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映画で元気コミュのNO.81「り」のつく元気になった邦画

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「力道山の鉄腕巨人」(リキドウザンノテツワンキョジン)

<元気コメント>
 最後の空手チョップによる反撃を見たさに、テレビのある家へ何度押しかけたことでしょう。
 自分の家にテレビがきた時も、プロレス=力道山が見られるという喜びがあふれていました。
 夢が現実化されると元気が出ます。

<あらすじ>
 プロレスリングの王者、力道山は世代を超えたヒーローであった。
 小児マヒで立ち上がる事のできない少年、保の父兵六は、保を元気づけようと、道場にサインをもらいに訪ねた。
 事情を聞いた力道山は保の自宅に見舞いに訪れる・・・

<データ>
「力道山の鉄腕巨人」
http://www.dmm.com/rental/ppr/-/detail/=/cid=n_672tec01025/searchstr=q672gt2F/mdream-008
製作:1954年
監督:並木鏡太郎
出演:力道山 安西郷子 松島トモ子 柳屋金語楼

<「力道山」と言えば>
★力道山(りきどうざん、1924年11月14日 - 1963年12月15日)
 第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築いたプロレスラー。
 大相撲の力士出身。日本プロレス界の父と呼ばれる。
 身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。朝鮮在住時代に既に結婚し、子供もいたため公称生年月日より早く生まれていると思われる。

(1950年相撲廃業、1952年日本プロレス協会を設立)
 出身は戦前の朝鮮半島(現在の北朝鮮統治範囲)。
 後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。
 民族名は金 信洛(キム・シルラク)。戸籍名は百田 光浩(ももた みつひろ)。
 1940年に初土俵、1946年に入幕し、1949年に関脇に昇進するが、1950年に自ら髷(まげ)を切り廃業、1951年にプロレスに転向する。
 1952年に渡米し、翌年帰国して日本プロレス協会を設立する。

(WWA世界ヘビー級王座を獲得)
 シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップでばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始された事も重なり日本中のヒーローとなる。その後柔道出身の木村政彦、山口利夫を倒して日本のプロレス界を統一した。1954年12月の木村との世紀の一戦が八百長であることが明らかになり、それ以後三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになる。
 大相撲出身の力道山が天下を取ったことから相撲取りのプロレス界入りが増えた。
 日本のプロレス界になにかと相撲の影響が残っているのはこれに由来する。
 また後にはフレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。
 1974年にジャイアント馬場が獲得したNWA世界ヘビーとは違いカリフォルニア近辺だけのローカルなベルトではあったが、ともかく日本人でプロレスの世界ヘビー級王者になったのは力道山が初めてである。
 ルー・テーズやパット・オコーナーのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。

(歴代視聴率4位)
 1963年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。現代に例えると2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵するものであり、いかに力道山の存在が絶大であったかがうかがえる。
 1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家村田勝志に、登山ナイフで腹部を刺されて山王病院に入院。その傷が元で12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。享年39。
 傷そのものは大したことはなかったが、再手術の際に麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことで窒息し、死に至る(担当医が亡くなる直前に著書で告白したことから発覚した)。
 この時の看病をしていたのはアントニオ猪木である。

 「ルー・テーズ対力道山 世界選手権争奪戦」
http://www.dmm.com/rental/ppr/-/detail/=/cid=n_618dstd02382/searchstr=q672gt2F/mdream-008

