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日本古代史ミステリーコミュの銅鐸絵文字の謎(法王と大王)

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銅鐸の謎は、果てしがない。いつ、誰が、何のために
この青銅器を作ったのか、確かなことはほとんど分かっていない。

上記は「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)の著者
「大羽弘道」氏の冒頭の言葉である。
この本は昭和49年5月10日初版発行。同年6月15日には30版が発行された。
私はこの30版を手にしているのでその後どのくらい売れているのかは知らないが、
日本の古代史に興味のある方には是非とも買って読んで頂きたい一冊だ。

大羽氏は30年にわたってオリエント古代史を研究し、
特に古代文字の解読に取り組み、
古代メソポタミア文明の楔形文字、エジプトのピクトグリフ
の解読を続けた。

その大羽氏が言う
「そうした私の目には、日本の銅鐸上の絵画が、単なる絵以上のものに
映ったのである。銅鐸の絵画は、オリエント古代の絵文字とあまりにも良く似ている。
以後、日本の古代史をも研究の対象とした私は、銅鐸上の絵画こそ、
様々な謎を解く最大の鍵である事を知った。
解読にあたって私は、古代オリエントなどの文字の法則を当てはめた。
すると、銅鐸絵画は、絵文字として完全に読むことが出来たのである。
銅鐸の絵文字が告げるメッセージは、驚くべきものであった。
銅鐸の多くの謎を解くばかりか、日本古代史そのものの謎にまで、
絵文字は思いもよらぬ答えを与えてくれた。
それは、あの邪馬台国とそれ以前の日本国家形成の秘密から、七世紀の
大化改新までを一直線に結ぶ、隠された日本古代史の真実の姿であった。」

タマリンド 注)
なお、タイトルの(法王と大王)は、法王「のりのきみ」、大王「おおきみ」と読みます。
そして高御座(たかみくら)とアマツヒツギ(アメ・タラシヒコ)。
これが日本の古代史の謎を解く鍵になると思っています。

コメント(43)

黒猫伯爵 さん

そうですね電球
やっぱり大羽氏のようにシュメール文字の変遷やエジプト文字の変遷を
研究して来た人がみると「ただの絵画」か「絵文字」なのか
察しがつくのでしょうねわーい(嬉しい顔)

これほどの大発見が1972年に発表されたにもかかわらず
日本の歴史学会はその業績を無視し歴史から葬りました。
たぶん銅鐸の絵文字が語る真実が、
現代においてもあまりに影響が大きすぎたからでしょう。涙

私は、葬り去られたこの真実を再び世に送り直したいと思います。手(チョキ)
そして今後このトピックで
大羽氏が解いた銅鐸の絵文字に、
いったい何が書かれていたのか紹介していこうと思っています。わーい(嬉しい顔)

私の書き込みが遅くてまどろっこしく思う方は、
ぜひ大羽弘道氏の著作「銅鐸の謎」(光文社 KAPPA BOOKS)を買って
読んで下さい。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その3

       「絵文字解読の手がかり」

---中略---こうして、私は漢字輸入以前の日本にも、固有の文字があったに
違いないという確信を得た。---中略---
 あの有名な、ロゼッタ・ストーンの象形文字を解読したシャンポリオンも、
周囲からは無視され、非難されながら、苦しい研究を続けた。クレタ線文字B
を解読したイギリスのヴェントリスも、その作業に半生を費やした。
私自身の仕事を、彼らの偉業になぞらえるつもりはない。しかし、これからの
道のりを彼らの例から考えれば、ほとんど気の遠くなる思いであった。
---中略---シャンポリオンもヴェントリスもアマチュアである。私も在野の
一アマチュアにすぎない。通説にとらわれないという点では有利だが、
なによりも研究手段や情報の面でおくれをとりがちである。---中略---
 ただ私には、オリエントの歴史をきっかけに学んだ、世界の古代文字に関する
多少の知識があった。これが私の探求のスタートにおける、ひとつの手がかりと
なったのである。
 私は、文字が、ほとんど例外なしに、ある定まった発展法則を持つ事を知っていた。
この発展法則をさかのぼれば、日本の古代文字の姿も想定できるはずである。
その発展法則を簡略に示せば、次のようになる。

絵文字(ピトグラフ)→ 線文字 → 常用文字(アルファベット)

           ---中略---

メソポタミアの神殿跡で発見された、紀元前3500年ごろのものとみられる
粘土板には、絵を文字として使用したものが刻まれている。
それは、羊、手、穀物、牛乳桶、耕作具、牛舎、歩く人など当時の生活の身近に
あったと思われるものの絵である。---中略---紀元前2250年ごろの煉瓦には
より抽象化された絵文字が見られる。絵文字はそれを見続けてきた神官達が整理し、
音や形を一定させたと言われる。例えば、以前は31もあった羊をあらわす文字が、
紀元前2000年頃には2つに統合された。
これらの絵文字は、さらに発展して、紀元前1000年ごろには線文字となる。
粘土板に効率よく記すために葦の先で刻む必要が生じたからである。
これが、あの有名な楔形文字となったのである。
楔形文字はその後さまざまな過程を経て、常用文字にまとまる。
こうして古代メソポタミアの絵文字は、線文字から楔形文字へ、さらに常用文字へと発展した。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その4

       「日本固有文字は絵文字である」

ここで注目すべきことは、最古の絵文字がどのように使われたをしたかである。
---中略--- これらの絵文字のどれもが、それを用いた人の名前を表すことを
第1の目的としている。---中略--- つまり、文字は、私有権が確立したときに、
その所有を示すために使われ始めたということである。文字が名前と結びついている。
---中略--- 解読に際して大きなポイントとなる。
私はあるはずの日本の古代文字が、絵文字の段階に相当するものと、まず考えた。
今まで、古代文字の発見をもたらす報告が何度かあったが、
それらはすべて学問的に否定された。神大文字と称するこれらの文字のどれもが、
常用文字に近いものであったからである。常用文字に近い文字ならば、
古来から、それが文字として発見されなかったはずはない。
文字の発展法則についての知識に欠けていたために誤りを引き起こしたのである。
---中略--- 私の作業はいよいよ実地検証の段階に入った。最初に、古代の遺物の中で、
絵文字らしい模様のあるものを探すことから始めた---中略---
それは、銅鐸である。銅鐸の表面には、絵が描かれているものがある。---中略---
なかでも銅鐸は中国朝鮮からの輸入品ではなく、
最初から日本列島で作られた青銅器である。---中略--- 見事な「大橋銅鐸」の
写真に行き当たったとき、やっと手がかりらしいものをつかんだ。---中略---
エジプト文字(ヒエログリフ)の解読の時、学者達が非常に助かったのは、
カドウシュとよばれる楕円によって、それぞれの語が囲まれていたことであった。
このことからまず私は、銅鐸の絵の1区画は、1語なのではないかと考えた。
---中略--- トンボ、鹿を射る人、高床倉庫、イモリ、工具のような物を振っている工人、
最後の臼をつく人々。---中略--- 私はひとまずこれらの絵を古語で表記してみた。
とんぼ=アキツ、イルヒトと鹿、倉庫=クラ、イモリ、工人=テヒト、臼=ツクヒト。
---中略--- しかしこれでは、少しも解読の手がかりにならない。---中略---
ロゼッタストーンを解いたシャンポリオンは、まずはじめに、王をあらわす語を見つけようとした。
---中略--- 私はこの事を思い出して希望を抱いた。---中略---
大王を表す言葉が、銅鐸の絵の中に含まれているかもしれないのだ。すると、
私には思い当たることが浮かんできた。 ---中略---
「大橋銅鐸」にかかわらず、他の多くの銅鐸で ---中略--- 、あの穀倉とみられる
高床倉庫の絵を含んでいるものが多くあった。---中略--- 銅鐸に限らず銅鏡にも
---中略--- もしそれらの出土品が、鋳造時の大王名をふくんでいるとしたならば、
数多く出現する高床倉庫は、大王と関連するのではないか。そういえば、高床倉庫の下が、
集会場、祭りの場、収納の場などに使用されていたとも言われている。---中略---
高床倉庫はなんと読むのか、目が覚めてから眠りにつくまで、あらゆる時間、
私はこの高床倉庫の問題を考え続けた---中略---ある冬の日の早朝ハッと目が覚めた。
クラではなくタカクラと読むのではないか。ただちにタカクラが、
天皇を表す高御座(タカミクラ)の音につながる事に気がついたーーーーー。
飛び起きた私は、はやる気持ちを押さえて頭の中を整理してみようと思った。
---中略--- この読みが、天皇を示すタカミクラに関係があるとすれば、
銅鐸の絵は明らかに文字の役割を果たしていることになる。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その5


