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フォースインディア応援団コミュのフォースインディアの歴史

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2007年から参戦していたスパイカーF1チームを買収し、2008年度より参戦のF1チームである。

インドの実業家で、ビール会社や、航空会社のキングフィッシャー航空などを傘下に持つユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの総帥、ビジェイ・マリヤと、元スパイカーCEOのミシェル・モル、ジャン・モルが共同出資する「オレンジ・インディア・ホールディングス」がスパイカーF1を約8,800万ユーロで買収しオーナーとなっている。また、チームロゴにはインド国旗色であるオレンジ・ホワイト・グリーンが採用されている

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スパイカー

2006年まで参戦していたMF1レーシングを、オランダの高級スポーツカー専門メーカーであるスパイカー・カーズが買収し、F1に参戦した。

チームの国籍登録はオランダであるが、施設のほとんどは前身であるジョーダンから引き継がれており、実際のチームの本拠地はイギリスにあった。チームカラーはオランダのナショナルカラーであるオレンジで統一された。

2005年
エディ・ジョーダン所有のジョーダン・グランプリをミッドランドグループが買収。

2006年
ミッドランド所有のMF1レーシングをスパイカーがシーズン終盤に買収し、シーズン終了までの3戦は「スパイカーMF1」として参戦した。シーズン中はコンストラクター名を変更できないという規則に対し、タイトルスポンサーという形でチーム名を変更するという苦肉の策だった。

2007年

スパイカーF8-VII正式にコンストラクター名をスパイカーに改称し、アブダビのフラッグキャリアであるエティハド航空と国営不動産開発会社アルダーをメインスポンサーとして獲得した。エンジンはトヨタからフェラーリに変更し、車体のF8-VIIは前年にミッドランドが使用していたM16(系譜は2004年にジョーダンが使用していたEJ14へ遡る)に、新エンジンのフィッティングと空力のパーツのアップデートを加えたものを使用した。2007年初頭よりマイク・ガスコインがチーフテクニカルオフィサー(技術部門の最高責任者)として加入しており、第13戦イタリアGPでは新設計の車体を投入した。(当初はトルコGPにて投入の予定だったが、リヤエンドのクラッシュテストを通過できず次戦イタリアGPでの投入となった)
モナコGPのフリー走行第3セッションでは、雨による路面状態の変化やトラフィックをうまく回避したことから、スーティルがセッションのトップタイムを記録した。これは、前身チームのジョーダングランプリ、ミッドランド(MF1)時代を除く、「スパイカーF1」として初の記録だった。
イギリスGP後、チームはアルバースの解雇を発表。理由はスポンサーからのスポンサーフィーの支払いが滞ったためとしているが、アルバースの今季成績から以前より解雇の噂が囁かれていた。直後のヨーロッパGPではテストドライバーのマルクス・ヴィンケルホックを昇格させる事が発表されたが、あくまでヨーロッパGPに限ってのスポット起用となった。なお、このグランプリでは荒れた天候とタイヤ交換のタイミング選択が当たり、デビュー戦となるヴィンケルホックがチーム初となるラップリーダーを6周にわたって記録した。
続く第11戦ハンガリーGPから最終戦ブラジルGPまでは、正式ドライバーとして前年にスーパーアグリのドライバーを務めていた山本左近が起用された。
第15戦日本GPでエイドリアン・スーティルは9位でフィニッシュしたが、8位で終えたビタントニオ・リウッツィが黄旗の振られている区間で追い越しを行ったとしてペナルティが課せられ、スーティルは8位に繰り上がり、チーム初のポイントをもたらした。
10月5日、インドの実業家でキングフィッシャー航空会長のビジェイ・マリヤと元スパイカーCEOのミッシェル・モルが、共同でチームを買収することを発表した。10月24日には2008年のチーム名をフォース・インディアに変更することが承認され、これによりスパイカーの名は1年足らずでF1の舞台から姿を消した。
MF1レーシング (MF1 Racing) は2006年のみF1に参戦していたコンストラクター。「MF1」とは「ミッドランドF1」の略称。イギリスに本拠を置くが、チームの国籍登録はロシアであった。

略歴
ロシアにルーツをもつカナダ人、アレックス・シュナイダーが率いる投資会社のミッドランドグループが運営していたチーム。当初は2006年シーズンを目標に新規参入を計画していたが、1年前倒しで2005年1月24日にジョーダンを買収し参入を果たした。