(「人間ポンプ」)
 自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実(客人の前で、馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の車から突き落としたりして、強靱な肉体があるからプロレスラーは「ケロっ」としているというアピールを好んで行った)。
 梶原一騎原作の劇画「プロレススーパースター列伝」等で、手術後に飲酒をし、寿司を喰ったために腸閉塞を起こしたという話がまことしやかに出回ったこともあるが、デマである。
 性格的には粗暴で、感情の起伏が激しく、機嫌が良いときはボーイに1万円(※当時の1万円は相当な額である)のチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ(泉麻人の著書「B級ニュース図鑑」によると一部の新聞紙上には「力道山また暴れる」と報道されているようだ)。
 力道山自身がキャバレーで「俺は強いんだ!」と酔って大暴れし、力でかなわないので困ったキャバレーのボーイ(ボーイではなく暴力団系の「大日本興業」の構成員)がナイフで刺したが、力道山はそのナイフをつかんで「こんなナイフで俺が死ぬかよ!」とさらに自分で腹を刺し続けたという説もある。
 このような粗暴な行為に関しては、本人の生来の激しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出掛けてトラブルを引き起こしたという証言もある(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。
 また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露するという。
 このように、力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、日本のプロレス界の礎を築いた人物であることは間違いない(その人気と功績から、広辞苑にも名前が載っている)。力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」など極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている)。
 
(事業家としても成功)
 その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮人の大木金太郎であったともいう。
 プロレスラーの百田義浩(故人・元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄(現役・プロレスリング・ノア副社長)は実息。
 当時の厳しい差別などもあってか自らが朝鮮人であることは生前は周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。
 亡くなる10ヶ月前に結婚した田中敬子(元日本航空スチュワーデス。死後、百田姓から抜けた)はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである。
 事業家としても成功し、赤坂に「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。
 渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。
 また日本人の友人と共同で箱根にゴルフ場を経営する計画があり設計までに至っていたが、上記の急死によりこの事業は消滅した。
 死去した日と同日に4代目の鈴々舎馬風が中風で死去したがスポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため一段のベタ記事扱いとなった。
 しかしそれをマクラにした落語家はいなかったという。
 公にはしていなかったが朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席と親交があり、1962年3月13日に贈呈したとされるベンツが妙香(ミョヒャン)山の国際親善展覧館に展示されている。

「RIKI力道山、世界を相手にビジネスした男」
http://www.dmm.com/mono/book/-/detail/=/cid=bk002_10596/searchstr=q672gt2F/mdream-008

(力士として、大関取りがかかった場所前の突然の廃業)
 番付では長崎県大村町の出身となっている。
 幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。
 入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出している。
 廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。
 現在でいえば当然大関取りがかかった場所前の突然の廃業については、相撲界側に残る話では師匠二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされているが、力道山側の主張とは食い違い、現在となってははっきりしない。
 一時期角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかったが、力士会が反対して実現しなかった。
 なお同時期に元大関増位山の三保ヶ関も現役復帰の意向をしめしており、これも含めての反対だったので、力士会が特に力道山個人の復帰を嫌ったという話ではない。
 相撲界側で比較的力道山に好意的な証言者の一人として、二所一門の弟弟子だった横綱若乃花幹士 (初代)がいる。
 その著作などを読むと、気性は荒くしごきはきついが、稽古熱心なものには徹底的に目をかける兄弟子像が浮かびあがる。
 しかし、その若乃花にとっても「力道関」はもっとも恐ろしい兄弟子だったらしい。若乃花が夜遊びのために部屋を抜け出した際、オートバイを駆って追いかけ強引に連れ戻したのは、若乃花が脱走したと勘違いした力道山であった。ちなみに、プロレス時代の力道山が常に黒いタイツを着用し、素足を見せなかったのは、大相撲時代に、若乃花がしごきに耐えかね、力道山の足に噛み付いた時の歯形が残っていたからとも言われている。
 珍記録としては、3場所連続で同じ相手(前田山)から不戦勝をあげるなどした。
 また、最後の優勝旗手になった力士でもある。

