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YOGA人コミュの聖典・聖者の言葉

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 一切の苦しみから解放された状態を、ヨーガと呼ぶことを知っておくがよい。
 そしてこのヨーガは、熱意と、不撓不屈の精神をもって実践されなければならぬ。

 強い執着心から生じる欲望を一切捨て去り、
 あらゆる方面の対象から受ける感覚を、自分の心によって完全に統御しなくてはならぬ。

 辛抱強く、知性によって心を真我に固定し、だんだんとサマーディの境地に進むべきで、
 ほかの事は一切考えぬほうがよい。

 頼りがたく揺らぎやすい性質を持っている心は、いかなることにも動揺し、さまよってしまう。
 ゆえに、修行者はこれをしっかりとつなぎとめ、真我の統御の下におかなければならぬ。

 心が完全に寂静であり、情欲の炎が静まり、罪汚れがまったくなく、
 至高者と一体となっているヨーギーは、無上の至福を得る。

 このように罪汚れがなく、あらゆる差別から心を離したヨーギーは、
 至高者と一体となった至福の境地を味わうこととなる。

 また、本当に真理を悟り、あらゆるものを平等に見るヨーギーは、
 万物の中に自己を見、自己の中に万物を見る。

 森羅万象いかなるところにも私を見、私の中に森羅万象を見る人を、
 私は必ず見ているし、その人も私を決して見失うことはない。

 私と一体となり、万有に偏在する私を礼拝するヨーギーは、
 どこにいようと何をしようと、常に私の中にいるし、私とともにある。

 すべてはわが身の上のこととして、他者の苦楽も自己の苦楽であると考え、
 あらゆる衆生を自己と等しく見る人こそ、最高のヨーギーなのだ。アルジュナよ!


 ――バガヴァッド・ギーター

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「自分だって、昼夜の別なく、神への愛に没頭していたい。タクル・聖ラーマクリシュナを眺めていると、自分はつくづく考えざるを得ない。――私は何をしているんだろう! このお方は、毎日毎日絶えることなく神様のことを思い考えていらっしゃるのに、それにひきかえ私は、夜も昼も浮き世の俗事を思ってかけずりまわっている! このお方に会っているときだけが、ちょうど曇り空に一時覗いた青空の陽光のようなものだ。自分の陥っているこの人生の問題を、どのようにすれば解決することができるであろう。
 あのお方は、自ら示してくださっているのではないか。何を今さら疑問があるというのか。
 この砂の土手を壊してしまうことが、心の本当の望みなのだ! 砂の土手は真実だろうか。では、捨てきれないのはなぜだろう? 力が弱いからだ。もし神をあれほど愛したら、もう何の計算も入る余地がないはずだ。ガンガーに満潮の水が押し寄せるとき、誰がそれを防ぎ得るか。神への愛に狂うほど酔った聖チャイタニヤは、腰布一つきりになって他のすべてを捨てた。その愛のために、イエスが肉体を捨てて父なる神のもとに昇った。至高者へのその愛のために、仏陀は王位を捨てて遊行僧となられた。もし私の心に、その聖なる愛の一滴でもできたら、この非真実の生死流転の世界は、必然的にどこかへ脱落してしまうのである。
 そうだ、軟弱な精神を持つ者には、そのような聖なる愛は満ちてこないのだ。それなら、マーヤーの鎖に足を繋がれて拘束されている世俗の人間に、道はあるのだろうか? このような愛すべき出家者、この偉大な魂のそばから決して離れてはいけないのだ。さあ、このお方の仰ることを聞こう。」


 ――マヘンドラナート・グプタ(「ラーマクリシュナの福音」より)

◎グルセーヴァ(グルへの奉仕)のヨーガ


 グルセーヴァ・ヨーガとは、グルへと明け渡された無私の奉仕のヨーガである。

 グルへの奉仕は、人類への奉仕である。

 グルセーヴァは、心の不純性を取り除く。それは、強力なハートの浄化機である。ゆえに、強い気持ち(バーヴァ)を込めて、グルに奉仕しなさい。

 グルへの奉仕は、神聖なる光、叡智、恩寵を受け入れるための器としての心を作る。

 グルへの奉仕は、心を広げ、すべての障壁を破壊する。
 グルへの奉仕は、心を純粋にするための効果的なサーダナーである。
 
 グルへの奉仕は、心を力強く、隙がないように保つ。

 グルへの奉仕は、慈悲、謙虚さ、忠実さ、慈愛、信、献身、忍耐力、自己犠牲などのような神聖なる徳を開発する助けとなる。

 グルへの奉仕は、嫉妬、嫌悪、自分が他者よりも優れているという発想を破壊する。

 グルに仕える者は、「私」と「私のもの」という感覚を克服する。

 グルに仕える弟子は、本当は(真の)自分自身に仕えているのである。

 グルセーヴァ・ヨーガの実践には、言葉に表せない歓喜と安らぎがある。

 グルにお仕えするために生きなさい。

 朝4時に起きなさい。この時間帯は、グルの御姿を瞑想するのに適している。

 弟子は、グルの家に住むときには、一切の不満を持つことなく、すべてに満足して生活を送らなければならない。彼は自制を完全なものにしなければならないのだ。

 弟子は、グルの前では静かに、優しく、誠実に語らなければならない。品のない言葉や辛辣な言葉は使ってはならない。

 弟子は、グルについての陰口を言ってはならない。

 グルの陰口を言う者は、ラウラヴァ(叫喚)地獄に落ちる。

 食べるために生きる者は罪びとであるが、グルに奉仕をするために食べる者は、真の弟子である。

 グルを瞑想する者は、ほんのわずかな食物しか求めない。



シヴァーナンダ

◎偉大なる導き手としてのグル


 智慧の道をお説きくださる彼は、地上における正真正銘の神である。グルの他に誰がその道を説けるだろうか?

 グルは神への道を示し、弟子を永遠に幸福にしてくださる。 

 完成への道を指し示してくださる彼は、グルである。

 サンスクリット語で「GU」という言葉は暗闇あるいは無智を意味し、「RU」とは、この暗闇または無智を晴らす者という意味がある。人の中にある暗闇または無智のヴェールを取り去ることによって、彼はグルとなる。