2005年
2005年は、コンストラクター登録期限の関係で「ジョーダン・トヨタ」として参戦。車体はジョーダンが開発していた車両を引き継ぎつつ、イタリアのダラーラ社との共同開発を行っていたものの、テクニカルディレクターのゲイリー・アンダーソンが年度途中に離脱した頃から協調関係が崩れ開発が頓挫、チームの士気も低下した。


2006年
2006年からは、正式に「MF1レーシング」チームとして参戦したものの、車体は前年のジョーダンEJ15BをアップデートしたM16(実質的に2年落ち)であり成績は低迷した。オーナーのアレックス・シュナイダーもチーム経営に意欲を失ったとも伝えられ、同年中に、スパイカーに買収されることが発表された。

チームは2007年より「スパイカーF1」として再スタートした。

ジョーダン・グランプリ (Jordan Grand Prix)

1991年から2005年までF1に参戦していたコンストラクター。1980年代から90年代にF1に参戦した新興チームの中ではもっとも成功したチームのひとつ。日本のエンジンサプライヤーの多く(ヤマハ、無限ホンダ、ホンダ、トヨタ)からエンジン供給を受けたチームとしても知られる。

1991年
参戦初年であるにもかかわらず、1990年にベネトンが使用したフォードHBエンジンをカスタマー仕様で獲得し、メインスポンサーにペプシコーラ社ブランドの「7up」が付き(日本GPの時のみ、当時の日本ペプシコの販売戦略上の理由で7upではなく「ペプシ」のロゴに変更)、富士フイルムやヘルメットメーカーであるSHOEI等のスポンサーも獲得した。新規加入チームとしては体制が整っており、期待がかけられた。


ジョーダン191・フォード(1991年)しかし参戦初年度のチームであったために、ドライブの力量だけではなく持込み資金の額もドライバー選考の重要な要件となっていた。そこで採用したドライバーが豊富な持込スポンサーを持つベルトラン・ガショーとアンドレア・デ・チェザリスである。マシンのデザイン面では巨大なフロントウイングを持ち、エアロダイナミクスでは非常にオーソドックスなデザインではあったが当時流行を見せ初めていたアンヘドラル・ウィングを採用する等参入初年度のチームとしては新しいことに挑戦する強い意思が窺えた。なお、オフシーズンでは「ジョーダン911」と表記されていたのが、同名の車種を持つポルシェからの抗議によって「191」になるというエピソードを持っている。

成績はというとアイルランドのナショナルカラーの緑色にペイントされ1990年代最も美しいと言われるマシンであるジョーダン191は、初年度からトップチームに迫る速さを見せる。これまでF1の世界では決して評価の高くなかった2人のドライバーはコンスタントに入賞を果たすほか、フォードHBエンジンのカスタマーチームながらワークスチームであるベネトンを追い回すどころか時には上回るなど見せ場を作った。メキシコGPでは4位入賞直前でガス欠したチェザリスがマシンを押しながらフィニッシュしたことも話題になった。

ハンガリーGP後には、ガショーが傷害事件で逮捕されるという不祥事が発生。チームは後に7度のワールド・チャンピオンとなるミハエル・シューマッハをベルギーGPからデビューさせる。シューマッハはメルセデス・ベンツが用意した持参金を持ち込んでの参戦だったが、当時チーム最高の予選7位を記録している。決勝ではクラッチを壊し0周リタイアだったが、衝撃的なデビューであった。またこのGPでアンドレア・デ・チェザリスがレース後半にトップに追い付く走りをしていたが、オイル不足によるエンジンブローでリタイヤ(2位を走行時にストップし、記録上は完走扱いの13位)した。これはコスワースから今まで供給していたエンジンよりオイル消費量が多くなったタイプのエンジンが供給された事実がチームへ通知されていなかったことがレース後に発覚。この事態を受けオーナーであるエディ・ジョーダンはコスワースに見切りを付け、翌年も交わすはずだったエンジン供給契約を打切った。

このグランプリ後にシューマッハはベネトンに引き抜かれ、代わってロベルト・モレノがドライブする。ベネトンからの違約金を持ち込んでの加入だったがわずか2戦で解雇し、アレッサンドロ・ザナルディが最終3戦をドライブした。チームは終盤、政治的な動きやコスワースとの関係悪化もあり前半の勢いを失うがそれでも13ポイントでランキング5位を獲得する。