(プロレス修行、ハロルド坂田との出会い)
 二所ノ関部屋を自ら髷を切って引退した力道山は、横綱東富士の後援会長、新田建設(新田組)社長の新田新作の下で働く。
 新田は、力道山の相撲界復帰のために尽力するが、結局実現しなかった。
 力道山は同じころ、ハロルド坂田(トシ東郷)に出会う。
 ハロルド坂田はハワイ生まれの日系二世で、ロンドンオリンピック重量挙げのアメリカ代表で銀メダリストだった。
 当時のハロルドはハワイの英雄として売り出し中のプロレスラーで、日本でのプロレス興行のプロモートを模索している途中だった。
 ハロルド坂田に誘われて、力道山は1951年10月28日、メモリアルホール(旧国技館)で、統一前のNWAの元世界チャンピオン、ボビー・ブランズとエキジビジョンマッチを行い引き分ける。
 力道山の素質に惚れたボビー・ブランズは、ハワイ興行に力道山を誘うが、新田社長への恩義を感じる力道山はハワイ行きを打ち明けられず、日新プロダクションの永田貞雄に相談する。
 永田は、横綱千代の山の贔屓筋で、浪曲な歌謡曲などの興行を手がけている人物であった。
 永田が新田を説得し、力道山はハワイへ行くことになる。
 1952年2月17日、ハワイ・ホノルルのキングストリートにあるシビック・オーデトリアムで、力道山は記念すべき海外遠征初試合を行う。
 相手はチーフ・リトル・ウルフというインディアンレスラーで、勝利を収める。
 ハワイでのプロレス興行は黄金時代で、日系人1世、2世の観客の間で力道山人気は爆発した。
 このとき力道山をハワイでトレーニングしたのは、後の日本プロレスでレフェリーとなる、沖識名であった。
 沖の助言もあり、黒のロングタイツに空手チョップというスタイルはハワイで作られた。
 その後、1952年6月10日に、アメリカ本土のサンフランシスコへ乗り込む。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「必殺の空手チョップ 今蘇る!力道山 〜伝説の格闘王〜」
http://www.dmm.com/mono/dvd/-/detail/=/cid=n_622vpbh11869/searchstr=q672gt2F/mdream-008

(タイトル履歴)
 WWA世界ヘビー級王座
 アジアタッグ王座

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↓NO.80「ライムライト」をご覧になってお寄せ頂いたお便りです
【4/8(日)これが一番好き】
 チャップリンご本人のある一面を描いているような気がして、この作品が一番好きです。(福島 畑中)

 ☆☆福島の畑中さん、お便りありがとうございました。
   アメリカで製作された最後の作品で、当時チャップリンは既に60歳を超えていたそうです。
   またのお便りをお待ちしております。 (映画で元気)

◇◇貴方のご覧になった他の<元気の出た映画・ドラマ>をご紹介して下さい
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【ニューロンさんのオススメ「ライトスタッフ」】
 栄光にも影があり・・・。「ライトスタッフ」が・・・。(ニューロン)

 ☆☆ニューロンさん、お便りありがとうございました。
  宇宙へと向かうという人類の代表のような栄光が、多くの方々の苦労を積み重ねた結果であることがよくわかる映画でしたね。
  またのお便りをお待ちしております。(映画で元気)

<データ>
「ライトスタッフ」(The Right Staff)
http://www.dmm.com/rental/ppr/-/detail/=/cid=n_616dlr20014/searchstr=wIiVncP*xIud2pT7luM_/mdream-008
製作:1983年 アメリカ ワーナー映画配給
監督:Philip Kaufman フィリップ・カウフマン
原作:Tom Wolfe トム・ウルフ
出演:サム・シェパード スコット・グレン エド・ハリス デニス・クエイド フレッド・ウォード チャールズ・フランク

解説:50年代後半。宇宙計画でソ連に遅れをとった米国は、マーキュリー計画を実現させるべく、急遽7人のパイロットを選出。
   新世界へと旅立つヒーローとして、彼らの前途は約束されてはいたが、ロケットも未完成の計画は無謀といえるものであった。
   その一方で、初めて音速の壁を破った伝説のテスト・パイロットのチャック・イエガーは、自らの手で大空へ挑戦し続けていた…。
   TVニュースや写真で語られる華やかな活躍とは全く別の宇宙開発史とも言える本作

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