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ゴルフの歴史コミュのマスターズ物語?

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 マスターズは名プレーヤーが順当に勝つ事が多いトーナメントだと言われているが、勿論、勝てなかった名プレーヤーも多い。

 まず、ボビー・ジョーンズが勝っていない。1930年に28歳で引退したのだから、33年にマスターズが始まった時、ジョーンズは31歳である。そこから数年間出場し続けたのだから、その内に勘を取り戻して勝ってしまってもおかしくなかったのだが、遂に勝てなかった。

 ジョーンズのライバルだったウォルター・ヘーゲンも勝っていない。彼は1892年の生まれであり、マスターズ開始時には40過ぎではあったが、35年まではトーナメントに勝っていたのだから、勝てない理由にはなるまい。同じくトミー・アーマーも勝っていない。この二人が勝っていれば、ジーン・サラゼンと並んでキャリア・グランドスラム達成者となったのであるが。

 初期の外国人名プレーヤーとしては34年の全英オープンに勝ってイギリスの英雄と言われたヘンリー・コットンも勝っていない。もっとも、彼はアメリカが好きではなかったらしく、マスターズに招待されても出なかったらしい。アメリカでも実績を上げたプレーヤーでは全英オープンに4勝した南アフリカのボビー・ロックも勝っていない。

 リー・トレビノが勝てなかったのはゴルフ史上最も不可解な事の一つである。本人は「フェードボールが合わなかった」などと言っているが、彼が球筋の魔術師であった事は誰でも知っている事だ。理由は恐らく、メキシコ系だった彼へのパトロン達の態度であったろう。トレビノがパトロンお気に入りのニクラウスの敵役であったという事情もあったかもしれない。とにかくトレビノはマスターズに勝てず、グランドスラマーになれなかった。

 誰もに「その内マスターズに勝つだろう」と期待させながら、遂に勝てなかったプレーヤーもいる。トム・ワイスコフもその一人である。ニクラウスの後輩で、大柄な体格からロングショットを放つ彼は明らかにオーガスタ向きのプレーヤーだと思われていた。ところが、2位が4回。遂に勝てなかった。特に悲劇的だったのが1972年。16番で先輩ニクラウスがとんでもないロングパットを放り込んで逆転。ワイスコフからグリーンジャケットを剥ぎ取っていったのである。

 トム・カイトもドローボールとパッティングの上手さはオーガスタ向きと言われながら、2位が4回。1986年にはニクラウスの奇跡の大逆転を見せ付けられて「ジャックの65はアクシデントとしか言いようが無い」と嘆き、1997年にはタイガー・ウッズに10打差をつけられての2位。ニクラウスは「メジャーで勝つためには何度も2位を積み重ねなければならない」と言ったが、ワイスコフとカイトの4度の2位は、マスターズレコードタイである(あとベン・ホーガンとニクラウスが同じく4度の2位)。

 マスターズは悲劇の歴史でもある。1979年、サム・スニードの甥であるエド・スニードは快調に飛ばして三日目を終わって5打差。最終日も16番を前に3打差と、誰もに優勝を確信させるゴルフを展開していた。ところがここから16,17番をボギー。最終ホールもセカンドをグリーン右に外す。アプローチは1.5mに寄せたものの、このパットがカップを覗いて入らない。結局サドンデスのプレーオフでファジー・ゼラーに優勝を攫われたのだった。

 しかしながらマスターズで「悲劇」と言えば必ず上げられるプレーヤーは、なんといってもオーストラリアのグレッグ・ノーマンに止めを刺す。マスターズにおける(いや、本当はマスターズだけでは無いが)彼の負け方は、もはや呪われているのではないかと思えるほど悲惨である。

 まず、86年のマスターズ。最終日を首位でターンしたノーマンは、最終ホールのセカンドショット時点でも首位タイだった。ところがフェアウェイセンターから放ったセカンドショットは大きく右にプッシュしてギャラリーの中。ボギーとしてニクラウスの逆転優勝の後塵を拝したのだった。

 翌87年。ニクラウスの大ファンだったノーマンは「ニクラウスからグリーンジャケットを着せてもらえるチャンスはこれが最後だろう。だからどうしても勝ちたい」と決意を込めてトーナメントに望んだ。再び最終日最終組。そして前半で崩れかけながらも17番でバーディを奪ってセベ・バレステロス、ラリー・マイズとのプレーオフに加わったのである。

 10番でバレステロスは脱落。11番。グリーン右の池が怖いホール。飛ばないマイズが先にセカンドショットを打ったのだが、グリーンを大きく右に外してしまう。それを見てノーマンは右のカラーへ無難にショット。マイズのアプローチは池に向かって下っている難しいものだった。マイズはグリーン手前でワンクッションさせたが、少し強いように思われた。ところがところが、そのボールはピンに当たってカップに沈んだのだった。天を仰ぐマイズ。うなだれるノーマン。マスターズ史上に残る奇跡的ショットであったが、見せ付けられたノーマンにしてみればたまったものでは無い。

 ノーマンの悲劇の中でもとりわけ惨いのが1996年の大会である。ノーマンは初日、なんと63のコースレコードタイを叩き出していきなりトップに躍り出たのだった。この記録は現在でも破られていない(出したもう一人はニック・プライス)。その後も快調なプレーを続け、最終日を迎えた時は二位のニック・ファルドに6打差をつけていた。誰もが「ノーマン悲願の初優勝」の新聞見出しを思い浮かべたものである。

 ところがところがところがである。前日までの快調なプレーはどこへやら。TVに映った9番ホールの時点でリードは3打に減っていた。その9番。グリーンを捕らえた筈のボールはバックスピンで戻り、グリーンの外へ。このホールをボギー。続けて10番、11番をボギーとしてファルドとタイになると、12番ではクリークに打ち込んでダブルボギー。信じられないような崩壊っぷりに誰もが言葉を失い、オーガスタは葬式のような沈黙に包まれた。結局、この日を78としたノーマンはファルドに逆に5打差をつけられたのである。最終ホールのグリーンで抱き合うノーマンとファルド。ファルドがすまなそうな顔でノーマンに何事か呟いていたのが実に印象的であった。

 その後、ノーマンは1999年にも最終日最終組で回りながら、3位に敗れて、最後のチャンスを逃している。俗に「悲劇のノーマン」と言われるが、実は1986年にしても87年、96年、99年も、ノーマンは最終日に崩れて負けるかタイにされているのである。言い方は厳しくなるが多分に自業自得なのである。結局勝てなかったノーマンだが、マスターズ史にその名はある意味深く刻み込まれることになってしまった。

 オーガスタには魔女が潜むと言われて久しい。魔女に嫌われた敗者たちの歴史はゴルフの恐ろしさを学ぶ格好の教材だと言えるだろう。
 

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