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ゴルフの歴史コミュのゴルフ殿堂? バイロン・ネルソン

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 ベン・ホーガンとバイロン・ネルソンが同い年で同じゴルフ場でキャディをしていた、というのは、偶然と言うにはあまりにも出来過ぎた出来事である。場所はテキサス州グレンガーデンゴルフクラブ。彼らは子供のころからここでゴルフに熱中し、全米に羽ばたいていった。

 しかしながら、その当時からネルソンとホーガンには大きな差異が見られた。一言で言えば陽気で誰からも好かれたネルソンと陰気で他人に対して壁を作っていたホーガンの差である。当時から二人の腕前は伯仲していた。しかしながら、グレンガーデンの会員たちが愛し、従業員や名誉会員に推し、アマチュアトーナメントに送り出したのは常にネルソンの方であった。

 アマチュアとしてプレーしていたネルソンがプロに転向したのは1932年のこと。大恐慌後の大不況で仕事が無く、半ばしかたなくプロになったらしい。なにしろ当時のプロトーナメントは賞金も安く、職業とするにはあまりにも頼りなかったからである。ネルソンのデビュー戦は三位。賞金はなんとたったの75ドルであった。賞金は6位にまでしか出なかったという。
 
 当時のプロゴルファーの中で、自らの力のみでツアーを戦うことが出来た者はほとんどいなかった。駆け出しのプロはスポンサーを見つけ、エントリーフィーや旅費を援助してもらってツアーに参加していたのである。ネルソンは大柄で才能があり、人柄も良かったためにクラブプロの仕事を得て、しかもスポンサーにも恵まれた。同じ時期にホーガンは酷く苦労をしながらツアーに参加している。初優勝は1936年。その試合では旅費の不足で長距離を自宅から通い、靴下が無いので毎日同じものを洗濯して履いて、プレーしていたのだという。

 面白い話として、同じ頃、ドライバーショットに悩むネルソンが奥さんに「新しいドライバーが欲しい」と持ち掛けると、奥さんはため息を吐きつつこう言ったのだという。
「バイロン、私たちが結婚してから私はドレス一つ、靴一つ買ったことは無いのに、あなたはもうドライバーを4本も買ったわよね。なのに、まだ欲しいの?答えは一つ。あなたはどんなドライバーが欲しいのか知らないか、打ち方を知らないのだわね」
 なんとまぁ、痛い言葉であることか。ネルソンは手持ちのドライバーを徹底的に改造して、それ以降ドライバーに悩むことは無くなったということである。

 1936年以降、ネルソンはトッププレーヤーの仲間入りを果たす。1937年にはマスターズで初日にコースレコードの66を出して優勝。しかしながらこの時、彼の頭の中は、新たにいい条件で就職出来たヘッドプロの職のことでいっぱいだったのだという。

 1939年には全米オープンに勝ち、1940年には全米プロゴルフ選手権にも勝っている。しかしながら身分はやはりクラブプロ。一流コースであるインバネスゴルフクラブに就職したせいで、忙しくてほとんどトーナメントにも出られない有様だったようである。だが実は、これが当時の成功したプロゴルファーの姿だったのである。

 当時は飛行機が今ほど普及しておらず、しかも貧乏だったツアープロたちの移動は自家用車での移動(何千キロをも!)によるしかなかった。当たり前であるが自分で運転するのだ。場合によっては奥さんを隣に乗せ、途中でモーテルに宿泊しながらである。道中では事故や治安の悪い場所でのあらゆる危険が待ち受けていた。ベン・ホーガンが大事故にあったのはその端的な例である。それでいて賞金は安く、それもせいぜい20位くらいまでにしか払われなかった。

 これでは、誰しもツアープロなど続けたいとは思わないだろう。ツアーで活躍し、名を売り、そして良いクラブに良い条件で就職、定住する。それが当時のツアープロたちの願いだったのである。その意味でネルソンは成功したと言える。稼いだお金で故郷に牧場も買った。そんなことが出来たプロは当時、ほとんどいないはずだ。

 1941年12月、アメリカは第二次世界大戦に突入する。しかし、国土が戦場になったわけでもないアメリカではツアーが続いていた。ネルソンが二回目にマスターズに勝ったのは1942年で、ホーガンとのプレーオフを制してのことである。しかし、1942年の終わりにはツアーは中断してしまう。ホーガンやサム・スニードを始めとした多くの選手が兵役に着いた。着かなかったプロも戦時国債発行のためのエキジビジョンマッチや赤十字の慰問プレーなどを行った。