高床倉庫のタカクラは、高御座(タカミクラ)の音に似ている。
しかし似ているだけではなんの意味も無い。タカミクラからミを取ったタカクラの音が、
確かに天皇そのものをあらわすという、直接の証拠がなければならないのである。
何にその証拠を求めたらよいか、ーーー中略ーーーそれは短歌である。
完全に眠気のさめた私は「万葉集」を開いた。ーーー中略ーーーなかなか見つからなかった、
ーーー中略ーーーだが読み進むうちに、私はついに次の歌を見いだした。

「春の日を 春日の山の 高座の 三笠の山にーーー」

山辺の赤人の歌である。私はここに至って、ようやく確かな自信を抱いた。
高床倉庫はタカクラと表音し、天皇、つまり日本の大王を示す。
こうして、絵文字がまずひとつ、解読出来たのである。
 念のため、「日本古語辞典」を開いてみた。そのには、この赤人の高座(タカクラ)
という言葉が、高御座をあらわすと書かれてあった。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その6

ともかく高床倉庫を、タカクラと表音する事実がみつかったからには、
あとの区画の絵文字も、その絵の読み方を表音すればよいことになる。
私は「大橋銅鐸」を、一区画ずつ読むことにした。

1.トンボ=アキツ=秋津=古代大和地方=狭い意味での日本
2.鹿を射る人=射る鹿=イル・カ
3.高床倉庫=タカクラ=高御座=大王(天皇)

「秋津に入鹿、高御座のとき、」
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その7


4.イモリ=鋳守=イモジの古語=鋳物師(イモジ)
5.工具を振る人=フルヒト=古人=人名
6.杵(キネ)をつく人=キ・ヅク(杵の古語はキ)

「鋳物師の古人、造く」
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その8

ーーー中略ーーーその結果は、実に驚くべきものだったのである。
「秋津に入鹿、高御座のとき、鋳物師の古人造く」
つまり「秋津で入鹿が高御座に即位したとき、鋳物師の古人という人が
    この銅鐸を鋳造した」と言うことである。
この解読結果をながめて、まさか、と思った。「入鹿、高御座」つまり
蘇我入鹿が天皇であったと、銅鐸絵文字は告げているのである。
ーーー中略ーーー日本史の通説では、飛鳥時代の7世紀初頭に、蘇我一族が政治の
実権を握っていた事は認められている。しかしそれまでである。実権は実権にすぎず、
日本の大王位にはあくまで天皇が座していたのである。
しかし「入鹿、高御座」と銅鐸は言う。

大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その9

    「銅鐸絵文字の400年の壁」

銅鐸は日本古代史の謎とされている。ーーー中略ーーー次にその鋳造年代である。
これは弥生中期に始まり、弥生時代後期にはぷつりと鋳造が終わったとされている。
つまり1世紀から3世紀の後半までである。ーーー中略ーーー私は、解読した絵文字が
史実と合っていることを証明するために、ほとんど絶望的とも思われる銅鐸の
壁にむかった。年代のずれ、400年は、あまりにも長い。ーーー中略ーーー
調べ始めた私の前には、難攻不落に思えた城壁が、以外にもろいもののようにみえてきた。
ーーー中略ーーー銅鐸が弥生時代のものであるとする、日本歴史上の定説の根拠は、
おおよそ次の4つにまとめられる。
1.銅鐸は弥生時代の遺物である銅剣類といっしょに出土する。
2.銅鐸は弥生式土器と共通の文様で飾られる
3.銅鐸は弥生式遺跡の一部から発見された例がある。
4.銅鐸は弥生式土器の使用者によって、
  その形をまねた土製品のミニチュアに作られた事がある。
この4つの根拠は、京都大学教授小林行雄氏の書かれた「銅鐸年代論」
にまとめられているものである。ーーー中略ーーー
定説の根拠は、一見したところゆるぎないようである。ーーー中略ーーー
しかし、いったん個々の内容の検討にはいるや否や、この根拠があまりにも
一方的であることに気付く。ーーー中略ーーー
まず1.について事実をしらべてみよう。ーーー中略ーーーだが驚いた事に、
銅鐸が銅剣と共に出土したのはこの一例だけである。ーーー中略ーーー
常識から言っても、わずかひとつの例が常説を生むことはあり得ない。この点で、
銅鐸・銅剣同時代説は出足からつまづく。それにこの時発見された銅鐸が、
今我々が論じている銅鐸と言えるかどうかは、はなはだ疑問がある。ーーー中略ーーー
論理的に考えれば明らかなように、これでは銅鐸年代の上限ーーー中略ーーーを決める事は出来ても、
当面の課題である下限、最後の時期を推定することは出来ない。ーーー中略ーーー

2.の文様以下は次回(タマリンド)

銅鐸の鋳造年代は、定説では弥生中期に始まり弥生時代後期に終わった(1世紀から3世紀の後半まで)とされている。蘇我氏の時代とは400年の開きがある。銅鐸の絵文字が蘇我入鹿について述べていると解読出来た以上、蘇我氏の時代にもまだ銅鐸が鋳造されていた事を論証する必要がある。

   「銅鐸鋳造年代の定説の根拠(下記の4つ)に対する反論」

1.銅鐸は弥生時代の遺物である銅剣類といっしょに出土する。
反論:銅鐸が銅剣と共に出土したのは一例だけであり、この時発見された銅鐸が今我々が論じている銅鐸と言えるかどうかははなはだ疑問がある。常識から言っても、わずかひとつの例が常説を生むことはあり得ない。

2.銅鐸は弥生式土器と共通の文様で飾られる
反論:模様の共通性は意味をもたない。文様の共通性は、弥生時代にも同じような文様を持つ銅鐸があった事を否定しはしないが銅鐸がその時代だけにあったという事を論証出来るものではない。

