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日本古代史ミステリーコミュの「邪馬台国」は沖縄にあった!!

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魏志倭人伝を忠実に読んでいくと、九州にも畿内にもたどり着かない「邪馬台国」。
ここに邪馬台国のミステリーがある。そのミステリーは日本の成り立ちの根幹を揺さぶる。
魏志倭人伝には方角を書いていない部分が数カ所ある。そこからあらゆる可能性が出て来てしまう。

魏志倭人伝の著者はかなりの「植物学」「動物学」の知識を持ち、
驚異的な観察眼をもって「邪馬台国の風物」を的確に表記している。

これだけの観察眼を持った著者が、
公的な書物に残す記述をするのに良く言われているような幼稚な誤りをする事は
考えられない。

したがって持論に都合の良いように魏志倭人伝の内容を一部間違いとみなすような
やり方は控えるべきと思う。

邪馬台国の位置を解き明かす大きなヒントは「一海千里を渡る」
「水行20日」「陸行1月」といった表現にあるような気がする。
「一海を渡る」という表現はどのような条件の時に使うのか「水行」とはどのような時に使うのか?

その表現方法が魏志の時代に、どのような地理的条件の時に使われていたのか?

「邪馬台国」が何処にあったのか?

このトピックで私は純粋に「魏志倭人伝」のみから解き明かしてみようと思い、
考察をしてみたところ邪馬台国は沖縄にあった事になった。

そして近年、私の推論があながち荒唐無稽な邪論では無い事が
海洋考古学的に科学的に立証される可能性が出て来たのである。

以下は木村政昭氏が海洋考古学の手法を使って実証した論文です。

http://www6.ocn.ne.jp/~minder/page050.html

今後もさならる研究が必要ではあるが、
邪馬台国が沖縄にあった可能性がかなりの信憑性をもって来たのは事実です。


興味のある方は是非読んでみてほしい。

コメント(11)

魏志倭人伝にそって考えて行きましょう。

1、倭に至るには、、海岸に沿って水行、韓国の海岸を、南し、東し、
  七千余里にして(倭国の北の)狗邪韓国(加羅?)に至る。

  ここまでで朝鮮半島南端にたどり着いたと考えるのが妥当と考えます。

2、始めて一海千余里を渡り對海国に至る。その大官を卑狗と言い、
  副を卑奴母離と言う。居る所絶島、方可四百余里。
  土地、山険しく林深く道路は禽や鹿の道の如し。千余戸有り。
  良田無く食は海物で自活。船に乗り南北に市糴(穀物を買う事か?)。

  ここで1海千余里を渡っています。
  魏志倭人伝の書き方を良く読むと1海千余里渡るという表現と、
  水行何日という表現があります。
  私は1海を渡るという表現は目的地が水平線の先にあり
  見えない海を渡る事を表現しており、
  水行何日という表現は陸地沿いに船を使って進むか
  見える範囲に島がある状況で島伝いに進む事を表現しているのだと思います。
  実際私がセーリングクルーザーで旅をする時の気持ちと表現が一致しています。
  方向が書いてないので不確実ですが他に島は無いので
  ここで対馬に到着した事を表現していると思われます。

3、また南に瀚海(対馬海峡?)一海千余里を渡ると一大国(一支国?=壱岐国か?)
  に至る。官を卑狗と言い、副を卑奴母離と言う。方可三百里。竹木叢林多し。
  三千に許る家有り。差(少し?)田地有り。田耕(すも)猶(なお)食不足。
  南北に市糴。

  ここでまた1海千余里を渡っています。これは壱岐島と考えて良いと思います。

4、又一海千余里渡ると末盧国(松浦?)に至る。四千余戸有り。
  山、海に迫りしに居。草木盛茂り行くに前人見えず。
  魚、鰒(あわび)を捕えるを好み、水の深浅にかかわらず、
  皆沈没してこれを取る。

  ここが非常に問題です。壱岐島から松浦は水平線の先ではなく見えるのです。
  1海千余里という表現と矛盾します。自分のクルーザーでこの辺を航海した
  感覚では松浦辺りに「山、海に迫りしに居」という場所はありません。
  九州北端でこの表現にぴったりな上陸地点は門司と北九州の間です。ここは
  海から山がそそり立っていて魏志倭人伝の表現にぴったりな地形となっています。
  壱岐島から門司は玄界灘で1海千里を渡るの表現にも符合します。

5、東南陸行五百里、伊都国に至る。官を爾支と言い、副を泄謨觚柄渠觚と言う。
  千余戸有り。世々王有り。皆女王国に属統。(帯方の)郡使往来のとき常に駐す所。

  門司から東南に5百里(約160キロ)行くと大分県佐伯のあたりになります。
  (古代中国では一里=360歩=1800尺=324メートル)
  しかしこの距離は直線で計ったものであり、
  地形から考えれば別府あたりと考えるのが無難でしょう。