1992年
富士フイルムやペプシコーラの主要スポンサーを失うが、代わってオイルメーカーSASOL社が南アフリカ企業として初めてメインスポンサーとなり、オイルサプライヤーとしても提携。日本のヤマハエンジンも獲得。ドライバーはステファノ・モデナとマウリシオ・グージェルミンと契約。ニューマシンジョーダン192はギアボックスにF1初の前後の押し引きでギアチェンジができる「シーケンシャル」タイプを導入し(後にオートマチックギアが禁止されて、シーケンシャルギアが禁止されていないカテゴリーのほとんどに採用される)時折速さは見せるものの前年度のV8エンジン搭載を前提としたシャシーをヤマハV12用に改造して用いたため、ラジエーターの容量が圧倒的に不足していた。ギアボックスも信頼性不足でヤマハエンジンも根本的にトルク不足であり、モデナは予選落ちを4回も記録。最終戦のオーストラリアGPで6位入賞(1ポイント)の1回と2年目のジンクスに填まる。なお、長期契約をしていたヤマハとはこの年限りで決別。両ドライバーも揃ってF1から離れる。





ジョーダン・グランプリ (Jordan Grand Prix) ?

1993年
ブライアン・ハートが製作したハートV10を搭載して、セミオートマチックギアボックスとアクティブサスペンションの簡易版である車高調整システムを投入しルーベンス・バリチェロをエースドライバーに、セカンドドライバーには前年にフェラーリでドライブしたイヴァン・カペリと契約したが、カペリは資金的な理由と第2戦ブラジルGPでの予選落ちが響いて僅か2戦で解雇となる。後釜として起用したティエリー・ブーツェンもバリチェロに合わせて作られたモノコックのサイズに体が合わず成績も振るわずに母国ベルギーGPをもって引退したため、終盤戦ではセカンドシートをドライバーの持ち込み資金で切り売りすることとなった。ドライバーはマルコ・アピチェラ→エマニュエル・ナスペッティ→エディ・アーバインと変わっていった。当時のスポーティングレギュレーションではシーズン中のドライバー変更は1シート3回までとなっていたが、ブーツェンからアピチェラへの変更はドライバー引退のための不可抗力として特例で認められた。チームは日本GPで2台入賞するにとどまったが、バリチェロは第3戦ヨーロッパGPでは雨の中一時2位を走行。関係者の評価を上げる。

1994年
バリチェロは残留、前年の日本GPでスポット参戦ながら6位入賞を果たしたエディ・アーバインと契約。またチーム初めての表彰台(パシフィックGP)と初めてのポールポジション(ベルギーGP)を獲得する等の活躍があったが、エンジンのスピード不足と信頼性不足の烙印をおされる。マシンもハンドリングが悪く、ダウンフォース不足と当初のマシン思想とは、かけ離れた失敗作で思ったような成績が残せず、シーズン中に大改良を受けることになる。この年も前年に引続きハートエンジンを使用したのだが、エンジンメーカーではない「チューナー」が製作したエンジンとしては十分なパフォーマンスを見せたとは云え、開発資金の一部をジョーダンサイドが負担をしていた等、ワークスエンジンと勝負するには厳し過ぎる状況であった。アーバインは開幕戦で多重クラッシュの原因を作ったとして3戦出場停止を受ける。パシフィックGPでは鈴木亜久里、サンマリノGPとモナコGPではアンドレア・デ・チェザリスが代わってドライブし、チェザリスはモナコで4位入賞を果たしている。年間28ポイントを獲得しランキングは5位に返り咲く。


1995年
前年にマクラーレンから契約を解除されたプジョーエンジンを獲得。SASOLに代わってプジョーと結びつきが強いトタルがメインスポンサーとなり、オイルサプライヤーとしても提携するなど資金面とチーム体制も更に強化して、第6戦カナダGPでは2,3位に入る活躍をし、予選では、度々トップ10内のグリッドを確保するが、マシンとエンジンも信頼性に欠けたためいくつかのレースで入賞を逃し、21ポイント獲得にとどまりランキングは6位に後退。 チームはバリチェロとアーバインが残留していたが、ドライバーラインナップを変更せずに翌1996年シーズンも戦うと発表したが、翌年の参戦契約を結んでいたアーバインが突如フェラーリと電撃契約をしたことの見返りとしてチームがアーバインに支払うはずだった契約金とフェラーリから契約そのものを買取った分の多額の資金を得ることとなった。


ジョーダン・グランプリ (Jordan Grand Prix) ?