3.銅鐸は弥生式遺跡の一部から発見された例がある。
これも上記と同じで、銅鐸が弥生時代にも作られていた事は証明するが、それ以後作られなかった事の証明とはならない。明治14年、滋賀県野州町小篠原の大岩山で一度に14個の銅鐸が発見され、その後にさらに10個の銅鐸が発見された。総重量は実に300キロに達する。ところがこの付近には弥生式遺跡はまったく見つかっていない。もし弥生人がこれら300キロ近くの銅鐸を作ったとするならば、どこかに大がかりな鋳造所跡があるはずだが、そのようなものは影も形も無い。

4.銅鐸は弥生式土器の使用者によって、
  その形をまねた土製品のミニチュアに作られた事がある。
この事例は銅鐸の年代を弥生時代だけに限定する証拠とはならない。

以上で明らかなように、銅鐸の鋳造年代が弥生時代に限られるという定説はきわめてあいまいな論拠に基づくものである。つまり「銅鐸の作られた年代は、弥生時代を含みはするが、それ以降、いつまで続いたかは謎のままである」という結論に達する。
しかしこれだけでは、銅鐸が蘇我時代に存在し、絵文字解読が正しかった事を証明する事は出来ない。やはり銅鐸を、蘇我の時代と直接に結びつける何かが必要となる。そしてその「何か」は銅鐸の原料の中に宿っていたのである。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その10

銅鐸の原料の話はまた次の機会にするとして、
大橋銅鐸の裏の6枚の絵文字の解読について「銅鐸の謎」から抜粋しよう。


まず最初の3枚は

1.トンボ=アキツ=秋津=大和地方
2.魚をくわえた亀
  魚=マナ or ナ
  亀=カメ or カミ → マナカミ=真神=真神原
  (日本書紀→始めて蘇我馬子が法興寺を作った地名=真神原)
3.イモリとスッポン
  イモリ=イモジ=鋳物師
  スッポンの首が長い→クヒ(首)=一族の長=オヒト(長)

以上により次のように解読出来る

アキツ マナカミ イモジのオヒト



           


次の3枚の絵は

4.クモとカマキリ
  クモが上にずれている   カマキリ
              クモ    →カ・モ
5.魚をくわえた2羽の鳥
  2羽の魚をくわえた鳥=ツヒ・ナ(魚)・トリ
  ツヒナトリ=人名=角足(ツヌタリ)
6.狩人と犬たち
  犬と協力しての狩り→タスク

カモの ツヒナトリ タスク

従って1〜6の絵文字は

秋津の真神原に住む鋳物師集団の長、加茂の角足という人が
この銅鐸の鋳造を助けた。

という意味になる。

大橋銅鐸の表の6枚の絵文字と合わせると

秋津に入鹿高御座のとき、鋳物師の古人造(きず)く
秋津真神原の鋳物師の長、加茂の角足助く

という意味に解読出来るのである。
4.のクモとカマキリの部分、この文章だけでは意味が分からないと思います。
そのあたりの詳しい解釈を知りたい方は
大羽弘道氏著、「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)を読んでみて下さい。

その他の部分でも私の抜粋はかなり大幅にカットしていますので、
やはり上記の本を読まないと分からないと思います。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その11

     「福井大石二号鐸の解読」


福井大石二号鐸の表の4つの絵文字

1.馬の子→ウマコ→蘇我馬子
2.カマキリ→カモ
3.魚をくわえるカメ→マナカミ→真神(まなかみ)
4.高床倉庫→タカクラ→高座→高御座

以上で解読された絵文字配下のようになる。

「馬子、加茂の真神(マナカミ)に高御座のとき」

つまり、この「福井大石二号鐸」は、蘇我入鹿の祖父、馬子が
高御座(大王)の位に就いた事を告げているのである。
くり返すまでもないが、加茂の真神原とは、大和地方の中心部、
飛鳥大仏のおわすところ、蘇我一族の領地と考えられている所である。

福井大石二号鐸の表の4つの絵文字の個別写真(1〜3)

1.馬の子
2.カマキリ
3.魚をくわえたカメ
福井大石二号鐸の表の4つの絵文字の個別写真(4)
4.高床倉庫

および「裏」の4つの絵文字
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その12

       「福井大石二号鐸の解読」


福井大石二号鐸の「裏」の4つの絵文字の解読は
左の上段からはじまった。

1.トンボ=アキツ→秋津=大和地方=狭義の日本
2.カエルと鳥→カワヅのトリ
       →カワチのトリ=河内の止利
  カワチは「カハ(河)チ(道)の事で河川交通の可能な大和川
  という大きな川の流域の総称として用いられた場合と、
  大阪平野の南部に限って使う場合とがある。
  しかしこの場合は加茂との関わりによって6〜7世紀には、
  大和川の南岸の大和西南部をさしたと考えるべき。
3.座す鹿=古語でイムカ→地名「井向」=福井県坂井郡「井向」
     =この銅鐸の出土地
  同地で出土した他の銅鐸に「キズクをタスク」があった。その人間が
  入鹿の支配下にある真神の鋳物師の長であることを考えると、
  井向は大陸からの原料の入手が便利であったのか、あるいはこの近くに
  銅の産出があったかとも考えられる
4.臼をつく人→キズク→造く

したがって福井大石二号鐸の「裏」の4つの絵文字は
次のように読める。

「秋津、河内の止利、井向に造く」

「秋津の河内の止利という人が、今の福井県の井向で、この銅鐸を鋳造した」

表の4つの絵文字と合わせると

表「馬子、加茂の真神(マナカミ)に高御座のとき」
裏「秋津、河内の止利、井向に造く」

となる
4.の「臼をつく人」と表面裏面の全体の写真
タマリンド 注)

この福井大石二号鐸の「裏」の4つの絵文字の解読において、
今まで右上から下にそして左の行に進んでいた読み方が
裏の4絵文字になって突然左の行から読まれているのを不思議に思う方も
いるかもしれないので、説明します。

エジプトの絵文字ヒエログリフにおいてもこのような文字の配列の不定期さは常識で、
右から左に読む場合も左から右に読む場合もあります。
その上ヒエログリフにおける王の名前などは読む順序が支離滅裂で
かなり絵文字の順番に精通した専門家でなければ読むことが出来ません。
読む順序の不定期さは世界的にも絵文字の特徴とも言えると思います。

古代エジプトのヒエログリフの読み方のヒントとして
例えばUとかWの音に当たる「ウズラのヒナ」のくちばしの指す方向から読む
などという事もあり、大羽氏の解読順序に対し疑問をはさむ必要は無いと
考えます。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その13

       「福井大石一号鐸の解読」

こうまで銅鐸上に蘇我一族の影が落ちているとすれば、私のすべきことは、
ただひとつしかない。蘇我3代の第2代、蝦夷の名を絵文字に探すことである。
ーーー中略---私は、今までの解読経過から類推して、蝦夷の名は、海老で表記される
だろうと考えていた。「大石一号鐸」には、この海老らしいものが描かれている。
---中略---

第1面の第1行左から
1.(欠落)。
2.魚をくわえた亀=マナカミ=真神。
3.海老らしきもの=エミシ=蝦夷
4.水を表す2つの曲線が間にすき間を残している
  =アキ(空)ツ=中津=秋津
5.高床倉庫=タカミクラ=高御座
6.3本の横線=ミカワ=御川
7.イモリ=イモジ=鋳物師

