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呪縛から逃れてコミュの14万4千人?

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前回の内容を読んだだけでも、JWの統治体員だけが、天国へ行くというのは、あまり信憑性がかなり低いように思います。
このあたりも真理を愛されるJWの方々が祈りと共によく研究をされて、
彼らの言っていることを鵜呑みにするのではなく、何が真実であるかを探りまことの神に出会っていただきたいと心から願っています。


さて、黙示録7章にもどります。
黙示録7章の後半部分、大群衆の部分ですが、WTは、この部分を別のグループとして解釈しています。そして、これらの大群衆は地上で生きる人として
会員に教えています。それは本当に正しいでしょうか。それとも、
大群衆はどんな人たちなのでしょうか。

■大群衆

**黙示録7:9
<9この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 >

『この大群衆の描写は、黙示録4章5章を想起させます。彼らは一見14万4000人とはまったく別の人々の集団のように思われます。
14万4000人は、はっきりした数字ですし、彼らはイスラエルの12部族から構成されていますし、白い衣を着ているとは言われていませんし、また彼らがどこにいうかも記されていませんが、地上にいることは明らかです。
一方、大群衆はあらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の集団ですし、白い衣を身につけていますし、彼らは天にいます。
そこで14万4000人と大群衆は全く別の人々の集団でしょうか。
結論を急いではいけません。』


◆イエスに愛されたヨハネさんの作文の癖がここにあります。
「14万4000人?」では、ヨハネの作文上の手法をご説明したと思います。
ヨハネの手法は、『「見た」「聞いた」ものを異なる記述を用いて同じ一つのものを表す』というものでした。こういった手法を見抜かなければ真実は見えてこないのかもしれません。

『黙示録の中で、ヨハネはこのような作文上の手法を用いているのに気づきます。そこで問います。
黙示録7章においてヨハネは、14万4000人の人々を実際に見たのでしょうか。
彼は見ませんでした。彼はその「数を聞いた」(4節)のでした。
そして9節によると、彼は「誰にも数えることのできない大群衆」を見たのでした。彼が聞いたことと、実際に見たものとは異なるものでしたが、それは役割の違う同じ人々の集団を表しているのです。
14万4000人と大群衆はとは共に黙示録6:17の「だれがそれに耐えられるであろうか」という問に対する解答なのです。
14万4000人は、キリスト再臨の直前の出来事に遭遇する神の民を表していると思われます。大群衆はキリスト再臨後、神の玉座の前にいる同じ神の民を現しているのです。
しかし明らかに同じ人々の集団です。役割と状況は異なりますが、明らかに同じ神の代表を表しているのです。』


■なつめやしの枝の象徴

この言葉は、新約聖書に2回、旧約聖書では、レビ記とネヘミヤ記に出ているだけです。これはどんな意味を持っているのでしょうか。

『「なつめやしの枝」は、・・・・イエスのエルサレム入場の光景の描写に用いられています。黙示録のこの箇所においてイエスは神の玉座の前にいる大群衆の賛美をお受けになっています。
旧約聖書の背景では仮庵祭のときに関連して記されています。レビ記23:40、ネヘミヤ8:14.15です。黙示録のこの箇所では、勝利者キリストのエルサレム入場をを背景として、究極の勝利を収められた宇宙の王としてのキリストの入場を表すものとして用いられています。』

■勝利者への約束の実現

10節以降の説明です。

**黙示録7:10〜14
<10大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」
11また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、
12こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」
13すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」
14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 >

**黙示録3:21
<21勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。 >

『白い衣を身につけた人々は誰でしょうか。大群衆のことです。
14万4000人は、白い衣を身に着けている人々としては描かれていません。

「大きな苦難を通ってきた者」は、第5の封印を背景としています。
14万4000人は、第5の封印において「自分たちと同じように殺されようとしている・・・者たちの数が満ちるまで」という言葉を想起させます。
これら二つの人々の集団は同じ神の民を表しています。
彼らの経験は殉教という大きな苦難です。そこで黙示録7章は、6章の主題となっている幾つかの事柄がその頂点として実現する光景が描かれているのです。』

私は、すでに「啓示の書」の教本をずっと前に処分しましたので、彼らの教えていることと比較することができませんので、一方的に書くしかありませんが、
お読みいただいて、ご自分で確かめていただきたいです。

