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日本古代史ミステリーコミュの沖縄海底ピラミッドとフェニキア人

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沖縄の海底にはピラミッドが眠っていたexclamation ×2
そのピラミッドは年代測定によると日本の弥生時代に建設されたらしい
沖縄には古代フェニキア人が作った海洋国家があったのでは?

沖縄与那国の海底に巨大な階段状ピラミッドが発見されて
もうだいぶたちます。
しかし専門家によると、
この人工工作物は陸上とつながった岩盤に海側から削られており
完全なピラミッドとは言えないという意見もあります。

ところが今回、
北谷(チャタン)沖海底で発見された階段状ピラミッドは
陸から完全に独立しており、
南北600m東西200mの独立建造物になっています。

この北谷(チャタン)沖ピラミッドを
放射性元素年代測定法によって年代測定した結果
2500年前〜1500年前という結果が出ました。

琉球王国は、
1429年に尚巴志が沖縄全土を統一したのが始まりです。
したがって琉球王国が建国されるずっと以前に
沖縄に古代文明があったと考えられるのです。

2000年前というと日本ではまだ弥生時代
随書には倭国文字無しとあります。

ところが2100年前に
前漢の学者の劉安が編纂した書「淮南子」には
扶桑国有と記述があり、

「梁書」には
中国の東に扶桑という国あり、扶桑国は独自の文字を持つとあります。

扶桑とは「ハイビスカス」の事。
2000年前の中国の書物に、
中国の東の海上に文字を持つハイビスカスの国がある。
と書いてあるのです。

そして沖縄本島の北谷(チャタン)沖の海底から見つかった
階段状ピラミッドの年代測定の結果は
中国の「梁書」や「準南子」に出てくる扶桑国の存在した年代と一致するのです。

そしてその海底ピラミッドの見つかった北谷(チャタン)の近く
比謝川流域からは文字のようなものが書かれた石盤が発見されている。
そして与那国の海底からも似たような文字が彫ってある石版が発見された。

そして沖縄には
シャーマン「ユタ」だけに伝わる謎の古代文字が書かれた古文書がある。

もっと興味をそそるのは与那国では古代文字が明治初期まで使われていたという事。
この文字はカイダ・ディとかカイダージとも呼ばれる、
与那国で古くから使用されていた象形文字だという。
しかし、いつから使われていたかについては不明exclamation ×2
かつて、文字を知らない島民に対して、
役人が徴税のための数量計算に用いたといわれていて、
その後、日常生活にまで広がったという。
このカイダ文字は、明治時代に小学校令が布かれるまで用いられ、
その正確さは、役人の貢納物記帳を訂正させるほどであったという。

写真の一枚目と二枚目はガイダ文字。

三枚目は与那国島のサンニヌ台の近くの崖に彫りこまれている古代文字。
アメリカの言語学者ジェームス・ホータック氏は、その掘り込み文字を見て
「フェニキア文字」ではないかと指摘したという。
ホータック氏の説によれば、
フェニキア人は、海に面 した崖の高いところに文字を刻む習慣があったという。
遥か遠い昔、インド洋よりさらに遠い与那国近海にまで
古代海洋民族フェニキア人が訪れていた可能性が否定できない。

コメント(46)

Red Cerberus様クローバー
三内丸山遺跡の場合、その遺跡が構築された当時は、
現代よりも気候が温暖で、海水面が現代より2〜3m高かったと言われていますので、
現在の青森市街地は海面下。

割と海から近い集落だったと考えられます。
(今、地球温暖化でヤバい…と言われてるけど、2〜3mの海面上昇なんて過去にも有ったんですよ。/笑)

同様に、他の縄文遺跡も川、水田・湿地帯、海から少し小高い場所が多いですね。



逆に言えば…
約2万年前位の氷河期の場合は、
海水面が現代より数十m低くなっていたらしく。


その当時の超古代文明が存在していたとしても…

現代では海面下…しかも既に波の浸蝕で消え去ってしまってると考えられます。

う〜ん、残念…
(その部分は伝承・伝説から推測するしかない…)
ただ沖縄北谷(チャタン)の海底ピラミッドの年代測定では
今から2500年前〜1500年前とでています。
時代で言えば弥生時代から古墳時代
そんなに超古代の遺跡ではないようです。