続いて第2行左から
8.(欠落)
9.アキツ=秋津
10.上半身を強調したカモシカ=カモ=加茂
11.猪?=イ
12.魚=ナ=那

続いて第3行左から
12.船と鳥がつがったように接触し、船上に人が乗っている
  =フナトリ=舟足(フナタリ)
13.石の間の川=イシカワ=石川
14.船と共に立つ人=フナツヒト=舟史(フナツヒト)
15.(欠落)

以上を整理すると
「真神(マナカミ)の蝦夷(エミシ)、秋津に高御座のとき、
 御川の鋳物師(欠落、おそらく名前)、(欠落、おそらく造く)
 秋津の加茂の猪、那(ナ)の舟足(フナタリ)、石川の舟史(フナツヒト)
 (欠落、おそらく名前、及び助(タス)く」となる---中略---
注目すべきは、アキツを水の流れのすき間すなわち中州で表した点である。
古代に大和と呼ばれた土地は、大和川と初瀬川の2つの川にはさまれた中州で
あることから、こちらのほうが、よりアキツの原義に近いことになる。
年代的には、この「大石1号鐸」は入鹿の銅鐸より古いわけだから、絵文字の
用法もより具象的である。これが時代とともに、抽象化され象徴化されて、
トンボ=アキツの表記となったのであろう。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その14

---中略---解読結果を仮に認めるとすれば、絵文字が7世紀の蘇我氏の手によって
刻まれていたことは、少なくとも7世紀前半までは、絵文字の使用が行われていた事を示す。
7世紀前半は、漢字の輸入からすでに100年を経ているが、やはり漢字が、
学問のある宮廷直結の一部の人間にしか用いられていなかった事の表れだと考えておこう。 ---中略---
絵文字は、蘇我の3代、馬子、蝦夷、入鹿が高御座であった事を、銅鐸上に告げていた。
この古代からのメッセージの恐るべき意味を考えると、私は足のすくむ思いがする。
---中略---こうなれば、残された私の仕事は1つしかない。蘇我三代=高御座、
つまり「蘇我王朝」の実在を、なんとかして証明する事である。
私はいよいよ腰を据えて、この問題に取り組む事にした。

大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その15

          「銅鐸の原料の謎」

銅鐸の材質ははっきりしている、銅と、いくらかの錫などの合金、つまり青銅である。
だが銅やその他の金属が、いったいどこからきたものなのか、よくわかっていなし。
銅鐸の原料に関する仮説や定説はすべて銅鐸=弥生時代説と結びついている。
 定説では中国大陸で価値を失った銭、あるいは銅剣や銅鉾などである。
これを輸入して銅鐸の製造にあてただとされている。
 なぜわざわざ青銅器を中国から輸入し、鋳潰するような面倒なことをしたとされるのか?
我が国のそれは弥生時代には、青銅器を原料から採掘し、
精製するじゅうぶんな技術を持たなかったからである。---中略ーーー
銅鐸の原料を輸入銅器とみる定説は、銅鐸=弥生時代説が打ち破られれば、
ほとんど意味をなさない。---中略ーーー
この既成銅器の輸入と鋳潰しが確かなものならば、物的な証拠があるはずだ。
たとえば、鋳潰す為に集めたはずの銅剣、銅銭、およびそのための集積場跡などである。
けれども、銅銭はわずか一枚ずつが数カ所から発見されているだけで、
集積場跡はひとつも見つかっていない。---中略ーーー
銅鐸鋳造のために必要な青銅の「量」を考えてみよう。。---中略ーーー
小篠原から出た24個の銅鐸は、細形銅剣240本分にあたる。
弥生時代の240本は大変な分量だが、さらに全国で出土した銅鐸にあてはめれば、
鋳造するのに必要な銅剣の総合計は実に3000本という多きに達する。
当時、貴重なものであったにちがいない銅剣をこれだけ集めるのは不可能ではないのか?
ここまで述べれば定説と言われているものがかなりの無理を伴っている事がわかるはずだ。
この定説と言われている説は、銅鐸=弥生時代説のつじつまを強引に合わせるため、
既製銅器の輸入説をもって、補強したのだと考えられる。---中略ーーー
これらの点から考えれば、銅鐸の鋳造には、強大な権力の存在がなければならない。
しかもその権力は、かなりの広い支配範囲を持っていることが必要である。

この条件を満たすものとして、蘇我氏が登場してくるのである。
蘇我氏は、百済からやって来て、ついに6〜7世紀の日本の政治を実質的に支配した豪族である。
蘇我氏は、日本に始めて、広大で中央集権的な国家組織を作り上げた。
その下では、分業的な生産体制ができあがっていたと思われる。
こうした段階に至って、銅鐸の原料の問題は、はじめて解決したのではないだろうか。
銅鐸鋳造の高度な技術も、蘇我氏の存在をもって始めて説明できる。
蘇我氏は百済から伴ってきた鋳造技術者、すなわち絵文字にみられた「鋳物師」の一団を、
各地に住まわせていたと思われるからである。---中略ーーー
昭和48年12月、大阪府茨木市で石製の銅鐸鋳型が出土した。---中略ーーー
銅鐸の鋳型が大阪府下で出土したということは、かねてからの梅原末治博士の説、
古墳時代には大阪付近に鋳造所があったのではないかという推論の一端が実証された事になる。
さらに大胆に言えば、年代とこの鋳造地跡から考えて、
蘇我系の技術集団がそこに存在した可能性もあるだろう。
このように、私には蘇我氏が、日本史上初めて、銅鐸の種々の謎を満たす条件を獲得したように思われる。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その16

私はある銅鐸の文様が、6世紀後半、すなわち蘇我時代のものともられる装飾古墳と
一致していることを知っている。しかし、これも必ずしも銅鐸を蘇我氏に結びつける
直接証拠とはならない。
なぜ、このような直接の証拠が発見されないのだろうか。
それは、蘇我氏の、日本史における特異な立場が説明してくれる。
百済から渡来し、日本を我が手に収めた蘇我一族は、馬子、蝦夷、入鹿の三代が続いたあと、
ついに中大兄皇子や中臣鎌足(藤原鎌足)によってほろぼされる。大化の改新である。
その後、蘇我氏を倒した政府によって、8世紀初頭に、日本の正史として編まれた、
「古事記」「日本書紀」では、この異民族系の豪族蘇我氏は、その姿を著しくゆがめられて
書かれることになる。正史からの事実上の抹殺である。
蘇我氏が残した最大の文化的遺産、仏教を除いては、この一族にまつわる事柄のすべてが、
すみやかに、かつ徹底的に消去されたことだろう。このような蘇我一族に対する憎悪は、
旧支配者に対する以上の、ある深い理由をもっている。
それは、私の解読した絵文字が途切れ途切れに語ってくれる、
日本古代史の驚くべき潮流に基づくものである。---中略---
馬子をはじめとする蘇我3代は、自らは漢字を用いたに違いないが、
銅鐸には、絵文字を彫った。何故ならば、絵文字以外、民衆が読めないからである。
銅鐸に美しく鋳出された絵こそ、民衆に自分の名を広める唯一の媒体であった。
この「ウマコ、マナカミにタカミクラ」を告げる黄金の銅鐸は、
蘇我氏の全国各地の領土に送られた事だろう。それはちょうど、
ナチスドイツ下であちこちに貼られたヒトラーのポスターと同じ役目をもっていた。
馬子大王の御名は天下にあまねく知れ渡り、その威光は一点の曇りもなく燦然と輝き満ちたに違いない。
だが、この銅鐸は、馬子の激しい統治を示す、権力の象徴でもあった。---中略---
栄華の裏側には、つねに強いられる人々が存在する。そしてそのような人々にとっては、
あの燦然と置かれた銅鐸は、権力の象徴であるとともに、恐怖、憎悪の的となったことだろう。

