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司馬遼太郎コミュのこりゃあないんじゃないか?と。

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大衆にウケたい人々は嘘の戦前の物語を何度も語り、
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明治まで書けるが昭和は書けない
“気持ちよくないから・・”
司馬遼太郎
-------------------------------------------------
自分で考える勇気と知能を持たず・・以下略

今週号のスピリッツ8/21、28号の、江川達也「日露戦争物語」の一節です。

あっけにとられました。

もともとこのマンガ、司馬遼太郎の「坂の上の雲」のパクリです。
司馬氏も言うとおり、日露戦争を描くのに、秋山兄弟が主人公である必要は、実はありません。
江藤淳の「海に火輪を」のように山本権兵衛であっても、児玉源太郎でも、良いわけです。
秋山兄弟と正岡子規に着目したのは、司馬氏の作家的な慧眼であって、そこに「国家」や「国民」の成立していく姿を暗示させているわけです。
で・・その結構をまるっきりパクっておきながら上記のような言い草は・・これは何事でしょう?。

司馬氏がノモンハンを書けなかったのは、あまりの拙劣な戦闘に「腹が立ってしかたがない。」からであって、「気持ちよくない」からではない。
この人、以前にもやってますが、人の言ったことをゆがめて書いておいて、それを批判する。

日清戦争について細かく調べ、書いている点は評価できないこともありませんが、調べたことをみんな書こうとするものだから、もはやマンガの態をなさず、江川マンガの末期症状・・ただもう無闇にセリフやト書きばかり、ズラズラと並ぶ・・を呈しています。
このままではタイトルの「日露戦争」にもたどり着けないでしょう。

そんな人にこんなこと、言われたくないなぁ・・。

コメント(103)

「発言を控える」と言った舌の根も乾かぬうちですが少しだけ・・・
(「控える」だから少しなら書いてもいいという解釈も?)

> TAKさん
> 楽進さんは「こうじゃなきゃいけない」という立場から批判されているので

僕は「こうでなきゃいけない」とは思っていません。
そりゃ表現は色々であっていいでしょう。

しかし「それだけはやってはいけない」という方法も
いくつか存在するのではないかと思います。
故人の言葉を敢えて歪曲して伝えておきながら
それを嘲笑するようなやり方が
表現の一つとして認められるのでしょうか?
僕は、一般的にも認められるべきではないと思いますし、
個人的には断じて認めません。

僕は江川氏は「それだけはやってはいけない」
ということをやってしまったのではないかと思うのです。
ん?唯一?
エッセイや講演などでは司馬さんは
度々昭和のことを語っておられますよ。
この国のかたち然り、風塵抄然り・・・
「明治は書けるが昭和は書けない」旨の発言も
「小説としては」という意味だったと記憶してます。
楽進さん>
楽進さんはひとコマで司馬先生を風刺した事に憤っていて、
批判するならきちんと論陣を張れ、とおっしゃっていましたが、
あなたはヒトコマ風刺漫画などを新聞や教科書などで目にした事はありませんか?あれについてはどう思うのでしょうか?

あれは有名人・政治家・国家などの容姿・発言を「戯画化」して揶揄する、という手法の表現ですが、勿論、一字一句その人物の発言を再現しているわけではありません。表現手法の一つ、「戯画化」しているのです。

●多くの文章・ページを裂いて論陣を張り、批判する=なら認める

●ひとコマで戯画化する=一般的にも認められるべきではない

と主張されるのでしょうか?

それとも今度は「政治ひとコマ漫画なら許される」「一般の漫画の中にその手法を盛り込むことは許されない」とおっしゃいますか? それとも政治ひとコマ漫画といえども戯画化・揶揄は認められないとおっしゃいますか?