 ネルソンも兵役に着こうと思ったのだが、血友病のような血が固まりにくい病気であったために不合格になってしまった。これはネルソンにとって良いことであったのか悪いことであったのかは分からない。兎に角ネルソンは戦時中慰問エキジビションをしながら全国を回った。なんと一年半で110回もエキジビションマッチをこなしたのだという。戦時のことであるから移動も食糧確保も大変だったらしい。ついでに言えばこのころホーガンとスニードは兵役に着いていたが、仕事はもっぱら軍のお偉いさんとゴルフをすることであったらしい。

 1944年、戦争中にも関わらずツアーが再開される。アメリカの底力を見る思いだが、ここからネルソンの黄金時代が幕を開ける。ネルソンは過酷な慰問エキジビションのおかげでゴルフの調子を上げていたのである。この年彼は8勝を上げている。平均スコアは69.67。

 そして伝説の1945年。1944年の秋、ネルソンはインバネスゴルフクラブを辞めている。つまり、自由にトーナメントに出られるようになっていたのである。そして彼はクラブプロの仕事に見切りをつけ、この年から稼いだ賞金で新しい牧場を買おうと決意していたのである。モチベーションとこの時最盛期を迎えつつあったネルソン(33歳)のゴルフが結びついた結果がこれだ。

 年間18勝、内11連勝。
 平均スコア68.33。4ラウンドベスト259。ベストスコア62。いずれも当時の新記録。
 予選落ちは一回も無し(というか彼はこの年を含めて113試合連続予選落ちしていない)。
 一番悪い順位は9位タイ。

 まさに、ただ事ではない成績である。この年の八月に戦争が終わったとはいえ、アメリカ国内のゴルフ場はまだ荒れ気味で、今のようにきれいに整備されたコースばかりではない。グリーンの速さも一定ではなかった。そんな中で、毎試合車で移動しながら約30試合に出続けて、この安定感。

 この年、ホーガンは18試合、スニードは26試合に出場している。連勝の中でも彼らを破った試合が何試合も含まれている。ネルソンの記録を「戦争中だから」の一言で片付ける向きがあまりにも多いが、とんでもない話なのである。

 この年に彼が稼いだ賞金は、それまでに稼いだ賞金総額よりも多かったということである。しかしそれでも47600ドルにしかならなかったのだ。現在とは比較するまでも無いが、当時としてもこれはけして多いとは言えない額である。アメリカの物価指数は現在1945年の10倍くらいなので。47万6000ドル。これでは現在のアメリカツアーではシードも取れない。

 彼が1946年中頃に引退して牧場経営を始めてしまった理由も分かろうというものだ。当時は牧場経営の方がきちんと安定した収益の見込める仕事であった。プロツアーの先行きも分からなかったし、34歳になった彼には旅から旅への生活は辛すぎたのだ。ツアーに拘り続けたように見えるホーガンも、実は事故以降、年に数試合しかトーナメントに出場していないのである。

 もちろん、ネルソンはゴルフ界から完全に離れた訳ではなかった。後にはTV解説の仕事も引き受けたし、レッスンもした。中にはケン・ベンチュリーやトム・ワトソンのようにナショナルオープンチャンピオンに上り詰めた者もいたのである。晩年はマスターズの名誉スターターで毎年元気な姿を見せていた。

 しかしながら、私は彼のために惜しむ。彼の全盛期が後10年、早いか遅いかしていれば、彼はゴルフ史上にもっと偉大な記録を打ち立て、正当な評価と利益を得られたのではないだろうかと。そして、もっと長く我々にプレーする姿を見せてくれたのではないだろうかと。特に彼の引退以降、全盛期を謳歌したホーガンやスニードとの名勝負をもっと残して欲しかった。グレンガーデン以来のライバル、ホーガンが得た栄光を思う時、ネルソンの得たものは彼の労苦と活躍に比して小さすぎる気がする。

 しかし彼自身は自分の人生を何一つ後悔していない。自伝の一行目を「私はどんな時も恵まれてきた」と書き出しているのが、その証明となるであろう。

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