エジプトのアレキサンドリアも
マケドニアのアレキサンダー大王の死後
執政官としてエジプトを任されていた
大王の第1の部下プトレマイオスがファラオの宣言をし
プトレマイオス王朝七代で築き上げた首都。
そんなに古い遺跡では無いのに今は海底に沈んでいます。

海底にあるからといって超古代遺跡とは限らないようです。

タマリンド様クローバー
ぁ、こりゃ失礼…我輩の話の持って行き方が悪かったですね、スイマセンあせあせ(飛び散る汗)顔(願)


沖縄の場合、沖縄東方沖に海溝が有り、
プレートの境目でもあり、過去大地震も有った様ですから、
そういった地盤変動で沈んだんでしょうねがまん顔

黒猫伯爵様 遅くなりました お初です。以後お見知りおきください。
さて青森県は昔アイヌが住んでいたのはご存知の通りですが(部族と東北人を一派からげて 蝦夷とも言いますが青森はツボケ族と言うらしいです 津軽弁で耳の聞こえない人や話を聞かない人をつぼけと言いますが)アイヌ語で湾や入り江、三ヶ月状の浅瀬を”ナイ”(当て字で内)と言います。ですから地名で有る程度ここまで海だったのかと確認する事が可能です。 戦国時代に敵が何処まで攻めて来ているのか等防戦上の理由で地名を変える事も有りますが、沖縄はこちらと同じで口伝が地名と成っている場所が多いはず。 地名から考察して見ると新たな発見が有るかも。 三内丸山も内が付いている為明らかに海辺だったと言う事です。
沖縄北谷(チャタン)周辺で出土している石版

嘉手納町は面積の83%が米軍基地の町
その嘉手納町の比謝川流域からは戦前から100枚くらいの石版が見つかっている。しかし沖縄戦で米軍が上陸した後ちりぢりに逃れた住民が戻ったときにはほとんどの石版が紛失しており現在数枚を数えるにすぎない。
出土した石版には解明されていない文字、神殿、ピラミッド、鳥、海を表す記号、船などの絵などが彫り込まれている。
石版は嘉手納の他にも読谷村、北谷町、宜野湾市などからも発見されており、
現在沖縄県立博物館に4枚(鳥、建物、船、ピラミッドが彫り込んである)、宜野湾市教育委員会に2枚ある。
沖縄本島では全部で11枚あり出土地は
嘉手納4枚、読谷2枚、北谷2枚、宜野湾2枚、不明1枚となっており、
すべて北谷(チャタン)海底ピラミッドを中心とした一帯から出土している。
沖縄大学名誉教授の木村政昭氏によると
海底遺跡を作った人々は進んだ海洋航海術を持った海洋民族であったと思われる。特筆すべきは石版の中に彫り込まれたシンボルに「縦の長方形の中に四本の横線」があるが、このシンボルは古代の地中海沿岸の海洋民族の守り神「エンキ神」(水の神)のシンボルとまったく同じだと言うことだそうだ。

沖縄与那国島海底遺跡

1986年、ダイバーが日本最西端の与那国島の海底で謎の海底遺跡を発見した。
沖縄大学木村名誉教授のグループが研究調査の結果
2000年〜3000年前の遺跡であることが判明。
この与那国島海底遺跡からも北谷(チャタン)周辺から出土した石版と同じ石版が発見され、
この石版にも同じような文字や絵が彫ってある事が分かった。

与那国島には陸上にも遺跡がある。
その場所は「サンニヌ台」という。
このサンタニ台の崖を降りた海岸近くの高さ50mほどの崖に
「YVYVY」という文字が深く大きく彫り込んである。
アメリカの言語学者ジェームス・ホータック教授の調査によると、
この文字の「YV」は地中海文明に見られる文字で「鳥」を表しているという。

北谷(チャタン)の石版には航海の神様として「鳥」の絵が描かれており、
どちらも地中海文明と同じシンボルが描かれている。
したがって与那国海底遺跡と北谷海底遺跡は地中海文明の痕跡という部分で繋がっており、
沖縄にこの2つの遺跡を結ぶ広大な海洋文明国家が存在していたと思われる。