 霊性の師は、絶え間ない指示によって、求道者を訓練する。

 グルは、真の弟子にとって、至高者からの神聖なる贈り物である。

 すべての聖典は、グルの必要性を強調している。

 シュリー・ラーマのような神の化身でさえ、シュリー・ヴァシシュタをグルとして受け入れ、その命令に従っておられた。

 弟子は、彼がどんなに世間的に優れていようとも、師の助けなしではニルヴァーナの至福を味わうことはできない。

 完全なる神の叡智は、苦行、慈善、ヴェーダの学習によっても得ることはできない。グルの蓮華の御足の塵で沐浴することによってのみ、それは得られる。

 弟子は常にグルの御姿を礼拝し、彼の聖なる御名を唱えていなくてはならない。

 求道者は、グルや聖者についての悪しき思いや言葉を、考えても、語ってもいけない。

 サーダカは、自分がどんなに偉大であろうとも、グルの前で冗談を言ってはならない。

 グルは、地上における神の使者である。いや、それどころか、彼は神そのものなのだ。

 グルは弟子からの奉仕や助けを求めてはいないが、彼に奉仕することによって進化するチャンスを弟子に与えてくださる。



シヴァーナンダ

◎偉大なる道


 すべての聖仙、聖者、リシ、世界の師、化身、偉人は、どんなに偉大になったとしても、自分のグルを持っていた。

 グルは、すべての徳と吉兆の宝庫である。

 グルとの接触は、すべての疑念、恐れ、心配、不安を取りのぞく。

 グルへの不動の信、確固たる献身によって、弟子は物質的繁栄を得、すべての仕事で成功することができる。

 グルは、世俗という大海に沈むゆく弟子にとっての救命艇である。

 あなたは、何かの技術を学びたいと思ったら、その技術を良く知っている師のもとに行かなければならない。

 一般の現世的な知識においてもそうであるならば、霊性の道における師の必要性といったら、一体どれほどのものであろうか。

 グルの助けなしで心を制御ようとする者たちは、まるで自分の船に良き船頭を確保していない商人のようである。

 霊性の道は、切り立った茨の道である。――あなたはさまざまな誘惑に襲われるだろう。そこには転落の危険性がある。ゆえに、その道を歩んだ師のもとに行きなさい。

 眼を閉じて、グルのお姿を瞑想し、彼の聖なる御名を唱えなさい。

 グルの瞑想は、至福、内なる強さ、心の平安、歓喜をもたらしてくださる。 

 「グルに栄光あれ」とは、「神に栄光あれ」という意味である。 


◎グルの恩寵の至福


 グルの蓮華の御足の下に帰依処を求めることによって弟子が経験する至高の至福は、三界のどんな幸福も比べものにならない。

 グルと争ったり、グルを裁判所に引きずっていってはいけない(どちらが正しいかなどの議論をグルとの間でしてはならない)。

 地獄への直行便のパスポートは、グルの命令への不服従である。

 グルや賢者との交際は、人間の人生において生かされるべき稀な好機である。

 あらゆる智慧の獲得、特に真我の尊ぶべき智慧は、グルから受け取らなければならない。

 グル・シッシャ・パラムパラ(師弟の系統)の伝統的メソッドによる霊性の叡智の獲得は、真理の守護のために知的能力を正確に開示するための大いなる助けとなる。

 弟子にとって、智慧の開示をさらに上回る最高に重要なものは、ヒンドゥーの伝統によると、神そのものとして礼拝されるべきグルの祝福である。

 シッシャ(弟子)にとって、グルの慈悲深き恩寵がすべてである。智慧の扉を開くのはこの恩寵なのだ。

 自己の明け渡しとは、グルに自己を完全に明け渡すということである。

 欲望とエゴイズムは、グルへの自己の明け渡しに一歩ごとに反抗してくる。

 主クリシュナは、グル・サンディーパニの足元に座った。彼はグルに奉仕したのだ。彼はグルに食物を運んだ。主ラーマにはグル・ヴァシシュタがいて、彼にウパデーシャを与えられた。デーヴァ(神々)たちも、ブリハスパティをグルとしている。神聖なるものの中の最高者たちでさえ、グル・ダクシナムールティ(シヴァ神が人々を導くために、グルのフォームをとった姿)の御足のもとに座った。

 サーダナーの秘密の道は、グルの恩寵を通じてのみ知りうるのだ。

 あなたが誠実に真剣に神に祈るならば、神はグルの姿であなたのところに来てくださる。



シヴァーナンダ

第五章「グルの偉大さ」



◎唯一の帰依処としてのグル


 料理を学ぶためには、あなたには先生が必要である。科学を学ぶためには、あなたには教授が必要である。何かの芸術を学ぶためには、あなたには師が必要である。では、真我の明智を学ぶためにはグルは必要ではないのか?

 グルはまさに、あなたが輪廻の大洪水を渡るための唯一の拠り所である。

 真理の茨の道においてあなたを導くのは、ただグル御一人である。

 グルの恩寵は、驚異的な力を発揮する。

 日々の生活の奮闘の中のすべてにおいて、グルはあなたを導き、守護してくださる。

 グルは、智慧の灯を運んできてくださる。

 グル、イーシュヴァラ、ブラフマン、指導者、教師、聖師などは、同意語である。

 神に礼拝する前に、グルに礼拝しなさい。なぜなら、彼はあなたを神に導いてくださるから。

 グルからマントラの伝授を受けなさい。これはあなたに霊性を与え、あなたを引き上げるだろう。

 しかしグルはあなたの代わりにサーダナーをしてくださらない。あなたはそれを自分で為さなければならない。

 グルはあなたに正しい道を指し示してくださる。 

 グルは弟子に、適切なヨーガを選んでくださる。

 グルの恩寵によって、弟子は道における障害、疑念を乗り越えることができる。

 グルは弟子を、落とし穴や罠から引っ張り出してくださる。

 あなたの身体と命を、グルにお仕えするために捧げなさい。そうすれば彼は、あなたの魂の面倒を見てくださる。

 あなたがサマーディに入るための奇跡的な力を、グルに期待してはならない。自分で厳しいサーダナーを行いなさい。空腹の男は自分で何かを食べるだろう。

 サットグルを持たなければ、あなたは霊性の道において進化できない。

 グル選びは根気強く、思慮深く行いなさい。なぜなら、一度その人をグルと決めたら、もう離れることはできないからである。それは最大の罪となる。

 グルと召使いの関係は、神聖であり、生涯をかけてのものである。この点を非常によく理解しなさい。


シヴァーナンダ
 何も求めるな。
 見返りを期待するな。
 ただ常に与え続けなさい。ガンガーや、果物の樹や、栴檀樹のように。

ヴィヴェーカーナンダ

◎グルを礼拝するための適性


 グルにお近づきになるためには、あなたはアディカリ(適任者)にならなければならない。あなたはヴァイラーギャ(放棄)、ヴィヴェーカ(識別)、寂静、自制、ヤマ(禁戒)を自分のものにすべきである。

 弟子の資格を身につけなさい。そうすればあなたはサットグルを得るだろう。

 グルはあなたの救世主である。彼を常に崇拝し、彼に礼拝しなさい。

 あなた自身がグルの地位を得ようとすることは、命取りになる呪いである。

 絶対なる実在、叡智、至福であるグルの前に毎日礼拝しなさい。

 弟子は、グルの御姿を常に思い、グルの聖なる御名を常に唱え、彼の使命を遂行し、彼以外に何も考えてはならない。これが、サーダナーの秘密の基礎である。

 人は、わがグルより偉大な御方は存在しない、というようにグルを崇拝しなくてはならない。

 グルのチャラナームリタ(御足の甘露)は、輪廻の大海を干上がらせ、人が真我という本質的な富を得られるようにする。

 グルのチャラナームリタは、弟子の喉の渇きを癒す。

 瞑想に座るときは、常にグル、あるいは聖者を思いなさい。あなたは彼らの祝福が得られるだろう。

 偉大なる魂の智慧の言葉を聞き、それに従いなさい。

 グルや聖典がに正しいと言っている行動をとりなさい。

 グルは、シャーンティに至る道を示すために絶対に必要である。

 「ワヘー・グル」というのは、グル・ナーナクの従者のためのグル・マントラである。グラント・サヒブを読みなさい。あなたはグルの偉大さを知るだろう。

 グルを礼拝することによって、ずっと彼を思っていなさい。汝は幸福を見出すだろう。

 シュラッダーとは、聖典への信、グルの言葉への信、イーシュヴァラへの信、自分自身への信である。

 最高のサーダナーとは、何の果報も期待することなくグルにお仕えすることである。

 シュラヴァナとは、サットグルの蓮華の御足のもとに座り、聖典を聞くことである。

 グルへの奉仕は、素晴らしい浄化機である。

 グルの恩寵は、悟りのために必要である。

 主に持つのと同じくらい、グルに信仰を持ちなさい。そうしてのみ、真理はあなたに明かされるだろう。

 常に一人のグルにしがみついていなさい。

 イーシュヴァラは、空間によっても時間によっても条件づけられないアディ・グルである。彼は無始の過去から無限の未来に至るまで、すべての衆生のグルである。

 クンダリニー・シャクティーをその眠っている状態から覚醒させるためには、グルは絶対不可欠である。



シヴァーナンダ

◎神としてのグル


 神はただ、グルとしてのみ現れる。

 真のグルと、真の求道者は、稀である。

 資格のある弟子が、輝けるグルを得る。

 主の恩寵は、グルのお姿をとる。

 グルは、弟子を彼自身のように変えてしまう。ゆえに、グルは賢者の石よりも偉大である。

 輪廻の大海を渡るために、グルほど安全な船は存在しない。

 おお、ラーマよ! あなたに最終の至福、あるいは解放への道を示してくださったサットグルの御足に、あなたの肉体、心、富を捧げなさい。

 師の前で日々、あなたの過ちを告白しなさい。そうしてのみ、あなたはあらゆる世俗的な弱さを超えてそびえ立つ強さを見出すであろう。

 グルは弟子を見ることによって、触れることによって、あるいは思い、言葉によって変革することができる。

 神とグルは真実には一つであり、同じである。

 グルは、この世界における神の真の代理人である。

 グルは、あなたの電動リフトである。彼はあなたを完成の頂上へと連れていく。

 グルへの無私の献身的な奉仕の行為とは、礼拝、信仰、祈り、瞑想の行為である。

 おお、ラーマよ! 悟りを早めるもの、覚醒を授けるものとは、グルからのイニシエーションである。

 グルの中に神を見ることができないならば、他の誰の中に神を見ることができようか?

