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熊本市立春日小学校コミュの春日小学校に韓国歴史影響の証が見つかる

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今週は仕事(本業)で地元の大韓民国熊本民団事務所を訪問しました。
昔からよく国際交流や留学生問題で立ち寄る同事務所です。
その日も現場で工事技術者の者達に、あれこれ指示を出していた時ですのお客様でした。

その場に溶け込んでいた私を、民団の者と思われてか深々とご挨拶された紳士の方は、熊本駅裏にある「春日小学校」の校長M氏でした。
自分の経験からして、きっと「国際理解教育」のお願いだろうと考え、すぐ友人のチェさん(同民団事務局長)を紹介しました。
その校長は春日小学校の体育館西側、万日山の中腹にある第二運動場にある墓地の碑から話はスタートしています。
「エッ、第二運動場!!なつかし〜いっ」もう我が耳は、その話に釘付け状態です。
その碑を調査したら韓国につながっていたので、「郷土読本」にしたので持って来たと言います。
この歴史的な「証」は過日地元新聞も取り上げ、多くの問い合わせも来てその反響の大きさにも喜んでいると報告されていました。

私もカンボジアに縁があり訪問するたび気になっていた、世界遺産アンコールワットの「森本儀太夫」の落書を紹介する日本語ガイド「日本のサムラ
イです!」、「Qどこの?」「A知りません」がどうも気になり、8年間は朝駆け夜がけでの歴史調査の毎日でした。
その結果、なんと郷土熊本に朱印船交易でリンクしていた事を見つけました。
この事を両国政府に報告したら大変喜ばれ現地に「熊本記念公園」まで出来ました。
そんな経験と感動を持っているため、今回の母校「春日小学校」での歴史調査の結果を、仕事しながらうれしく聞き入っていました。

事務局長のチャさんは私の国際交流の良き理解者でもあり、私にもその校長先生の話を聞いてくれと誘いを入れてくれました。
私は仕事中ですので立ち話で「実は私の母校です、その第二運動場では良く遊びました、貝塚の発掘調査もした思い出があります。 昔からの防空
壕も残っていましたが、その後人が住み着いたり、場所が学校だけに犯罪発生をも考え、その「壕」は入れなくしてあると聞いています。」と話すと、「あ
りがたい是非学校OBにも是非呼んでほしい、廻りに配布してほしい」と、数冊その「郷土教本」頂きました。
その教本は、早速その夜に開く当センター役員会の席で、説明し配布する事にしました。

その教本には、第二運動場の隅にある碑に書かれた「大塚退野先生」に関して、72ページにわたって写真や書画にあわせ、説明付でわかりやすく書
かれています。
大塚退野先生(幼少時は又十郎)は、1677年熊本の山崎で生を受けました、徳川綱吉が五大将軍になる3年前の事です。
200石の武将の子でしたが26歳で城の御番方補佐役(警備補佐職)の要職に奉仕し、33歳の頃役人をやめ、もっぱら学問(中国の儒学の中でも陽
明学)の研究に没頭するようになりました。
今どきの様に、ただ試験で出る「傾向」に多額の塾費を払い通ったり、丸暗記で後は忘れてしまい人生には殆ど残らない勉強ではなく、読んで知った事
は必ず実行する事が大切と考えて生きたようです。
私達がついどこかに忘れている「知る事」と「行うこと」が別のことではなく、まったくひとつであること、「知行合一」であると彼は悟りました。
しかし、陽明学を信じながらも深まる疑問の数々に、28歳のとき韓国の代表的儒学者である、李退渓(イ・テゲ)の「自省録」に出会い、儒教の中の朱子
学を研究し始めます。
朱子が言うところの、「大学」からスタートし「論語」「孟子」「中庸」と進める「四書」を、特に大切にしました。
その朱子学は中国から韓国に渡ってからといううものは、学問の上でも深みを増し、それに感動した退野先生はその学問を生涯研究とされました。
「深奥精錬」(行き着くところまで徹底して研究する)を、大切にされ弟子達への指導にも活かされました。
その実際の生活に役立てる「学び」は、後に横井小南など当時我が国の新しい時代を切り開いた人たちに、大きな影響を与えました。

その後の肥後藩では熊本城の二の丸に「藩校時習館」が出来ますが、それを見て「我輩よろしく経を頂きて野に退くべし」と「退野」を名乗り、68歳にして
玉名村に隠居の身を選ばれました。 
そして玉名村で74歳の生涯を終えられます。
最後の遺言「先祖の墓より大きくしてくれるな」には、同万日山にある先祖からの墓を大きく作り変えた私は、なんとも言えない思いです。

その退野先生の生家はのちに、先生の学徳を慕う友枝庄蔵(学者)の手で私塾「忍済学舎」が建てられ、県下の多くの塾生に道徳・歴史・文学・算数の教
科を教え、大正時代には内務大臣にもなった安達護藤氏も輩出しています。

私とチェさんは、そのM校長の熱意と母校へのお返しとして、以下を約束しました。
1)韓国政府関係筋に急ぎ歴史的な調査内容を紹介し、ホームページなどで広く韓国民に日本との関係理解の素材にする。
2)春日小学校OB、郷土関係、韓国関係のリンクにも、今回の歴史調査の成果を紹介する。
3)春日小学校の子供達に韓国についての国際理解教育の時間をつくる。

熊本と言えば「朝鮮征伐の加藤清正」「侵略者加藤清正」と歴史的に嫌われて来ている。
その為、近年同国からの観光客が増える中、同国旅行社らは熊本城観光でもいっさいの「清正公」の名前は出ない、「細川元首相が持っている城だ」とし
ている。
しかし今回の歴史調査のご努力で、決して両国間には暗い侵略の話題だけではなく、いい影響をもたらした自国の歴史的な教えもある事を韓国児童にも
教えて欲しいと願います。
先生の墓は春日小学校の裏の「長谷墓地」の中に有ります。

私の家は「2011年新幹線開通」のあおりで、町内丸ごと消え去りさびしい思いの中にいました。
常に、落ち着いてまじめで、手固く贅沢を好まなかった「退野先生」の目には、この春日の町並みの変貌振りはいかに写っていることでしょうか。

春日小学校OB・OGの皆さんも、一度は母校の今を見に「旅」し、あの頃に思い(かくれんば・同言う訳か女子のほうが大きかった事、初恋・修学旅行・理解
出来なかった6年生女子だけ体育館に集められた事・セスナから駅前に完成のマルエイ(県下初の大型ショッピングセンター)のビラ蒔きました)・シンボルの
楠に大きな藤のツタが怖かった事・牛乳ではなく脱脂粉乳だった事・肝油を配布されたこと・肉は今では高級部材の鯨の赤身だった事・・・・・)を楽しみません
か?

自分の住んでいる地域の、「歴史探索」や「歴史調査」を親子でしてみては如何でしょう。(笑)

最後に「退野先生」の言葉を残しましょう。
「なすべきは 明日ばかりなる吾身哉 昨日は過ぎつ 明日は知られず」
「渡り越し 浮世の橋の跡見れば さても危うく過しもの哉」

谷川 政敏
熊本国際化センター(KIC)理事長

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