批判でもなんでも、文章で緻密な構成で論陣を張り、表現することが小説・評論の基本的な手法だとしたら、「戯画化」「ディフォルメ」は漫画の基本的な手法の一つです。

一ファンとしての憤りは素直な感情として理解できますが、どうもやはり、狭い了見の中で社会正義を主張されるてるような気がします。

最後に。司馬先生の「昭和は描けない」の発言ですが、自嘲混じりに「小説としては描けない」との趣旨の発言は随所でなされてたように記憶しています。上の方でイタールさんが「それを(ご自身で)理解して小説を書かなかったのは流石であると感じますが。 」とおっしゃっていますが、僕も同感です。

その一連の司馬先生の姿勢、発言を「戯画化」「ディフォルメ」して「昭和は描けない、気持ちよくないから」としたのは、最初に言ったように、「それほどほどおかしいものには見えなかった」です。(江川先生がどうかは知りませんが、愛情と尊敬の念を持ちつつだって、あの程度の表現はあり得ます。風刺漫画の作者が対象を全て軽蔑しているとは思っていませんので。)

そこまで過敏に反応するのは、やはり「信者的なフィルターがかかっているからでは?」と感じた次第です。
ちなみに「戯画化」という手法は、小説でも普通にやっている事ですよ。かく言う司馬先生の作品にだって、その手法は溢れています。実在だった歴史上の人物をちょい役で出す時、その人物の事跡から類推して司馬先生なりのキャラ像を作り上げ、一言、非常に高いレベルで「戯画化」した一言を言わせたりしています。悪役でもなんでも、その一言でその人物の香気のようなものが強烈に匂いたち、僕ら読者の中でその人物のイメージが固定される。抜群に力量があるだけに、ある意味始末におえない(笑)。
司馬先生のキャラ構築で泣いた歴史上の人物、またそのファンや地元の人など、いくらでもいると思いますよ(笑)。

一言で終わっていない一例をあげると、「真説・宮本武蔵」。あれは武蔵の発言・事跡をそうとう「戯画化」してると思います。ユーモアたっぷり持っている司馬先生のことですから、その「戯画化」も容赦ない(笑)。「バガボンド」的な生き方の武蔵に惚れた僕などの見方からすると、よくもまあこれだけ武蔵の発言・事跡を悪く悪く取れるもんだ、と、ビックリしてしまいます。(司馬先生自身の言葉で、武蔵は好きになれない、みたいな事言われてますよね。)
でもそれが、面白いんだ、これが。ゲラゲラ笑いながら読みつつ、ああ、こういう見方も成り立つなあ、と、これはこれでお気に入りの1冊になったものです。 

僕は司馬先生も「戯画化の達人」であると思っておりますm(__)m
私は江川氏が書いた「司馬遼太郎が昭和を書かなかった理由=“気持ちよくないから”」この“気持ち良くない”という表現が、あまりに稚拙だと感じました。
はっきり言うと、非常にバカっぽい。薄っぺらい。
う〜ん(~ヘ~;)、

> TAKさん

元々白黒ハッキリ決着がつくような問題でもないと思いますし、
決着をつける必要性もないと思いますのでこのへんにしませんか。

僕は、書き込みの中で何度も「個人的には」「僕には」「僕は・・・思う」
というような言葉の遣い方をしてきたつもりです。
僕は僕の個人的な意見を述べてきたにすぎず、
TAKさん始め他の方の考え方をどうこうしようとは思っていません。
そこらへんが伝わりにくかったなら申し訳ないです。

僕のモノの考え方の好みのような部分までつかまえて
了見が狭いだの信者的だのと言うのは筋違いでは?
むしろTAKさんの、自分と違う考え方を
そうまでして拒絶しようとする姿勢こそ
了見の狭いものなのでは?と僕は思ってしまいますが。

僕は、「個人的には」、
「ある人の言動を敢えて曲げて伝えておきながら」
「それを嘲笑、揶揄する」
という行為は認めがたい、と言っているだけです。
終始このことだけを書いているつもりなのですが。
そんなに狭い了見ですかね?まあどうでもいいことですが。
いや、僕の方も「了見が狭い」と「信者的」に関しては「〜と感じます」「〜のような気がします」以上の書き方はしていないつもりです。ですが、やはり少し勇み足をしてしまったようです。その点については謝ります。

内容に関してはどうでしょうか?