 あなたが私に率直に心を開いたときにのみ、私はあなたを助けることができるのだ。

 友に、理想に、グルに、誠実でありなさい。忠実でありなさい。

◎グルへ自己を明け渡すこと


 グルに何かを教わったり、恩寵を得たりしたならば、グル・ダクシナ(グルへの供物・布施)を、グルに、躊躇なく大量に、陽気に速やかに捧げなさい。

 グル・ダクシナは、多くの罪を浄化する。

 グルへのダクシナは、心の素晴らしい浄化機である。

 グルに捧げられるダクシナは、行為としての愛である。

 グルバイ(兄弟弟子)の幸福のために、寛大な気持ちを培いなさい。

 布施や奉仕の実践は、まず自分のグルに対しておこないなさい。

 ダクシナをグルに捧げることを、習慣としなくてはならない。

 弟子は、自分が持っているものすべてを、愛をもってグルに捧げなければならない。

 弟子は、どんなものであろうと、グルからいただいた食物、衣服、住まいに満足し、全身全霊を込めてグルへの奉仕に没頭しなくてはならない。

 たとえいかなる状況の中にあっても、グルにお仕えすることによって求道者に与えられる強さと歓喜だけに、弟子は満足する。

 起こることに常に満足せよ。グルという気高き御方が選択するものは、あなた自身が選択するものよりも良いのだと知りなさい。

 グルの恩寵は、すべてに満足している立派な弟子のみが受け取ることができる。

 弟子は、グルにお仕えしている間は、適切な判断力・思慮分別を働かせなければならない。


シヴァーナンダ

◎絆の力

 
 グルを欺くことは、自分の墓穴を掘るということと同義である。

 グルと弟子の間の絆の力は、純粋なる愛でなければならない。

 グルの恩寵と弟子の努力が一つになることで、不死という子供がもたらされる。

 グルは弟子に叡智を与える場合を除いては、弟子からグル・ダクシナ(グルへの捧げもの)を受け入れない。

 弟子は、人生をかけてグルの栄光の旗を掲げるべきである。

 グルの蓮華の御足への献身は、弟子の理想でなければならない。

 グルは偉大である。逆境を恐れるな。進め、おお、勇敢な弟子よ!

 グルの恩寵は、原子力よりも強大である。

 弟子の肩に降りかかる逆境は、変装したグルの祝福である。

 グルの蓮華の御足への献身を、真の弟子の合言葉としなくてはならない。


シヴァーナンダ

◎たぐいまれなるグルとの出会い


 善き事物は常に、この世界において稀である。麝香、サフラン、サンダルの木、学識ある者、徳高き者、博愛主義者は稀である。ましていわんや、聖者、バクタ、ヨーギー、聖仙、預言者、そして悟りの境地に達したグルにおいておや。

 悟りの境地に達したグルへの奉仕を行うならば、あなたが救済されるかどうかという疑問は解決される。

 あなたが良いマハートマや師はいないと言うならば、師も同様に、良い弟子はいないと言うだろう。

 偉大なる魂との交際は、神の恩寵によってのみ得られる。

 グルにお仕えしたいと思い、グルの祝福を受けている求道者は、悪しき交わりを確実に避けるべきである。

 誰がこのマーヤーを渡るのか? 悪しき交わりを放棄する者、広大な心のグルにお仕えする者、「私」と「私のもの」にとらわれていない者のみである。

 「好き」と「嫌い」から解放されているグルと交わり続けることによって、人は無執着になる。ヴァイラーギャ(放棄)を得るのだ。

 彼はグルの蓮華の御足へのグル・バクティを開発する。

 信仰を持ってグルにお仕えする者は、人生で最高に素晴らしいものを得る。

 求道者の心は、グルにお仕えすることによって、努力なしで自然に一点に集中するようになる。

 グル・グラント・サヒブは、グルなしでは神への道は見出すことができない、と言っている。神そのものであられるグルは、道において求道者を導き、道に沿って彼をガイドすることができる。彼だけが、チェラ(召使い)に、彼は神そのものであるということを悟らせることができるのだ。

◎グルと同調する


 個々としての人間、知識人としての人間には力はない。彼は真の叡智を得ていない。真の叡智、真の力、真の幸福は、至高なる存在と同調しているグルと接触するときにのみ、人の中に現れる。
 
 弟子は、草の葉よりも謙虚でなければならない。そうしてのみ、グルの恩寵は降るであろう。

 弟子が瞑想できないならば、霊性の秘密の道を知らないならば、グルにお仕えし、彼の祝福を受けるしか道はない。

 心が落ち着き、静かなとき、あなたは瞑想できるだろう。心が乱れているならば――ジャパを行いなさい、教学をしなさい、献身と信をもってグルにお仕えしなさい。そうしてのみ、あなたは速やかに進化することができる。

 あなたがグルの弟子であるべき期間は、生から死にいたる全人生である。そうしてはじめて、弟子は救済へと導く霊性の叡智を獲得することができるのだ。

 グルの家に住む弟子は、儚いこの世界のものすべてに対する欲望を持たないように、昼夜最善を尽くすべきである。

 不死の扉は、グルを持った弟子に対して開く。

 求道者は、言葉を詰め込んで聖典を学習するだけでは、不死は与えられないのだと知らなければならない。また、そのような学習は求道者を傲慢にする危険性もある。人生の問題を解決する真の叡智は、グルの恩寵によって得られるのだ。

 神を見たことがあるグルとの交際、繋がりは、弟子に最高の影響を与える。それはどんな学習よりも素晴らしいものである。

 グルとのサットサンガは、弟子を生まれ変わらせ、啓発し、天への扉を開く最上の要因である。

 グルのとの交際のみが、求道者の人格を形作り、心を導き、自分は本当は何なのかを知る助けとなる。



シヴァーナンダ

◎マハーカーリー(偉大なる力の女神)

 マハーカーリー(偉大なる力の女神)は、また別の性質を持っている。広やかさではなく高さこそが、叡智ではなく力と強さこそが、彼女に固有な力である。
 彼女は自らの内に圧倒的な強靱さを蔵し、成就されるべき力への強大な情熱を秘め、あらゆる限界と一切の障害を怒濤のごとく粉砕してやまぬ、神の聖なる暴力を隠し持っている。
 彼女の神格はすべて、栄光の嵐のように激しい行為を通してほとばしる。彼女はそこにあって、迅速さを目指し、速効的プロセスを求め、素速く直接の一撃を目指し、眼前に立ちはだかる一切を一蹴してのける正面攻撃を求める。
 彼女のお顔は阿修羅にとってさえ恐ろしく、彼女は神を憎む者どもすべてに対して容赦ない。というのも彼女は、戦うことにかけてはひるんだりすることの決してない、諸々の世界を守護する戦士であるからだ。
 彼女は、どんな不完全をも容赦せぬ者として、人間の内に潜む意気地なさにはどんなものにも手荒く当たり、迷妄と不明瞭の内に頑迷に立てこもる者には厳しく当たる。裏切り、欺瞞、怨みなどに対する彼女の怒りは、間髪を入れぬ、陰惨にして苛烈なものである。悪意などは、瞬時にしてたたきつぶされてしまう。神の使命を遂行するに際して、無関心、投げやり、ものぐさなどが見られようものなら、黙ってはいない。寝ぼけ眼のうっかり者や、やる気のない怠け者には、必要とあらば鋭い痛みをもって直ちに強打する。
 歯に衣を着せぬ迅速にして率直な衝動こそ、遠慮のない絶対的な運動こそ、炎となって燃え上がる高く切なる願いこそが、マハーカーリー(偉大なる力の女神)の身上なのだ。彼女の毅然たる精神は、決して懐柔することのできぬものであり、彼女の高く遙かなヴィジョンと意思は、大空を飛ぶ鷲の飛翔のごときものであり、彼女の歩みは足早に高みを目指す。
 そして彼女の両手は、衆生を打ち据え、助けださんと、いっぱいに広げられている。というのも彼女は「母なる神」でもあるからであり、彼女の愛は強烈なものであり、深く情熱的な優しさを、一人胸に抱いているからだ。
 彼女が力をもって介入するときには、障害や、道を求める者に襲いかかる敵などは、あっけなくバラバラにされてしまう。
 彼女の怒りが、敵対者達には恐ろしく、彼女の激烈な励ましと強制が、軟弱な臆病者達には苦痛なものであっても、彼女は、偉大な者たち、強靱な者たち、高貴な者たちからは、愛され、あがめられている。それは、彼らが次のように感じているからに他ならない。すなわち、彼女の強打こそが、自分たちの不完全な真理を激しく打ち据えて、それを力強く完全な真理へとたたき直してくれるのであり、彼女の強打こそが、ねじれてゆがんだものをまっすぐに打ち直してくれるのであり、彼女の強打こそが、不純なものや欠陥のあるものをたたき出してくれるのだ、と。これらが彼女にとってそれらは一日でなし得るものであっても、私たちの力だけでは何世紀もの年月を要したであろう。 
 彼女は、叡智には揺るぎのない圧倒的な力を与え、美や調和にはそれらをより高める動きをもたらし、時間のかかる難しい作業にはそれを短縮してくれるような弾みを授けてくれる。至高のエクスタシーはこの上もなく高まる。
 彼女と「至高者の勝ち誇った力」は常に一体であり、後からではなくまさに今ここで、偉大な業績が成し遂げられるのだとしたら、それは他でもなく、彼女すなわちマハーカーリー(偉大なる力の女神)の、瞬時にしてメラメラと燃えさかる、炎のような情熱のおかげなのである。


