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呪縛から逃れてコミュの救い?

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(?からの続き)

?義認
●信仰の役割と行為について。

神のみ前での立場が決定される条件として、多くの人が間違って信じられていること・・・・・それは、善悪の行為によるということです。

人がどのように義をされるか、ということに対してパウロとヤコブの見解があります。

・パウロ・・・・・「私は、・・・・わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。・・・それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく髪からの義を受けて、キリストのうちに自分をみいだすようになるためである。」(ピリピ3:8〜9)

・アブラハムの信仰について・・・・「彼は神を信じた。それによって、彼は義を認められた」(ロマ4:3、創世記15:6)

アブラハムは割礼を受けたためではなく、割礼を受ける前に義とされたのです(ロマ4:9〜10)。アブラハムが神から召しを受けた時、「信仰によって・・・それに従い」、故郷を出で立ち、「行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8〜10、創世12:4、13:18)と記されています。
アブラハムが神に対して本当の<生きた信仰>を持っていたということは、彼の<従順>によって示されていました。彼が義とされていたということこそ、このダイナミックな信仰の基礎でした。

・ヤコブ・・・・ヤコブの警告は、<行いが伴わなくとも、信仰によって義とされる>という義の間違った理解についてでした。
ヤコブのポイントは、<行いの伴わない純粋な信仰などありえない>ということでした。ヤコブもパウロと同様にアブラハムの体験から信仰による義の考えを例証しています。アブラハムが息子イサクを祭壇にささげたことは、アブラハムの信仰を示していました(ヤコブ2:21)。アブラハムの信仰はこのとき完成されたのです。

「あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」た(ヤコブ2:22)と、ヤコブは述べています。
「信仰も・・・・行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)。

アブラハムの体験は、行いが神との真の関係の証拠であるとうことを表しています。したがって、義に導く信仰は、行いを伴う生きた信仰なのです(ヤコブ2:24)

・まとめ・・・・パウロとヤコブは、信仰における義において、その見解が一致していました。パウロは<行いによって義を獲得するという誤りを指摘>していたのに対し、ヤコブは<行いが伴っていないにも関わらず、当然の権利として義を要求するまちがい>という、同じように危険な考え方を論じていたのです。行いも死んだ信仰も、義に導くことはありません。

それは、<愛によって働き(ガラテヤ5:6)、魂を清める純粋な信仰>によってのみ、実現されるものなのです。


?へ続く。

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