与那国海底遺跡があるのは与那国島南側の新川鼻周辺。
その海底には東西300m、南北500mに広がる広大な海底遺跡がある。
その海底およそ30mに潜ると、
まずアーチ門(高さ160cm、幅80cmの狭い入り口)が口を開けている。
この狭い入り口をくぐるとその先に2枚岩
(高さ約7m、厚さ約1mの同じ形同じ大きさの長方形の平らな岩が狭い溝をあけて据え付けてある)がある。
2枚岩を過ぎるとメインテラス(長さ約100m、高さ約25mのテラス)があり、
このテラスに「サンニヌ台」にあった文字と同じYそれからHの大きな文字が彫り込んである。
メインテラスを過ぎるとループ道路、巨大排水溝跡などが次々に現れる。
これらの遺跡がなんの遺跡だったのか調査が待たれる。
訂正

上記文章中に幾つか出てくる「沖縄大学」は「琉球大学」の間違いです。
申し訳ありません。
与那国海底遺跡調査団のホームページがありました

http://www.ocvb.or.jp/html/yonaguni/index.html

このなかの「写真と解説」に

アーチ門、2枚岩、メインテラス、ループ道路、巨大排水溝跡などの写真が掲載されています。

与那国海底遺跡に関する新聞記事

http://yonaguni.jp/newspaper%20of%20ruin/newspaper.htm
今沖縄に居ます。
午後少し暇があったので念願の「石版」の写真を撮りに行ってきました。

今回は沖縄県立博物館です。
ここには四枚の石版が展示されています。

ところが写真撮影は禁止、フラッシュを焚かなくても禁止だそうです。
撮らしてくれるようひつこく粘ったのですがだめでした。

そのかわり、
資料センターのPCに入っている写真を撮るなら良いという承諾を得て
やっとの事でPC画面を撮ってきました。

本物の写真をじっくり撮りたかった!!!

石版はおもったより大きくてびっくりしました。
写真の下にスケールがついていますのでイメージしてみて下さい。
以下はまだこのコミュを始めたばかりの頃、
私が書いたぶんしょうですが、今になってこの疑問に大きな意味があるような気がして
もう一度このトピックに乗せてみようと思います。

=========================

魏志倭人伝のトピックで全文読んでみると、
邪馬台国って「沖縄」か「台湾」かなって思ってしまいました。

今まで魏志倭人伝を正確に読んでいなかったので、
九州説、近畿説、その他、そんなものかと思っていたのですが、

南水行20日とか南水行10日とか出てくると、
おかしいなって思ってしまいます。

私はおんぼろセーリングクルーザーを持っているのですが、
私のおんぼろクルーザーでも平均速度5ノット。
風が悪くて全然走らないときは2ノットくらいになるときもあります。

手で漕いだ方が絶対速い。

その頃の使者の船が手漕ぎだったとしても、
どんなに遅かったとしても平均最低2ノットは出るでしょう。
それで計算しても、
1日昼間だけ8時間乗っていたとして16マイル=28キロ。
10日で280キロ、20日で560キロですよ。
それも南にです。
とっくの昔に九州通り越して琉球列島に出てしまいます。

それに魏志倭人伝の最後の方にちゃんと書いてあるじゃないですか
トータルでみると会稽(郡)の東冶(県、福建省福州付近)の東のはずだって。

福建省の東の島っていったら「台湾」か「沖縄」しかないですよ。
それに水行が終わった後、
北の端から陸行1月も陸があるのは「台湾」しか無い。

こんな分かりきった事がどうして問題になるんでしょう?
その頃「倭人」は、
台湾から琉球そして日本列島全体に住んでいたのでしょうか?

そして「卑弥呼」は「台湾」か「沖縄」から北方を支配していたのでしょうか?

日本中で話題になっている九州説も近畿説も理論的におかしいですよ。

魏志倭人伝を研究する方々に、
実際の帆船航海や手漕ぎ船の航海に関する知識や実感が無く、
「南水行20日」や「南水行10日」に関するイメージが、
湧かないからだと思うのですが?
沖縄北谷沖の海底ピラミッド周辺から発見されている多くの絵文字入り石版
その絵文字の中に古代エジプトに出入りしていた海洋民族
フェニキア人の守護神のマークがあるのです。

そして太陽神信仰をエジプトに強制した事により
古代エジプトの王家の系譜から抹殺されたツタンカーメン一族の4人の王
ツタンカーメンの妃アンケセナーメンは太陽神信仰の民族から輿入れしている。
2006年に発見されてセンセーションを巻き起こしたアンケセナーメンの墓
そこには体重と同じ重さの石が入っていた。
アンケセナーメン一族は神官たちの迫害から逃れる為
死を演出してエジプトを脱出しフェニキア人の船で
自らの信仰の根本である太陽の方向へ東へ東へと向かい、
とうとう台湾から沖縄にたどり着いたのではないか?
前のコメントで書いたように、
魏志倭人伝をその通りに読むと邪馬台国は台湾の台南市になる可能性があります。
だから沖縄海底にピラミッドコンプレックスが眠っているのでは?
沖縄の太陽神信仰と天照大神の関係
邪馬台国の卑弥呼と沖縄のユタの関係
卑弥呼と天皇家の関係
日本にはエジプトと結ばれる壮大な過去があったのではないでしょうか?

