保者キリストの手で制定され、そのみ力を通して、人間の心をこの原則に調和させることのおできになるキリストによって、語られたのであった。神はイスラエルに、「あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない」と述べて、律法の目的をあらわされた(出エジプト22:31)』(祝福の山58、希望への光1142)

残念ながら、イスラエルの民はそのことを理解しませんでした。単に形式と礼典の遵守にすぎないということで、目に見える奇跡があっても神の主権に従うことをしませんでした。


●パリサイ人たちはキリストを拒否しましたが、なぜ?
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を読むと、誰でも分かるとおり、パリサイ人たちは、キリストを拒否しました。なぜなら、キリストが彼らの正しくない義を暴露されたからです。またキリストの人気が自分たちよりも高まって、それもキリストを処刑にしたかった理由の一つでした。

パリサイ人たちの義の基準とはどのような基準であったでしょうか。

23章ではキリストは、彼らに対してへびよ、まむしの子らよ、と彼らを呼ばれました。
聖書ではへびはサタンを意味していますね。

15章でも、キリストは彼らを、「偽善者」、「盲人が盲人を手引きする」とか、イザヤの預言「口ではわたしを敬うが、心は遠く離れている、人間の戒めを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる」と痛切に非難されています。

彼らの義は律法の精神とは程遠く、その上、自分たちが勝手におきてを作り口頭で伝えられ、それが民を苦しめていたのです。それは600くらいあったそうです。その目的は、敬虔ぶって自分たちは神に近い立場にあるのだと言わんばかりに人の関心や注目を集め、さらには神殿を利用しそこで売り買いされる供え物などからお金儲けをし、私服を肥やすためでした。

キリストはそのことを暴露されたので、彼らとしてはキリストの存在が邪魔だったのです。
また人々の前で、キリストに恥をかかせようとしてキリストに疑問を投げかけても、納得のいく答えが返ってくるし、キリストの論法は逆に質問を投げかける方法でしたので、そうなるとそれに対してほとんど答えることができず、逆に何度も困惑させられました。言わば、恥をかかせられたというような意味も含んでいます。

また、十戒の精神を理解することのできなかった、モーセの時代のイスラエルの民同様、パリサイ人たちも、形式と礼典の遵守が中心であったために、律法の精神を理解せず、キリストを受け入れることができなかったのです。

これが律法主義といわれるものですが、それは、魂を神と調和させるのではなく、悔い改めや優しさ、同情もなく、堅く厳格なパリサイ人の宗教そのものでした。彼らの宗教は、罪人をさらにつまずかせ、味を失った塩のようです。

●わたしたちの義はどうあるべきか。

★ミカ
6 「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。§祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。
7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

預言者ミカはこのように記録していますが、律法学者も宗教指導者たちもこれらのみ言葉の示す真の信仰を学んでいませんでした。世の腐敗から魂を守る塩の役目を果たしていませんでした。

★イザヤ64:6
6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。

彼らの義は、自分の考えから出たものであり、みせかけの敬虔さ、利得、自分で自分を清くしようと務めていただけでした。カトリックの修道僧たちや体を痛めつけることによって救いを得られると勝手に信じ込んでそうしているように、行動によって義を得ることはできないのです。

 『彼らは自分を清くしようとして、汚れたもののうちから清いものを出そうと努めていたのであった。神の律法は神が聖であるのと同じように、聖であり、完全である。
律法は神の義を人間に示している。
人間は、自分の力ではこの律法を守ることができない。
人間の性質は堕落し、ゆがんでおり、神のご品性とは全く似ても似つかなくなっているからである。
利己的な心のわざは汚れたもののようであり、「われわれの正しい行いは、ことごく汚れた衣のようである」(イザヤ64:6)』(同上)



十字架にかかられた時、本物の犠牲となられそのために、動物の犠牲は不必要となりました。キリストは律法の縄目からわたしたちを解放して下さり、その功績による恵みよって、わたしたちを義としてくださるのです。キリストは新しい戒めとして、律法を要約して言われました。

「神と隣人を愛しなさい」。この二つの愛の対象が重要です。

★エペソ4:17-24
17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
23 心の深みまで新たにされて、
24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

キリストはわたしたちを創造された時、神にかたどって創られました。
福音とは、回復を表しています。キリストによってそれが実現し、わたしたちが罪によって神から離されていたのに、彼の血ゆえに和解が可能となったのです。

しかしこれは、自分でできることではありません。では何によって可能となりますか。

★テトス3:3-6
3 わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
4 ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、
5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。

キリストの送られる力、すなわち聖霊のお働きによるものです。
それは心からの祈りによって与えられるものです。



マタイ5:20の意味は、パリサイ人のように利己的な宗教ではなく、わたしたちがキリストに信仰を働かせ、その聖霊の力によって変えられ、神と共に歩むことによって実現されるのです。

律法の精神は、わたしたちを苦しめるどころか救いへ導くものです。またわたしたちが聖なる者となる
ために、しかもそれは最終的には主がわたしたちに天の門をくぐって欲しいと願われているためです。


★出エジプト34:6-7
「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、
いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」

モーセはこのように書いて神がモーセに示されたご自分の栄光を讃えています。

罰すべき者とは、聖霊に逆らう者たちや悔い改めのない者、罪に耽ってやめない者たちをいいます。


最後に律法の目的についての聖句を書いておきます。

★出エジプト22:31
「あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない。」



アーメン!!

(律法 完)





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