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バイクに乗ったサンタクロースコミュのお絵かき先生

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お絵かき教室の先生

それは、私がまだ幼稚園生だったときのこと。
よく晴れ渡った天気の良いある日だった。

一台のスポーツカーが、僕たちの遊び場の公園の入り口に停まった。
小型の真っ赤なスポーツカーだった。
大人二人が、詰め込まれるようにやっと座れる小さなスポーツカー。
ボディーはワインのような赤い色。
光沢ある表面が太陽の光をメタリックに反射させている。

座席は黒い幌の屋根で覆われていた。
それを後ろに蛇腹みたいに押して倒すと、オープンカーになった。
まるでマンガのルパン三世が降りてきそうな、しゃれた車だった。

その日、私が住んでいた家の裏にある公民館で、お絵かき教室が、はじまり、そこに現れた絵の先生が乗って来た車だった。

その車から降りてきたのは、ほっそりした背の高い若い青年だった。
ちょっと長髪で、あごひげがマンガのルパンの次元のあの鬚で、顔もあの次元みたいな感じで、物静かな絵描き先生だった。口にはパイプをくわえて、静かなまなざしで子供たちを見る。
一緒に降りてきたのは、美しい女の先生だった。二人は若夫婦だった。
この二人が一緒にたっている姿は、まるで「わたせせいぞう」の絵のような感じだった。

その日は、お絵かき教室体験会であった。
私が住んでいた家の裏にある公園と隣接する小さな公民館で、お絵かき教室が、はじまり、そこに現れた絵の先生が乗って来た車だった。

その日のお絵かき教室は、無料体験ということで、近所の悪がきどもも、そこにあつまっていた。
そこは、いつも自分が近所の悪がきどもと一緒に遊んでいる公園だった。
その公園で、好きなものを描きましょうという無料イベントであった。
私や子供達は、先生の前に並んで、画用紙をもらって、クレパスと絵の具を借りて、あちこちで絵を描き始めた。
私は、公園の裏山に立つ一番大きな松の木を見上げた。
いつも木登りをして遊んでいた公園の裏山の大きな一本松だった。

やがて、幼稚園児の私は、公園のシーソーにまたがって、その松の木の絵を描き始めた。

クレヨンでいろんな色をいっぱい使って描いて、そらは、水彩絵の具の濃い青をクレパスの絵の上から塗りたくった。松の木の茶色、葉の緑、青い空色の絵。ものすごく熱中して描いたことを今でも思い出せる。
自分が描いた「本当」の「絵」だった。
いまでも、その時の興奮を覚えている。
本格的に絵の道具をつかって、本気モードで絵を描くことが、なんと楽しいことか。
すぐに没頭してしまった。

そして出来上がった木の真ん中に、一呼吸置いてから、最後にでっかいカブトムシを描いてクレヨンを置いた。
「できた!!」と、お絵描きの先生にもっていくと、
男先生が腕組みをして、だまって見下ろしている。

パイプをふかして、なんにもいわないが、目がにこにこしている。

女先生が、「わー、すごくいいわ〜」と手にとって見ながら言ってくれた。

「この真ん中のものはなに?」と聞かれた。

「カブトムシ!」と僕は答えた。

すると、一瞬周りにいた母や大人たちは目を見合わせ、「そっか〜、は〜はっはっは」と笑う。

そんな僕の姿を見た母は、お絵かき教室への入会金を払った。決して裕福ではなかった我が家で、母が自分の内職の収入から払ってくれたのだ。
僕はその絵を世紀の大作のように胸を張って受け取り、母と一緒に家へ持って帰った。

それから、中学を卒業するまで、毎週土曜日は、必ず、休まず、そのお絵かき教室に僕は通った。行きたいから行った。 私が行きたがるから、親は月謝を払い続けたのだった。

父は、私が最初に描いた「松の木とカブトムシ」の絵を、私が大学生になるころまで、廊下の一角に張っていた。
大人になるまで僕はその絵を廊下を通るたびに見ることになった。
その時の父の気持ちはなんだったのだろうか? 
その父はもういない。80歳で他界した。

学校の授業はおもしろくなかったが、土曜日のお絵かき教室はとても充実していて、そこにいって絵を描くことが私のもっとも大好きな時間であった。野球やベッタン(メンコ)や、ビー玉遊びよりも、私は絵を描くことが好きだった。

女先生は、その日描いた絵を、次の週の土曜日に返してくれる。
生徒全員の絵を女先生は見てくれるのだ。
そして、絵の裏には、赤いクレヨンで、でっかい5重丸がつけられていた。
「よくできました!」とほめられているように僕は感じ、うれしかった。
男先生も女先生も、絵の描き方は何も教えなかった。
すきなように描かせた。

どんなへんてこりんな絵でも、「それが、いいんだ。世界で一枚しかない絵だぞ」とニコニコしてほめてくれる。
子どもたち全員に、そうやって「ごじゅうまる」「花まる」をつけてくれる。

学校では、いつも成績が悪く、親から「なんや、この成績は?! 勉強する気無いんか?」といつも言われ続けている僕にとって、唯一、胸を張って親に見せれる成績だった。

「また、5じゅうまる、もらったでぇ!」と自慢げに見せる子供たちの顔は皆輝いていた。

やがて、男先生は、ドイツで展示会をして好評を得たとかで、だんだんと画家としての将来に明かりがみえて来ていた。
お絵かき教室も、「とってもいい先生がいる」と口コミが広がり、どんどんと生徒が増え、あちこちのお絵かき教室会場を掛け持ちする売れっ子先生になっていった。わたせせいぞうの絵の世界のように、すがすがしく、ロマンティックで、若くて有能な画家夫婦。順風満帆にみえた。

そんなある日、男先生が、教室に来なくなった。
赤いオープンカーに乗ってくるのは、女先生とアシスタントの美大の学生さんだけになった。
ある日、男先生が亡くなったという知らせがあった。

癌であった。

そのあとも、女先生は、いつもの笑顔で教室へやってきた。

悪ガキどものいたずらには、低い落ち着いた声で、「いけませんね!」と厳しい目でじっと子供の目をみつめる。女先生の綺麗な目でじっと見つめられてしまった悪ガキどもは、ちゃんと姿勢を正して、作品つくりに向かう。

先生に褒められることがうれしくて、それを失いたくなかったのだと思う。

ちゃんとしていると先生はとても穏やかで、そして、「ごじゅうまる」をくれるのである。

大学になってからも、社会人になって実家に帰った時も、その女先生が、教室でたくさんの子供たちの絵をみてまわっているところへ、時々お邪魔した。
ひょっこり現れた私を、先生は「あ〜、なつかしいねえ。え?もうそんな年になったの?」と笑顔で迎えてくれた。そして、そこにいる生徒たちに、「このお教室の先輩よ」と紹介してくれるのだった。

その先生も、もう、いない。

50年ほども前のことなのに、あの男先生が乗ってやって来たスポーツカーの赤と黒。
あのとき見上げた一本松。
シーソーとブランコがあった公園。
みんなもう、いまは無い。

だけど、

僕には、つい昨日のことのように、鮮明な写真を見るように、今も思い出せるのである。

グーフィーパパ

カメラクリスマスクリスマス

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