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ゴルフの歴史コミュのマスターズ物語 番外編

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 残念ながら、番外編で書かなければならない日本人編。せめて最終日まで優勝争いに残ってくれないと・・・。

 マスターズに日本人プロが初参戦したのは1936年だが、35年大会(第二回)への招待状は宮本留吉、浅見緑蔵、中村兼吉プロにも届いていた。宮本留吉プロは1932年にアメリカに遠征して、ボビー・ジョーンズとの面識を得ていた。その関係での招待だったが、残念ながら当時のアメリカは遥かに遠く、出場出来なかった。

 36年の大会に出場したのは台湾の陳清水と戸田藤一郎である。共に伝説の名手だ。成績は陳が20位(300ストローク)、戸田が29位(305ストローク)であった。ちなみに前年、35年の出場者数は53名なので、この年も同程度の選手が出場したのだとすれば、半分よりは上に言ったということになる(優勝は285ストロークのホートン・スミス)。当時は予選カットが無かった。残念な事にプレー振りを伝える記録はさっぱり残っていない。

 戦前の日本人選手の出場はこれが最初で最後となる。戦争期を挟み、戦後に日本人が初出場したマスターズは1958年。前年のカナダカップ(今のワールドカップ)に優勝した中村寅吉、小野光一が招待され、出場している。中村は41位、小野は予選落ち。すこし間が開いて63年には陳清波と小野が出場。この年から日本人プロが必ず招待されるようになる。

 もっとも、マスターズの壁は厚く、1973年に至るまでベストテンに入れたプレーヤーはいなかった。身長160cm以下で、それでいて飛ばし屋だった河野高明がパトロンから「リトル・コーノ」と呼ばれる活躍を見せたのは1969・70年だが、この時は13・12位に入っている。

 ジャンボ尾崎こと尾崎将司が初出場したのは、最年少賞金王に輝いた翌年の72年だが、この年はあえなく予選落ちであった。しかし翌年、彼は8位に入賞。破格の飛距離とパッティングの上手さを持つ日本の英雄の活躍にパトロンは沸き立ち、この年から日本のマスコミはジャンボに過大な期待を掛け続ける事になる。もっとも、この年のジャンボのスコアはオーバーパーだった。翌年は予選落ちに終わっている。ジャンボ尾崎は日本人最多の18回出場したが、最高位は結局その8位だった。74年には青木功が初出場しているが予選落ち。結局青木は12回出場して最高位は16位だった。

 AONの最後の一人、中嶋常幸が初出場したのは1978年。彼は賞金ランク5位になり、その将来性をマスターズ委員会が評価しての招待だった。当時23歳の中嶋は生意気ざかり。「パー5のホールを全部バーディにすれば16アンダーで優勝だよ。マスターズに勝つのなんて簡単だ」などと豪語してオーガスタ・ナショナルに乗り込んだのだった。

 ところが、ドライビングレンジで中嶋はいきなり衝撃を受ける。当時のオーガスタ・ナショナルのドライビングレンジでは、なんとボールの落下地点でキャディが待っていて、ボールを拾っていたのである。しかも、アメリカのトッププロたちが打つボールは驚くべき正確さでキャディの目の前に落ち、キャディはほとんど動く事も無かった。トレビノなどはギャラリーを沸かせるために曲打ちを披露し、それでもキャディが動くのはせいぜい二歩くらい。ベン・ホーガンなどはキャディにぶつけていたらしい。中嶋はというと、恐ろしくてミドルアイアン以上は打てない。それでも彼のキャディはボールを追っかけて右往左往し、他のキャディに迷惑がられていたという。

 トーナメントがスタートしてみると、案の定中嶋は大苦戦。初日は80。ボギー7、ダブルボギー2とメタメタだった。それでもせめて予選通過を目指した二日目。アウトはなんとかイーブンパー。12番をボギーとして迎えた13番。

 ティショットは左過ぎて木に当たりクリークへ。ドロップして、3打目は池の手前へレイアップ。そこからグリーンを狙ったショットは僅かにショート(4打目)。クリークに入ってしまった。しかし、当時のレイズクリークは水が少なく、打てそうだった。中嶋はクリークに下りて行き、ショットを試みた(5打目)。

 しかし、これが出ない。しかも悪い事にボールは土手に跳ね返って戻って来て、中嶋の足に当たってしまった(当時、2打罰)。逆上した中嶋はクラブをハザードにつけてしまう(2打罰)。あきらめてハザード後方にドロップ(1打罰)。乗せて(11打目)、2パット。

 マスターズにおけるワーストレコードタイの13打(12番でトム・ワイスコフが13を打っている)記録保持者として中嶋の名前がマスターズの歴史に残ってしまった瞬間である。勿論この日80で予選落ち。中嶋は悄然とオーガスタ・ナショナルを後にした。中嶋がオーガスタ・ナショナルに戻ってくるのは83年。86年には8位になっている。

 マスターズには外国人招待枠というものがあり、日本ツアーの賞金王、賞金ランク2位くらいのプレーヤーはほとんど招待されている。が、例外もあり、1984年の賞金王、前田新作には何故か招待状が届かなかったし、87年の賞金王デビッド石井はアメリカ国籍だったからか(ハワイ)招待されなかった。逆に、2009年の石川遼は賞金ランク5位でも招待されている。

 日本人最高位は2001年の伊沢利光と2009年の片山晋吾の4位。スコアは共に278である。マスターズに招待されたプレーヤーは、マスターズで強い刺激を与えられ過ぎるせいか、翌年からの成績が振るわない例も多い。特にパットに自信があるプレーヤーであればあるほど、マスターズの高速グリーンに惑わされてどつぼに嵌るようだ。

 私個人の感想としては、マスターズは日本人にとって最も縁遠いメジャーであると思う。なにしろ出場自体が難しいし、日本ではシーズン当初に行われるメジャーだからである。しかしながら、チャンスが無いわけでは無いと思う。オーガスタの様にアップダウンのきついコースは、アメリカよりもむしろ日本に多いし、林間を巻いて吹く風の読み方も日本人の方が慣れている筈だ。後はグリーンだが、こればかりは日本のトーナメントコースの、グリーンのレベルを上げるしかない。

 ボビー・ジョーンズは宮本留吉とプレーした後に宮本のプレーを高く評価して、日本ゴルフ界の発展を予想している。ジョーンズの期待に応えてグリーンジャケットを手にするプレーヤーは何時現れるのか。期待したいと思う。

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