■結びの言葉

**7:15〜17
<15それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。
16彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。
17玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」 >

「幕屋を張る」というのは、飢えや渇きや、太陽や暑さから守ってくださるという意味なのでしょうか。この学びの中にベドウィン族との体験が書かれていて大変興味深く思いました。

『黙示録の前半のこの段階で私たちは、永遠の命の祝福を既に味わい始めています。ここにおいて私たちは贖われた者たちが経験する輝きに満ちた報いを初めて垣間見ていますが、黙示録21章、22章においてその輝きは一層増して、より明らかに示されるのです。』

15節の「仕える」という言葉の意味について。

『この「仕える」という言葉は祭司職の働きを表現する言葉です。
ある意味で神の民は未来の天の王国で祭司の務めをします。永遠にわたってだれが祭司を必要とするのでしょうか。この問に関しては第4部の講義で考察します。この地上における神の民の祭司職を再臨の後も天において継続します。
「神殿で神に仕える」という言葉は黙示録3:21の「勝利を得る者をわたしは自分の座に座らせよう」というイエスの約束と相反するように思われます。天の神殿は宇宙の統治の中心となる場所です。
英語では、大統領は4年間その職に「仕える(サーヴィング)」と表現しますが、「仕える」という言葉は「統治する」という概念を内包しています。贖われた人々は神の統治政府の一員としての役割を果たすことによって神に仕えるのです。
黙示録1:6の「わたしたちを王とし、・・・・神に仕える祭司としてくださった 」という聖句を思い出します。贖われた者たちの天における生活の特質の描写でこの章は終わっています。』


黙示録7:15「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋をはる」

『私はヨルダンのぺトラに訪れたときのことを思い出します。赤い岩に囲まれた地域で、アメリカのユタ州と同じような光景です。水が少なく本当に暑い地域です。真昼の頃は非常な高温です。そこにベドウィンの天幕が張られています。そこにいた人たちが私たちを天幕の中に招きいれてくれました。中に入りますと豪華なじゅうたんが敷かれていて、ソファーもあり、そこにゆったり座って、昼食をごちそうになりました。冷たい飲み物もいただきました。周囲には何もない高温の地で、この天幕の中はまったくの別世界でした。
神が覆われた者たちの上に幕屋を張るという表現は、天幕の中で経験しているベドウィンの人々の方が私たちよりもより切実に理解できることだろうと思いました。
神はこの世の高熱や苦難の嵐の真っ只中で幕屋を張り、私たちの避難所としてくださいます。飢えや渇きや暑さかあ守って下さいます。神は彼らの目から涙をぬぐってくださるのです。』

■霊的教訓・・・・三つ

?この世の生活がどんなに苦しい状態であると言っても、もし神の抑止力が働いていなければ、より一層苦しい者となっていたであろう。

7:1〜3で学んだように、たとえ神を知らない人であっても、義人たちを守っておられる神の庇護のもとにともに置かれているのです。
神の霊がもし働いておらなければ、今の状態よりももっと悪い状態になっているであろうということです。

?神はご自分の民が害されることのないように特別なご配慮をなさるという事実。

私たちはこの事実を時々忘れることがあります。
人生の苦難に遭遇すると、私たちは神を責めやすいのです。
しかし黙示録7章が明らかにしていることは、神は神の民が害を受けるようには計画してはおられないという事実です。
人生に問題を起させるのは悪魔です。ときに神が介入なさらない時があるでしょう。神はご自身の御子を十字架から救うために介入なさいませんでした。
この事実を考えると、私たちに苦難が襲う時も、神は私たちに対する深い愛と憐れみをもっておられると神に信頼できるのです。しかし聖句が明らかにしていることは、神はご自身の民が害されることのないように特別な配慮をなさるということです。

?信じられないようなすばらしい未来を神は私たちのために備えておられるということ。

私たちはこの章でその輝きを垣間見ているに過ぎません。第4部でこの点について更に詳しく学びます。永遠に神に仕えることは、本当に素晴らしいことなのです。

以上、「黙示録講義」第2巻(第二部)より。


アーメン。


※第4部は、これから出版されますので、入手できるのは、
今年末頃になります。またお楽しみに。

(完)

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