魏志倭人伝には邪馬台国(西暦240年頃)に馬牛無しと書いてあるのに
その200年後の倭の五王の時代は日本中騎馬民族になっている不思議。

関東地方の前方後円墳からどんどん出土する金細工と馬具。
邪馬台国の卑弥呼は魏に援軍を頼んだ形跡がある。
その援軍がどのような軍隊であったのかは分からないが、
その援軍が日本に居座り、卑弥呼の後継者を宗教上の法王とし
自分たちは実質的実権をにぎる大王として君臨する。

邪馬台国が魏に援軍を頼んだ時から
日本には「法王としての天皇と大王としての将軍」の関係が
国の形として根付いていたのではないか?
最近そんな事を考えています。
魏志倭人伝に邪馬台国の位置が、
「今までの道のりをトータルで考えると福建省の東であろう と
書いてあるのは以下の文章です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
男子は、大小の区別無く、皆面に黥(いれずみ)をし、身に文(絵)をす。
古以来、その使中国詣で、皆大夫と自称す。 夏の后(王)少康の子、会稽に封ぜられし時、(会稽の人々)断髪し身に文で蚊竜の害を避。 今、倭の水人、沈没し魚や蛤を捕うを好み、文身をもって大魚・水禽を厭ぐ。後に此を飾りと為す。 諸国により文身各異なる。或いは左、或いは右、或いは大、或いは小、尊卑により差有り。 其の(倭国との)道里を計すと会稽の東冶の東に在り。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もし邪馬台国が台湾の南「台南市」にあったとしたら、
魏の使者はなぜ福建省から直接渡らなかったのか?

それはこの時代中国は三国志の時代。
魏、蜀、呉、三国が均衡を保っていた時代だったからです。
今の福建省は陽州にあり呉の領土だったのです。
従って魏から台湾に行くには朝鮮半島から九州を回るしか方法がなかった。

そして問題はなぜ魏が倭国に使者を送る必要があったのか?
それは昔からの戦術の常識「遠交近攻」策そのものだったのでしょう。

魏は邪馬台国と手を結び「呉」に東の海上から圧力をかけたかった。
だからこれほどの使節団を邪馬台国に送ったものと考えられます。
魏志倭人伝、魏志倭人伝と言う前に、
なぜ魏が使者を送ったのかという根本的なところから考えないと
本質を見失ってしまうと思うのです。

邪馬台国が台湾から近畿にいたる広大な影響力を誇っていたなら、
魏が呉との力関係を有利にする為に調査団を邪馬台国に送るのは当然です。
その邪馬台国がその昔フェニキア人の影響を受けた大海洋国家であり、
与那国沖や北谷沖の海底ピラミッドを作った人々であったなら
馬や牛は持たないが高速カヌーを操る海洋狩猟民族であったなら
魏にとってこれほどの頼もしい同盟国はない。

邪馬台国の時代が中国の魏、蜀、呉、の三国時代と
同一時代であることをしっかりと見据えて
世界史的観点から魏志倭人伝の意味を考える必要があるのではと考えます。
この写真は
先日ニュージーランドのマウイ博物館に行って撮影して来た
「マウイ」の「高速カヌー」です。
このカヌーなら私のおんぼろセーリングクルーザーよりよっぽど速度が出る。
こんなすばらしいカヌーを操って、
大航海時代のずっとずっと前、縄文時代に
マウイの人々はハワイからやって来たのです。
想像を絶する距離を太平洋を北から南にやってきた。

昔の船が遅いと決めつけるのは間違いです。

その証拠にイスラムのダウ船は今のヨットよりずっと性能が良い。
古代海洋民族の海洋交通の力を侮ると大きな間違いをする事になると思っています。
北谷(チャタン)沖海底ピラミッドの年代が、
放射性元素年代測定法による測定では
今から2500年前から1500年前の間、