(「母なる神」より)

◎グルへの忠誠と奉仕


 現代、多くの偽のグルや偽の弟子がいる。グルを探すときは気を付けなさい。

 弟子の義務は、グルの聖なる御口から出た命令に従うことである。

 グルの家の周囲を整頓し、きれいに保ちなさい。

 師と弟子の間の関係は、愛される者と愛するもののそれの如くである。

 ときどき、グルは弟子をテストする、あるいはときには誘惑したりそそのかしたり陥れたりもする。しかし弟子はグルへの確固たる信によってそれらを乗り越えるべきである。

 弟子はグルに何も隠してはいけない。率直で、真っ直ぐでなければならないのだ。

 ラーガ・ドヴェーシャ(愛著と嫌悪)から自由であるグルの蓮華の御足の塵になることは、類稀な特権である。

 至高者と一体となっている師の聖なる御足の塵は、弟子にとっては神聖なる装飾品である。

 グルへの奉仕を絶対に一日も休んではいけない。くだらない言い訳はするな。

 常にグルの御足の塵の如くある者は、祝福されている。

 グルの恩寵は、謙虚で、簡素で、従順で、グルの蓮華の御足に献身する弟子にそそがれる。

 グルの御手の中の道具であれ。

 グルがあなたの過ちを指摘するとき、あなたは自分の行為を正当化してはならない。ただ彼に従いなさい。

 アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想を、それらに精通したグルの指導の下で学びなさい。

 食べすぎる者、眠りすぎる者は、グルのお好みに従ってお仕えすることができない。



シヴァーナンダ
シュラッダー(信)とヴィーリヤ(勇気、精進)を持ち、真我の叡智に達し、 他者の幸福のために人生を犠牲にしなさい。 これが私の願い、私の祝福です。 ――スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

◎師の礼拝


 祝福された師への奉仕ほど、有益で、魂を引き上げてくれる奉仕はない。

 聖なる師への奉仕の他に、真の休息は得られないだろう。 

 グルの恩寵は、人生に真の意味を与えてくださる。

 利己的な動機を持たずに、聖なる師に奉仕することは、正しい人生を形作る。

 一人でヴェーダーンタの経典を学び、「ナー グル ナー シッシャ(グルもない、弟子もない)」などと言うことは、真理の求道者にとって大いなる失敗である。

 ときどきグルは、弟子の罪を背負ったことで肉体的に苦しまれる。実際、グルはどんな肉体的な病にも決して苦しむことはない。――しかし、素晴らしい信仰を持って熱心に彼にお仕えすることによって心を浄化するということは、弟子に与えられた二つとない稀有なるチャンスである。

 祝福された師の崇高な思いは、弟子が肉体の意識、あるいは好色的な生活の魅力を克服する助けとなるだろう。

 「ウパ」は「近くに」という意味であり、「ニ」は「下に」という意味であり、「シャッド」は「座る」という意味である。ゆえに「ウパニシャッド」は「師の近くに座る」という意味なのである。弟子たちは、ブラフマンの教義の秘密を彼から学ぶために、師の近くに座るのだ。


シヴァーナンダ

◎グルとの同調


 ラクダが針の穴に入るのは、まだ簡単である。しかし、見よ、人がグルの恩寵なしで神の王国に入るのは、それよりも遥かに難しい。

 ちょうど、水をミルクに加えると、水はそのアイデンティティを失い、ミルクと一つになってしまうのと同じように、真の弟子も、完全に自己をグルに明け渡せば、彼と一つになる。

 ちょうど、小さな川が大きな聖なるガンガーに合流すれば、それは聖なるものと見なされて、礼拝され、最終的には目的地(海)に到達するのと同じように、真の弟子は、グルの御足に帰依をし、彼と一つになることによって、必ずや、永遠に終わらない至福に到達する。

 子供たちはたった一日学んだだけで、しゃべったり歩いたりすることができるようになるだろうか? それは親との長い時間の交わり、適切な注目、興味が必要ではないだろうか? それらによって、子供たちは、しゃべることや歩くことを学ぶのではないだろうか? 
 同様に、本当の誠実な弟子は、常に至高なる明智を学ぼうという正真正銘の渇仰心と注目を持ちながら、十分な長い時間をグルと共に住んで過ごし、彼にあらゆる奉仕を捧げるべきである。このようにしてのみ、偉大なる叡智は得られるのだ。その他によっては不可能である。


◎すべての恩寵を与えし御方


 カルパカ・ヴリクシャ(如意樹)、カーマデーヌ(如意牛)、チンタマニ(如意宝珠)が、求められた恩寵を本当に授けてくださるように、グルも、望むものは何でも与えてくださる。ゆえに、真の弟子はまさに、解脱に達するためのウパニシャッドの偉大なる叡智を求めるべきである。

 ちょうど赤子が、まだヨロヨロとしか歩けないとき、自力で歩いては転んで、また立ち上がり、そしてお母さんの助けを必要としてお母さんを呼ぶように、修行の初期段階の弟子も、慈悲深きグルの導きを必要とし、求めるべきである。

 真の弟子は、子供のように、解脱への強烈な渇仰を持ち、それを表現すべきである。その分だけ、グルはその渇仰を実現させるよう手伝ってくださる。この渇仰が努力と呼ばれ、そしてグルの慈悲深き手助けは、手を差し伸べる母の優しさのような恩寵である。

 美しく像を仕上げるためには、必要なことが二つある。――一つ目は、完璧な、申し分のない大理石である。そして二つ目は、熟練した彫刻師である。大理石は、彫刻して素晴らしい像へと仕上げられるために、まさに無条件で彫刻師の手の中に置かれる。このように、弟子も、自己を清めて浄化し、自分を完璧で申し分のない大理石とし、自分を師という熟練した導き手の下に置き、彫刻して神の像へと仕上げていただくべきである。

 ちょうど、太陽が昇ると共にすべての闇が消え去るように、弟子の心の中にあるアヴィディヤー(無明)とアヴァラナ(無智のヴェール)は、グルの恩寵が降るとともに、ただちに消え去るのだ。

 ちょうど、照り付ける日差しに焼かれた人が、涼しい木陰の中に限りない安堵感と幸福を見出すように、または、暑い夜、涼しい月光に限りない幸福を見出すように、輪廻という焼け付く光線に焼かれている人、そして平安を切望するすべての人は、ブラフマーニシュタ・グル(ブラフマンの叡智を得たグル)の御足に、その求めている平安と幸福を見出す。

 ちょうどチャータカ鳥が長い間待った後に、雨水の滴だけでその喉の渇きを癒すように、真の弟子はグルにお仕えし、必ずやすべての苦痛を癒し、彼を永遠に解放してくださる「ウパデーシャの言葉」を待つべきである。

 火が生来、その範囲内に来るものすべてを焼き尽くしてしまうように、ブラフマーニシュタ・グル(ブラフマンの叡智を得たグル)の恩寵は、その者がどんな者であろうとも、そのような慈悲深きグルを求める者の罪をすべて、本当に焼き尽くしてしまうだろう。



シヴァーナンダ

第十章「グル・バクティの体系」



◎正しい行為の要点


 グルの行為に関して、思慮のない発言をしてはいけない。

 グルに対して思慮のない助言をしてはならない。常に静かであれ。

 意識的に、あるいは無意識的に、グルの感情を害してはならない。

 サットグルの蓮華の御足の塵は、不死を授けてくださる。

 グルの聖なる御足の神聖なる塵は、弟子にとって真の恩寵である。

 師の聖なる御足を額にいただくことは、最も素晴らしい幸運である。

 人生における最も素晴らしく稀な特典は、師の蓮華の御足に触れることである。

 グルの恩寵と異性の顔(異性への欲望)は、対極に属している。一方を求めるならば、もう一方を放棄しなさい。

 グルの聖なる御足の非常に神聖なる塵は、弟子に繁栄をもたらす。

 サットグルの救済の御足から生じる神聖なる塵は、礼拝されるに相応しい。

 弟子の最高の富は、サットグルの蓮華の御足の神聖なる塵である。

 師の蓮華の御足の聖なる塵を額にいただく者は、ただちに心の純粋性を得る。

 グルの蓮華の御足の塵の栄光は、言葉に表すことはできない。

 この地球における人生は、われわれがサットグルに奉仕することができ、全力を尽くして、心の底から絶え間なく増大し続ける信仰を持って彼に従うことができる良い機会である。

