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ゴルフの歴史コミュの全英オープン物語?

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 全英オープンを初めて見た日本のゴルファーは大抵面食らう。

 まず、ゴルフ場が緑じゃない。茶色である。しかも、所々芝が剥げていたりする。世界最高峰のメジャートーナメントを行う舞台として、どうなのだろうか?と思っても不思議ではない。

 そして、天候である。全英オープンは7月に行われる。ところが、プレーヤーたちは皆、セーターなどを着こんで震えているのだ。突然の雨に選手たちは慌ててレインウエアを着込み、そうかと思えば、突然晴れて、ギャラリーが半裸で歩いていたりする。そして、風である。

 ピンがぶち折れそうになるくらいの激風が吹き荒れるのは、全英オープンでは極普通の事である。グリーン上のボールが風で動かされるくらいなら当たり前。そのボールがバンカーに転がり込むことさえ珍しくない。プレーヤーたちは頭を下げ、帽子を押さえながら進む。

 アメリカの他のメジャートーナメントとはまったく違う雰囲気。一体これのどこがゴルフの聖地なの?最初に見た時、私はマジでそう思ったものだ。

 逆で、ゴルフとは本来こういうスポーツなのである。

 スコットランドの古いゴルフコースは、海辺のリンクスという、要するに海辺の荒地にある。これはそこが荒地ゆえに、好き勝手に使って良い土地だったためゴルフを行うのに都合が良かったからである。このリンクスの特性がゴルフというゲームの方向性を決定付けた。

 つまり、整備されていないエリアである深いラフ。芝が生えていない場所に口を開けているバンカー。そして、暴れ狂う風や雨の中で思慮を尽くしてボールをコントロールし、ホールを目指す。「最初のゴルファーは、荒れ狂う嵐の中にも船出する、船乗りたちだったに違いない」と言われたように、自然と闘い、協調し、あらゆる困難を乗り越えてホールを目指す事。それがゴルフなのである。風が、雨が、寒さが、などと言い訳する奴は呪われよ。そんな奴はゴルファーではない。

 つまるところ全英オープンの舞台こそ、ゴルフというゲームの、本質を試す舞台なのである。そのために、イギリスには他に名コースがいろいろあるにも関わらず、全英オープンは必ずリンクスコースで行われるのである。現在では有名なセント・アンドリュースOLDコース。ミュアフィールド。カーヌスティ。ターンベリー。ロイヤル・リザム&セントアンズ。ロイヤル・トルーン。ロイヤル・セントジョーンズ。ロイヤル・パークデール。ロイヤル・リバプール。以上9コースの持ち回りで行われている。

 全英オープンが始まったのは1860年の事である。場所はスコットランドのプレストウィック。第一回の優勝者はウィリー・パーク(シニア)である。

 と、簡単に書いてしまったが、この大会がいわゆる「THE OPEN」の第一回であると断言しても良いものか、異論もある。

 この大会が行われたプレストウィックは、1851年に誕生した新興のコースであった。セント・アンドリュースのメンバーでもあったジェームズ・フェアリーが中心になって結成したゴルフクラブである。この頃、スコットランド西海岸のグラスゴー周辺に産業革命の影響が及び、新興階級が急速に台頭を始めていた。プレストウィックのメンバーには歴史あるセント・アンドリュースの貴族や聖職者と違って、そうした新興階級、資本家や医者、弁護士などが多かったのである。その進取の気風が、新しい競技の創設へと大きく影響する。

 もう一つ重要なのは、プレストウィックを創設する際、フェアリーが招いたトム・モリスの影響である。セント・アンドリュースで親方のアラン・ロバートソンと揉めていたモリスはフェアリーの誘いに乗ってプレストウィックへやってきて、グリーン・キーパー兼プロになった。まだ若かったモリスはプレストウィックにおいて様々な新しい取り組みを行った。これも古き伝統を守るセント・アンドリュースでは行い得ない事であったろう。

 新興コースであったプレストウィックに集った新興階級のメンバーたちは、既存の貴族階級に対する対抗心が強かった。古い宗教都市であり、今や寂れ切っていたセント・アンドリュースや古めかしい首都エジンバラのミュアフィールドが大きな顔をしていることが我慢ならなかったのである。歴史と伝統に胡坐をかいていやがるが、今や実力ではこっちの方が上じゃわい。

 そう考えたフェアリー以下プレストウィックのメンバーたちが考えたのが、クラブ対抗戦であった。1957年にアマチュアメンバーの対抗戦が行われ、次にプレストウィックで企画されたのが、各コースに所属するプロたちによるストロークプレーの大会であった。なぜ、当時主流であったマッチプレーではなくストロークプレーであったのかというところにも、プレストウィックのメンバーたちの進取の気風が現れていると思う。

 つまりこの大会が1860年の「第一回」だが、この時の出場者はたったの8名。全員がプロ(ゴルフ場従業員)であった。そもそも、このプロたちは各ゴルフクラブ(この当時ゴルフクラブは海外を含めて15しかない)の代表であった。故にこの大会はオープン競技とは言えず、厳密に言うならオープン競技になった第二回こそが初の「THE OPEN」だと言える。

 もっとも、この第二回大会に参加したのもプロ10名、アマチュア8名に過ぎなかった。多分ギャラリーなど数える程しかいなかったのではないだろうか。勝ったのは前年の雪辱を晴らしたトム・モリス。ちなみにアマチュアのトップはジェームズ・フェアリーで、モリスとは21打差だった。

 しかしながらこれで偉大なる「THE OPEN」の歴史が始まったなどとはとても言えない状況だった。翌年の大会の参加者はプロ4名、アマチュア4名。場所がゴルフの中心地であるスコットランド東海岸の反対である西海岸のプレストウィックである上、賞金も安く(チャンピオンベルトは高価なものだったが換金する訳にもいかない)、歴史も浅いので勝っても名誉にもならない。つまり、全然魅力が無い大会だったのである。

 8回大会までにトム・モリスとウィリー・パーク以外のプレーヤーが勝ったのが、第6回大会のアンドリュー・ストラスのみ。これは当時のプレーヤーの中でモリスとパークの実力が飛び抜けていたからではあるだろうが、目ぼしい参加者がこの二人しかいなかったからでは無いかとも思える。

 プレストウィックのコースは当時12ホールしかなかった。これは当時としては珍しくなかったが、大会はこれを2日で3ラウンドして勝敗を競ったのである。当時はパーの概念が無かったので、幾つアンダーという言い方はしなかった。1872年の12回大会まではコースはプレストウィックのみで行われ、73年に初めてセント・アンドリュースに舞台が移動した。もっとも、大会が大規模化したかといえばそんな事も無かったらしく、ずっと後、1889年の大会の参加選手はたったの48名。しかもその内22名が地元選手。優勝賞金は8ポンド半(現在の70万円くらい?)だったという。

 現在ではこれよりも規模の大きなコンペはざらにあるだろう。つまり「THE OPEN」は開始当初、ただのオープン競技であって「全英」などと大それた名前をつけられるような大会ではなかったのである。これが文字通り「全英」を代表する大会となり、ゴルフ界最高の栄誉だと考えられるまでになるのは1890年代に入ってからのことである。
 

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