与那国島の海底遺跡の年代が今から3000年前から2000年前の間、

北に来るにつれて年代が新しくなる。

もしこの遺跡がフェニキア人による物であったとしたら
台湾方面から次第に勢力を北に広げて来ている事がわかる。

ちなみにエジプトにおいてファラオの権力に迫っていた神官達に対抗する為
太陽神(アテン神)が唯一神として信仰を義務づけられた時代、
ツタンカーメンの父「アクエンアテン」からツタンカーメンの
「20年」の時代が今から3500年前。

ツタンカーメンの死後一族は神官達の総反撃に遭い
父、叔父、ツタンカーメン、妻アンケセナーメンの叔父、
の4代のファラオは古代エジプトの歴史から抹殺される。
その4代が信じた「アテン神」は太陽そのもの。

神官達による迫害は一族の痕跡をなくすほど執拗で残酷だった。
そして2006年に「王家の谷」で発見されたアンケセナーメンの棺は
復活をさせまいとの神官達の執念からか執拗に黒い樹脂で塗り固められていた。
3500年の時を経て開けられた棺には、
大量の花束と花の首飾りの下にアンケセナーメンの体重に合わせたように
3個の大きな石が入れられていた。

死を装ってエジプトから脱出したアンケセナーメンと
アテン神を信じるツタンカーメン一族の残党が
エジプトを逃れ海洋民族フェニキア人に助けられて
信仰の元「太陽」の昇る方向、
東の果てをめざし極東にたどり着いたとしたら
3000年前から2000年前とみられる与那国島沖の海底ピラミッド
との関係は時代的にはそれほど突飛ではない。
そしてその500年後には沖縄本島チャタン沖に新しいピラミッドが創られた。

沖縄のシャーマン「ユタ」による太陽神信仰。
大倭の主神「天照大神」。
苦しいこじつけのようでいてなんとも魅力的な妄想である。
以下のような文章を見つけました。
ニュージーランドのマウイ博物館で見たトーテムポールと
北米インディアンのそれとがあまりにも似ている為に、
私が直感的に感じた思いが、すでに多くの学者によって研究されている
事が分かり、嬉しくおもいました。

ポリネシア/ミクロネシア/メラネシアの航海術

古代日本の縄文人が太平洋を渡り、南米大陸に移動することが可能であったのかを最新の人類学の成果 からみてみる。京都大学霊長類研究所教授で先史ポリネシア人研究者である片山一道教授は、ポリネシア人と縄文人との人骨を比較し、両者の骨格が似ていることを指摘している。またそのうえで、ポリネシア人を「海のモンゴロイド」と称し、縄文人ルーツ説などを展開している。東、東南アジアにルーツをもつオーストロネシア語を話す人々が長けた航海術を駆使して東へと移動をはじめたのは、今から7,000〜5,000年前といわれているが、彼らはどのような航海術をもっていたのであろうか。その船は、船体の脇に腕木(アウトリガー)を付けて安定性を保つように設計された形のアウトリガーカヌーやダブルカヌーなどを使用していたようである。近年、動力や羅針盤のないこれらの船で太平洋を横断できるかどうかという航海実験が繰り返し行われ、古代の航海技術の高さは次第に証明されつつある。
オーストロネシア語族の移動

東、東南アジアにルーツをもつオーストロネシア語を話す人々が、その高い航海術を駆使して東へと移動した時期は2回にわけられ、新しい波は、今から7000〜5000年前に動き出した。その動きは3000年前ほどからよりダイナミックとなり、わずか400年の間にこれら「海のモンゴロイド集団」は土器や樹木類、根茎類を携えてメラネシア、ミクロネシア、ポリネシアの大小の島々へと渡り、移住、定住、混血を繰り返しながらやがて東のはてイースター島まで拡散していったという。その速さからも彼らの航海術の高さが伺えるが、その船は、船体の両側に腕木(アウトリガー)を付けて安定を保つように設計された形のアウトリガー・カヌーを使用していたようである。この船が発明されたことでオーストロネシア語族が中国大陸から荒波をこえて東の島々へと長距離移動することを可能にさせたのではないかと考えられている。
 