戯画化、という手法として、今回の事は好きにはなれなくとも、「一理あるな」、とはお感じになりませんか?

手法としては司馬先生だってやっていますよ、と言う事に関しては?

喧嘩するつもりではなくて、せっかく書いたので純粋に会話としてお聞きしたいのですが…。
『ノモンハン』に関しては、半藤一利さんの「ノモンハンの夏」を読んで欲しいと思っています。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4163539808/250-6982625-1149021?v=glance&n=465392

途中で読むのを放棄するくらいな、日本陸軍のふがいなさ+情けなさ+軍隊としての不備を感じて欲しいです。
結果的にこれに近い経験をされた『福田定一』さんがノモンハン(や他の近代史)について書けないとしても、不思議ではないです。
実際、先日NHKで放送された硫黄島ものを見ても、半世紀以上経っても当事者が「語れない、または遺族に語りたくない」事実がどれだけあることかと。
と、戦場に出ていない私が熱を込めて語っても意味は無いなぁ・・・・・
コマとコマの間の落書きみたいな書かれ方ですしね。。。。
批評だとか風刺だとか擬画化?だとかそんなに色々考える必要自体がないかと。
毎度毎度の連載打ち切り間際の江川氏の暴走に対してアレコレ真剣に議論するのもアホらしいいですよ。
あれから何度か漫画を読み返してみましたが正直ピンと来ません。
何が言いたいのか分からんままで(^^;)
結論としては江川氏の技量不足と考えます。

自分の読解力は措いておくw
> TAKさん

ああ、よかった。少し強い言葉で書きすぎたかな?と正直後悔していたので
紳士的に出ていただいて助かりました。感謝しますm(_ _)m。

> せっかく書いたので純粋に会話としてお聞きしたいのですが…。

うーん・・・。
これ以上僕とTAKさんのやりとりが続くのはトピを私物化するようで、
このやりとりを見たいと思ってる人がいるのか?と思った部分もあって
そういうのも含めてこの辺にしませんか、と言ったのですが、
ではせっかくなので今回だけ。

僕は司馬さんが武蔵をそれほど悪く書いたという印象はないですが・・・
あの方は基本的に、資料を見て素直に思ったことを書くだけだと思いますし
武蔵に関してもそういう印象しか受けなかったですがねえ・・・
吉川英治版やバガボンドの武蔵の方が、
TAKさんの言われる「戯画化」とは少し違いますが、
劇画化というか、偶像化されていると僕は感じます。

新聞の風刺マンガなどについては、
そのマンガの前提となっている状況、有名人や政治家の言動などを
そのマンガの読者が既に知っているということを
前提にして成り立っているものだと思います。だから短く済む。

僕は「批判は長く書かなければならない」と言いたかったのではなくて、
批判の対象となる人物やその人物の意見を
ある程度正確に読者に伝えようということに気を遣うならば
通常の場合長くならざるを得ないと思います。
そういうことが言いたかったんです。

また、

> 愛情と尊敬の念を持ちつつだって、あの程度の表現はあり得ます。

とのことですが、それには(例えば武田鉄矢氏のように)
司馬ファンであることが皆の承知の事実となっていたり、
普段の作品中でも例えば度々司馬さんの言動を引用(肯定的な意味で)していて、
ああこの作者は司馬さんにトリビュートしてるんだな、
ということが十分伝わる状況がなければダメなのではないかと思います。
こうして江川氏の表現を不快に思う人間がいることが
そういう状況がなかった何よりの証拠なのでは?