1996年
アーバインにかわりマーティン・ブランドルとセカンドドライバー契約をし、インペリアル・タバコ社のベンソン&ヘッジス・タバコ(BENSON&HEDGES)をメインスポンサーとしてレースに参戦。プジョーエンジンはエキゾーストシステムの開発が進んでパワーアップし、信頼性も著しく向上したが、シャシーの開発が思うように進まなかった影響でセッティングが思うように決まらず、22ポイントの獲得にとどまり、ランキングこそ5位に返り咲くが一度も表彰台に上がることはなかった。この年のフォーミュラ・ニッポン初代チャンピオンラルフ・シューマッハを翌年のドライバーとして獲得するが、エースのバリチェロはスチュワート・グランプリに移籍。ブランドルはF1から引退。またウィリアムズから解雇されたデーモン・ヒルの獲得を目指すもアロウズにさらわれ失敗に終わっている。リジェのオリビエ・パニスにも触手を伸ばしていたともいわれる。


1997年
プジョーとのジョイント3年目を迎え、ドライバーとカラーリングを一新。まず、ラルフ・シューマッハのチームメイトとしてジャンカルロ・フィジケラがミナルディから加入。カラーリングも前年度の金色から黄色主体でフロントノーズに描かれたスネイク(蛇)が特徴的。ゲイリー・アンダーソン設計のジョーダン197も円状のインダクションポットやエレクトリック・デファレンシャルを採用し、失敗に終わった前年までに比べ大幅な戦力UPを果たした。プジョーエンジンも信頼性、パワーともにさらに向上し、予選では2台揃ってのTOP10が11回、決勝でも第3戦アルゼンチンGPで3位にラルフが入賞するなど表彰台3回を含む入賞12回を記録し、トップ集団での争いを展開した。しかし、プジョーはフランスチームのプロストと契約し、ラルフの初表彰台はレース途中にチームメート同士が接触した結果の表彰台で、これを機に2人の関係は一気に冷え込むこととなった。フィジケラはベネトンへの移籍を決意。チームは契約を盾にベネトンを訴えるも敗訴。代わってアロウズからデーモン・ヒルを獲得する。

さらにプジョーが翌年からプロスト・グランプリへの供給を決めた事に伴い、プロストから放出される無限エンジンをベネトンやミナルディなどとの争奪戦の末獲得する。

1998年
ヒルとラルフのラインナップに加え無限エンジンを搭載したジョーダン198は前半戦は全く機能せず成績は低迷。デザイナーのゲイリー・アンダーソンはチームを去ることになるが、中盤からマシンの改善に成功。立て続けに入賞を果たし、ついに第13戦ベルギーGPでヒルの手で優勝、2位にはラルフが入りチーム初優勝を1-2フィニッシュで果たした。その後もコンスタントにポイントを稼ぎ最終戦でヒルが4位入賞を決め、ベネトンを逆転しコンストラクターズ4位を獲得した。当時絶対の存在であったトップ4チーム(マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズ、ベネトン)の牙城を崩す殊勲を達成した。

なお、フィジケラと不仲になったラルフと、ラルフの兄ミハエルと数々の因縁を残したヒルとの関係も注目されたが、2人はかなりうまくいっていたという。ただ、ラルフはエディ・ジョーダンと不仲になり移籍を決意し訴えを起こす。結果的にラルフはウィリアムズに移籍し、入れ替わる形でハインツ=ハラルド・フレンツェンが翌年から加入。