さて、大羽弘道氏著、「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋は
この辺で筆を止めようと思う。

この後大羽氏の絵文字解読はますます進み
「滋賀県野州郡中州村出土の銅鐸」により蘇我派と反蘇我派(物部)の対立を地理的に読み解き、

福岡県浮羽郡吉井町「珍敷塚装飾古墳壁画」の絵文字を
「肥の国の船人公(フナツヒトノキミ)、二度(フタタビ)、勅(ミコト)かしこみ、
海を渡りて戦い、一度(ヒトタビ)の戦にて五度(イツタビ)勝ち、
二度(フアタタビ)の戦にて四度(ヨタビ)勝つ、一度(ヒトタビ)はみずから戦をし、
五度(イツタビ)勝つ。河内楯津(カワチタテツ)の大王(オオキミ)の時、
河内(カワチ)の止利(トリ)描く」
と解読して、

筑後川中流一帯の支配者であったと思われる武将が馬子大王の命によって、
海を渡って二度も戦い、そのたびに勝利をおさめた様子を記録した壁画である事を推測している。

法興寺建立後の馬子の業績を「日本書紀」から拾えば

597年:新羅に遣使
600年:新羅に出兵
602年:新羅に出兵を企て翌年中止
606年:飛鳥大仏完成
618年:高麗の使者、唐の来征を告ぐ
620年:天皇記、国記、本記を作る
622年:新羅仏像、舎利献上。新羅に出兵

ここには、他に並ぶもののない権力を手に入れた馬子の様子がうかがえる。

歴史のおもしろさは、馬子がこのような完璧な権力者となった時に、
立ちはだかるように聖徳太子が登場してくるというところにある。

絵文字解読から大羽氏が導き出した日本古代史のあらたな世界、

これ以降は是非、
大羽弘道氏著、「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)を読んでほしい。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その17

抜粋は上記で止めようと思ったのですが、
やはりこれを書かないで大羽氏の業績を知ってもらう事は出来ないと思い、
最後の山場を抜粋しようと思う。

     「初代征服王崇神」(家屋文鏡 かおくおくもんきょう)

太平洋戦争後間もない頃のことである。奈良県の古墳から3世紀末頃のものと
みられる一枚の銅鏡が発見された。現在は宮内庁所蔵になっている「家屋文鏡」
がそれである。
この直径わずか10?ほどの小さな銅鏡に、日本古代史のすべてが隠されている
と言っても過言ではない。7世紀の大化の改新の謎も、この3世紀の銅鏡が語ってくれる。
その意味で、この「家屋文鏡」の発見は、日本史研究の上で、画期的な事である。
---中略---それは古鏡としては、実に異様な文様を見せていた。
4本の木によって区画された中に、高床倉庫、大きな竪穴住居、大きな切妻造りの平屋、
楼門を思わせる入母屋造りの中国風建物が描かれている。それぞれの上部に、
2匹の魚、蟹と猪、鳥、四角に描かれた二重の流水文ふたつと衣笠が描かれてある。さらに高床倉庫のかたわらに「囲いの中の人」が描かれている。
私はこれを絵文字として次のように解読した。

鳥を持つ大きな家=オオイエ・カラス
蟹と猪を持つ大きな竪穴住居=クラ・カニ・イ
2つの流水文=ミヅカキ
衣笠を持つ中国風建物=ミヤ
二匹の魚=ニマナ
囲いの中の人=イリヒコ
高床倉庫=タカクラ=タカミクラ
四本の木=シキ

これをつないでみると、こうなる
「ニマナ。イリヒコ、シキ、ミヅカキ・ミヤ、タカミクラ、オオイエ・カラス、クラ・カニ・イ」
さらにこれを文章化すれば、
「任那(ニマナ)の入彦(イリヒコ)、師木(シキ)の水垣宮(ミヅカキミヤ)に
高御座(タカミクラ)し、大伊之枝鳥(オオイノエカラス)、倉垣根(クラカキネ)
猪(イ)仕(ツカ)う」
任那入彦とは、崇神天皇の事である。

大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その18

今まで崇神天皇は、3世紀に存在したとされる、神話上の人物にすぎないと考えられてきた。
---中略---だが、3世紀末の「家屋文鏡」は崇神実在の物的証拠であると私は思う。---中略---
まず「ニマナ・イリヒコ」がなぜ崇神なのかを考えてみよう。
「日本書紀」によれば、崇神の名は「ミマキ・イリヒコ」とされている。
このミマキが、じつは朝鮮語の任那(ミマナ)と関連する事を「日本書紀」は述べている。
しかし、この任那も、古朝鮮語では「ニマナ」であった。---中略---
しかし当時は、(任那には)朝鮮古代の辰(シン)王家の流れをくむ王朝があり、
それは事実上西晋(せいしん=中国)の支配下にあった。任那をニマナと呼んだのは、
主浦(ニムナ)、つまり宗主の王宮の存在する土地を表す古語「ニムナ」からきたものだと考えられる。
という事は任那にいた、すなわち任那の王であった崇神が、辰王朝の宗主であったかもしれない事を示す。
崇神が「家屋文鏡」と「日本書紀」の語るように、「ニマナ・イリヒコ」だとすれば、
彼は、任那より渡来(イリ)した王(ヒコ)であることになる。
この事実こそ、それ以降の日本史を大きく支配した運命の力の発端である。
この力を一言で表せば「征服王朝」である。この問題が四百年後の「大化改新」の意味を解く。
「征服王朝」とは、読んで字のごとく、
海の向こうからやって来て、日本列島を支配した騎馬民族の事である。
今までは「日本書紀」に見える5世紀初頭の応神天皇が、初代の征服王朝だったのではないかと
言われてきた。しかし「家屋文鏡」は、それが3世紀末の崇神にまでさかのぼる事を物語る。
「征服王朝」の到来は大王(オオキミ)とアマツヒツギの分裂をもたらした。
ここに日本列島の複雑怪奇な史劇がはじまるわけだが。---中略---
かの有名な邪馬台国が北九州に栄えたのは、2世紀から3世紀である。しかし、
女王卑弥呼が死ぬやいなやその全土は乱れた。その後台与(トヨ)を女王に立てて、
ようやく混乱は収まる。
この邪馬台国の平安も長くは続かない。南方の狗奴国(くなのくに)が北上して、
台与の国をうかがうのである。やがて開かれた戦火は邪馬台のきわめて不利に展開する。
台与はやむなく、当時朝貢していた中国の魏に救援を要請する。
こうして日本に呼ばれたのが、魏の命を受けた任那王、崇神であった。
なお「日本書紀」では、崇神を「イニエ」と呼んでいる。鋳鉄技術を持つ者の意である。
任那入彦、崇神は、あの騎馬民族が誇る最強の装甲重騎兵集団とともに、
馬鐸の音を響かせながら、狗奴国(くなのくに)を一気に蹴散らす。
そして、その勢いをかって本州に上陸、畿内に開いたのが「大和朝廷」である。
この進撃の事を「日本書紀」は「神武東征」という。。---中略---
このとき崇神を助けたのが、大和に住んでいた首長オオイエ・カラス「大伊枝命」(「日本書紀」)であった。
「神武神話」で、大和の八咫烏(ヤタガラス)が神武を助けたとあるのは、
この事実の反映ではあるまいか。ヤタガラスとは大鳥(オオガラス)の事である。
「クラ・カニ・イ」とは倉垣根猪(クラカキネイ)の事である。
この人物は、崇神が取り立てた税を保管する責任者、倉氏の祖先と書かれている。
崇神は、大和の地で即位(タカミクラ)する。その場所が「シキ、ミヅカキ・ミヤ」、
「日本書紀」にみえる「磯城(シキ)、端籬宮(ミヅカキミヤ)」である。。---中略---
280年頃、ここに日本最初の「征服王朝」が出現する。以降この王朝は、一時期をのぞいて、
蘇我氏の終息まで四百年間、日本列島を支配する事になる。
崇神はその後、中国の魏の乱れと、それに続く十五年の内乱に乗じて、
日本列島の征服王として大和に居座る。。---中略---
征服王朝が任那王であったから、その総軍達の多くは、任那をとりまく加洛(から)出身が中心であった。
彼らは、それぞれの領地を南朝鮮に所有していたはずである。
これらの不在領地に進入する新羅、百済などとの紛争が、以後の「征服王朝」歴代の大王たちの
最大関心事となるのである。なぜあれほどまでに、以後の日本の大王が、朝鮮半島に兵を出したかが、これでわかる。