 グル・バクティヨーガの土台は、グルへの絶対の信に基づいている。

 弟子は、ヒマーラヤの独房の洞窟で瞑想するときよりも、グルに直接的に奉仕しているときのほうが、グルとより一層一体化しているということを見出すだろう。

 グルへの完璧な無条件の自己の明け渡しは、グル・バクティを獲得するための確実な道である。


◎グルに近づくこと


 崇拝すべきサットグルの御足に近づきなさい。
 サットグルの蓮華の御足の下に避難しなさい。
 サットグルの神聖なる御足を礼拝しなさい。
 サットグルの聖なる御足を恭しく瞑想しなさい。
 罪を浄化するサットグルの御足に高価な贈り物を捧げなさい。
 サットグルの栄光なる御足への奉仕に生涯を捧げなさい。
 これが、グル・バクティヨーガの秘密である。

 弟子は、グルに奉仕している間は、時間に非常に几帳面でなければならない。

 弟子は、グルの神聖なる使命のために、身口意において非常に純粋でなければならない。

 誠実さ、素朴さ、平静さ、思いやり、自制、自己犠牲の花々をあなたの心の庭園で育て、それらをサットグルに捧げなさい。

 弟子は、グルの財産や必要物が十分であるか気を配らなくてはならない。彼は常にそれらから眼を離してはならない。

 ブラフマンの叡智を得たグルの恩寵によって得られないものは、この三界にない。

 グル・バクティヨーガを実践しない限り、求道者が、神との合一へと至るための霊性の道に入ることは不可能である。

 グル・バクティヨーガは、この上ない至福の世界の扉を開くマスターキーである。

 最高の平穏への道は、グル・バクティヨーガの実践から始まる。

 サットグルの聖なる御足への自己の明け渡しは、グル・バクティヨーガのまさに土台である。

 サットグルの救済の御足に確固たる信と献身を持つならば、あなたはグル・バクティヨーガの実践において必ずや成功するだろう。

 たかだか人間の努力だけでは、ヨーガを実践するのには不十分である。グルの恩寵が絶対に必要である。

 野生の虎、ライオン、象を調御するのは非常に容易い。火や水の上を歩くのは非常に容易い。しかし、グル・バクティヨーガを実践したいという真の熱望を持たない限り、グルの蓮華の御足に自己を明け渡すのは非常に難しいのである。

 グル・バクティヨーガの実践は、弟子に最高の平穏、歓喜、不死を授ける。

 人生の目的は、グル・バクティヨーガの実践によって、サットグルの恵み深い恩寵を得ることである。

 グル・バクティヨーガの実践は、生と死の輪からの解脱を授ける。

 グル・バクティヨーガは、不死、永遠なる至福、自由、完成、永遠に続く歓喜、永遠に終わらない平穏を授ける。

 それでは、グル・バクティヨーガについてさらに解説をしよう。

 心は、輪廻の根である。心は、束縛と自由、喜びと苦しみの因である。この心は、グル・バクティヨーガの実践によってのみ、制御され得る。



シヴァーナンダ


◎献身の意味


 グルへの献身は、霊性の聖堂の土台である。

 感情的な興奮は、グルへの献身ではない。

 サットグルの御足への献身のみが、あなたに神の恩寵を得させることができる。

 肉体の愛は、グルへの愛を打ち消してしまう。

 グルへの真の誠実なる明け渡しは、グル・バクティヨーガのエッセンスである。

 グルのご意思に、完璧に自己を明け渡しなさい。

 グルに完全に明け渡しなさい。彼は人生というフィールドの御者となるであろう。彼はあなたの馬車を上手く走らせるだろう。そうしてあなたは、目的地――恐怖のない永遠の至福の浄土に達するであろう。

 グルの恩寵に達成不可能なものはない。

 求道者の悪しき性質を治すための唯一の治療薬は、グルへの奉仕である。

 グル・バクティの第一のステップは、エゴの崩壊である。

 グルへの自己の明け渡しは、グル・バクティヨーガの階梯におけるまさに最高の段階である。

 グル・バクティヨーガの道において、自己の明け渡しはまさに絶対不可欠なものである。

 グルは、 物惜しみのない無条件の完全なる自己の明け渡しを要求する。自己の明け渡しとは、現代、弟子が一般にするような、口先だけの宣言であってはならない。

 師に明け渡せば明け渡すほど、師の恩寵はより多く降る。

 グルの恩寵の質の度合いは、明け渡しの度合いによる。

 弟子の義務は、グルを愛し、グルに奉仕することである。

 グルは、人生という嵐の航海者である。

 グルの恩寵は、グル・バクティヨーガの終わり、あるいはゴールである。

 グル・バクティヨーガの実践は、人生の最高級の悟りを得るための明確で確実な道を提供する。

 グルの恩寵があるところには、正道さがある。正道があるところには、繁栄と不死がある。

 あなたの父、母、学校の先生、客人、そしてグルを、人間とみなさずに正真正銘の神として礼拝しなさい。しかるべき敬意を払って、彼らに祈りを捧げなさい。素晴らしい尊敬と献身をもって、彼らに奉仕しなさい。
 
 グルの御名は、世俗という蛇に噛まれた者たちにとっての、強力で確実な解毒剤である。

 純粋性、信仰、光明、叡智をグルに祈りなさい。

 グルセーヴァ(グルへの奉仕)の精神は、あなたの骨、細胞、組織、神経の中に、深く入っていかなければならない。グルセーヴァの精神に燃えなさい。その恩恵は計り知れない。



シヴァーナンダ

1957年


「神的人生の輪」


 至高なるグル、不死の魂、すべてに遍在しておられる御方に礼拝し奉ります。
 神の叡智の聖火をもたらしてくださる御方に礼拝し奉ります。
 最高の聖なる大望のために神性なる礼拝の人生を送るすべての真理の求道者に礼拝し奉ります。
 すべての気高き努力が達成されんことを。

 人間の精神の永遠の不可思議、常に休むことなく不満を抱いている人間の感情的な性質、一時的な生存の不完全さ、 満足のいくように人生の問題を解決するための知性の不全。
 その人の心を神に向けるために管理しなければならない粗雑な現実から、偉大な理想を切り離す不可解な湾。
 神的人生とは、人が神の悟りへと向かって進歩するプロセスであり、相続されるすべての病の治療法を、その人生が提供する。

 グルは、道において求道者を導くガイドであり、求道者は神的人生を昇ることにあくせくする巡礼者なのだ。

 人間の精神的、道義的な性質の進歩的な精錬は、神的人生の第一の目的である。それは、正直、純潔、そして非暴力のような基礎的な法則、自発的な自制の実践が無意識的に伴うようにする実践、そしてその結果として起こる浄化のプロセスにひたむきになることから始まる。

 個々の日々の生活で、これらの三つの基礎的な法則を非の打ちどころのないように実行することは、それ自体が神的人生に必要不可欠な構成要素となる。

 人間の性質には二つの側面がある。――肯定的側面と否定的側面である。一方はもう一方より優勢であろうとする。必ずやすべての人の中に、ジキル博士とハイド氏の要素がある。ハイドの要素が優勢になると、人は自分自身と他者に、果てしない欲望と破壊的サディズムのあらゆる悪しき果報を与え、社会的に見捨てられた者となる。しかし人々の中にはジキルの要素が優勢な者たちもいて、彼らは社会に素晴らしい恩恵を与える者であり、自分も他者も皆が平和に暮らすことができる最高のポジションにいる者と見なされる。

 肯定的側面が、最終的には否定的側面に打ち勝つのだが、一般には、否定的側面は多くの人々の人生で頻繁に起こる局面において、抑え切れないような影響力を持つ。しかし、理知、分別、思慮、神的人生の道を歩み始めた者たちにとってはそうではない。彼らにおいては、識別的な心が彼らの本能的な部分を征服しようとする。ヴィヴェーカ(識別智)が彼らの行動を導き、ヴァイラーギャ(放棄)が彼らの動機を神聖化し、ムムクシュトヴァ(解脱への熱意)が彼らの努力を鼓舞する。――この三つのそれぞれが、彼らの霊性の部分から強さと光を引き出すのだ。