6、東南百里、奴国に至る。官を兇馬觚と言い、副を卑奴母離と言う。
  二万余戸有。東行百里、不弥国に至る。官を多模と言い、
  副を卑奴母離と言う。千余家有。

  別府から東南に32キロというと大分県佐伯あたりとなります。

7、南水行二十日、投馬国に至る。官を弥弥と言い、副を弥弥那利と言う。
  五万余戸可。

  ここから水行が始まります。南に水行20日です。私のおんぼろクルーザーは
  平均時速5ノット(時速9キロ)です。写真でお見せしたマウイのカヌーなら
  その倍は速度がでるでしょう。しかしあのカヌーは2〜3人乗るのが精一杯。
  とても魏の使者を乗せるような船ではありません。
  手漕ぎの船でも最低2ノット(時速3〜4キロ)は出ます。一応太平洋ですから
  陸伝いとはいっても、そう小さな船では危険です。
  間をとって時速3.5ノット(約時速6キロ)としましょう。
  クルージングでの体力を考えると1日5時間〜7時間が限度です。
  1日6時間乗っていたとして1日に進める距離は約30キロ。
  20日の水行で600キロ南に進む事が出来ます。
  600キロあると沖縄を通り越してしまい、それだけで台湾まで行って
  しまいます。
  普通の役人が体力的に20日間毎日船に乗るのは絶対に無理です。
  1日おきに乗ったとしても300キロ。
  そうするとちょうど沖縄本島に到着します。

8、南水行十日

  沖縄本島から南水行10日、上記の推測からして約150キロです。しかし
  これでは台湾にたどり着きません。すこし頑張ってもらって1日おきの
  航海の中で3日ほど連続で航海してもらえれば台湾にたどり着きます。
  問題は沖縄本島から宮古島は水行とは言えない事。ここはどうしても
  1海千余里を渡るという表現がなければなりませんね。

9、陸行一月、邪馬壹(臺?)国に至る。女王の都する所。
  官に伊支馬有り。次を弥馬升と言い、次を弥馬獲支と言い、次を奴佳と言う。
  七万戸可。女王国より以北、その戸数道里略載するを得るを可。
  その余旁の国々、遠く詳しく得るを不可。

  台湾北部に上陸してから1ヶ月の陸行。当然台南市にたどり着きます。
  というわけで、邪馬台国は台湾の台南市に本拠を置き、近畿地方までを
  勢力圏においていたという推論が、あながち途方も無い空論というわけでも
  ないのです。
  台湾の台南市であれば魏志倭人伝に表現される邪馬台国の気候とも矛盾が
  ありません。どうでしょうか?
今、仕事の出先で気がついたのですが、
6,の東行百里が抜けていますね。
5,6,の部分を総合してもう一度考えてみます。
4、又一海千余里渡ると末盧国(松浦?)に至る。四千余戸有り。
  exclamation ×2山、海に迫りしに居exclamation ×2。草木盛茂り行くに前人見えず。
  魚、鰒(あわび)を捕えるを好み、水の深浅にかかわらず、
  皆沈没してこれを取る。

  「山、海に迫りしに居」という場所、玄界灘に面した海岸線で
  この表現にぴったりな上陸地点は門司と北九州の間のみです。

  写真で見て下さい。
  この写真は長崎の平戸から門司までの海岸線を
  私がセーリングクルーザーをつかってくまなく探しまわったあげく
  やっと「山、海に迫りしに居」という場所たどり着いた景色です。
  海から山がそそり立っていて魏志倭人伝の表現にぴったりです。
  こんな場所は平戸から門司の間でここ一カ所しかありませんでした。
重大な見落としがありました。
北谷沖の海底遺跡の年代測定は2500年前〜1500年前。
ほぼ2000年前と考えられます。
このとき遺跡は海底に作られたわけではない。
フェニキア人の遺跡ならば海辺に作られた港に違いない。
とするとこの北谷沖海底遺跡の海抜を水際として、
全体の地形を上昇させる必要がある。

魏の使いが邪馬台国を訪れたのは西暦240年頃。
北谷と与那国の遺跡はまだ海底には沈んでいなかった可能性がある。
とすると、陸行一月とは今は海底に沈む邪馬台国を陸行したのでは?
台湾と考えるのではなく、
与那国こそが邪馬台国の首都だったのではと考えられるのである。

沖縄諸島が今のままの地形だった場合、
沖縄本島から八重山諸島の間は、
「1海千里を渡る」と表現しなければならないのに、
水行10日の中に含まれてしまっている。
今の地形から判断すると邪馬台国が台湾にあったことになり相当な無理がある。

プトレマイオス王朝の最後をみとった、
クレオパトラのアレクサンドリアが2000年前に地震で海底に沈んだように、
極東のフェニキア人の拠点であった、
北谷と与那国島のピラミッドコンプレックスが
その300年後に海底に沈んだとしたら?