大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その19


しかし、崇神を呼んだ邪馬台国の二代目の女王台与は、どうなったのであろうか。
伝承によれば、台与はその後自殺したと言われる。。---中略---
ここに、大王(おおきみ)とアマツヒツギの分裂の萌芽がみられる。
台与も卑弥呼も本来、太陽神をつかさどる大祭司であった。政治的実権者としては、
男王がいた事も考えられるが、卑弥呼、台与の名を高らしめたのは、
太陽信仰というシャーマニズムが、やはり原始共同体の権威として強かった事をしめす。
おそらくは、事実上の政治的権威も兼ね備えていたはずだ。
そこの崇神が現れる。崇神は、武力を背景とした政治的実権者である。
ここで明確に権力のかたちが、宗教的なものと政治的なもののふたつに分かれる。。---中略---
この政治的実権者が「大王(おおきみ)」であり、大祭司が「アマツヒツギ」である。
オオキミは、大君、大公の意である。カミ(神)の転呼であるキミ(王)に、
美称オオ(大)を加えたものである。
後の天武天皇のとき、皇族である最高統治者としての王に対してのみ、使用される事を定めた。
ということは、天武の意志によれば、天皇=大王であり、これから述べるアマツヒツギ(天皇)
が同時に実力者(おおきみ)をも兼ね備えるという、一種の理想状況をあらわしたものと言えよう。
つまり天武以前がそうではなかった事への、遺憾の念を示したものである。
アマツヒツギは、太陽神の後継者という意味で使用され、天皇家を示している。
---中略---
いずれにしても、「アマツヒツギ」または「アメ・タラシヒコ」が、太陽神礼拝の大祭司であり、
日本列島に固有の宗教的権威であることはおわり頂けたと思う。
邪馬台国の卑弥呼、台与は、そのうちでも特に有名な女祭司であった。
---中略---
この例は、古代日本史のありかたを決定した。すなわち大王が征服民族、
アマツヒツギが日本人という二重構造である。実権力は、征服民族が握るのである。
そして、このパターンは以後四百年間、蘇我氏の滅亡まで、ある一時期をのぞいて継続するのである。
---中略---
こうして征服は円滑に行われるが、所詮は、2つの権威の併存である。
どちらかがどちらかを食おうとしても、不思議ではない。
日本古代史のさまざまな光と影、複雑怪奇な転変は、まさにこのあやうい均衡の上に立った
二重構造が、織りなしたドラマである。ここにこそ日本史源流の秘密のすべてが存在する。
このトピックの最後に、大化改新で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子に大きな影響を与え、
騎馬民族征服王朝の終焉への道筋を作った「聖徳太子=アマツヒツギ」について
大羽氏がどのように書いているかを抜粋したいと思う。

大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その20

          「聖徳太子の登場」

603年、用明天皇の子、聖徳太子は30歳であった。この年の11月、太子は
一見奇妙にも思える行動をとっている。「日本書紀」によれば、
「皇太子、天皇に請したまひて、大楯および靫(ゆぎ)を作り、また旗幟(はた)に絵く」
靫(ゆぎ)とは、---中略---矢を入れる筒、えびらである。よく考えれば分かるように、
これはまさに天応即位の準備である。
靫(ゆぎ)および旗幟(はた)は、即位の際の儀仗用のものだからである。
当時は推古天皇の在命中であったが、聖徳太子はその天皇位、アマツヒツギを継ぐべく、
即位の準備を行ったとみられる。
しかしそれだけでは、この行為はどうも説明がつかない。なぜならば、
この事が行われたのは、
政治の中心飛鳥から一日行程、25キロも離れた斑鳩の宮だったからである。
---中略---しかしともかくも、斑鳩の宮で即位準備を行ったのには意味があったのである。
それはデモンストレーションである。誰に対してのデモンストレーションか。
明らかに蘇我馬子に対してである。
馬子と太子は推古を通して血縁関係にあり、仏教研究の面でも互いに交流を持ったことがある。
また太子は若年の時、物部氏討伐の戦闘に参加している。馬子と疎遠という事はあり得ない。
---中略---
馬子は、大王として最高の力を得た。天皇家アマツヒツギは、自分の操縦によって、
意のままに動く名ばかりの権威であることが必要となった。
その馬子にとって、知略に富み、人望の厚いと言われた聖徳太子が、
アマツヒツギを受ける事などということを許せようはずがない。
こうして太子は、飛鳥から離れた斑鳩の宮で、むなしい示威運動を行うのである。
太子はかって、推古天皇の強い要請で、執政の座についた。
「日本書紀」はこの間に太子が、斑鳩の宮にあって即位の準備、冠位制定、
憲法17条の発布を行ったと記している。
太子という以上に「摂政」という重みを、修史者が加味したのであろうが、それは、
しょせん、後世のつくりごとである。
なぜならば、太子の住む斑鳩は、
前にも述べたように、権力の中枢飛鳥から25キロも離れているからである。
25キロといえば、古代ではかなりの道のりであった。
とても歩いてその日に往復出来る距離ではないし、馬に乗ってもまる一日つぶれてしまう。
太子としては、いざというときに備えての、天然の要害という場所でもあったであろうが、
おそらく毎日政務を見る事はできなかったはずである。
このあたりから「日本書紀」は不審な点が多くなる。2つの大きな相反する資料を、
なんとか調整しながら、1つの正史としてまとめようとしているかに読み取れる。
---中略---
こうしたいささか苦しげな「日本書紀」の記述で、次に目につくのは、606年の項である。
そこには、聖徳太子の私領として、播磨国に水田百町歩を賜ったとある。
私はこれを、聖徳太子の事実上の引退をあらわす記事とみる。
水田は太子の隠居に対して下賜されたのではないだろうか。
この年に、太子は、天皇の位を受け継ぐ権利を停止された。なぜならば、これ以後、
「日本書紀」は、正確にいっさいの公事に、太子の名を載せていないからである。
---中略---
だが太子は、隠居後も独自の活動を続けてやまなかった。斑鳩には太子を中心とした宮廷サロンができ、
仏教やその他の学究を通じて、未来を担う新しい世代が育ちつつあった。
ここから後に、蘇我氏を追い落とす人材が現れたのである。
大和には、こうして3つの宮廷サロンが分立することとなった。
ひとつは、馬子大王の権力中枢である。ひとつは天皇家を名目上受け継ぐ推古のサロンである。
そして最後が、新宗教、仏教の法王(のりのきみ)、聖徳太子の斑鳩の宮である。
やがては、この大和川北岸、斑鳩に芽生えた仏教は、大和川南岸の蘇我仏教と決定的に対立し、
朝鮮半島の情勢をも絡ませながら、前者は新羅仏教、後者は高句麗、百済仏教へと分かれていく事になる。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その21