沖縄に古代文字(象形文字)があった事は以下の文章でわかる。
しかしその象形文字がフェニキア文字と関係しているかどうかの研究は
まだだれもしていない。

かつて首里王府の下級役人に『時之大屋子―トゥチヌウフヤク―』という、時、スケジュールを司る役職が置かれていたように、民間レベルでは神事の日や時刻を定める『トキ』と呼ばれる職能者がいた。彼らが吉凶禍福を占い、日選りをし、オタカベを述べる際に用いたのが『トキ双紙』と呼ばれる書物であり、そこにはいろいろな象形文字的な記号が書かれている。日取りを決めたり、占いをするときに使ったとされているが、17世紀、摂政羽時朝秀の時代になると人身を惑わすとしてトキ・ユタの存在自体が禁圧されるようになり、『トキ双紙』も焼却された。従って、弾圧の激しかった沖縄本島には双紙はあまり残っていない。宮古の砂川、友利、新里に伝わる『砂川双紙―ウルカソウシ―』はトキ双紙の系統をひく書物であるが、『天人文字』と称する干支をあらわす記号と、独自の砂川文字とを用いている点に特徴がある。現在、これら書物に書かれている象形文字的記号やその内容については、中国的なものなのか、日本の影響を受けているのかも含めて詳細は不明である。
 
沖縄の古代文字

昭和8年、自然にできた岩板状に船、農耕具などの刻画のほかに記号、文字のようなものが刻まれている石版が嘉手納町や北谷町から発見された。「沖縄のロゼッタストーン」と呼ばれるこれら石版は、琉球の古代文字ではないかと注目を集めたが、未だ解読は行われていないままである。ところが、沖縄学の父といわれる伊波普猷−イハフユウ−はこの石版が発見されるずっと以前の明治末期に、すでに『古琉球』の一論考「琉球に固有の文字ありしや」において、ユタが使用する「双紙」に独特の文字が残っていることや、「琉球神道記」「遺老説傅」の中に、「どこよりも先に琉球に文字があった」という記述が見られることを紹介している。そして、次のような一文を書き残している。
「他日浦添邊の地中からロゼッタストーンのやうな金石文でも發掘されたら、琉球神道記や遺老説傅の記事は事實となるであろうが、何しろ今日の所では所謂神代文字の有無をかれこれ言ふのと等しく雲をつかむようなものである。」
伊波がこの論考を著したのは、明治三十七年。事実、この一文は、昭和に入ってから相次いだ石版の発見を予言したものとなった。このほか、双紙の文字、与那国のカイダ文字など、沖縄には固有の文字がいくつか伝わっている。
与那国サンニヌ台の崖にある文字

与那国島のサンニヌ台。その近くの崖には文字のような彫りこみが刻まれている。アメリカの言語学者ジェームス・ホータック氏は、その掘り込みを見て「フェニキア文字」ではないかと指摘した。ホータック氏の説によれば、彼らフェニキア人は、海に面 した崖の高いところに文字を刻む習慣があったという。この彫り込みが自然物なのか、それとも人為的に刻まれたものなのか、まずは、そこから議論をはじめるべきであろう。だが、この彫り込みは私達に、遥か遠い昔、インド洋よりさらに遠い与那国近海にまで古代海洋民族フェニキア人が訪れていたという想像を掻きたててくれる。
フェニキア文字

紀元前1200年頃、現在のレバノン海岸部に定着したフェニキア人。その後、彼らは、錫や金属、ダイヤ、米、綿などを求め積極的に海へ出て行くようになる。彼らが文化史上に残した最大の功績は、アルファベットの原型となる「フェニキア文字」を生み出したことである。フェニキア文字は、大きく分けて二つの流れからなる。一つは、ギリシャへの道。子音22字で構成されるフェニキア文字は、ここで母音が加わり現在のアルファベットにより近い形となる。もう一つは、アラム人への道である。古代フェニキア文字から派生したアラム語は、その後、西アジア一体の共通 語となる。それは、現在の中央アジア系文字がすべてアラム文字に起源をもつことからも伺える。フェニキア文字を生み出した背景。それは、フェニキア人の民族性に由来する。彼らは、海上貿易を行う商業民族であった。その活動範囲は、黒海、大西洋(イギリス)、紅海、さらにはインド洋にまで及ぶ。その過程で彼らは各地に貿易都市国家を形成するようになるが、その際、問題となるのが異なる言語を有する人々との取引であった。フェニキア文字以前、楔形文字は存在していた。しかし、それらは手際よく商売を行う際に用いるには、あまりにも複雑であった。そこで生み出されたのが、表意文字である「フェニキア文字」である。
琉球神道