シヴァーナンダ


「グル・バクティの枝」


 グル・バクティとは、グルへの奉仕、またはグルへの愛である。それには四つの種類――アープタム、アンガム、ダーナム、サッドバーヴァムがある。

 アープタムとは、グルの言葉への強い信と、彼の命令への愛のこもった服従である。

 アンガムとは、素晴らしい直接的な奉仕、例えばグルのお体をお守りすること、グルの衣服を洗うこと、グルを沐浴させることなどを意味する。

 ダーナムとは、すべての所有物――家、他の資産、富など――を明け渡し、グルに庇護所を求めることである。

 サッドバーヴァムとは、グルを神と見、決して人間と見ないことである。

 もしグルは神であるというバーヴァに入って、グルにお仕えするならば、弟子はドリシュタムとアドリシュタムで祝福される。

 ドリシュタムとは、弟子がグルの恩寵によって得る完全なる叡智、至福を意味する。

 アドリシュタムとは、死後に他の世界で楽しまれる至福を意味する。

 このように、相応しいバーヴァでグルにお仕えすることによって、人は二つの果実(ドリシュタムとアドリシュタム)を得るが、神にお仕えすることによってはアドリシュタムしか得られないというのは明らかである。

 ゆえに、最高のものは、正しいバーヴァ(グルは神であると見るバーヴァ)でグルにお仕えすることである。



シヴァーナンダ

グルの恩寵

 グルの恩寵は無限
 彼は私の腕をつかみ、私を救ってくださった。
 グルは私を祝福し、
 私のハートを至福で満たし、
 私に道を示し、
 数多くの落とし穴と罠を取り除き、
 私を引き上げて、鼓舞し、
 生死の輪の束縛から私を解放してくださった。


シヴァーナンダ


「人間の四つのクラス」


 普通の世俗的な人間は、ミルクのようである。
 邪悪な人々と接触すると、彼は取り返しのつかないほど道に迷う。
 このミルクの中に、少しバターミルクを混ぜる。そうすると、それはカード(ヨーグルト)になる。
 世俗の人間は、グルによってイニシエートされる。
 グルは、そのカードの如くである。――すでに独り変換されている。
 バターミルクを加えた後、ミルクはしばらくの間、しまっておかれる。
 そのように、そのイニシエートを受けた者も、隔離され、イニシエーションと同化しなくてはならない。
 そうすると、ミルクはカードに変わる――つまり弟子は賢者へと変革するのだ。

 そして、カードはすぐに水と混ぜてはいけない。
 水がカードの中に注がれると、カードは下に沈むだろう。
 同様に、賢者は、悪しき交わりの中に足を踏み入れても、邪悪な人々と容易には混ざり合うことはない。――しかしその影響が非常に深いならば、彼もまた道を見失ってしまうだろう。
 そして、もしブラフマムフールタ(日の出前)に、このカードが十分に撹拌されているならば、あなたはそれからバターを得られる。
 同様に、賢者がブラフマムフールタの間に神を深く瞑想するならば、彼は真我の叡智というバターを得る。――彼は真我を悟った聖者というバターとなるのだ。
 
 このバターは、水に投げ入れても何の問題もない。
 それは水と混ざり合うことはない。しかもそれは浮く。
 真我を悟った聖者が世俗的な人々と接触しても、彼は道を失うことはない。――それどころか、彼は世俗に汚染されることなく、喜々としてそこに浮くのだ。
 このバターが溶けてギーになり、それが水の中に入れられれば、水全体がギーの風味になる。――同様に、この聖者が宇宙的愛の炎によって溶けると、彼は、接触するだけですべての者を純粋化し、接触したすべての者を引き上げ、接触したすべての者に智慧、誇り、神性を注ぎ込む神聖なる存在というギーとなるのだ。



シヴァーナンダ


「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」


1952年9月2日 スワーミー・チダ―ナンダジのスピーチより


崇拝されし不滅なる自己たち


 今日は、グルとしての神聖なる現れに対して最も吉兆な日であるから、私はあなたたちの前に、特別にいくつかの祈りの言葉を提示しよう。
 よって私は、グルとグル・クリパー(グルの恩寵)について話す。
 このアシュラムで、われわれはグルとグル・クリパー(と自分たちとの関係)を、逆さまに見ている。グルが弟子に仕え、弟子がグルに指示を与えて、グルはそれに従わざるを得なくなっている。
 これが事実ならば、われわれは今一度これと逆の態度を正しく取るようにしなければならないと、私は思うのだ。

 グル・クリパーは素晴らしく、神秘的な要素であり、それによって求道者は人生の至善、真我の悟り、神のダルシャナ(見神)、モークシャ(解脱)、つまりすべてのものを得ることができると、われわれは聖典から教わった。――弟子がサーダナーを行おうが行うまいが、資格があろうがあるまいが、グル・クリパーは霊的な自己に働く通常の法をすべて無視して、人を超越的な至福へと連れていく。
 もし聖典を信じるならば、われわれは、グル・クリパー以外に、生きているうちに完成を得るために必要なものは何もない、と言わなければならない。

 また、グルは無限の慈悲の大海であり、彼の恩寵は、それに相応しかろうと相応しくなかろうと、資格があろうとなかろうと、常にすべての求道者の上に注がれている、ということが本当だとしたら、われわれはもうすでに、至福に満たされているはずである。
 しかし、実際はそうであろうか?
 いや、われわれは捕らわれているということに――無智があり、迷妄があり、自らの低次の自然によって、至る所で欺かれているということに実に苛立っているということに気づく。

 どこに問題があるのか?
 どれが非真実なのだろうか?
 上記の意見は両方とも真実であるが、弟子はそれでも実に現世に染まっている。他の何かが、どこかで間違っているはずなのである。
 一体、その何かとは何か?
 われわれは厚かましくも、聖典が間違っているとは言わない。
 それに加えて、グルは慈悲深くなく、われわれに恩寵を降り注いでいない、とも主張しない。

 これを熟考すると、真剣に考慮すべきいくつかの要因がわれわれの前に持ちあがってくる。
 グル・クリパーは紛れもなく、意識ある存在は言うまでもなく、石さえも無限のサチダーナンダ(絶対の実在、智慧、歓喜)に変えることのできる神の力である。
 グルが常に慈悲深いという意見、要素には、間違いなくほんの少しも誇張表現はない。
 しかしそれでもグル・クリパーは、授けられも与えられもしない。――しかしそれはまた、受けねばならないものである。
 それを受けて、われわれは不死になり、神となるのだ。


 寛大な心を持つ布施者は、困窮している人々を訪問し、無条件の施しをなすだろう。
 しかし、その困窮者がその素晴らしい機会を利用して、実際にその富を受け取ることがないならば、彼にとってその富や布施は何の役にも立たないだろう。
 それゆえに、偉大なる主キリストはこう仰ったのだ。

「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん。尋ねよ、さらば見出さん。」

 これは、神の寛大さ、神の恩寵、グル・クリパーが不足しているというのではない。
 不足しているのは光だ――しかしそこにはわれわれが乞い、求め、叩かねばならない「法」があり、それを為した後に、われわれをそれを受け取る準備が整うはずである。
 これがあれば、グル・クリパーはすべての奇跡となる。――それはわれわれの中に流れ込み、われわれを不死、永遠の光、無限の至福の最高の世界へと引き上げるのだ。
 

 しかし、それはどうやったら受け取ることができるのか?
 われわれがこの恩寵を受け取る準備をするには、どのように行動すべきなのか?
 それは、弟子になることである。
 
 私がグル・クリパーと言う時、それは特別なものであり、神秘的なものであり、この地上の誰にでも与えられるものではないが、人生をそのために捧げた者にはその最高のものが与えられる。

 (普通の)バクタは、聖者の祝福、聖者の恩寵を与えられるだろう。彼も同様に祝福されている。彼もまた、聖者の慈悲の御力を受ける。
 しかしグル・クリパーの恩寵を得るためには、われわれはまず「弟子」にならなければならない。
 そうしてのみ、われわれはそれに相応しい受取人になる資格を得るための第一のステップを踏んだことになるのだ。
 
 それでは、弟子になるとはどういうことか?
 弟子を受け入れるのはグルではない。――弟子のほうがまず最初にグルを受け入れなければならない。
 まず第一に自分が弟子になるならば、グルが「お前は私の弟子だ」と言おうが言うまいが、それは関係のないことなのだ――彼はグル・クリパーを受けるに値する者、その権利者となる。

 まず第一に、このムムクシュトヴァを獲得しなさい。
 それからわれわれは、グルにお仕えしなくてはならない。
 奉仕は、われわれとグル・クリパーの感化力の間に立ちはだかる障害を引き倒す神秘的なものである。
 われわれが恩寵を受け取るに相応しい者にならなければならないならば、この恩寵を受け取るバーヴァに対する障害を取り除くものが奉仕なのである。
 エゴは、最も大いなる障害である。
 われわれの虚栄心、先入観という従来の傾向――これらの姿は、また別の第二の障害である。
 この奉仕というものは、すべての障害を効果的に破壊する。