そう考えると、
魏の使者が訪れた頃、
沖縄本島を中心とする列島と宮古島を中心とする列島があったと
仮定する事ができる

そのように仮説を考えるとすべてが解決する。
すべてが魏志倭人伝の語る通りになるのである。
今後、私は北谷沖の海底遺跡と与那国沖の海底遺跡を水際とする
沖縄の地形を描いてみたいと思う。

今まで考えて来たように、魏志倭人伝に書かれた道順を素直に読むと、邪馬台国は沖縄にあった事になります。それだけではありません、気候に関する記述もきわめて沖縄に近いのです。下記は魏志倭人伝の邪馬台国の気候風俗に関する記述の一部です。

倭の地温暖、冬夏生菜を食す。みな徒跣(はだし)。屋あり、父母兄弟寝所別。身に朱丹塗、中国人粉用の如し。飲食に(竹木製)たかつきを用い手食。 その死、棺有り、槨(そとばこ)無し。土を封(も)って冢(つか)を作る。死、停喪十余日、当時(その間)不食肉。喪主哭泣、他人歌舞飲酒。葬、挙家(家中)水中にいたり、澡浴(みそぎ)。(中国の)練沐(ねりぎぬを着ての水ごり)の如し。
紀元前後から飛鳥時代にかけての
私の想像する全体像がぼんやりと頭に浮かんでいる。
その想像はあまりにも突飛でここに書く事もはばかられるが、
恥をしのんで一応書き留めてみたい。

1。フェニキア人らしき人々が残した高度な文明の末裔としての与那国文明。
  扶桑国との関係も無視できない。
2。卑弥呼よりずっと前の邪馬台国はその与那国から九州四国中国を
  支配していたと思われる。
3。魏志倭人伝の書かれた西暦240年頃、魏の国は蜀に対抗する為
  邪馬台国に使者を送った。その報告書が「魏志倭人伝」と考えられる。
4。その後邪馬台国は歴史から姿を消すが、それは地震による沖縄地方の沈下に
  原因があるように思える。
5。国土を失った海洋民族としてのその民族は沖縄を離れ鹿児島に入り、
  ここに拠点を置いた。
6。その後鹿児島から宮崎に拠点を移す。
  この頃天尊族としての神話が生まれたと考えられる。
7。その後松山から陸路を東に進み吉野川を下って徳島に抜け、
  徳島を拠点として飛鳥文化に続く文化の基が出来たと考えられる。
8。その後何らかの事情により民族の大移動が始まる。
  彼らは追われるように紀伊水道を渡り和歌山の吉野川伝いの移動を続け
  奈良盆地に出る。
9。吉野川の上流から奈良盆地に出たところに拠点を定めるが、
  出身地の徳島を懐かしみ、あちこちに昔の地名をつける。
10。そしてここから飛鳥文化が花開く。

沖縄に居た頃は海洋民族で、魏志倭人伝にあるように馬も牛も持たない
民族であったが、上記のどこかで騎馬民族との遭遇があり、
古墳時代を形成した民族になっていったものと考えられる。
しかし、その遭遇は騎馬民族による蹂躙ではなく、
邪馬台国が援軍を求めその援軍として朝鮮半島からやって来た
「辰王国」の人々がそのまま居座ったものと考えられる。
その頃から、法王としての天皇家と大王としての騎馬民族の王という
日本を統治する二重権力システムが出来上がり、
その記憶が後の天皇家と将軍という権力構造を生んで行ったのではないだろうか?
なんと、私の推測があながち突飛も無い発想ではない事が分かりました。
少なくとも魏志倭人伝を私と同じように読んでいる方がいたのです。
ただ、私のようにヨットで上陸地点の地形を探した訳ではないので、
松浦から有明海を通り北谷に至る経路になっています。