琉球にはじめて浄土宗をもたらした袋中上人−タイチュウショウニン−が、国王、尚寧王−ショウネイオウ−の願いによって著した。1603年〜1606年までの3年間の滞在中に琉球神道について具体的に記述した最古の文献である。全5巻からなり、天地開闢神話から神出現の諸相や説話、または権現信仰7社の縁起や為朝伝説、銘刈子伝説などの記述がみられる。『琉球神道記−リュウキュウシントウキ−』は、島津藩統治以前における伝統的な琉球の宗教、信仰の様相を伺い知ることのできる貴重な記録である。
ロンゴロンゴ文字

太平洋の孤島イースター島には、「ロンゴロンゴ文字」という未だ解読されていない謎の文字が残る。こうした現在も解読されていない文字は、太平洋の島々に数多く存在する。  
ワラ算とキープ文字

写真は、「バラ算」、「わら算」と呼ばれ、琉球王国時代、文字を知らない人々が用いた藁製の一種の記標である。バラ算は、藁の節やその結び方によって品目や数量 を表示し、判別するために用いた。現物は竹富町のものだが、宮古島や与那国島でも同様な物が使われていた。明治26年、与那国を探訪した笹森儀助が著した「南島探検」にも次のように述べられている。「・・・今与那国の契文を見るに、結縄の後進で、象形を用いたるものと知るべし、草を結んで用をなせし時代あるいは、玉 勝間に見ゆ、核島人今に結縄象形指示の文を用う、上古の遺態現存するは、抑又皇の遠きに及びたる旧証とも知るべきこと実に珍奇と言うべし」とある。下段にあるのは、南米のインカ帝国に伝わる「キープ」と呼ばれるものである。文字のなかったインカ帝国では広大な領地を統治するに当たって、このキープで人民の管理や租税の情報など戸籍に相当する記録を蓄積していったという。「キープカマヨック」といわれる特殊な能力を持った役人が役所ごとに置かれ、これを解読した。それはパルス信号のような緻密なデジタル方式による記憶装置だったのではないかといわれているが、現在のところその解読に成功したものはいない。八重山地方と、地球の裏側にあるペルーに同じわらによる記録装置が伝わっているという事実は非常に興味深い。
片山一道教授(京都大学 人類学)

生物人類学、形質人類学を専攻。1980年頃より、発掘した人骨の調査を中心にポリネシア人の研究を続けている。その研究視角は、海から人類を眺める、つまり、海に生きる人々の立場から人類の生活、歴史を考えることにある。その研究方法は、血液型、遺伝子、生体測定、指紋、掌紋さらには遺跡から出土する人骨の比較研究と多岐にわたる。これら長年の調査研究より片山一道教授は、3000年前の縄文人と1000年前のポリネシア人の頭骨とを比較し、その類似性からポリネシア人のルーツは縄文人ではないかと考えている。
オーストロネシア語族とラピタ人

オーストロネシア語族の東への移動は大きく分けて二つの波があったと考えられているが、二回目の大移動、アジアのモンゴロイドたちが琉球列島を含む台湾あたりから東へと移動をはじめたのは、今からおよそ6000年前といわれている。仮に、バヌアツで発見された5000年前の縄文式土器がこの移動の流れに乗って到着したものであるのならば、縄文人とオーストロネシア語族は同じルーツの人々と考えられる。この謎を解明する鍵を握っているのが「ラピタ人」といわれている。ラピタ人は、今からおよそ3600年前、インドネシアのビスマルク諸島に突如姿をあらわし、バヌアツ、ニューカレドニアを経て、ついには西ポリネシアのトンガ、サモアにも居住を始める。2000年前頃には再び拡散を開始し、クック諸島、ソシエテ諸島、マルケサス諸島など東ポリネシアに到着し、西暦1000年頃には、イースター島、ニュージーランドに到着している。かれらラピタ人は、高度な土器文化と栽培食物を運んだ「海のモンゴロイド集団」の一団であり、人類史上初めて、南太平洋の島々に住み着いた人々といわれる。長い間土器を持たなかった太平洋地域にあって、高度な技術「ラピタ土器」を残したラピタ人はアジア人とポリネシア人をつなぐミッシング・リングとして注目を集めている。
ラピタ土器