「戯画化」という手法もありなのではないか、
ということについては、まあ表現の自由というものがある以上
そうなのでしょうね、としか僕は言いようがないです(^^ゞ

個人的な好みとしては、程度問題ではないかと思っています。

最近の例で言えば、例えばやくみつる氏が亀田の親父さんと対談する時に
亀田興毅を連想させる風体で現れて、「これでカメを縛っとけ!」
と凧糸を亀田父に渡した、というのがありましたね。
これなんかがTAKさんが仰る「戯画化」なのでしょうか?

正直、あんまり品のいいやり方ではないなと僕は思いますが、
でも「亀田興毅のやってることがいかに間違ってるかをわからせたかった」
というやく氏の言い分もわからんではありません。
この辺が僕が素直に笑える、
ギリギリではないにしても結構限度近いでしょうか。

司馬さんも度々戯画化の手法をつかっているとTAKさんは仰いますが
少なくとも「敢えて言葉を曲げて引用して」「それを嘲笑する」
というような手法を司馬さんがとったことはないと思います。
この二つの条件が揃った「戯画化」は、
僕の中では完全に許される限度を超えていると感じます。

こんなモンでいいでしょうか?
あくまで僕の個人的な感じ方ですのでm(_ _)m。

うわ〜超長文になってますね・・・すみませんm(。 。 ;)mペコペコ
そいえば・・ この中で、江川さんご本人をTV等で見られた方いるのかな?
外見等は作品と全く関係有りませんが・・・”あの人”なら平気で司馬さん批判をされると思います。 8のSADDAMAさんの仰る自己が肥大化されてると見受けられます。
私はたるるー某以外チラ見しかしてませんが・・ そうか。これが末期か・・。

今回の件ももしかしたら・・『同じ題材で料理してもオレの方が凄いんだ』的な意味合いを、”直接的に”言いたかったのかもしれません。 

連載終了時にでも対談の様な物が掲載されたらいいですねえ^^;

ちなみに。 いつも巻末の作者略歴に、
”デビュー以来、表層に見られる軽薄な作風の中に、誰にも分からない深いテーマ性が隠されている漫画を書き続けているが、全然評価されない、本人だけががんばっている漫画家である。”
と、日清日露の単行本にはありますね。  ・・・たるる〜☆?
楽進さん>
丁寧なお答え、ありがとうございました。m(__)m
なるほど、と思いました。

僕は一方で、例えば筒井康隆先生の作品・手法なんかも好きで、
これはもう、完全に「品のいい方法」ではないと思います。
毒、ブラックユーモア、揶揄、嘲笑、それこそありとあらゆる手を使っています。
でもそれがまた豊富な語彙、流麗な表現でやられるので、読んでて実に面白いのですよ。
そして司馬先生の作品も、上品な言葉遣いに隠された抜群のユーモアに、(それこそ揶揄のようなものも含めて)溢れていると僕は思っています。

そんなこんなを含めて、「表現の幅」っていろいろあるんだよ、と言うことを、まことにおせっかいながらちょっと言いたくなってしまったので、こんなやり取りになってしまいました。

その上で、楽進さんなり他の方なりが「そういうのは好きではない」「自分はやらない」とおっしゃる事に、勿論干渉するつもりはございません。流れでやり取りが長く続いちゃいましたが、>>60ですでに書いている通り、僕の方も「立場が違いますね」、で終わる事に依存はないです。

ただ、その後の会話が無意味だったとは思いませんけどね(^^)。
こういうやり取りから得るものって、あると思ってますから(^^)。
> TAKさん

こちらこそありがとうございましたm(_ _)m
色々と勉強させていただきました(^-^)
> SADDAMAさん。

そのおじいさんなら多分、「日露戦争物語」自体が許せないでしょうね。
パクリですから^^。
わたしも(クリエーターの端くれとして)こういった「仁義にもとる行為」は大嫌いです。
ですがまあ、みんなに「坂の上の雲」を読め、と言ったって読みきれる、というものでもありません。