1999年
パワフルな無限エンジンとバランスのいいシャシーのマッチングのよさも手伝って、ハインツ=ハラルド・フレンツェンが開幕から表彰台に上がるなどコンスタントにポイントを獲得。フランスGPとイタリアGPでは優勝を決めドライバーズチャンピオン争いに絡む大活躍を見せた。しかしヨーロッパGPではポールポジションを獲得。優勝すればチャンピオンに近づく重要なレースでフレンツェンはトップをキープするも電気系のトラブルでリアイア。チャンピオン獲得の夢は立たれたが、チームは優勝2回で61ポイントを獲得。コンストラクターズ選手権3位に入る大活躍を見せた。当時資金力で別格であったトップ2チーム(マクラーレン、フェラーリ)との溝は大きく存在したものの、チームとしては最高の成績となった。一方のヒルは前年の活躍が嘘のように絶不振。イギリスGPでの引退騒動が祟ったのか冴えない走りに終始。最終戦までドライブを続けるものチームには貢献できず、ワールドチャンピオン獲得者としては淋しい形での引退となってしまった。
ジョーダン・グランプリ (Jordan Grand Prix) ?


2000年代 成績低下〜チーム売却

2000年
ヒルが引退することで、チームはヤルノ・トゥルーリを獲得する。F1参戦10周年さらなるステップアップを目指したチームは、マシンコンセプトを一新。チーム・オーナーのエディ・ジョーダンのイニシャルと10年目ということからニューマシンはジョーダン EJ10と名づけられ、引き続き無限エンジンを使用する。ところがこのマシンは潜在的なポテンシャルを持つものの神経質すぎて信頼性にも問題あり。さらに開発リーダーであるマイク・ガスコインがシーズン中に移籍を表明するなど開発陣も安定せず、これを受けて新シャシーであるEJ10Bを投入したが大きな効果は無かった。フレンツェンは表彰台は2回、完走も6回にとどまり、トゥルーリは表彰台に上がる事は出来なかった。チームは17ポイントしか獲得できずランキング6位に後退。カスタマーエンジンであるベネトンの後塵に拝する結果になった他、ホンダエンジンを搭載したB・A・Rにも敗れたため、ジョーダンは無限との契約を打ち切り、翌年から多額のリース料を支払いホンダエンジンを獲得すると共に翌シーズンからテストドライバーとしてこの年B・A・Rのレギュラードライバーだったリカルド・ゾンタを起用する。


2001年
ドライバーは2人とも残留。カスタマー契約ながらB・A・Rとワークス仕様のホンダエンジンを搭載するEJ11に期待がかけられた。ところがシーズン前にはエンジニアの大量離脱があり人材不足。さらにはドイツGP直前にフレンツェンを解雇。ホンダエンジンを使用する代わりに佐藤琢磨を起用しなければならないという事情もあったそうだが、シーズン中にまして母国GP直前のドライバーを解雇するというエディ・ジョーダンの無神経さがチーム内外のみならず多くの関係者の顰蹙を買い、シーズン終了後には大量のスタッフがチームを離れるなどチーム状態は悪化していく。フレンツェンの代わりに2戦ゾンタを起用した後、ジャン・アレジが加入する。マシンもエンジンとのマッチングに苦しみ表彰台はゼロ。前年並みの19ポイントの獲得にとどまった。しかしB・A・Rの不振によりランキングは5位に浮上する。アレジは翌シーズンでもジョーダン残留を希望し、チームもアレジとの契約更新を望むも結果的に佐藤の起用を決定。アレジはこの年限りでF1から引退する。


2002年

ジョーダン EJ12(2002年)このところのチームの不振が響いたのか、あるいか不可解なドライバー交代に不信感を募らせたか、2001年のシーズン終了後にはメインスポンサーのベンソン&ベッジスが支援を大幅に縮小、メインスポンサーを返上することを決定したため、2002年はスポンサーのひとつであったDHL(ドイチェポスト)がタイトルスポンサーとなった。しかしメインスポンサーは失ってしまったチームは資金繰りが悪化。イギリスF3チャンピオンの佐藤琢磨と契約を結ぶことで、ホンダからのエンジン使用料の大幅減額の恩恵を受けるも、スポンサーからの資金が十分でなかった影響でテストもままならず、この年トゥルーリと入れ替わる形でチームに復帰ジャンカルロ・フィジケラが奮闘したがEJ12の開発が進まず成績不振。佐藤も最終戦日本GPで初入賞となる5位を獲得するもチームはわずか9ポイントしか獲得できず。それでも他のチームの不振もありランキングは6位を保持。しかし、資金難に伴いシーズン中には60名におよぶスタッフの解雇を実施。チーム力はさらに低下していく

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