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ニッポンコミュの資生堂

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さてさて、大本命の資生堂が満を持しての登場です!
広告の美しさに心血を注いだ会社のこと、
このトピックは長きに渡ることをご覚悟下さいませ。

資生堂は、まだまだ医療といえば漢方薬が主流の明治5(1872)年、
日本初の“洋風調剤薬局”として銀座に誕生しました。
創業者の福原有信は、海軍病院の薬局長。
中国の古典『易経』のなかの一節「至哉坤元 万物資生」が
その社名の由来だということです。
文明開化の気運高らかななかで、西洋薬学に基づく新事業を
興すにあたっても、その命名には東洋の哲学書を引く…。
そんな「和魂洋才」の考えがあらわれている、と紹介されています。

おなじみの花椿マーク。
こちらは大正4(1915)年、福原の三男・信三が跡を継ぎ
事業の中心を化粧品に移していくころに誕生。
時代とともに若干のマイナーチェンジを繰り返しながら、
今日まで日本の女性美を表現する資生堂のシンボルとなっています。


資生堂
http://www.shiseido.co.jp/

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明治30(1897)年、化粧品事業に進出。
現在までの大ロングセラーとなる「オイデルミン」は、
ここに誕生しました。

・発売当初のオイデルミン、イラスト。
・大正14(1925)年ころのポスター
・大正15(1926)年ころ、ウィンドウ用小型ポスター
明治35(1902)年、銀座の資生堂薬局内に「ソーダ・ファウンテン」が開店。
そう、これが後の「資生堂パーラー」なのです!

これは、創業者・福原有信が数年前の視察旅行でアメリカを訪れた際、
現地のドラッグストアにあったものを倣ったものだと言います。
アイスやソーダなんてまだ物珍しく、ハイカラだったこの頃。
当時のお客さまは、もっぱら新橋の芸者衆だったとか。
「ソーダは酔客の渇きをうるおす最上の飲料」と宣伝し、これが大当たり。
このソーダ・ファウンテンの併設によって、資生堂の来客が大幅に増大。
福原の時代をよみとる目に驚かされます。

写真は昭和初期のパーラー内のようすと、
昭和33(1958)年ころのメニュー。
大正4(1915)年、事業の主体を化粧品へと移していく過程で、
福原信三は、すぐ意匠部(現・宣伝部)を発足させます。
自らも美術に造詣が深く、写真家としても知られる信三は、
企業におけるデザインの重要性を十分に認識していたと見えます。

当時、意匠部のスタッフは、美術学生や若手の画家たち。
流行に敏感な若きスタッフたちは、アール・ヌーボーを基調に、
後々はアール・デコの要素も加えて、“資生堂調”とも呼ばれる
洗練されたデザインの形態を作り上げていきます。
こうして、ポスターや新聞・雑誌広告、パッケ−ジデザイン、
店舗設計など、本格的な宣伝活動がはじまりました。

唐草模様も美しいドルックスは資生堂デザインの象徴。
・大正15(1926)年ころ、ウィンドウ用ポスター
・大正15(1926)年ころ、ウィンドウ用ポスター
・大正16(1927)年ころの包装紙
資生堂の企業イメージの高揚に大きな役割を果たしたのが、
当時の人気デザイナー、山名文夫が描いた女性像。

文夫は明治30(1897)年、広島市の生まれ。
少年のころより、ビアズリーや竹久夢二の絵に心酔し、
彼らの絵の模写に没頭していたということです。

昭和4(1929)年、32歳で資生堂意匠部に入社し、
以来、昭和44(1969)年に宣伝部制作室長を辞するまでの間、
一貫してモダニズム感覚をもとにした優雅な作品を制作し続けました。

・昭和7(1931)年発売のモダンカラー粉白粉、パッケージ
・カットイラスト
・ポスター
文夫の名をことさら世に知らしめたのが、
この新聞広告の繊細な線画でした。

流れる曲線は、まさにドルックス・ラインとでも呼べそう。
日本のモダンデザイン。

・昭和16(1940)年、練歯磨
・昭和11(1935)年、とき水
・昭和26(1950)年、おいでるみん白粉
アール・デコ調のものたち。

・昭和8(1932)年、クリーム白粉
・昭和22(1946)年、固形白粉
・昭和7年(1931)、ヴァニシング・クリーム

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