 グルへの奉仕とは何か?
 グルへの奉仕とは、彼のウパデーシャ(教え)の実行にできる限りの最善を尽くすことである。
 グルの教えを実行しなさい。
 彼の崇高な教えの上に、われわれは人生を形作らなければならない。
 そして同様に、自分自身をその鋳型に流し込んで、自分自身をその目に見える理想にしなければならないのだ。
 われわれが尽くす取るに足らない最善に対するグルの指示、それを実行することの秘密とは何か――それは魂からの意欲的な服従である。
 それは最も重要なことだ。
 喜んで完全に地面にひれ伏す覚悟。
 彼を導き手として受け入れ、彼に従うこと。
 この服従は、ひたすらに培わなければならないものである。――われわれの忌々しい性質、低次の自然、インドリヤ(感官)、アンタフカラナ(内的心理器官)のあらゆる側面は、われわれがこの服従の態度へと向かうたびに、それとは逆の方向に行こうとする衝動がわれわれの先入観から生じる習慣的性向から起こるゆえに、われわれはこの服従の精神を開発することができないのだと考えようとする。
 この習慣的衝動は、克服し、破壊されなければならない。
 グルへの服従には喜びがなくてはならず、「私は従うべきだ」という精神には真の熱望がなくてはならない。
 弟子になるには、あなたは夢の中でさえもグルに服従しなければならない。――グルのウパデーシャ(教え)の精神に反することを行うという発想は、絶対に意識の中に生じさせてはならない。
 われわれのサーダナーは、昼夜この態度を完璧に至るまで磨くことであるべきである。
 これがなされれば、われわれはしっかりとグル・クリパーを受ける資格を得る方向へと向かっていく。
 これは、サーダナーの外面的な要素である。


 内面的には、われわれは、われわれに何とかして忍び込んでくる、グル、グルの恩寵、そしてその作用――グル・クリパーとは何か、そしてその作用とは何か、ということに関しての狡猾な考えを破壊しなくてはならない。
 それは大変な作業である。
 しかし、この作業は為されなくてはならない。
 なぜならば、グルとは人間ではないからである。
 われわれは、グルを人間であると見ることは1パーセントもあってはならず、彼が神であるということだけを意識しなければならないのだ。
 そうしてのみ、われわれは、われわれを低次の人間から超越的な神へと変革するそのクリパー(恩寵)を受けることができるだろう。
 われわれとグルとの関係は、混じりけなく神聖であり、完全に霊的である。――われわれがグルとの「人間的な」関係を、微塵も残すことなく完全に抹消しない限り、われわれはグルとの神聖なる関係に入ることはできないのだ。

 われわれはグルに対して、彼はわれわれを小さなトラブル、肉体の病気、金銭面の困難、家庭内の問題、この人生における小さな取るに足らない問題から救ってくださると期待する。
 もしそのようにグルに祈れば、すべてを得られるだろう。しかし、あなたが得るものはそれだけである。――それ以上のものは何もないのだ! いや、それどころか、そのグル・クリパーと呼ばれる神秘的で高遠なもの――それは、われわれの中に流れ込むことはない。
 ゆえに、まず第一にわれわれは、グルとの人間的な関係すべてを消し去るよう努力すべきである。
 そのためには、主観的にはわれわれは、内なる変革を遂げなくてはならない。――それが為されない限り、彼の神なる本性が、われわれに完全に明かされることはない。
 われわれが自分自身を、世俗的な欲望に満ち、完全に限定され、弱さを持った世俗の人間だと思っている限り、われわれはグルの絶対性、神聖なる本質における意識の中に完全に入ることは不可能である。
 ゆえに、われわれはサーダナーによって神意識を生じさせ、まず最初に人間的な意識を捨て去らなければならない。
 もしわれわれがここに、神的使命と共に神聖なる存在として生き始めるならば、グル・クリパーとグルの神的様相は徐々に顕現し始め、われわれはグル・クリパーを受け始めるであろう。

 われわれはその第一歩を踏み始めなければならない。
 ここにおいてさえ、グルへの祈りは、われわれの務めを容易くする。
 最初から最高点に至るまで、すべては神の源から得られる。
 われわれが自分自身を、人間ではなく、グル・クリパーを受けてあと少しの変革が必要な束縛された魂、という神聖なる意識に合わせ、その意識を生じさせるまでは、われわれは、神としてのグルを完全に活用することはできないであろう。
「私が見たアドブターナンダ」より抜粋(4)




 ラトゥはシムラーにある彼の主人の家に帰ったのだが、もうこれ以上、仕事に従事するのは不可能であった。
 彼は、何かを頼まれたらもちろんそれをこなしたのだが、ただそれをポーズとしてやっていた。しかし誰も、彼がそれらを全くの不本意でやっているとは気付かなかった。
 しかし彼の主人のラームダッタだけはそれに気づき、心配した。
 家の女主人は、彼の召使いらしくない振る舞いに少し傷ついたが、何も言わなかった。

 ある日、ラームチャンドラダッタはドッキネッショルに一人で行き、ラトゥが仕事に対して全く興味をなくしてしまったことを師に知らせた。

 師はこうお答えになった。

「ラームよ、それは仕方がないよ。
 彼の心はここに来ることを渇望している。
 どうか、またあの子をここに送っておくれよ。」


 それに従って、ラームダッタは次の日に、ラトゥをドッキネッショルに送った。
 師と少年の間で何が起こったのか。
 われわれはそのことを、医者であるカヴィラージ・マハーシャヤから聞いた。
 彼はある日、ドッキネッショルに来て、健康がすぐれないラーマクリシュナに、転地療養のために故郷のカーマールプクルに帰るようにと助言していた。
 われわれは以下のことを聞いた。

 シュリー・ラーマクリシュナは仰った。

「なあラトゥ、お前がここに来たいという真剣な願いは知っているよ。
 だがね、そのために、主人のお勤めを疎かにするのはよくないねえ。
 お前はラームから、寝るところとか、食事や衣服、それに必要なものはぜんぶもらっているじゃないか。
 それなのに彼の仕事をしないなんて、その報酬に対して不誠実だよ。
 いいかい、絶対に恩知らずになってはだめだよ。」


 おしかりを受けて、この純真な少年は泣きじゃくり、感情で声をつまらせて、自分の無力さをさらけだしてこう言った。

「もう他の誰にも仕えません。
 僕はここであなたと一緒にいたいのです。
 僕はあなたにお仕えいたします。」
 
 師はこうお答えになった。

「ここにいたい、と言うのかね? でも、ラームの仕事はどうするんだ?
 ラームの家族は私のものでもあるのだよ。
 どうして、その一家の中で暮らせないんだい?」


 それでも、その少年はそれを理解しなかった。
 おそらく、話を聞いていなかったのだろう。
 眼をキラキラさせて、彼はこう言った。

「もうあそこには帰りません。ここに住みます。」


 師は笑って、こう仰った。

「でも私はここからいなくなるんだよ。
(カヴィラージ・マハーシャヤを指して)彼らが私を故郷に連れていくんだとさ。」

 ラトゥは無言のままだった。
 こう言われて、彼は何も言い返せなかった。
 しかし、師は彼のハートに希望を植え付け、こう仰った。

「私が故郷から帰ってきたら、お前はここに来て、私と一緒に暮らすとよい。
 だから、ちゃんと辛抱するのだよ。」



「私が見たアドブターナンダ」より抜粋(8)



◎イニシエーションと訓練


 師(ラーマクリシュナ)は、真の奉仕の精神をラトゥに教えた。ある日、師はラトゥ・マハラジに仰った。

「ねえラトゥ、肉体に翻弄されてはいけないよ。骨と肉の集合であるこの肉体に奉仕することによっては、おまえは利益を得ないのだよ。でも、もしその中に住んでいる者に奉仕をするなら、おまえはすべてを得るだろう。」

 
 "召使い"のラトゥと師のそのときの会話を、私たちは年長のゴーパール(シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・アドワイターナンダ)から聞いた。彼が語ってくれたことを一字一句そのまま下記に記そう。


ラトゥ「誰がその中にいらっしゃるのですか? 私は知りません。」

師「神がいらっしゃるのだよ! ジーヴァとしてその肉体に住んでいらっしゃるシヴァ神だ。」

 これに対して、ラトゥは沈黙してしまった。そして、師はより強く仰った。

「ねえ、愛するラトゥよ。(心臓を指さして)彼を忘れるな。完璧に彼に従えるか? 絶対に、絶対に彼を忘れるな。」

 これを聞いて、奇妙な変化がラトゥ・マハラジに起こった。彼は手を組んで、どもりながら言った。

「私はあなたをとても愛しています。あなたは私にとてもお優しい。――あなたを忘れることなどできましょうか。もし私があなたに従わないのなら、それは恩知らずで恥知らずなことです。疑いなく、私はあなたの命令を実行いたします。私は決してあなたを忘れません。」