          「最後の大王入鹿」

兵庫県神戸市の桜ヶ丘から出土した銅鐸の絵文字は、入鹿が、どのようなかたちで、
中央に登場したかを物語る。この銅鐸は四区画、表裏合計八区画の絵文字を持っている。
全面の解読結果は、次のとおりである。
「河内(カワチ)、加茂(カモ)の入鹿(イルカ)、内臣(ウチツオミ)として
事定(コトサダ)メをする時、任那(ミマナ)の古人(フルヒト)、
加茂の那鳥秋津(ナトリアキツ)の鋳物師(イモジ)造(キヅ)く。」
入鹿が執政として政事を担当することとなったとき、
任那からやって来た鋳物師の那鳥ほかが、この銅鐸を作ったと読み解けるのである。

蘇我蝦夷は十数年の間、父馬子の業績の維持に努めただけであった。しかし、
中国伝来の学問を修め、きわめて明敏であった入鹿は、新しい権力者として、
早くから思い切った行動に出た。
そしてその政治理念は、おそらく天皇アマツヒツギ無用論であったと思われる。
そのころ、隠居させられた形の聖徳太子の王子、山背大兄皇子は、反蘇我勢力を、
斑鳩の要地に結集していた。そして彼はこのサロンから、舒明天皇の死にともない、
天皇家の相続を再三にわたって主張したかずだ。だが、入鹿は父蝦夷よりも積極的であった。
のちに、その山背大兄皇子一族には、最後の災厄がおとずれて来る事になる。
入鹿は内臣就任の年、天皇家のアマツヒツギの相続者を、舒明天皇の皇后皇極女帝に定めた。
けれども彼の行動はもはや、天皇家を不要と決めつけている。
「蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾(やつら)の舞をす」
と「日本書紀」にあるのが、その証拠である。
「祖廟」とは何か。祖先の霊をまつる神殿である。蘇我蝦夷、というよりも実際には入鹿が、
蘇我氏自身を神になぞらえる為に、「祖廟」を築いたのである。
ヨーロッパの皇帝礼拝と同じ意味を持つこのふるまいこそ、アマツヒツギ、国家神道の否定である。
そして国家の神としては、以後「蘇我神」のみを認めるという宣言、命令をあらわすものである。
また「八佾(やつら)の舞」とは、中国において皇帝だけに許された群舞である。
八列八組、合計64人の着飾った踊り手が、祖廟の前で繰り広げる踊りは、
まさに名実ともに大王を継ぐ人にふさわしいながめであった事だろう。
この年、蝦夷が祈雨(きう)の祭儀を仏式によって行って、雨を得なかったという記事がある。
この表現は、その前半が大切な点なのである。
本来祈雨の祭儀は、神道をつかさどる天皇家が行うべき行事であった。これを、
蘇我大王がとり行ったということは、国家祭儀は以後、仏式によって行う事になったという意味である。
つまり、天皇家及びその最後の名目上の権威である神道は無用という、強い意思表示にほかならない。
だから「八佾(やつら)の舞」はアマツヒツギの位を事実上手に入れたことへの、
蝦夷の感激のあらわれであろう。
葛城の高宮に営んだと伝えられる祖廟は、伊勢、出雲をしのぐ巨大な神宮であった。
その高さ数十メートル、
壮麗な建築の内部では、伝承によれば、数百人の巫女が奉仕したと言われている。
         「最後の大王入鹿」 つづき

写真は神戸市桜ヶ丘出土銅鐸の裏面の4絵文字

---中略---
643年、今や、名すら蘇我氏に奪われんとする皇極女帝は、しだいに天皇位譲位の意志を固める。
---中略---
豪族も集められて、天皇家がアマツヒツギを放棄する意思表示がなされたとみていい。
この大事が地方へ影響する事を恐れて「なにごとが起こっても動揺せず政務にはげめ」
と各地の国司に通達している。
時を移さずして、10月6日、皇極天皇退位。ここに、実も名も兼ね備えた、蘇我入鹿天皇が誕生する。
「アキツに イルカ、タカミクラ」
絵文字を刻んだ銅鐸が、新しい天皇の名を高らかに告げる。
正史「日本書紀」は、この間の事情をつぎのように述べている。
「蘇我の大臣蝦夷、病に縁(よ)りて朝(つかえまつ)らず、
私(ひそか)に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位になずらふ。」
当時の冠位には無い「紫冠」こそ、アマツヒツギ、オオキミの両者をいただいた者への誉(ほまれ)の冠だったのでであろうか。
アマツヒツギをも奪われた天皇家のすべての王子たちは、ここに至ってついに、
非常手段に訴える決意を固めた。---中略---
ここでまず、山背兄皇子が反乱の兵をあげた。
しかし蘇我氏は強大である。その動きを察知した入鹿大王は、これに先手をとって急襲し、
徹底的に追い詰める。11月、山背兄皇子は自殺。その一族は皆殺しにされた。
644年、入鹿大王は、新しい宮殿に兵士を置いた。---中略---
「蘇我大臣蝦夷、児入鹿臣、家を甘檮岡(うまかしのおか)に双(なら)べ起つ
大臣(蝦夷)の家を呼びて、上の宮門と日(い)ふ、入鹿が家をば、谷の宮門と日(い)ふ。
男女(自分の子女)を呼びて王子と日(い)ふ」---中略---
しかし、イルカ、タカミクラを告げる「大橋銅鐸」は、蘇我王朝最後の銅鐸である。
銅鐸の歴史においても最後のものであろうと思われる。黄金色に輝いた銅鐸の背後には、わずか2年後に大化の改新が迫っていたのである。
大羽弘道氏著、
「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋 その22