以下は木村政昭氏の論文です。

http://www6.ocn.ne.jp/~minder/page050.html

私の考えでは、
この経路では後の鹿児島、宮崎から徳島、奈良に至る
神武東征もしくは崇神東征との整合性がつかなくなります。
沖縄にあった邪馬台国が朝鮮半島および魏との交易の経路として
鹿児島、宮崎、門司を通っており、
過去から海上交通の拠点として使用していたからこそ
その後の沖縄での国家水没後の民族大移動が過去の交易拠点への
移動という形で自然に行われたと考えられるからです。
どこからか完全に間違っていますね。
最初に書き始めた時はちゃんと呉って書いているのに、
呉と書いたつもりが、全部、蜀って書いてますね〜
すみません。
蜀と書いてあるのはすべて呉の誤りです。
上記の間違いを訂正して書き直します。3.の蜀を呉と訂正します。

1。フェニキア人らしき人々が残した高度な文明の末裔としての与那国文明。
  扶桑国との関係も無視できない。
2。卑弥呼よりずっと前の邪馬台国は沖縄から九州四国を支配していたと思われる。
3。魏志倭人伝の書かれた西暦240年頃、魏の国は呉に対抗する為
  邪馬台国に使者を送った。その報告書が「魏志倭人伝」と考えられる。
4。その後邪馬台国は歴史から姿を消すが、それは地震による沖縄地方の沈下に
  原因があるように思える。
5。国土を失った海洋民族としてのその民族は沖縄を離れ鹿児島に入り、
  ここに拠点を置いた。
6。その後鹿児島から宮崎に拠点を移す。
  この頃天尊族としての神話が生まれたと考えられる。
7。その後松山から陸路を東に進み吉野川を下って徳島に抜け、
  徳島を拠点とする大きな勢力に発展する。
8。その後何らかの事情により民族の大移動が始まる。
  彼らは追われるように紀伊水道を渡り和歌山の吉野川伝いの移動を続け
  奈良盆地に出る。
9。吉野川の上流から奈良盆地に出たところに拠点を定めるが、
  出身地の徳島を懐かしみ、あちこちに昔の徳島地方の地名をつける。
10。そしてここから飛鳥文化が花開く。

木村氏の論文の中では水行20日の後に到着した「投馬国」の位置を
鹿児島県錦江湾の奥にしています。
20日もあれば船の速度からの計算では沖縄本島まで行ってしまいますが、
気象状況による天候待ちなどを考えるとこの辺りが適当でしょう。

錦江湾の奥、国分のあたりには日本最古の縄文遺跡があり、
この頃には魏志倭人伝にあるような5万戸の大きな国になっていても、
おかしくありません。

ただ不弥国から南水行20日で鹿児島だとすると、
その後の水行10日ではバランスから行って奄美大島位になってしまします。
ところが、その事が私に大きなヒントを与えてくれました。
水行10日のあとの「陸行一月」の問題が一気に解決する可能性があるのです。

木村氏の論文にあるように
2000年前から600年前のどこかで南西諸島が大きく沈下した事が
多くの発掘から科学的に立証されつつあるという事です。

鹿児島から与那国にかけての地図を見て下さい。

大きく分けて奄美大島から沖縄本島にかけての群島と
宮古島から与那国島にかけての群島に分けられます。

2000年前、魏の使者が邪馬台国を訪れた頃、
南西諸島は奄美大島から沖縄本島にかけての陸続きの大きな島と
宮古島から与那国島にかけての大きな島の2島に分かれていたのではないか?

そして「邪馬台国」の首都が沖縄本島の「北谷海底遺跡」にあったと考えれば
今までの疑問、問題点がすべて解決します。

南水行20日で鹿児島の国分あたりにあったと推測できる「投馬国」
に着いた魏の使者の一行は、
その後の南水行10日で現在の奄美大島の北端に到着したと考えられる。
この頃の南西諸島は今より海抜が高く海岸線が大きく海側に広がっていた為に
島々の間隔は狭く水行という表現に矛盾は感じられない。

奄美大島から沖縄本島は陸続きの大きなしまだったと考えると、
「陸行一月」という表現がそのまま現実味を帯びてくる。

陸行一月の旅の後に到着した邪馬台国女王卑弥呼の首都は、
現在海底深く沈んでいる「北谷海底遺跡」を港湾として持つ
大きな都市であったろう。
邪馬台国は沖縄本島北谷にあったとの推論ががぜん真実みを帯びてくるのです。

そう考えれば、
文字があったとされる「扶桑国」は、
宮古島から与那国にかけての一続きの大きな島と考える事も出来ます。

今後の海洋考古学と地震学の研究によって、
南西諸島の知られざる大地震による沈降の証明に期待したい。
しろうとの投稿ですみません。
与那国の立神岩や海底遺跡は知っていたのですが、最近久米島に行ったら、久米島にも立神岩がありました。邪馬台国と立神岩って何か関係ないのですか?

http://21seikinokadai.blog15.fc2.com/blog-entry-6.html 蓬莱 常世 浦島太郎 謎だらけです 

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