だから、「マンガで読んでもまあ、かまわないかな?」
ぐらいの認識だったわけです。
ですが、その作品中で当の「原作者」を誹謗されては、あらぬ誤解を与えることになってしまうでしょう。

それが問題、なんですよ。

江川氏がなんと言おうが、「日露戦争物語」パクリなのであって、それなら一定の敬意くらいはネタ元には払いなさいな、と
・・フザケタやつだな、と思うわけです。
今日、ようやく問題となっている『日露戦争物語』を読んできました。
私の解釈では、「大衆にウケたい人々は嘘の戦前の物語を何度も語り」 という部分の大衆にウケたい人々とは司馬氏のことでは無いと思います。
おそらく、「日本悪玉史観」に基づいて歴史を語る「進歩的文化人」のことでは無いかと思うのです。
その前に「戦前には戦争を鼓舞していた国民は被害者となり、ありもしない戦争犯罪を信じ」というような意味の文言がありましたので、なおさらそのように思いました。

では、司馬氏が「日本悪玉史観」の視点に立っていたかというとそうではないはずです。
というのは、「日本悪玉史観」に立てば日清・日露両戦争ですら「侵略戦争」となるのに対し、司馬氏は「防衛戦争」としての立場で書いていたからです。

左翼的思想に傾いた大衆(小林よしのり氏によればサヨクとなる人々)にウケたければ、日清・日露戦争を「防衛戦争」と定義付けるのは自殺行為だと思うのです。

但し、です。
今日初めて『日露戦争物語』を読んだのですが、その限りでは、江川氏は小林よしのり氏の史観に非常に近い立場に立ちこの漫画を描いているように感じられました。(漫画のスタイルも『ゴーマニズム宣言』に似せようとしているのかも知れません)

となると、司馬氏への批判が出てきても不思議ではないのです。
なぜか。司馬氏は「昭和以前」は国家が正常に機能していた時代であり、昭和に入ってからは統帥権という「鬼胎」が暴走し、国家としての体を成していなかったためにWW?は軍部の暴走によるとしているのに比し、小林よしのり氏は昭和以降も国家は機能しており、WW?は防衛上必要であったとしています。

それゆえに小林氏の視点から見れば、司馬氏ですら「左翼」になるのです。
ですので、仮に江川氏が小林氏に近い立場を取っているのであれば、司馬氏が昭和について書かなかったことに対する批判が出てきてもしょうがないのかもしれません。

とはいえ、司馬氏は何かの本の中で「第2次世界大戦には東南アジア諸国の独立を早めたという側面があるのも確か」というようなことを仰っておられたので、決して第2次世界大戦を全否定しているわけでも無いと個人的には解釈しているのですけど。

また、正直、あのコマでの司馬氏の文言引用(?)の真意は掴めません。
それゆえに多くの方が「過剰反応」を示されてしまうのも分からなくもありません。

ただ、以前にも申し上げましたが、(原作を示していないことの是非はおいておき)アイデアの下敷きとして司馬作品を使ったからといって、それを批判してはいけないということにはなら無いと思います。(その理由は以前にも書きましたので、割愛いたします)
これをして批判の対象とするのは、若干違うのではないかと、今更ながら思います。

長文、失礼しました。
まず第一に言っておきたいのは、『日露戦争物語』は単行本にして20巻、4000ページ以上も描かれた大作で、しかもまだ完結していません。そのうちのたったの数ページ(全体からすれば一言半句といっていい)を読んだだけで江川氏の歴史観が分かるとは思えません。

84: イタールさん
>私の解釈では、「大衆にウケたい人々は嘘の戦前の物語を何度も語り」 という部分の大衆にウケたい人々とは司馬氏のことでは無いと思います。
おそらく、「日本悪玉史観」に基づいて歴史を語る「進歩的文化人」のことでは無いかと思うのです。