        「大化改新=征服王朝400年の終焉」

中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、ひそかな決意を行動に移す日の為に、
皇極女帝の嫡子である中大兄皇子と盟約して、
反蘇我体制をととのえていた。---中略---
一方入鹿は、山背兄皇子の殺害によっておきた全国各地の動揺を鎮めるために、
その重騎兵をさしむけていた。入鹿のまわりは手薄である。
当時、首都防衛司令官ともいうべき位置にあった山田石川麻呂は入鹿の従兄弟に当たる。
しかし、ふたりの仲はしっくりしておらず、石川麻呂は佐伯子麻呂、葛城網田らとともに、
クーデター派に加わっている。すでに身のまわりが全部敵になっている事を、入鹿はまだ知らない。
こうして645年(皇極紀四年)6月12日が来た。---中略---
背後から中大兄皇子のふるった太刀が、入鹿の身体をつらぬく。
入鹿の死はたちまちのうちに飛鳥全域に知れ渡った。蝦夷も知らせを受けて館で自殺。
さしもの威勢を誇った蘇我三代も、その最後は、あまりにもあっけないものだった。
この朗報が全国に広がったときに人々は、あちこちにおかれた銅鐸のまわりにむらがり、
これを土中に埋めた。ひとつふたつではない。いちどきに14個も山腹に埋めてしまった例もある。
銅鉾がいっしょに発見された場合があるから、それを持っていた警備の兵士の命も、
同時に失われたに違いない。
いっぽう、田畑のここかしこからは、銅鐸の絵文字を打ち抜く音が聞こえる。
この音こそ、長い間人々を支配してきた蘇我一族への、弔鐘の響きであった。
銅鐸がいっせいに使用されなくなったことの説明は、これにつきている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下は大化改新までの謎の400年間について大羽弘道氏が絵文字解読によって
解き明かした騎馬民族による倭人支配の歴史を私がまとめたものです。

1.任那王崇神の第一次東征に始まる辰王朝による倭人支配(崇神王朝2代)
2.新羅出身の景行王朝
3.崇神東征の後も九州台与国に残った新羅系応神(ホムタ・ワケ)による
  第二次東征後始まり6代後の雄略で終わった応神王朝
4.その後4代目の武烈まで続いた内乱状態。
5.卑弥呼、台与の血筋を引く(アマツヒツギを継ぐ者)として現れ、
  内乱を終息させた継体天皇(大王権も握る)の血筋をたちまち空文化して
  大王権とアマツヒツギの両方を手に入れた蘇我王朝

これらの見方は「定説」を根底から覆す。
その根拠となる絵文字の解読などは、ぜひ大羽弘道氏の著書「銅鐸の謎」を読んで頂きたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大羽弘道氏は以下のように言っている

征服王朝の崇神が邪馬台国に大王(おおきみ)として登場し、台与はアマツヒツギ
という宗教敵な限られた権威のみを保有する事となった、---中略---
この例は、古代日本史のあり方を決定した。すなわち大王が征服民族、アマツヒツギ
が日本人という二重構造である。実権力は、征服民族が握るのである。そして、
このパターンは以後400年間、蘇我氏の滅亡まで、ある一時期をのぞいて継続することになる。
一般に征服者がその地の人々を支配するためには、「弾圧」と「宥和」の
ふたつの政策を交互に使い分けるのが上手なやり方とされてきた。
いわゆる「飴」と「鞭」の政策である。崇神の場合もそうであった。
「強圧政策」が騎馬民族の重騎兵であることはいうまでもないが、「宥和政策」は、
この日本の太陽神礼拝、すなわちアマツヒツギを認める、という方針だったのである。---中略---
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

入鹿暗殺のあと、ぞくぞくと銅鐸は埋められ、あるいは絵文字を打ち抜かれたが、
それは蘇我氏への憎しみだけに由来するものではなかった。
むしろ、征服王朝の全体の象徴への怒りといったほうが、的を射ていることだろう。
ここまで語れば、すでに大化改新の意味は明らかであろう。
大化改新によって何が終わり、何が始まったのか?
400年間続いた征服王朝が終わり、日本人の手による国家の建設が始まったのである。
最後に、大羽弘道氏の次の言葉ををもってこの抜粋を終わろうと思う。


しかしともかく、征服王朝は終わった。日本人の国家が始まったのだ。
---中略---
征服者たちは、この列島の原住民に、いかに戦うかを教え、国を作り、
国おさめの方法を教えてくれた。それと同時に、その道が、
どのように弱者を強者の犠牲にするかをも教えた。
その深い傷を負わされた日本列島の人々が、
自分で自分の道を切り開く事を考えるいとぐちが始めてここに開けたのである。
このような劇的な役割を日本古代史のなかで果たした蘇我大王は、
私たちの祖先が使っていた絵文字で、今の私たちに語りかけている。
それは彼らが、歴史から抹殺される運命を知っていたかのようにも見える。
私をここまで導いてきたのは彼らの残した絵文字である。

(タマリンド注:
もし古代日本に騎馬民族による征服王朝が無かったならば、
鎌倉幕府以来の武家政治も無かったでしょうし、明治維新も無く、
日本を含む、中国、東南アジア、東アジアはすべて植民地化され、
インドを含む中東から東アジアの、西洋列強からの独立も無かったでしょう。
古代、騎馬民族が日本に居座ったからこそ現代の日本があり、
現代の世界史があると言っても過言ではないと思うのです。)

これで大羽弘道氏著「銅鐸の謎」(光文社KAPPA BOOKS)からの抜粋は終わりました。
ここで気をつけて頂きたい事は、
今まで抜粋して来た内容はあくまでも大羽氏の考えであって、
内容が正しいのかどうかはわからないという事です。

銅鐸の絵を絵文字と解釈し、
大羽氏の経験と感性によって銅鐸の絵文字の解読がなされましたが、
エジプトのヒエログリフの解読とは決定的に異なる部分があるのです。

それは、
ヒエログリフにはナポレオンのエジプト遠征の際に発見された、
「ロゼッタ・ストーン」があるのです。
「ロゼッタ・ストーン」には同じ内容が古代ギリシャ語と古代エジプト語で書かれており、
その内容が3種類の文字、
(ギリシャ語、ヒエログリフ「神聖文字」、デモティック「民衆文字」)で書かれていたのです。
これによってヒエログリフの解読には普遍的真実としての重みが加わったのです。

しかし大羽氏の銅鐸の絵文字には、
同じ内容を「漢字」や「万葉仮名」という別の文字で書いた、
「ロゼッタ・ストーン」に匹敵する証拠はありません。

大羽氏の解読は真実かもしれません。
しかしまったく真実でないかもしれないのです。
その部分に大羽氏の説の脆弱性があると思います。

いつか、大羽氏の解読が証明されるような、
日本の「ロゼッタ・ストーン」 が発見される事を期待しています。
今回「魏志倭人伝」のトピックを作ってみて思ったのですが、
卑弥呼の時代の邪馬台国の風俗として、

其の地、牛、馬、虎、豹、羊、鵲、無し。

とありますからね。

やはり邪馬台国から大和朝廷の間に騎馬民族による征服王朝が無ければ
絶対におかしいですよ。

大羽氏の言うように

任那王、崇神の第一次東征に始まる辰王朝による倭人支配

が無ければ、
馬も牛も居なかった邪馬台国と、
その後の日本がどうしてもつながりません。
邪馬台国の卑弥呼と天皇の繋がりについてですが
最近「卑弥呼」というのは本当は「日巫女」または「日神子」とか「日御子」
だっったのではと思うようになりました。
邪馬台国が「万葉がな」のように発音に漢字を当てていたとしたらと思うのです。

単なる1人の女王の固有な名前ではなく
そこから「天照大神」とのつながりが垣間見えるようなきがしています。

ここのトピックにありますように「天照大神」の化身としての天皇を
「アマツヒツギ」とか「アメタラシヒコ」とか表現しています。

その表現と「日御子」という表現の発想が非常に近い気がするのです。

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