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ゴルフの歴史コミュのゴルフ殿堂? フレッド・コーコラン

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 フレッド・コーコランはプロゴルファーでもない。有名アマチュアプレーヤでもない。とある婦人がコーコランに「あなたがゴルフ殿堂に選ばれたのは何故ですか?」と尋ねるとコーコランは「47カ国で3パットしたからですよ」と答えたという。

 もちろん、そんな理由ではゴルフ殿堂には選ばれない。

 フレッド・コーコランはいわゆるトーナメントプロモーターの草分け的存在である。1938年。彼はPGAの運営を任され、手腕を存分に振るった。トーナメントの賞金額は彼の尽力のおかげで6倍となったと言われている。彼の力によって、PGAツアーは確立したと言っても過言では無い。

 彼はバージニアの山奥から出てきたサム・スニードの才能を見出すと、彼をPGAツアーの大スターとして大々的に売り出した。戦争が始まってしまったためにすぐには成功しなかったが、戦後、スニードは目論見どおり大スターとなった。コーコランは優等生よりもちょっと出来の悪い奴の方が愛されることを知っていた。スニードはバージニアの山猿であり、倹約家で、ずるいなどの評判はコーコランが意図的に作り上げたものだ。

 もちろん、コーコランはスニードだけを売り出したわけではない。それまでのスター、ヘーゲン、サラゼン。そしてスニードのライバルとしてホーガンも宣伝した。彼はアメリカゴルフライターズ協会の設立者でもあった。彼はゴルフ界の伝説の源でもあったのだ。

 彼の功績はそれだけに留まらない。彼は1948年、LPGA設立の中心メンバーの一人となり、初代代表に就任している。パティ・バーグは「コーコランが加わってくれたおかげでようやくLPGAが立ち上がった」と述べている。

 ライダーカップの世話人、カナダカップ(ワールドカップ)のマネージャーも務めた。ベーブ・ザハリアス、トニー・レマなどの個人マネージメントも行い、ゴルフ界だけではなく大リーグの打撃王テッド・ウィリアムズやスタン・ミュジアルのマネージャーもやった。当然多忙だった彼は電話を手放せず、ピング・クロスビーが「私は電話会社がフレッド・コーコラン記念碑を建立することを望んでいる。彼はベル電話会社よりも電話交換手の訓練に尽力した」とジョークを飛ばしたほどだった。

 実は。ゴルフ殿堂自体も彼の発案と尽力によるものである。その構想は1941年から持っていたというのだから、1974年の設立は実に30年以上もの彼の活動の賜物だったのだ。本人はまさか自分が選ばれるとは思っていなかっただろうが。

 晩年、彼はPGAツアーに商業主義が蔓延るのを憂慮してこう漏らしたという「選手たちは楽しさを忘れている」大賞金を集め、ビジネスライクになってしまったツアーのプロたちは、マネージャーというよりは面倒見の良い兄貴のようであったコーコランには馴染めなかったのだろう。自ら大きくしたPGAツアーが、自らの意思からかけ離れた方向へ行ってしまうの悔しかったのかもしれない。彼の最後の言葉は常に前方を見続けていた彼にしてはさびしい一言だったという。

「昨日を返してくれ。その方が面白かった」

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