江川氏が叩いているのはいわゆる右左のどちらか、ではなく、右であれ左であれそれ以外であれ「心地よい物語」として歴史を語ることそれ自体だと思います。


>今日初めて『日露戦争物語』を読んだのですが、その限りでは、江川氏は小林よしのり氏の史観に非常に近い立場に立ちこの漫画を描いているように感じられました。(漫画のスタイルも『ゴーマニズム宣言』に似せようとしているのかも知れません) となると、司馬氏への批判が出てきても不思議ではないのです。


江川氏は極右だと言いたい訳ですね。江川氏的には左右から超越したところにいるつもりだと思うのですが。

少なくとも、「○○史観」とかいって歴史の語り方を政治的に色分けしたがるのは、江川氏に「自分で考える勇気と知能を持たず」と言われても仕方ないです。これは他人の考えたレッテルを使い回してるだけですから。同じ事を江川さんもやってるんですけどね。

江川氏自身は、『日露』では単に事実をありのままに描きたいのでしょうね。その割に『日露』にも創作が混じってるのが理解に苦しむ訳ですか……。
歴史から物語性、創作を排除しよう、という江川先生の試み、姿勢は
僕も何かで読みましたが、正直それは無理、無茶だろうと思ってます。なにより歴史物語の「面白さ」にほれ込んだ僕としては、個人的には賛成も出来ません。

ただ、「すげーなー」とも思います。大衆に支持される(人気を取る・楽しませる)事をしようと思えば意のままに操れる領域まで達した人間だからできる、不可能とも思える目標ですね。その入り口で何年も四苦八苦している僕としては、好き嫌いはともかく、やはりちょっとした畏怖を感じます。ドン・キホーテを眺めるように、遠くから眺めてる感じです。上でも書きましたが、江川先生、前衛的と言うか、映画青年的・文学青年的ですねー。基本的にはダメだと僕も思っているんですけど、先人のいない未知の領域に挑戦している人間の是非は、時間が経ってみないと、そう簡単に評価は下せません。

余談。うろ覚えですが、小林よしのり先生は歴史(特に二次大戦)の物語性をもっと強調してもいいんじゃないか、という立場だったと記憶しているので、江川先生とは政治的立場はともかく、ブンガク的立場はかなり離れているんじゃないかなと思います。
予想通り、、、
打ち切りになりましたね。
そりゃそうだ。
最新刊、昨日かったってばよおおおぉぉおぅ。。。

まぁ。清軍の強さと熊楠さんの汚さ(尊敬語)が分かる良い本でした。
司馬さんの批判をやったのは打ち切り前の最後っ屁だったのか???
それともあれが決めてで打ち切り宣告??
あんなやる気のかけらもない作画と構成では、打ち切りになるに決まってます。
打ち切りを言われて即、終了ではないはずですから、あらかじめわかってたんでしょう。
すると、ああいうことを書いた意図もわかってきます。
要するに、お前ら読者は面白おかしい「物語」ばっかり要求して、歴史の事実に眼を向けない・・ということが言いたかったのではないか、と・・敢えて論評はいたしませんε= (-.- )。
まあやっぱりこうなりますよねえ(^^;)。
「第1部完」って事は、本人的にはやる気があるのかなあ。
それすらどうなのか、外からは窺い知れません(笑)。
超ぶん投げでしたね。
ある意味びっくりしました。
『坂の上の雲』と同じスタートラインから始めて、書きたいテーマを書き終えずに作品自体が終了。

…司馬先生を批判するのは自由ですけどね。
この有り様は作家としてどうなんでしょうね。
いきなり、書き込みます。
全ての書き込みは読んでませんので、本当にいきなりです。

でも、日露戦争物語、、、
最初は面白いところに目をつけたな!って、興味深く読み、、
その後、資料の海に溺れたがごとき説明過多のストーリー消失、
要するに、司馬さんの偉大なる構想力には、江川氏は及びも
つかなかったのに、同じ事を二番煎じにすら出来なかったと
そういう印象をもって、1年も前から読まなくなっていました。

