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ゴルフの歴史コミュのゴルフ殿堂? ベーブ・ザハリアス

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 現在でも史上最強女子プロゴルファーの名を欲しい侭にするベーブ・ディドリクソン・ザハリアス。ちなみにベーブはあだ名であり、地元テキサスで野球の試合に出た折、ホームランを5本もかっ飛ばし「ベーブ・ルース」にあやかって付けられた。もちろん、ベーブは赤ん坊という意味で、ある意味これは彼女にもぴったりな名前であったのである。

 世のプロゴルファーの中に、オリンピックに出場したことがあるアスリートが何人いるだろうか。ましてや、金メダルを2つも獲得した者が。歴史上を辿ってもただ一人しかいないと断言できる。それがザハリアスだ。

 兎に角彼女は破格の運動能力の持ち主だった。1932年の全米陸上競技大会で、ザハリアスは8種目に出場して6つの金メダルを獲得し4つの世界記録を樹立した。同年のロスアンゼルスオリンピックでは槍投げ、80mハードル、走り高跳びの三種目に出場して、実質全て一位。ただ、高飛びの際に飛び方に違反があったとして銀メダルになってしまった。全米バスケットボールでも活躍。前述のように野球も男性顔負け。ついでにダンスやタイピスト、ビリヤード、トランプなども得意。出来ないことは何も無いというような、まさにスーパーウーマンだったのである。

 その彼女がゴルフに取り組んだらどうなったか。ドライバーの飛距離は250yも吹っ飛ばしたのだが、最初はスコアにならなかった。しかしこれがザハリアスのプライドを傷つけた。彼女はゴルフをマスターしてやると決意し、1934年にはなんと77で回ってトーナメントのクオリファイを果たしている。1935年にはテキサス女子選手権優勝。その上達速度には唖然とするほかは無いが、彼女であればさもありなんという気もする。ところがこの試合後USGAにクレームがつく。女子野球やバスケットボールに出て報酬を得ているザハリアスにはアマチュア資格が無いとされ、彼女はアマチュアとしてはプレー出来なくなってしまった。

 ザハリアスはジーン・サラゼンと組んで全米でエキシビションマッチを始めた。ザハリアスはサラゼンを常にアウトドライブして、サラゼンはそっぽを向いて歩いていたといわれる。もっとも、飛距離は兎も角、腕前はたいしたことが無かった。イギリスの当時の女流王者ジョイス・ウィザレットと戦って一蹴されたりしている。エキシビションで出会ったプロレスラー、ジョージ・ザハリアスと結婚したのは1938年のこと(本来なら彼女はここからザハリアス夫人となったわけである)。このジョージはマネージメントの才能があり、後に女子プロゴルフツアーの立ち上げにも大きな役割を果たしている。

 夫の収入に頼れるようになったザハリアスは1943年アマチュアに復帰。戦争の終わった1946年から47年の間に15連勝する。全米女子アマチュア決勝で11−9というとんでもない勝ち方をしたり、全英女子アマチュアをこれも大差で勝ち取ったりとまさに無敵。あまりの強さに観衆があきれ果てたと言われる。

 そして1947年。おそらくパティ・バーグの誘いに乗ってザハリアスは本格的にプロ転向する。マネージャにフレッド・コーコランを迎えたLPGAはウィルソンをスポンサーに、9つのトーナメントを行った。ちなみに9試合で賞金総額はたったの1万五千ドルであった(ザハリアスはそのうち4300ドルを稼いだ)。女子ツアーは次第に発展して行くことになるが、プロの中にオリンピックのスターでアマチュアゴルファーとしても無敵だったザハリアスの名があったことが、どれほど宣伝に役立ったかは想像するに容易いだろう。

 物議をかもしたのが1948年、全米、全英の男子オープンへの参加を表明したことであろう。この時は「参加者は男性に限る」の項目が無かったばかりに大騒ぎになった。賭け屋が彼女を本命に押す騒ぎとなったが、結局参加は認められなかった。参加していればどうなっただろうか。

 ザハリアスは天真爛漫というか、天才特有の傲慢なところがあった。
 ペギー・カークベルというルーキーがダブルスのトーナメントでザハリアスとコンビを組むことになった。大スターと組むことに緊張したカークベルはザハリアスに向かって精一杯の勇気を込めて言った。
「ベストを尽くします。勝てるように頑張ります!」
 ザハリアスは鼻で笑った。
「勝つに決まってんじゃないの。私一人で相手の二人はやっつけるから、あんたはただついてきてゴルフを楽しんでりゃいいの」
 自己中心的で横暴ですらあり、そして多少下品だった。女子プロの中にはルイズ・サックスのように彼女を毛嫌いする者も多かった。しかし、剛打とショーマンシップに優れた彼女はギャラリーには愛されたのである。このあたりはまさに野球のベーブ・ルースそっくりであった。

 ザハリアスは53年までに二度の全米女子オープンを含む20以上のトーナメントに優勝していたが、突然の悲劇が彼女を襲う。癌が見つかったのである。手術が行われ、医師は再起不能であろうと言い、多くの人々もまたそう思った。当時の癌手術は、臓器をごっそりと取ってしまうのである。社会復帰さえ危ぶまれた。

 ところがザハリアスの闘志は衰えていなかった。病床で人々の噂を聞いた彼女は奮起。僅か三ヵ月後にはトーナメントに復帰してみせたのである。そして1954年、彼女は再び全米女子オープンを12打差という途方も無い勝ち方で勝った。これはベン・ホーガンの事故後のカムバックと並び賞されるべき奇跡だと言えよう。

 しかし癌は再発。1956年彼女は僅か45歳で不帰の人となった。

 三年連続賞金王。三度の全米女子オープン制覇は歴代記録としてはそれほど凄いものではない。しかしそれでも未だに偉大な女子プロたちを差し置いて、ザハリアスが最強の女子プロであったと言われるのは、彼女が記録ではなく記憶に残るプレーヤーだったからであろう。ゴルフ殿堂が創られた時に最初に顕彰されたたった一人の故人女性プレーヤーがベーブ・ザハリアスだった。

コメント(2)

 ターヘーさん>

 動画ありがとうございます!youtubeにあったんですね。

 なにしろ、スイングが女の打ち方じゃ無いっすよ。

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