ラピタ人が使用していたラピタ土器は、緻密な点描で幾何学模様を刻み付けたり、派手な人面模様の刺突紋や押型紋を施した平底の土器を作っていた。美術的にも完成度が高く、土器を持たない文化が多い太平洋地域の歴史の中で際立った存在であるが、まだ出土例が少ないため、解明されていないことが多い。あるいは沖縄のどこかからラピタ土器が発掘され、ミッシングリングのひとつが見つかる日が来るかもしれない。
オーストロネシア語族(縄文人か?)とラピタ人の移動
私がニュージーランド、オークランドのマウイ博物館で撮って来た写真です。
オーストロネシア語族の移動が上記の図と同じように描かれています。
こんなに大きなカヌーもあります。これはそんなに早くはないでしょう。
しかし運搬できる物資の量はかなり多くなるはずです。

太平洋を渡ると簡単にいいますが、とんでもない事で、
天体観測による位置情報の把握という重大な知識がなければ不可能です。
この民族は太平洋の航海に出る前に、天体観測による位置の測定という
非常に高度な航法技術を身につけていたと思われます。

過去に高度な文明を持つ種族がその天体観測技術と知識を武器にして
大洋に乗り出したと考えるのが常識と考えます。

そして私は彼らはとうとうアメリカ大陸西海岸にたどり着き、
そこに新たなピラミッド文明を作り出して行ったと考えるのが常識的だと考えます。
インカ帝国で神としてあがめられたのがなんと「シャチ」だというのが
永い永い民族としての太平洋横断の歴史がインカの文明の元になり、
その太平洋を渡る為の航海に必須だった天体観測の技術が
マヤの天体観測術に発展した。
と、そう考える事はできないでしょうか?

古代エジプト文明の高度な天体観測と建築学、医学の知識が、
太平洋を渡った海洋民族に遠い記憶として断片的に受け継がれていった。

その一部は縄文人として台湾から沖縄を経由し日本列島を縦断し青森にまで波及した。
それが日本の縄文文化だとすると、
今後も縄文文化の奥深い発見が日本各地で日の目を見る事になるのではと思います。

魏志倭人伝にある倭人が『入れ墨』をしている様は
マウイの人たちの伝統と瓜二つなのです。
そしてマウイの木彫りの文様はまるで縄文式土器の模様そのものです。
航海の神様「鳥」

与那国島には陸上にも不思議な文字が大きく書かれている場所がある。
それがサンニヌ台の崖に彫り込んである大きな文字。
海岸近くの高さ50mほどの崖に「YVYVY」という文字が
深く大きく彫り込んである。
アメリカの言語学者ジェームス・ホータック教授の調査によると、
この文字の「YV」は地中海文明に見られる文字で「鳥」を表しているという。
「鳥」は地中海文明では航海の神様とされている。
この鳥を表す「YV」の文字は「フェニキア文字」に非常に似ているという。

ところが、とりを表現した土偶が日本では各地で出土している。
その日本の鳥の土偶に瓜二つの土偶を先日ニュージーランドのマウイ博物館で
見つけました。
写真がその鳥の土偶です。
なんとその鳥は猿の上に乗っているのです。
なにか心当たるものはないですか?
そうです桃太郎の話、桃太郎のお供はサルとキジと犬
なんか偶然ですかね?
上記マウイの土偶
(土偶といえるかどうかなんと表現してよいか分からないので
 とりあえず土偶と書かせてもらいます)

不思議ではありませんか?
猿が鳥を担いでいる。
さる=猿田彦
鳥=航海の神(海から来た神)=天孫族

昔沖縄の人々は神聖な神が海から訪れると信じていました。
海から来る神聖な人々とは
沖縄の古代に影響を及ぼしたフェニキア人が神格化され
その古代民族が海の彼方に居なくなってしまった後に
ずっと彼らの帰りを待ち続けていたという事なのか?
日本の神話とのつながりがあるような気がします。
マウイの土偶、猿と鳥、横から見てみましょう!!
表面照射年代測定法による
        与那国海底遺跡年代測定の試み

下記は木村氏他による与那国海底遺跡年代測定の試みです

http://www.yonaguni.jp/20040104-ryuudai.htm
与那国海底遺跡

琉球大学海底遺跡調査(平成15年)

遺跡の仔細なスケッチが見られます。

http://www.yonaguni.jp/20031218-ryuudai-isekisokutei.htm
2003年、
木村氏による水中ロボを使った与那国海底遺跡調査

http://www.yonaguni.jp/iasekiyouchikei-kenkyu-siryou-3.htm

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