語弊を覚悟で言えば、江川氏の負け惜しみというのが、、
今回の発言なのではないかと。。。(失言

でも、だからこそ、やっぱり、司馬さんは偉大だなあと
すごく単純に感じます。
莫大な資料を自分の世界に再構築するのって、やっぱり
才能ですよね!
自分はわりと面白く読んでいました。
ただ、筆者が目論んだ脱ヒロイズムながらメジャー誌で連載継続できるほど面白い話を作るという点では失敗し行き詰ったように思います。
司馬氏批判については所詮歴史とは物語に過ぎないという見地からすると的外れです。そもそも司馬氏の物語はあれを書いた時代にあるべきだったもので、今批判するのは2重に的外れでしょう。
ただ、司馬氏の物語を今変な風に利用しようとしている人たちに対し牽制したかったというのだったら一片の共感を抱きますが。
司馬さんは坂の上の雲を書き終えて、「『もし、秋山兄弟がいなかったら日露戦争の結果は違っていたろう。』とは思わない。同じような者が現れて、その空白を埋めたに違いない。それが「明治」という時代である、と思う・・それを自分は書きたかった。」と言うようなことを述べていますね。
つまり、別に誰をも英雄視しているわけではありません。
そうであれば江川氏は連載開始時から誰か他の主人公を選ぶべきだった、と思います。
「秋山兄弟と正岡子規」という組み合わせは司馬遼太郎の「文学的芸」なのであって、それをそのまま援用するのは二番煎じに過ぎないでしょう。
別にかまいせんよ、それでもね。
しかし資料の海におぼれ、物語る努力を放棄し、挙句八つ当たりして沈没するのはあまりにもみっともない、と思います。
戦後部分の記述を見れば、冷静な歴史認識などとは到底呼べない、ヒステリックな歴史観しか持ち合わせていないことが、よくわかります。
司馬さん批判(?)発言以前から
「どうしてこの漫画が続いてるんだろう?
 何か大人の事情でも?」と思っていました。

『東京大学物語』の夢オチの時も思いましたけど、
江川達也って、広げた風呂敷をたためない作家なんだなーと。
人物描写の部分は楽しいですよ。 17巻位までかなあ・・

怖い時の秋山兄とか、よく食べる子規さんとか。赤城で暴走する樺山指令、「チェストー関ヶ原!」とか、上村彦之丞さんの○玉ブラブラ〜とか・・勿論相手国の人物表記も。
この時代で興味を持った人物はこの本のおかげで増えました。

ただ後半の戦闘描写時に、作戦図のみで進む場面が段々増え・・それに似顔絵が付いているだけのものはとても漫画とは言えず・・ 小説を飛ばし読みする感じでした。

次回続きがあるなら、もういっそ小説で表現して欲しく思います。
 確かに、私も途中で読まなくなりました。マンガという領域を踏み越えていましたね。
 現実にこういうことが起こっていたとは初めて知りました。最近新刊が出たので、「少しは日清戦争進んだかなぁ」って感じていました。
 最初は大変楽しみにしていたのでこの終わり方は残念です。
「漫画とは作品ではなく「商品」なのだと認識した」
と言ってるみたいですね

大衆に受けたい人々ってのが誰の事なのか自分でわかってないですね

”近年はネームバリューの高い作品・テーマ(『源氏物語』、『日露戦争物語』、『家畜人ヤプー』など)を漫画化した連載を手がけるが、いずれも打ち切りとなる。”

笑ってしまった(^^;;;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E9%81%94%E4%B9%9F
あの漫画まだ続いていたのですか。
漫画は基本的に好きなんですが。
あの漫画は、ちょっと、私にはついていけません。
ストーリーテラーとしても、なっていないです。

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