師(笑いながら)「私は自分の言葉を話しているわけではないのだよ。――(心臓を指さして)ただ"ここ"からの言葉を話しているだけさ。」

 ラトゥは答えた。

「私は"ここ"が何だかも知りません。分かりやすく教えて頂けませんか。」 

 これらのラトゥの言葉を聞いて、師は、年長のゴーパールに向かって仰った。

「ゴーパール、ラトゥがたった今、何と言ったか聞いたか。彼は『"ここ"という言葉をご説明ください。』と言った。
 "ここ"という言葉を説明できるか? なあ、できるのかどうなのか早く言っておくれ。私はなんておかしなことを強制しているんだ!」

 (この真面目でしかも滑稽な師の行いに)ゴーパールは言った。

「なぜですか。あなたは"それ"をご存じのはずです。なぜあなたがそれをご説明なさらないのですか?」

 これに対して、師は(まるで恥ずかしがるように)仰った。

「なんておかしなことを言うんだ! "ここ"の性質を・・・・・・明かすべきかね?」

 (年長のゴーパールは、負けじと答えた)「私たちは、このためだけに――『ここ』が何かということを知るために――あなたの周りに集まっているのです。あなたがそれをお隠しになるなら、私たちはどのように知ればよろしいのですか?」

師(笑いながら)「今は駄目だ、今は駄目だ。『ここ』は、今は知らせてはならない。それは時が来ればお前たち全員が知ることになるだろう。」

「私が見たアドブターナンダ」より抜粋(9)



 師が、ラトゥを神への奉仕の実践に導き入れる前でさえ、絶対服従の約束でラトゥを縛った理由は、明らかではない。
 しかし、奉仕の修行においてグルの指導は重要であり、もし弟子がグルを信じて従わなければ、その修行に効果はない、ということを示しているのではないかと私たちは推測する。
 したがって、シュリー・ラーマクリシュナは初めから服従を約束させたのかもしれない。師はよく仰ったものだ。

「最高のグルは、怠惰で指示を実行したがらない弟子を見つけると、力を行使したり、強引に服従させたりもする。」

 グルは、すべての霊性の実践の中になくてはならない存在であり、神への奉仕の道においては、その存在はより重要になってくる。
 繰り返し言う必要はない。その道に熟達した案内人なしに神への奉仕に専心する霊性の初心の修行者は、舵なしでボートに乗るようなものである。――ボートは波によってはじかれたり、激しく揺らされたりして、風が吹くところはどこにでも流されてしまうのだ。
 未熟者は大量の仕事の海の中で、そのような運命をたどる。――彼は目的を見失う。すなわち、神の実現、神の人生という目的を。
 慈善的またはその他の仕事の中でも、中毒の類のものもある。それは人を狂わせる種類のものである。――彼は目的を忘れる。行為が衝動、つまり怒りを生じさせ、それにより人は足元をすくわれる。彼は疲弊し、混乱し、休息できなくなる。
 シュリー・ラーマクリシュナは、ラトゥがサットヴァであると、また彼は神を切望するに十分な基準に達していると見ていた。
 シュリー・ラーマクリシュナは、ラトゥが未成熟の段階にあるうちは、彼を行為の渦の中に投げ入れたくなかった。したがって、このように忠告したのだ。

「ねえラトゥ、"ここ"を絶対忘れちゃ駄目だよ。」

 ラトゥは師との約束通り、生涯を通じてシュリー・ラーマクリシュナの真の召使いであり続けた。
 師を忘れて過ごした日は一日もなく、命令を破った日も一日もなかった。――また、師へのご恩を忘れて過ごした瞬間はひと時もなかった。ドッキネッショルでそうだっただけではなく、シュリー・ラーマクリシュナが亡くなった後も、ラトゥは一つの考え、発想、そして目標に徹した。――師に完全に従うため、そして瞬間といえども彼を忘れないために。

 こうして、神を忘れないというラトゥの約束を聞いて、師はラトゥに、神の召使い(ダーシャ)たるものは一瞬たりとも神を忘れてはいけないという感銘を与え、彼はそれを生涯忘れることは決してなかったのだ。

 神の召使いであったラトゥは、師への最高の帰依と依存によって霊性の修行を始め、最後まで忠実に付き従ったのだった。
 彼の帰依心は本当にすばらしく徹底していたので、後年、彼のグルバイつまり兄弟弟子たち、特にナレンドラ(スワミ・ヴィヴェカーナンダ)は、こう語っていた。

「私たち全員の中でラトゥだけが真に師を掴んでおり、私たちは単にラトゥの言葉を繰り返していただけだ。」


 私たちがラトゥ・マハラジを実際に目の当たりにしなかったなら、人が一人の人にそのように完全に依存し、自己を明け渡すことが可能なのだということを理解できなかっただろう。
 他者のために自分の命を犠牲にすること――それはたった一回行なえば済むものであるが、それよりも、完全に個を滅し、自分ではない者に自分を明け渡して、人生すべてを他者のために捧げ続けることの方が難しい。


 ラトゥ・マハラジは、シュリー・ラーマクリシュナに奉仕することを許された日以来、一度も他に行くことなく、師一人に完全に依存していた。
 ラトゥの心には、少年期そして青年期を迎える前でさえ、この印象が深く刻みこまれていた。その結果、心の葛藤の潮はいつも引いており、彼自身の努力ですべてを成し遂げることができ、エゴイズムは完全に払しょくされていたのだった。

 一般的に私たちは、自分で理解したことを実践することで、成長し幸福になると思っている。
 したがって、私たちの向上心は、自分の理性の幅と方向性によって制限されている。当然、私たちはそれを超えることはできない。
 もしその見解を変え、理解の幅が広くなれば、私たちの向上心も増大するだろう。
 世俗的欲望によって抑圧されている一般の人々は、自分で自分の知性の外周を狭め、それによって視野をより狭めてしまっている。
 しかし、寛大な見解を持ち、俗世を離れており、また自分自身を世俗的欲望に結び付けることを許さない人達は、いとも簡単に自らの知性を広げ深めていくことができる。その結果、彼らの向上心はより高まり、より広い範囲を覆うことができるのだ。

 ラトゥは、神への奉仕の人生の手ほどきを受けた青年期の終わり頃、他の人達と同じように、世人のように狭く一般的な知性によって人生を送っていくかどうかという問題に直面しなければならなかった。
 もしラトゥが私たちのような人だったら、つまり自分の力と知性に誇りを持つような人だったなら、為すべきことを選択するのは難しかっただろう。

 しかしラトゥは違った。――彼は無学で直感的だったため、心の葛藤に圧倒されることもあまりなく、容易に自己放棄の道を選択できたのだった。
 師の教育を受けた多くの信者たちは――内輪に属している者も外輪の者も――疑念と葛藤の時期を経て、師を受け入れた。
 彼らは、自分たちの知性の試金石で師を試した。
 ある者は、(師を試して受け入れる前は)師を偏執狂者と呼んだことさえあった。
 しかしとても驚いたことに、ラトゥの心には、師を試すという考えは一度も浮かんだことはなかったのだった。
 ラトゥは、師に言われたことは何でも完全に信じ、疑いなく実行した。
 子供とその父親のように、ラトゥは師に完全に自己をゆだね、それによって、他の者には与えられることのない安らぎを楽しんでいた。

 神に近づくために奉仕をしようとする者は誰でも、まずは自己を完全に消し去るだろう。自己中心性を残したままでは、誰も本当の意味で他者に奉仕したり、癒すことはできない。なぜなら、自己中心性はその高い理想を実現する妨げとなってしまうからだ。
 私たちは奉仕の道を簡単なものだと思っているが、もしその背景に愛がなければ――それは自己中心性を滅した愛であるが――奉仕が重荷となり、単調となり、苦痛となって、取り留めもない心配を作り出すだろう。
 彼の自己は得ることと失うことに依存しているから、召使いは希望と絶望の狭間で切り裂かれる。
 利益が見込まれないときには、奉仕は無機的になる。そのような奉仕は、いずれにせよ人を向上させない。
 しかし、心が本当に無私の奉仕にからめとられているときは、それは至福になる。――何にも結び付けられることなく、何の利益も危険も顧みない召使いは、簡単に引き上げられ、彼自身が神に守護されていることが分かる。


 師はラトゥに教えた。

「ラトゥよ、聞きなさい。利益や動機というどんな希望にも揺り動かされてはいけないよ。――お前自身を完全に『彼』に差し出しなさい。
 お前が『彼』を手放さなければ、お前はすべてを得るだろう。手放してしまうと、渇望は残る。あるいは増しさえする。そしてお前を翻弄して、不幸にするだろう。」
 

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